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N43札幌の空の下で<冬> 3「言霊の幸わう国」


<子供が経済活動の中心に>
 メディアと子供たちとの関係を考える時、抜かしてはいけないことがある。それは、1963年に始まった「鉄腕アトム」のTV放送をきっかけとして、子どもたちが経済活動の中での「消費者」として大きな地位を占めるようになったことです。
その理由はTV番組を提供するスポンサーの存在です。「鉄腕アトム」は明治製菓、「鉄人28号」はグリコ、「エイトマン」は丸美屋というふうに、当時の子どもであった我々の頭の中には提供するスポンサー名が焼き付けられていました。何しろオープニングの主題歌の中にさえスポンサー名が盛り込まれていたのですから。
 
 かっこよく動き回り、素敵なセリフをはく漫画の主人公たちと共に、甘さ・美味さの欲求を満たしてくれるお菓子メーカーは、TVのスイッチを入れるたびに画面を通じて我々子どもに「欲求を満たせ」と呼びかけてきます。「クレヨンしんちゃん」がアクション仮面を見ながらチョコビーを口にほおりこむように、当時のしんちゃんであった我々は「エイトマンふりかけ」を買いに走ったのです。グリコのオマケめあてにキャラメルを買いに行ったのです。
 
 こうして、歴史上はじめて(?)消費活動の一員となった子ども時代を経験している我々が、現在親として自分の子どもに対しても同じ生活を送らせています。当時の我々の親たちは、それまで経験していなかった消費生活にとまどいながらも、自分の子どもたちの欲求にはある程度の制限を加え、歯止めをかける強い力となっていました。
 つまり我々に「我慢」をさせていたということです。家計に占める「自由に使えるお金=余裕」も少ししかなかった時代です。「我慢」させられてきた我々としては、「いつかは自由に」と思いながら大人となったのです。当然「親に強制された我慢」に従ったからこそある程度の「待つこと」を覚えてきたのだといえます。
 
<我慢させられない親たち>
 現在親となった我々は、はたしてこの「我慢」や「待つこと」を子どもたちに強制できているでしょうか。「待つこと」と「我慢」が最もできないこととなっている「我々の子どもたち」は、TVから流される情報に瞬時に自分を同化させることを一番ののぞみとして生きています。
 キャラクター商品だけでなく、お菓子だけでなく、贅沢な食事をいともあっけなく用意させてしまう番組。身の丈に合わない暮らしをトレンド(?)と称して一般化させてしまう番組がいかに多いことか。
 
楽して手に入る贅沢な生活の情報は、贅沢な生活を楽して手に入れようとする子どもたちを生んでしまうこになります。ましてや、今は子どもたちの欲求が家庭における消費の中心になってしまったような時代です。「消費を仕掛ける側」も当然そのことは重々承知なわけです。お父さんたちは1日500円で生きていても、子どもたちのこととなるとそうはいかなくなるのです。そうやって、消費者の対象は、親ではなく子どもたちとなるのです。
 幼児期、小学生、中学生、女子高生、大学生、独身世代と子どもたちの成長に合わせて、次々と新たな満たすべき「欲求」を見せつけることが消費の拡大に結びつくようになりました。結果として、我々の子どもたちは自分が親となるまでの20年以上もの間、満たされぬ欲求を次々と刺激され「エイトマンふりかけ」ならぬ「何か」を買いに走り続ける消費者となるのです。
 
 そうして、子供を持つ親の身となっても、子どものため、家族のためとさらに走り続けることになります。それは、物に限らず、教育にも海外旅行にもあてはまる……。
 テレビ・雑誌・新聞・SNSなどが代表するメディアは、我々に情報を提供する媒体です。我々は、現代に生きる為の有益な情報をそれらから得るが為に耳を傾け、目を走らせる。と同時に、求める情報以上のものが我々に洪水のように押し寄せる仕組みとなっています。
 
<経済発展と人としての生き方>
 国内経済の拡大が大きく経済活動を好転させることは周知の事実です。でも、このままでは、「何としてでも自らの欲求を満たせ」と子どもたちを脅迫しているのと同じことになっていると思うのです。「我慢すべきこと」「待つべきこと」の必要性も同時に教える「誰か」がいなくてはならないのではないでしょうか。
 
 その役目を果たせるのは「親」であり、日本という国をよりよい発達に向かわせようとする「機関であり組織」でしかありません。つまりそれは「大人」が行動するしかできないことです。大人がこの国をしっかりと作り上げる意識を待たなければならないのです。言い古された言葉のようですが、子供はこの国の明日を作り上げる主体なのですから。
 
 満たすべき欲求が次々と手に入ってしまう生活を送った者が、次なる刺激を求めていけば、残っているのはいよいよ人の生死の問題になってしまうかもしれません。
人の生きる意義とは何なのだろうか。そのことをしっかりと考えさえることが「教育」に携わっている大人たちの務めです。昨今の小学生たちのなりたい職業ベスト3には「ユーチューバー」が必ず入るのだといいます。それは、自分の発する「情報?」で広告収入を得ることを職業としています。そして、彼らは広告をたくさんつけるために(金を儲けるために)どんな内容であっても、心血を注いで「うける情報」としてアップしようと必死です。
それは、視聴率を得んがために「どんな内容でも、うければいい」番組を制作してきたテレビと同じなのです。
 
<子供を食い物にするな>
子供を食い物にして大人が利益を計ろうとすることがもっとも恥ずべき行為だと、我々大人たちは認識しなければなりません。
 
一昔前はベトナムで孤児院などからヨーロッパ方面に向けて子供の売買が多くあったと言います。これは実は、ベトナム戦争当時にアメリカが孤児になったベトナムの子供に対して、養子として保護したのを始まりとして、やがてそれが金儲けの手段になっていくという経緯をたどった結果でした。多くの利益が絡んでくると善悪の判断もなく、簡単にそういうことが形として出来上がってしまうのですね。恐ろしいことです。
中国やインドも含めて人口の多さは確かに問題となってきましたが、経済的な問題で子供の生活が左右されていることが多くの国々で実際にあるのです。ですが、これを文化の発達した姿だということは到底出来ないでしょう。 
日本で天明の大飢饉の時などにあったという乳母捨て山伝説や子殺しの習慣。娘を打って家計を助けた日本の東北地域の問題を今に結びつけて考えられるわけはありません。
 
自分の幸せや楽しみのためには、どんなことをしてもいい。誰から何と思われようとも構わない。他人が迷惑や不快を被ろうがどうでもいい。大人がそういう生き方をしていれば、そういう情報のエネルギーは、やがて子供たちを同じ生き方をする人として育ててしまいます。大人として、学校の先生として、それをどう指導し、教えていくかは我々の務めであるし、今こそそれが求められているに違いないと思うのです。
女子高生が金になる。ガングロであり、ギャルであり、ルーズソックスであり、携帯電話スマホでもある。そしてゲーム……。テレビでは、ゲームの宣伝ばかり。しかもそのゲームの宣伝をしているのは、すべからく皆大人たち。これもまた子供を食い物にしていると言わざるを得ません。
 
<本物を見分けられる個人に>
私たち大人のすべきことは、子供たちに本物を見分けられる力をつけてやることに尽きると感じています。
 
菊池寛に「形」という小説があります。一時期中学の教科書に載っていたことがあるのでご存じの方も多いと思います。
「猩々緋の鎧」を身に着けた「槍中村」と呼ばれるほどの槍の名人がいた。人々は戦場でこの「猩々誹の鎧」を見ると戦う前からその強さの前にひるんでしまうほどだった。だが、その鎧を初陣の若武者に貸し、自分は普通の鎧兜で戦場に出たところ、初陣のはずの若武者は「猩々誹の鎧」のおかげで敵陣を突破していくが、普通の鎧に身を包んだ自分は、相手の反応がいつもと全く違って最後には討ち死にしてしまう。
内容の本物偽物の判断より前に、ブランドとしての形(外形・表現・概念・言語)が相手の判断を優先させる。たとえ中には本物が入ってなくとも形や名前だけで見た人は本物として扱うことになる。人間の思考のよりどころはそんなものだ、ということをテーマとした作品だと私は捉えました。
 
人気のあるドラマや映画の主人公はすばらしいと言わなければならないし、おいしいとウワサのラーメン店には行列ができる。そのうち誰もその中身を吟じることなく、同意しない人は変人扱いされ、行列にならばない人は味に疎い人となってしまう。SNSなどで話題となったものだけが素晴らしいと思ってしまう人がなんと多いことか。
いわゆるこれはラベリングで、他人指向性が強くなったアトム化の状態かもしれない。
 
せりふ回しもその所作さえもたどたどしいあの俳優は、あれほど人気を博さなければならないのだろうか。一時間待ちのラーメン店は本当にそれほどおいしいものなのだろうか。疑うことが許されない視線に周囲を囲まれた気がしてしまいます。
こんなことが以前にもあったのだろうか。いや、こんなことを繰り返してきたのが人間の世界なのじゃないでしょうか。だから、それはそれでいいのですが、誰一人異を唱えるものがいなくなると負の自然淘汰が起こってしまいそうです。いや、断じてそれでは困ります。
だって、あの俳優はちっとも素敵に思えないし、一時間待ちのラーメン店よりもいつものラーメン店の方が遙かにうまいのだ。
 
自然淘汰は本当に強いものが生き残るし、本当に価値のあるものだけが認められなければなりません。真理や絶対的価値というものはやはり存在しなければならないと思います。そういう認識が自然に行われない国は、正常な状態とはいえません。いわば「裸の王様」状態なわけです。
100万人の賛成があっても一人が何の障害もなく批判できる。そして、それが声となって表明されうる国。自然に健康的に発達した国とはそういうものでなければならないはずなのですが……。
 
<大人が方向性を見せる>
私たちは、発展していく文化やその生活様式から逃げるわけにはいきません。かつてどの時代区分においても、なにがしか同様の変化があり、それに対応し適応してきたはずなのです。
 
とすれば、私たち大人たちのすべきことは、学校の先生のすべきことは何なのでしょうか。それは、大人として子供たちに対してしっかりとした方向性を示してやることではないでしょうか。そのことは、生き方の多様性だとか平等という考え方と反するものではなく、大人だからわかりうる危険性を子供たちに向けてしっかり発信し続けるということだと思うのです。
そして、我々自身が安易にその時々のブーム(流行)に乗らないことも必要なのではないでしょうか。自らの言葉の遣い方や生活様式を整えて、子供たちに共感されうる大人として振る舞うことが必要なのではないかと、今だからこそ強く思っています。
メディアの利点も脅威をも理解したうえで、子供たちに考える方向性を示していける。それが、「メディアと共に暮らしていくことから避けられない現在の私たち」に求められている大人としての姿なのではないでしょうか。
 
<伝統を引き継ぐ心>
「しきしまの 大和の国は 言霊の 幸わう国ぞ ま幸くありこそ」
 
これは、万葉集に収められている柿本人麻呂の歌です。
わかりやすい現代語にするなら「この日本の国は、言霊(言葉が持つ霊的な力)によって幸せになっている国です。これからも平和でありますように」というような意味になりそうです。
 そう考えると古代日本である大和の人たちは、日本は言霊が栄えさせている国というふうに考えていたと言うこともできるでしょう。古代日本の人々は言葉には霊力が宿っていると考える所謂「言霊信仰」を持っていて、美しい心から発せられる正しい言葉を用いることで良い結果を得ることができる。逆に卑しむべき心から発せられた醜い言葉を用いると災いがもたらされてしまう。そんなふうに考えていたのでしょう。
 
 現代の私たちでもそれに近い考え方で物事を進める習慣はありますよね。
つまり、日本人はもうすでに千年以上も前から言葉に対する意識を高く持ち続けていたのです。いつも正しい言葉を使うことで幸せな生活が送れる。そう考えていたのです。
 
<Xが酷い怖い><SNS>があれている。オールドメディアが偏向的だ。そんな攻撃的な言葉ばかりを耳にするようになってしまった現代……。
「ヤバ!ウマ!マジで?ヤバクネ!」
なんて言う言葉の乱れとか、若者言葉が幅を利かせてしまったのも大変憂慮すべきことですが、それ以上に<ネットいじめ>だとか<ヘイトスピーチ>だとかが平然と世の中に出回ってしまったことが大きな問題だと言わざるを得ません。
 一つのミスで相手を全否定してしまう、顔を見せない人たちの悪意に満ちた粗暴でグロテスクな言葉を聞くたびに、教育に携わって来たものの一人として、また子供たちを育ててきた大人として、身震いしてしまうことさえあります。
 
 日本は「言霊の幸わう国」として千年以上の年月を重ねてきたのです。今一度、美しい言葉を取り戻して「日本人としての本来のアイデンティティー」を持ちたいものだと思っているのですが。皆さんはどう思いますか。
 
吉野弘の「生命は?」という詩をご存じの方はその言葉を思い出してほしい。人間は決して自分だけのために生きているわけではなく、自分も他の人に生かされてもらっている一人なんだ……。
 
そんなことを今更ながら思ってしまう、令和6年12月6日札幌の雪景色の下でした。

私の部屋で冬眠準備中の動物たちも夏の間は草花に囲まれ

以前Noteで公開していた『道産子太郎と花子のジジババ放談』は花子の都合がつかなくなったため今は太郎一人でまじめに放談しています。
以前までの作品は現在『カクヨム』にて公開しておりますので、よろしければご覧ください。


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