映画『かがみの孤城』、原作と比べると
映画『かがみの孤城』は、原作小説と比較し違いに着目して、アニメ映画という表現手法の特徴をうまく生かせた部分、そして、約600ページの大作を2時間にまとめなければならなかったこと故に原作の良さが生かしきれなかった部分もあると思いますが、それぞれ、少しずつ記しておきましょう。
アニメならではのうまい表現ということでは、終盤の光の階段を挙げたいと思います。×マークがこころの手の中にはいったり飛んでいったりと大活躍だったのもアニメ映画ならではの表現ですね。そして、大時計の内部の映像。
そこに至る前の段階で、時計の音でもあるような心臓の鼓動のようでもある音が効果的に使われていたことも見逃せません。
時計のイメージと時間のイメージが重なるところは、作品論『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著、彩流社、2023年1月)の第3章で『かがみの孤城』との比較の対象として取り上げたアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』ととてもよく似ていると思います。
一方、残念だったことというと、ミオとアキの特別な関係が映画本編では削除されてしまっていたことです。また、原作のラストが、映画ではラストにならず、リオンの転校シーンの前におかれていたことも、やや残念な点。そして、映画のラストになったリオンの転校シーンで、リオンにかなりはっきりとした城の記憶が残っているようにしたことには、自分の場合は、賛成できません。「善処する」と言っても、記憶を完全に残すことはオオカミさまにできるとは思えず、原作のように、おぼろげに残る程度にしておくのが妥当なところだったのではないでしょうか? アキに手をひっぱられたおぼろげな記憶が残っていたりするところは原作と同じですが、リオンを特別扱いしてしまうことで、アキに残るおぼろげな記憶などがオオカミさまの「善処」のおかげだろうということを忘れてしまってははいけないだろうという気もします。
そして、細かいことですが、 リオンが早い時期にサッカーの部活をやっていることを話す映画に特有の場面はないほうがよかったのではないかと思っています。後でリオンが学校に行っていると話したときに皆が驚く場面があるので。
そして、喜多嶋先生が真田美織の手紙の内容について「あれは、ない」と言う場面、原作では手に持っているわけではないだろうから「あれ」で良いですが、映画では手に持っているので「あれ」ではなく「これ」と言って欲しかったなあと、これは、初回の鑑賞のときからひっかかるところです。
音楽面でもひとつ。こころが願いを唱えるところ、音楽がスタートするタイミングが早すぎると思うのですがどうでしょう? 願いを唱え終えるまで音楽は待って欲しいと思ってしまいます。
再び、アニメ映画の特徴がうかく生かせた部分に戻ると、こころに仲間の記憶が流入する場面、うまくカレンダーを映像にいれていて、伏線にしていましたね。小説では、それを伏線として説明したりしたら伏線ではなくなってしまいますから、ここは、映画ならではの表現ですね。
伏線と言えば、『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著、彩流社、2023年1月)に詳しく書いたように、原作でも、13~14年の雑誌連載版から17年の単行本への大改作のさいに、伏線が加筆されていて、その改作の努力が傑作を生んだと言ってよいと思います。
『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著、彩流社、2023年1月)の「あとがき」には、「伏線回収」というよく使われる言葉に触れ、「『かがみの孤城』の場合、伏線は「回収」というより「加筆」されたと言ったほうがよいようなもので、その修正、加筆作業の決断と労力に対してこそ、読者は敬意を払わないといけないだろう」とも書きましたが(p.242)、そうした加筆された伏線のひとつであったスバルとこころの『ハリーポッター』に関するやり取りなどは、映画では削除されていました。今回、映画を見て、まだ、原作を読んでいないという方には、是非、原作も読まれるようにおすすめします。また、原作小説を読んで、作品成立の背景などについて興味お感じの方には、『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著、彩流社、2023年1月)をお読みいただければさいわいです。
『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』(北村正裕著、彩流社、2023年1月)
彩流社の情報ページ
https://www.sairyusha.co.jp/book/b10025211.html
作品論出版のお知らせツイート
https://twitter.com/masahirokitamra/status/1614910263576399876