カンニングは正解を奪う
どんな音楽を聴くべきか、どんな映画を観るべきか、どんなメイクをするべきか、どんな男どんな女がウザがられるのか、どんな人間になればあの人は振り向いてくれるのか、どんな職場がブラックでホワイトなのか、どんな思考を待てば心を病まずにいられるのか、どうすれば人生一発逆転できるのか……
この程度のことならだいたいSNSを適当に探せば書いてあるんだけど、とはいえネットは今日もみんなギスギスしてたりして、なんでもかんでもすぐ答えが見つかれば幸せになれるもんでもないらしい。
答えを見つけても見つけても見つけてもなぜか正解にたどり着けない。そんなものだ。ただかわいくなりたいだけなのに、自分に合う映画を見つけたいだけなのに、楽に仕事をしたいだけなのに、今よりもっと稼げるようになりたいだけなのに、好きな人と結ばれたいだけなのに、幸せになりたいだけなのに。その悩みは解決してくれない。だからかいつまでも似たような「有益」コンテンツばかりに需要がある。まあそういう私も例に漏れずXでいくつもの占いアカウントをひたすらに眺めては快感を得ているタイプなんだけど。
なぜそんなことをいきなり話し始めたかというと、前にラジオ『相談は踊る』で宇多丸が「(相談者の)間違える権利を奪っていいのか……みたいなね」と何気なく言っていたことが妙にずっと記憶に残っていたからだった。
答えが溢れかえっているSNSを眺めていると、宇多丸のその言葉が頭によぎる。それで最近はなぜ間違える権利を奪ってはいけないのか考えてたんだけど、あれだね、間違える権利を奪うということは、結果的にその人の「正解」をも奪ってしまう可能性があるってことなんだろうと思う。
答えを知ってしまえば自分の力で解こうとしなくなる、つまりプロセスを省く。プロセスを理解しなければ応用が効かなくなり、答えはわかるけれども自分の人生に活かせないという状態になる。
これは私自身カンニング少女だったからよくわかるんだけど、解き方だけ丸暗記するとちょっとした応用に全く適応できなくなってしまうんだよね……というわけで数学は基本赤点だったんだけど、それでも懲りることなく社会人になってもいろんな場面でカンニングしまくった結果、夢とか仕事とか家族とか恋愛とかあらゆることにも同じようなことがいえるとわかった。結果だけで生きようとするとろくなことない。だけどプロセスをふむためには、まず真実と向き合う必要があってそれが結構めんどうだったりする。
だって「真実」なんて全然面白くない。ぼんやりしていてわかりづらいし、理解するまでに時間はかかるし、理解したとて深く傷つくこともあって、絶望的に何も救ってくれない。そこに快楽なんてひとつもない。
それに比べて「答え」には快楽がありすぎる。こうすれば人生うまくいくとか、あれはこういうことだったとか言われると、靄が晴れた気がして安堵できる。すべて捨てて逃げ出したいという衝動をわずかな時間抑えてくれる。その夜はひとりでも安らかに眠ることができる。答えにはそのぐらいの効力がある。
明日明後日生きるのに必死な切羽詰まった人間がどっちをとるかなんて目に見えてるし、私含めて世の中そんな人ばっかりなんだから、答えを知ろうとする行為に実は希望はないとしても、答え自体にはいつまでも需要はある。そう考えれば啖呵を切ってすぐ結論を口にする政治家たちに人気が集まるのもわからなくはない。多くの人間は刹那的な快楽を常に求めているのだから。
とはいえどれだけ回避しようとしたって、あらゆる望みには真実と向き合う苦労が強いられる。答えは確かに“それ”だとしても、そこに行き着くまでの方法は性格や環境などによってそれぞれ全く違う。結局、面白味のない真実とぶつかりまくって傷ついたり苦しんだりしなければその方法を見つけ出すことができないのだ。それに耐えられずにいると、今度は答えに自分が食われてしまう。これが正しいはずなのに、と。人生には悲しみがつきまとう的なことはよく聞くけど、そういうことな気がする。
そんなことを考えていたらふと気づいたのだけど、オーディション番組って珍しく答えを教えてくれないコンテンツだった。いくつか観たことがあるのだけど、審査員は歌やダンスの技術は教えてくれても、オーディションに落とした理由は教えてくれない。候補生たちは自分たちでその理由を考えてまた日々スキルを磨いていくことになる。
候補生たちにとってそれはとても酷なことだろうと思うけれも、でもそれもまた明確な答えを提示しないことでアーティストになれる可能性を奪わないようにしているということなのかもしれない。社会は「答えをなぞれば必ずしも正解になるわけではない」ことだらけだけど、その頂点がエンターテインメントなのだろうと思うから。
私の30年人生を振り返ってみれば、誰かからアドバイスをもらうとき、その内容は「答え」そのものというよりも「プロセスについてのヒント」だった。だから大体アドバイスをもらったときにはすぐに理解できないんだけど、ある程度自分の力でやってみて後からそのアドバイスを思い出すとこういうことだったのかと気づいたりする。そういうことが多い。相手のことを思い遣ってる人ほど答えはすぐに明かさないのかもしれない。
と、ここまでは割といい話風なんだけど、自分の力で見つけた正解にこだわりすぎるとその先に待つのは世間から「老害」と呼ばれる厄介なものである気もしなくはないので、私が次に気をつけなければならないのはそこかもな思ったりした。人生難しい。
ちょっと余談だけど、今配信されてるガールズグループオーディション『No No Girls』を観ていてもまさにそうだなと思うことばかりだったので、よかったら見てみて。今QJ WEBで振り返り記事書いてるのでそれを読んでもらっても。
あと山田太一bot見てたらこんなポストがあった。
終わり。