生成 AI ついて。 3DCG はもう必要ないのだろうか。
ほんとうにほんの少し前に、なにかSFのようなモノが出てきた、と思っているうちに、あっという間に、生成 AI による CG が進化し、すでに目を逸らせるにはいかないくらい高品質な画像を生成するようになりました。
そのレベルは、何年もスキルを磨いてきた 3DCG のプロでさえ、こんな画像をレンダリングするのにいったいどれだけの時間を費やさなくてはならないのだろうと思わせるものでしょう。もうわれわれは必要ないのではないか、と。
もちろん、現状の AI 画像では、いちからモデリングしレンダリングするようにかんぜんに思い通りの画像にはならないでしょうし、プロフェッショナルな仕事としては、クライアントの細かい要望に応えられるレベルではない、という意見もあるでしょう。また、スタイルが合わない、ひとめで AI で分かってしまう、など、おそらく、自らのスキルに自信をもつベテランほど、AI に対して抱く、漠然とした抵抗感、拒否感、あるいは嫌悪感も少なくないかもしれません。
ただそれらも、AI 技術の開発速度をかんがえれば、いずれ、かなりすみやかに解消されていくでしょうし、今後、CG のおおくの部分が AI による生成に置き換えられていく、という流れがとまることはおそらくないでしょう。
わたしはプロでもベテランでもないので、そのような意味ではまだ安閑としていていられますが、それでも、すこし心穏やかでないのは確かなのです。blender (オープンソースの3DCGソフトウェア)ももう必要ないのだろうか、と。
おそらく、同じような危機感をいだいた人々は、100年以上前にもいて、それは、写真が一般に普及しはじめたころの画家たちかもしれません。
とくに高度に写実的な画法が求められる肖像画家たちは、写真の登場を目の当たりにして愕然としたでしょうし、よほど裕福なクライアントを抱えていないかぎり、実際、かれらの一部は廃業や転向を余儀なくされたでしょう。肖像画家にかぎれば、かれらは、AIと同様の革新的な新技術に、仕事と存在意義さえも奪われた、あるいは奪われかけたということになります。
ただ、写真の発明のために、画家がすべていなくなった、絵画がすべて時代遅れの不要物になった、という状況にはならなかったし、逆に、絵画に、印象派、抽象、キュビズムなどの写実とは一線を画した新潮流が出てきたのも、おそらく写真の登場と無関係ではありません。また、こむつかしいことを別にしても、スマホでいくらでも写真が撮れるようになった現在も、プロアマ問わず、とてもたくさんのひとが絵を描くことに楽しみを見出しています。
よくよく考えれば、わたしがなぜそれなりの時間を3DCG に割いているかといえば、単にそれが楽しいからです。ある意味、人によってドライフラワーを作ったり、瓶のなかに帆船の模型を組み立てたりするのに楽しみを見出すのと同じです。
つまり、それとこれとはたぶん別のことなのです。どれだけ 生成 AI が進化しても、blender をゴミ箱に捨てて、すべて、AI に鞍替えすることはないでしょう。少なくともわたしにとって、それはより楽しそうにはみえないからです。
もちろん、商業用の CG 分野では、今後、AI を導入する動きは本格的に進むでしょうし、効率性やコストなどを考えると、当然のことともいえます。すでに疑いようもなく、AI はとても便利なテクノロジーだからです。
われわれアマチュアにとっても、それは同じことなのかもしれませんが、ただ、AI が、CG を作る楽しみをわれわれから奪うことはないということも事実です。単にそれは、ちょっと理解を超えるくらいとても便利なツールなのだ、と考えてもよいのではないでしょうか。
たとえば、わたしはキャラクラーの造形が苦手ですし、根気がないので、細かい、大量のモデリングはそれほど楽しくありません。そのため、人物や細かな背景などは、いっそ、AI に任せてもよいのかなとも思っています。そういったことが、どのような手段で可能なのかは、すこし勉強しなくてはなりませんが。
ちなみにわたしは、整理整頓や掃除も苦手です。なので、近い将来、高性能で安価な AI 掃除ロボットが出れば、喜んでそれを迎え入れるでしょう。同じように、生成 AI を漠然とした異物として拒んだり無視するのではなく、有用で便利な存在として取り入れていければと思っています。
結局、ひとがいちばん怖いのは、正体のわからない存在です。なんとか正体をみいだして、身近で便利な道具として飼いならしていきましょう。