勉氏への書簡2023 (地涌)・7
勝利の章から続き、追記注釈を加えて行きます。
真最終章の243ページを開いてください。
本文
梯子を外された私と、貴方一家との交渉に失敗したN氏にとっては、この最終決戦後の戦いは、あまり意味をなさない消化試合的なものと捉えるしかなくなってゆきました。
年齢的に裕子女史が来北をしたとしても非常に厳しい現実が待っているのが容易に予想されたし、何よりも一番の功績である折伏を成功させても叶えられなかった来北を、その後どうすれば叶えられるのか誰にも分からない状態になった。
梯子を外される事件後にも、N氏から貴方と裕子女史の伝言を聞きましたが、顔色が悪い、制服が汚い、性欲が強すぎる、若い子の方が好きなんでしょなどと言った血迷ったメンヘラの戯言にしか受け止められず、途方に暮れてしまうばかりでした。
事件後に伝えられる、どんな条件も折伏の成功を上回る手柄になるとは思えなかったんです。
折伏の成功で叶えられなかった来北が、それよりも低次元の条件をクリアして手柄を立てたとて、叶えられるとは到底思えなかった。
が、やけになっても始まらないんで、その後も会合などには欠かさず出席して、伝えられる伝言の条件をクリアするようにしてゆきました。
N氏も貴方一家と交渉する事が少なくなって行ったのではなかったでしょうか?
呼ばれる事も少なくなって、2人で話す時に、裕子女史の話題も口にしなくなって行きました。
が、裏では一応はなんかの働きかけをしていたでしょう?
ある時、「〇〇さんの事は時機を待つしかないよ」と言っていましたから。
N氏が他宗についてどのような認識でいたのかについて書きましたが、信心強盛な会員と呼んで間違いない感じでしたよね。
梯子を外される事件の後、上記のようなどうにも手の打ちようの無い、消化試合の空虚な時間が長く続いていました。
私も○○波照射の激化で休業連発が常態化してしまい、経済状態が悪化してにっちもさっちもどっちにもいかなくなっていました。
ここで、貴方が動いたんでしょう。
「N氏壮年長就任事件」
「静太郎B長就任スキップ事件」
「勉氏への謝罪を強要される事件」
この3つが順番は忘れましたが、たしかこの順で勃発したんです。
N氏が胆石かなんかで入院して退院した後だったような記憶があります。
もう6,7年前の事なんでよく覚えてないんですね。
ある日仕事の帰りに、車でN氏宅に寄った事が有りました。
用事を済ませて車までN氏が見送りについて来て言うんです。
今度、壮年長の辞令が出る事になったと。
嬉しそうにしてるんで、おめでとうございますと言うとありがとうとニコニコして答えてましたね。
今まで無かった壮年長という役職が全国一斉に作られて、N氏は支部の壮年長になったんです。
後日、辞令の紙が届いたら、YK氏と私と2人をわざわざ呼んで見せてましたからね……。 その頃、YK氏も地区部長になって一年経ったぐらいだったか?
副役職から正役職に変わって、信心強盛なN氏にとってはうれしかったんだと思います。
その時は、世話になっているN氏が喜んでいるのを見て、私もうれしくなっていましたね…。
後に奈落の底に突き落とされる事も知らずに…。
生前最後の時代を近くで見ていたんで言える事なんですが、N氏の昇進に貴方の推挙があった事は間違いないと思います。
店で心の病気の会員達の相談に乗っていた事以外は普通の活動をしている所を見ただけでしたし、副支部長になってからの功績と言えば私を折伏した事ぐらいだったと思いますし。
外にN氏の昇進を推薦する可能性があるのは、裕子女史とYK氏ぐらいです。
共にそういう立場に無かった。
出来るのは、貴方だけなんです。
私から見ると貴方は娘の二重規範を理解できていない位の感覚の鈍さを持っています。
N氏を壮年長に推挙したのも、信心強盛な壮年会員の心理の変容を予期できなかったから犯した失敗だったんです。
壮年長になったすぐの頃にN宅に遊びに行って、壮年長の試験みたいのがあるんですかと聞くと、試験は無いけど区の幹部達と面接質疑応答があったと言ってましたね。
もうその会話の口調からして、副支部長時代のN氏とは全然違ってしまっていたんです。
なんか、よそよそしく、以前の親しみの情を失ったかのような。
前のN氏なら、区幹部勢の人となりを揶揄しながら、おもしろおかしく、しかも、かなり盛って話しをしていたはずなのに、なに脚色するでもなく、あるがままならいざ知らず、秘匿事項が有って言えないんだという風を装って斜に構えた話し方をしているんです。
役職効果とでも呼べそうなものが、効果覿面にN氏の人柄を変えてしまった。
裕子女史の事を試しにふってみると、それも秘匿事項になっているらしく、ありきたりの反応しかしなくなってしまったんです。
区幹部との面談でいろいろ誓約させられたと言ってましたが、貴方が区幹部に裕子女史の事も秘匿事項として扱うようにとN氏に伝えさせたのではなかったのか?
私のその日の帰り道は、暗澹たる気持ちでいましたね、N氏が仲立ちをやめてしまった……。
これから、どうしようかと。
その後、何度か会合の帰りに話をしたんですが、役職効果は揺ぎ無く、おもろい老人だったのが、普通の老人の振る舞いを心掛けるようになってしまいました。
が、録音を避けていたんでしょう、家の外や車の外で2人で歩いていたりするときは、以前のおもろい老人に戻っている時があったんで、貴方一家に聴かれている事を意識しての役職者然とした振る舞いでもあったと思います。
N氏の壮年長就任から数か月後だったと記憶していますが、外で2人で話している時に今、私をB長にする話を進めていると言うんです。
誰がそれを言い出したのか聞くと、口を濁すんで、裕子女史と勉氏でしょ?とさらに問うと話をそらし始めるんです。
裕子女史と勉氏が工作を始めているんでしょうが、K氏折伏の時と同じで、やらせるだけやらせただけで終わらせるに決まってんじゃないですか。
K氏折伏の時の事忘れたんですか?と言うと
N氏、黙って斜め上を見て困った顔をしていましたね。
い、言えてる… それもそうだなといわんばかりな感じで。
その時は既に低迷が始まり、○○波休業も出始めていた頃なんで、一番条件が整っていたK氏折伏借金完済収入普通時に「梯子を外される事件」で返されたのに、今、裕子一家の出してくる条件を満たそうとしても、まず「再び梯子を外される事件」となって終わるのが容易に想像出来ました。
実際、そうなっていたでしょうね。
ただ、勉氏が周りへの体裁の為に自分の力の及ぶところで、T氏来訪工作と同様の私を支援したふりをしようとしていたにすぎないんです。
N氏が黙っているんで、私はK氏折伏の時の苦労話をいろいろしたんです。
その時、K氏はN氏と同じ地域の公営住宅に当選して引っ越して来ていましたが、仲たがいしてN氏と全く会わなくなっていました。
ここで、Twitter転載K氏折伏物語部分へつながるんです。
あれだけNさんにもさんざん協力してもらって、折伏成功させて、K氏の引っ越しまで全部関わって話をまとめたのに結局、商売は低迷させられ、○○波で嫌がらせされる結果になっていると話をしたんです。
「必ず同じ事されて終わるから、順番を変えてください。 まず裕子女史と会って、その後でB長になる話が出るようにしてください。」
こう言って、その日は別れたんです。
その一月後ぐらいだったか、同中にN氏に呼ばれて、私の車で行き、帰りにN宅前で、またB長になる話を始めたんです。
が、なんか盗聴されている事をもろに意識した感じで話始めていたんです。
それを感じて私も話を合わせて答えていましたね。
今のB長はどうなるのかとか、○○行為の動員を断れなくなるからやらないとかいろいろ言いましたが、「梯子を外される事件」の話はしませんでしたね。
裏でN氏が私が頼んだ通りに裕子女史に会ってから考える形にするように働きかけてくれているのだろうと思ったからでした。
同月の地区会合に出席すると、B長は地区幹事になり、隣地区から来た人がB長になっていて、遠くから婦人部の応援部隊めいた人が来るようになっていました。
私の語った、梯子を外される事件の因縁と裕子女史と会ってからにしてくれという願いをその時はN氏から貴方に伝えられていなかったのでしょうね。
が、その会合後は、私のB長話は取り上げられる事が無くなったので、やはりN氏が貴方一家に私が裕子女史と会ってからでないとダメだと言っているという事を後から伝えてくれたのだと思います。
しかし、丁度、この一件を境に胆石、肺病痕、肺がん、小細胞癌と立て続けに健康の坂を転がり落ちて行く事になり、5つの病院を転院し入退院を繰り返す事になるN氏だったが、私が見舞いに行くたびに、ドクターXという私は見たことのないドラマの話をして、「あのドラマの広末涼子みたいに私は失敗しませんと言ってくれる医者がいてくれたらいいのにね」と同じ事を言い、私が広末涼子じゃなくて米倉涼子ですよと突っ込みを入れるのを待っているような所があった、おちゃめな老人が貴方に私の意向を伝えたは伝えたが、どこか曲がって伝わってしまったのだと思います。
B長の話が収まってから数か月後だったと記憶しています。
退院中のN氏に呼ばれて、N宅を訪問すると近くのスーパーまでバイクで乗せて行ってくれというので、遊歩道をN氏を乗せて走り、バイクが通れない段差の所で降りて歩いている時に、いつもの暗示するような言い方で言うんです、「北枕君が向こうに不義理をしたという事になって、すごく怒っている。 会ったら素直に謝った方がいいだろうね」と。
「勉氏への謝罪を強要される事件」が始まったのでした。
N氏が向こうと言ったかは忘れましたが、勉氏を暗示させている事は今までもそういう符丁を使って勉氏の事を話していたんで分かりました。
不義理と言われても、どの不義理の事を言ってんだ??
昔から数えて行けば数限りなく勉氏の仕事の斡旋や機会を蹴ったり、突然退職などを繰り返してきているんで、どの不義理の事を言っているのかホントに分からなかったんですね。
しかし、再びバイクで走れる道へ出て走り出すと、その場の空気でN氏にどの不義理の事を怒っているのか?と聞けずに終わったんです。
さらにT氏等一行の来訪工作もほぼ同時期に行われていた事も判別を難しくしていました。
今考えると、B長の話とT氏来訪工作の勉氏が仕組んだ機会をどちらも逃した事が激怒の真相だったと考えています。
解説
この辺から最近書いたものになるので読み返して欲しいという解説が続く事になります。
ここもありのままを書いているだけですので、読み返してください。
前の解説部にいろいろ考えを書いています。
本文
が、これらの貴方の一方的な働きかけや怒りは、全部が裕子女史が私と35年も話を出来ずにいるという異常な関係を肯定した上で成り立っている虚構なんです。
裕子女史が私と面と向かって立つ事すら出来ないという奇怪な環境を肯定する事は一番初めのボタンを穴4つぐらいかけ間違えて、服を着ているようなものだと思います。
傍から見ると、どえらい歪んだ服の着方をして、全くおかしい所なんかないと話を平然としているのと同じ。
T氏来訪工作にしたって、先に裕子女史と会っていれば工作の成果結果は全く違うものになっていたはずと前述しています。
B長工作も先に裕子女史と会っていれば、普通になっていたかもしれないし、私のような立場に置かれるとB長になった地区が出身区であるか所属区であるか当地区であるか場所もわかりませんよね?
しかも、N氏は貴方に会ったら、素直に謝ったほうがいいぞと言っていましたが、その後、貴方に会う事は無く6年経っています。
N氏も霊山に旅立ちました。
そもそも、初めから私と会う気など無いのに謝罪要求していた事になるのではないのでしょうか?
この貴方の行動にK氏折伏成功&梯子を外される事件と共通する、根底に流れる裕子女史の異常性への忖度が見えてくるんです。
貴方が裕子女史に私へ話かけられない事を指摘すると物凄い怒りで返してくるんで、次第に指摘できなくなって行った。
実際、東北地震の後でドラレコに録音されていた会話には貴方が裕子女史に自分から話しかけた方がいいんじゃないのか?と諭す所が残されていましたね。
貴方が常識を残して生活していながら、裕子女史の反発を恐れて腫れ物に触るように接している事が分かります。
さらには、私も裕子女史の発する闘気を見て、激怒裕子スキップ事件を起こしているので、貴方が娘の勘気を被るのを避ける気持ちが良く分かるところなんです。
確かに、ああいう怒りの表情を見せる50女となると寝首を掻かれて殺されそう……、いや、二時間ぐらい罵声を浴びせられそうですよね。
あと、貴方的には長女姉氏夫婦が公私共に申し分なくうまくいっていて、孫娘のよもぎ嬢も組織系大学に入学するとかしないとかの歳まで大きくなっているんで、わざわざ、癇癪持ちのメンヘラ次女との間に諍いを起こす事も無いと考えている。
裕子女史と諍いをおこすと、家族の関係がぎくしゃくして盆と正月と集まった時に父親としての体面を保てなくなってしまう。
裕子女史に頼まれた事に対して、工作等の力添えをしてやり、父親としてのやるべきことをきちんとしているという体裁を整えてきた。
しかし、それは今現在から過去の貴方自身の体裁を考えて行動しているだけだと思うんです。
未来の年老いた裕子女史を貴方と母氏の両親が霊山へ旅立ったあとに、どうさせるつもりなのでしょうか?
35年も私に話しかけられない心の病気な上に、歩いているだけなのに蒲田のヤンキー娘の怒りを呼び覚まし、しばかれてしまうレベルの特異体質ですよ……。
頼りにしているだろう組織も、衰退が予定されていて、私や裕子女史のベビーブーマー世代を最後に若年層が加速度的に激減している事が盛んに言われています。
未活若手会員に組織活動させるだけの魅力と受益を時代に合わせて用意出来なかった事で参加させることに失敗し、若手活動家の精神的な疲弊を招き、非活化させてしまっている。
貴方の世代は会員数年齢グラフがひし形のような形で収まっていて、ベビーブーマー世代に支えられていますが、我々裕子世代は独楽のような形になり頭でっかちに老年層が若年層にのしかかる状態で、一人の若者が3人の老人裕子世代を支える事になる。
組織を社会の縮図と前述していますが、日本の年齢グラフをそのまま使えるくらい類似しているそうです。
同時に今ある組織力も、20年後は同じだけ発揮させることは出来なくなるはずです。
裕子女史が70過ぎた頃には、頼りにしていたものが出て来なくなる。
今から、孤独死対策と並んで、人並みの福利厚生を受けられるように資産なりなんなりの手を的確に打って行かないと、大変な事になりますね。
4つボタンの穴を掛け違えて、歪んだ着方をしている服のボタンを一回全部外して、同じ位置のボタンと穴で掛けなおしてやらないといけませんよ。
35年も話をせずに姿も見せずにいる事を肯定してはいけないでしょう。
裕子女史的には、周りの同志勢しか見えていないから、周りからその異常性を指弾する声が挙がらなければ、現実逃避を続けてしまうんです。
周りの同志勢が異常と分かっているのに何も言わないのは、貴方が圧力を加えて口を封じているからに過ぎないんです。
貴方の威光が消えた後に裕子女史は一気に過酷な現実に晒されてしまう事になります。
まさに裸の王様状態でいたのが今まで。
貴方という後ろ盾を失った時に、大勢に囲まれて裸であることを、友人と思っていた同志に指摘されて傷心する事になるでしょう。
独身で子供もいない、体力も衰えてきている老境を突然突きつけられる事になるんです。
いろいろ貴方の過ちを指摘していますが、かなり図星な感じの部分が多いのではないでしょうか?
35年間貴方父娘を見てきていますが、貴方の行動はご自分の体裁体面の保持を基本としていると思います。
私に対する来訪工作等の各種支援工作も前述の通りに、次女の相手を父親が支援していないのは体裁を損なう、だからしているフリでしかない支援工作が多くなって、さらに裕子女史の代ミュンマッチポンプ技での○○波照射と休業にお墨付きを与えてしまうんで転落を食止められない。
上記のように、裕子女史の異常性を分かっているのに修正してやらないのは、家族の間でのご自分の立場を損なう可能性があるからでしょう。
で、裕子女史の孤独死を防ぐために、多くの同志達が奔走したにも関わらず、「梯子を外される事件」を起こしたも、長女夫妻とよもぎ嬢がかなりの幸福を掴み取っていたからだと考えています。
既に係累が成功した系譜を築き上げているので、その慢心から人の心理を見る目が曇り裕子女史の弱気を汲み上げてしまい、逃げる事を後押ししてしまった。
私や協力してくれた同志達の家庭に対して、責任を持たない所も貴方がご自分の体裁のみを見ている事が現れていると思います。
まず、貴方はうちの亡父と会ってますよね。
おばあさんも亡父と会っているのでしょう。
前後編で書いている事ですが、私は自分の家族と私自身も孤独死から救わなければいけないから、裕子女史に早期に会うために努力してきたんです。
40前の同級生仲介者化工作も、N氏に会い組織に入会したのも、その後、懸命に働いたのも、K氏折伏成功させたのも、その為だった。
高齢リスクをぎりぎり避けられる時期に合わせて奔走してきたのが、それぞれの歳と照らし合わせてみれば良く分かると思います。
始めから、同級生勢やN氏にも加齢リスクを話して来ているんでその証明となるでしょう。
前編後編で書きましたが、貴方はうちの亡父とおばあさんに義理は無いのですか?
転生系の教えなんでありえないんでしょうが、もし霊山で二人と再会するような事になったら、うちの亡父には、いかにもすぐ会わせるかのように面会していると思いますけど、そこから25年は約束を守らなかった事になる。
裕子女史は、おばあさんの影響で今の仕事をしていると聞いています。
可愛がっていた孫娘をどうしてここまで転落させたのか、おばあさんは間違いなく怒るでしょうね。
しかも、裕子女史を50の歳まで追いやっている。
貴方はどう申し開きするんですか?
現実を見れば、今はもう奇跡でも起きない限りはひっくり返せない敗北した後の底の底にいる状態だと思います。
この状態になるまで、御自分で私に会いに来ることも無く、加害もやめさせない事が貴方が自身の体裁のみを考えている証拠です。
私が貴方の立場だったら、間違いなく10年前に会いに来てます。
世間の父親も同じだと思いますよ。
私としては亡父に申し訳ない気持ちでいますよ。
私も霊山で亡父と会ったら、いろいろ頑張って奔走した模様を話して、許しを乞う事になるでしょうね。
貴方はこのまま、私や協力同志達の戦いを無にして、さらに義理もないがしろにしている事になるし、父親として体裁が保てると思いますか?
B長スキップ事件の後、私が好意の支援を無にしたという事にして、謝罪強要事件が起き、貴方的には体裁を保てたと考えたと思います。
しかし、裕子女史的には立っている場所が1ミリも動いていないんで、不満を露わにしていたことでしょう。
普通の世界の観点から言えば、自分から話しかけるか、私に話かけさせるかすればいいだけなんですが、貴方が娘との軋轢を避けてしまうのと、周りの同志勢の口を圧力をかけて封じてしまう為に、裕子女史は裸の王様状態から抜け出せないのです。
とばっちりを恐れて誰も指摘して言わない、裕子女史は素っ裸で徘徊しているにもかかわらずに……。
ここから、裕子女史が自分の領域展開でN氏と私を工作にかけて行く事になりました。
全部話すと物凄く長いんで、貴方は勉書発信を一度全部12345前編後編最終章、本章と読んで見てください。
基本、割愛させていただきます。
解説
ここも読み返してください。
本文
N氏に「今、裕子女史っぽい中年女が階段を駆け下りて行きましたよ」と言うと「ほぉー」とゆっくり階段の方を見て話し始めるんです。
「北枕君、地球はどんな形してる?」「丸ですね」「丸い地球の上を追っかけこして捕まえられる?」こういう児戯に例えて話す事がN氏はよくありました。
私は毎回めんどくさいなと思いつつも裕子家との間を取り持ってくれようとしているN氏に真面目に付き合っていたんです。
「丸くて同じスピードだと永遠に捕まりませんね」
「でも地球には山も谷も海も川もあるんだ君が得意な場所で●●さん(裕子女史)がのろのろしている時に捕まえればいいんだよ」
私は思っていました。 能書きはそれでいいけど裕子女史はもう四十〇歳の中年女なんだから、もう長い脚本をぽかんと口を開けて見ている場合ではないんだよと。
私は父が同じ小細胞がんだったとN氏に話をして、薬物と放射線の治療だから、神の手みたいな凄腕外科医の出番は無いと思うし、自宅近くの前の病院に戻っても良いと思いますよと話をしました。
その時も無くなる一週間前に会って話した時も言っていた米倉涼子が医者を演じているドラマの話(私は見た事無い)をして「あんな広末涼子みたいな医者がいて”私が治します!”なんて言ってくれたらいいのにね」と米倉を広末と間違えるN氏の冗談を憶えています。}
結局、すぐに元の病院に戻りましたね……。
しかし、元の病院へ戻ると裕子女史の北枕迎撃計画が実行できなくなる。
さらには、裕子階段を駆け下りる事件時に私が後を追おうとするのを押しとどめ諫めている。
なんで、もう少し転院しないで、裕子女史の計画を実行させてやらなかったのか?
この頃は入院したら一度は必ず見舞いに行っていました。
裕子階段を駆け下りる事件の時が丁度初めて面会に行った時だったんです。その外には、呼ばれたら会いにゆくぐらいの付き合いに変わってしまっていましたが、入会以来、裕子女史関係で重要と思われるときには必ず呼び出されていました。
入院を続けて、すぐに呼べば、私は必ず見舞いに行っていたはずなんです。
要するに、N氏は裕子女史が私と会う気が無い事を見抜いていたんですね。
北枕迎撃計画も、周りの取り巻き勢への示威と体裁保持でしかないと見ていたんでしょう。
もう体調も悪化する一方で、明らかな茶番に付き合う余裕が無くなっていたのだと思います。
裕子女史のやる事は今日、2023年1月26日の時点のTwitter発信の転載を読んでもらえば分かる通りに、50過ぎても30代の時と同じ過ちを続けている。
もう、意地になってしまっているんですね。
私や家族を攻撃していれば、あのBBA狂ってやがんな……と周りがドン引きして恐れおののき自分の意向に従ってくれる。
腫れ物に触るように接してくれるんで、年齢の事とか将来老後的な展望とかに触れてこないし、快適な内部人間関係でいられる。
このまま続けていても破滅が待っている事は分かっている。
だが、どうしても勇気が出ないから、逃げたい一心で攻撃を続けてしまう。
現実逃避の麻薬中毒とまさに同じ事なのだが、叱ってやる義務がある両親が寝首を掻かれる恐れから自らの娘であるにも関わらず意見出来ない。
その状態を今日の今日まで続けているんです。
今、勉書1を見てたらN氏が亡くなったの2018年の11月でしたね、もう4年も経つのか……。
裕子階段を駆け下りる事件はN氏の亡くなる半年以上前でしたが、まあ大体5年前ですかね、今も血迷った事してるのだから、当時も当然周りへの体裁だけで工作を計画していて、それを片足を棺桶に突っ込んで仙人のような達観した境地に居たN氏が看破していたという事。
解説
ここも読み返してください。
ここで誓願の章の1ページを開いてください。
本文
が、亡くなる4か月前の事で、老母の話だと歩くのもしんどそうだったとの事でした。
貴方と裕子女史に頼まれて何かを伝えに来たか、急遽訪問をして尾行や盗聴勢をかわすつもりだったか。
おそらくは、貴方一家に頼まれたのなら、事前に連絡を入れていただろうから、帰りに私の車で送ってもらい盗聴できない所で2人で話をしようとしていたのではなかったかと今、思っています。
その後、歩けなくなるんで、包み隠さず話せる最後の機会という事だったのだと思います。
最後に力を振り絞ってうちまで来て、何かを伝えようとしていたんですね。
まあ、裕子女史の事で間違いない。
この日の事を後ですごく文句を言っていたと伝え聞いています。
私はここでも不義理な事をしているんです。
この日の事が、その後、墓参りをしている理由の結構大きな部分を占めていたりします。
去年は新始動と低迷と激しく変化して、墓参りに行けなかったんで、今年は暖かいうちに行くつもりです。
貴女が来北したら、一緒に行きたいですね。
亡くなる一週間前に退院して自宅療養すると聞いて、見舞いにN宅へ行きました。
この日が最後の別れとなりますが、この日もドクターXの広末涼子の冗談を言ってましたね……。
除湿器みたいな大きさの酸素吸入器が置かれていて、キュウキュウと音を立てていました。
この日のつらそうな感じを見て、ようやくこれは詐病ではなく、かなり厳しい状況にあるのだと悟りました。
でも、亡父の病状の悪化の過程と比べて考え、ドクターXの冗談を言っている所を見て、まだ1年は大丈夫だと思っていました。
そして、冒頭部に戻ります。
次の日、H氏に電話して聞いたか、N夫人へ電話したかして仕事を休業して、すぐにN宅へ向かいました。
N夫人は、悲しみに暮れて泣き続けていて、娘さんが応対してくれました。
N氏に会って、顔が穏やかに寝ている様だったのでほっとしました。
そして、ホントに亡くなってしまったと何も考えられなくなっていましたね。
H氏も仕事に行く前に来ていたんだったか、N宅で少し話をしたんだったか、電話で話したのか忘れてしまいましたが、ドクター部の医師と看護師長が来て、最後亡くなったのを確認したと言ってましたね。
貴方の推挙で壮年長になったからか、裕子女史の仕事のつてでの計らいだったと思っています。
先進第十一 270
〔 原文 〕
顔淵死、顔路請子之車、以爲之椁。子曰、才不才、亦各言其子也。
鯉也死、有棺而無椁。吾不徒行以爲之椁、以吾從大夫之後、不可徒行也。
貴方と裕子女史は葬儀に来るべきだったと思います。
亡くなる一週間前にも、私と裕子女史を会わせてやらないといけないと言っていたの録音で聞いているでしょう。
孔子が顔淵の父親に車を棺の材料にくれないかと頼まれたのを、役職上の体裁を守る事は礼儀だからと断る。
で、つぎのつぎの先進第十一 273で、実際にはかなり盛大な葬儀をすることを許してしまったと後悔しているんですね。
なんなんだかわけわかりませんが、この解説を書いた人の言うとおりに「礼は其の奢(おご)らんよりは寧ろ倹せよ。喪はその易(そなわ)らんよりは寧ろ戚(いた)めよ。(礼式は華美にするよりは寧ろ慎ましくやるが良かろう。喪礼の場合も、体裁を整えるよりも寧ろ心から哀悼の誠を捧げるようにしなさい。形式よりも心が大事!)」という事なんだと思います。
車を棺の材料にするというのも、師の持ち物で棺を作ってやろうという形式的なものなので、べつに新たに車を買う金が無いというのではなく、形式主義を出仕する立場の私が政治に持ち込むわけにはいかないんだよという言い回しで断っているんですね。
※孔子の車の木材かなんかを材料として外棺を作ると言うのは私がどこでどう間違えて憶えたか独自の解釈で、一般的には車を売って外棺を作るという事らしいですね。
論語読みの論語知らずというのと、少し違った現象を起こしているんですね……。
孔子の門弟から高級役人を何人も送り出してもいて、弟子の数も何十人もいたわけで、お金に困っているわけではない事にかわりない。
顔淵の父親は孔子の大切なものを譲り受け、それを売ったお金で外棺を作るという形式的なものにこだわって頼み込んでいる。
あとは上記と同じところに帰結する。
N氏が亡くなった時に、私の出た地区の同志が集まった通夜と親戚一同が集まった葬儀とは別にN宅で裕子女史と関係者が集められた葬儀が行われていたのでしょうか?
通夜から数日間、N宅に遺体を置いていた。
火葬の順番待ちなんだと誰かが言っていましたが、当時コロナ禍の数年前だし、申し込みが殺到しているような感じは全くありませんでしたし、実際、荼毘に付される場に、N氏の関係者しかいませんでしたからね。
齢80の老境にある貴方が下関から来たかどうかは分かりません。
歳が歳なんで不義理には当たらないと思います。
が、裕子女史がどういう形であれ、弔問に来ないのは不義理も不義理の罪悪ですよ。
N氏亡きあとも、娘が近くの公営住宅に当選しているし、N夫人の元へ訪れていそうなんでまず無いと思いますが、貴女が、荼毘に付される前にN氏にお題目をあげていなかった場合、これから私と会っても、すぐに別れる事になるでしょう。
そこまでして逃げ続けていたのなら、このまま会う事もないでしょうが。
貴方にお願いしたいのは、そもそも根本的に人間の成り立ちが違う場合があると思います。
話が通じないと思いますよ。
上記したような感じだと会わせても意味ないから、すぐに同志医師と見合いさせてやって下さい。
(私はきっちり解放してくださいね)
死後数日の時間があいていたから、もしかしたら貴方も横浜まで来た可能性もあると考えています。
貴方は来なくても、不義理には当たらないと書きましたが、何度か会っているだろうし、娘の事で奔走してくれていた人だから、本音を言えば来て当然だと思っています。
病気だったりしたら、歳も考えて仕方ないでしょうけど、何年か前にうちの前で後ろ向いて立っていたでしょう。
そこまで年老いては見えませんでした。
なんで、横浜まで来てN氏の亡骸と対面していると仮定して書いてゆきます。
地区の同志勢での通夜と親戚一同で荼毘に付した葬儀とは別に、貴方と裕子女史がN氏宅を弔問しているのだろうと考えています。
まあ、今、この瞬間もそうなんですが、N氏が亡くなったあと数日間も完全監視状態にありました。
○○波照射と作動音連発とかをやられていたんです。
で、なんか裕子女史本人が観察に来ていたように記憶しています。
私がホントに悲しんでいるのか確かめるかのように……。
うちの亡父にも家族で会いに来ているくらいだから、会員のN氏の亡骸とはほぼ間違いなく対面していると思います。
周りには私に伝えないように口封じして。
貴方がそういう立ち位置にいるから、裕子女史も同じく私と面と向かって接触出来ないんだと思うんです。
貴方がそういう風に教育したから(前述した勉氏の軛ですね)裕子女史は私と話もせずにいて、35年も関わっているんではないでしょうか?
そもそも、私対策としてやるんでしょうが、貴方と同年配の同志で娘が大変に世話になっていた人が亡くなっていて、なぜ気分よく、葬式で気分よくというのも変な話ですが、正々堂々と普通の葬儀に出席せずに、隠密行動めいた事をするのか分からないんですよね、普通に出席すればいいだけなのではないですか?
なんかの雑誌記事で読んだ話で、大物政治家が、愛人の葬儀に正式な葬儀には出ずに、隠れて弔問したというのがありましたが、それは政治家として愛人の存在が発覚する事のマイナス要素と礼儀として弔いに行かなくてはならないという人間模様の相克みたいなものです。
貴方は大物政治家でも組織の大物でもありませんよね?
組織の役職ではT氏一行を動員できるくらいの立場になっていたのかもしれませんが、貴方よりも上役がいたでしょう。
その人達が貴方のように私のような小物相手に隠れて弔問するようなマネをするとは思えないんです。
私に知られないように弔問する意味が分からない。
私に知られないようにする……。
私も貴方もそれやる意味無いとしか思えない。
百歩譲って、20年前に私の亡父に会うのに、私に知られないようにしたのは、当時まだ裕子女史も私も若いから、先に選択する道が沢山あったし、私でなく他に相手を見つけた時に障害となるやもしれんから肯定できる。
亡父の存命中に貴方が話をしたんだから、礼節を欠く行為でも無いでしょう。
しかし、N氏の場合は亡くなってから、N氏の正式な葬儀に出席せずに、裏で私に知られないようにするという為だけに隠れて弔問している。
これは、草創期からの同年配の同志の死に対して義理も礼儀も欠いているとは言えないでしょうか?
明らかに事の軽重を間違えているでしょう。
私に知られないようにするという事なんかくだらない些事に過ぎないんですよ。
世話になった同志の葬儀に参列する事の方が重い意味を持つんです。
当たり前でしょう。
貴方と裕子女史が正式の葬儀にしれーっと出席していれば、そこは中立の聖域なんだから、当然、私と対面してしまうんですが、お互いに穏やかに会話するしかないんで、N氏の死身仲介が実ることになり、先につながって行ったはずです。
解説
ここは前半でN氏が亡くなる4か月前ぐらいに、私に何かを伝えに来たのに、私が詐病と勘違いしていた為に、二人きりになる機会を失ってしまいN氏の死身を賭けて実行した事に不義理をしてしまった場面を描いています。
死ぬ4か月前という歩くのもしんどい状態で来てくれたのに、私は会いに戻らなかったんです。
貴方と裕子女史の責任もあると思いますが、私自身の不明を恥じ入るばかりです。
で、県境をまたいで墓参しているんです。
後半は貴方が組織の大物ではないのに随分と娘の恩人の草創期からの同志の葬儀に不義理をしてますねと指弾する内容です。
全国幹部を動員している所をみると、かなりの高位に就いていたか、所属していた会内属性が強力だった可能性があります。
しかし、組織から離れた、一個人として娘の恩人の葬儀に正式に出ないというのは不義理で礼節を完全に失していると思うんです。
私の目に触れないように隠密行動をするという何の価値もない、腐りきった行動様式を人間性の正義よりも優先した事に憤りを感じ続けているんです。
本文
ここ数週間、この勉書発信をさせる意図で帰宅後2時間ぐらい眠り系で強制爆睡させられ午前2時に起こされて、まどろみの中にいると、覚醒波で完全に目覚めさせるという、凄まじい圧力をかけられ仕事をしてかつ、書き進めてきています。
壮絶でしょう?
体がよくもっているなと思いますよ。
で、今週などは完全な赤字垂れ流しでかなりの損害を受けているんです。
それでも支援を受けている事は間違いないという。
あそこやはり難しいのかもしれませんね。
前の業者を制裁のだしに使っているのもこれから書く手口と同じ種類のものなんです。
勉書を終えたらすぐに、前の業者を別な日に動かして、前職時代のつてを復活させてください。
それで、あそこを続けるかどうかを決めるしかない。
解説
ここ2か月はこのように過酷な発信を続けています。
導眠酸をワインで飲み下し、残り物をつまみにする。
マジでここ3か月で12キロ太りました。
導眠酸とアルコールを一緒に飲むと慢性的に膨満感状態になり、腹が固くなるんです。
これで死んだら、どうする気なんですかね。
貴方父娘の事だから、工作責任者をやり玉に挙げて、私亡き後の標的として殺そうとするのかもしれませんね。
いずれにしろ、話しかければいいだけじゃん、馬鹿じゃねーのと言われるだけです。
私が死ぬ前に貴方が会いに来てくれることを信じます。
本文
N氏の葬儀に至るまでの1年間に様々な工作をされていました。
前編に書いた、偽装査問事件、探偵興信所に捜索依頼事件もこの期間に貴方が仕組んでいましたね。
N氏の闘病中から既に、私を組織から遠ざけて、裕子女史と会わせないように仕向け、興信所に依頼させて混乱を引き起こそうとしていた事になります。
K氏折伏来北スキップ事件が、流石に体裁が悪いと考えたのではないのですか?
私が揃えた来北条件と功績を失効させる為に動いていたと思います。
まあ、功績と言ってもN氏がお膳立てしてくれたK氏折伏の功績ぐらいのものでしたが、この10年間で家族親族以外を折伏した例を見たことないんで、かなり目立つ出来事ではあったのだと思います。
貴方としては、そのまま功績があるとして放置しては置けなかったのだと思います。
N氏が「裕子病院の階段を駆け下りる事件」の時に、私が裕子女史を追うのを止めたのも裏でこういうマイナス工作を貴方が行っているのを知っていたからだと今は思っています。
父親が偽装査問工作を仕組んだり、興信所へ捜索させて偽情報を掴ませ混乱に陥れようと企画している時に、父親の影響を受けている裕子女史の人格を何度も会って知っているN氏が、今は反作用が起こっている時だから、会ってもぶち壊しになるから、やめておけと止めたんでしょうね。
で、この反作用工作期に貴方が言っているとN氏から言われた重要な言葉があるんです。
それが、何度も話に出している「裕子に人並みの幸福な人生を送らせてやりたい」という貴方の発言でした。
K氏折伏スキップ事件時が42でした。
裕子女史が「もう子供は出来ないかもしれないじゃない」とN氏を通じて伝えてきたのが44ぐらいの時です。
N氏の癌発覚が45の時だったと思う。
上記の貴方の発言を聞かされたのも45の時だと記憶しています。
偽装査問事件も45の終わりころの事でした。
この流れを見ると、娘の裕子女史は既に健康的な出産限界年齢を過ぎて、ようやく自分が子供を持てないのだと気づき始めていた事になる。
貴方は、K氏折伏スキップ事件の後に、なんとか裕子女史から私を引き離して娘を人並みの幸福へ導いてゆこうと動いていたのではなかったか?
来北させるつもりなら、ただ、娘に私と会えと勧めるか、話かけさせろと勧めるか、もしくは貴方が私と話をするだけで済むことなんで、私を貶める偽装査問事件とか、混乱を生じさせる興信所依頼のすすめ事件をわざわざ起こしたのは裕子女史に別な道を歩ませようとしていた事になるからです。
まあ、私みたいな輩はどうしても気に食わんという感じで、K氏折伏スキップ事件も起きたと思うんで、その後も同じ流れで切り離し工作が続いてゆくのも当たり前と言えば当たり前ですね。
しかし、父親として娘に対する義務と責任を果たす為には、気に入らん私を貶めて、切り離しただけでは足りないと思いませんか?
最近、コンビニのレジ待ちしている時に前に並んでいる小学生2人組が、なんか田中角栄の話をしているんですが、何者なのか全くわかっておらず、格闘家のおっさんだろうという事でまとまっていたのを見ました。
今の20代ぐらいから、もう田中角栄を知らないんですね。
私の世代なんかだと、小学生時分は田中角栄の物まねをする事がまだありましたから隔世の感を禁じ得ない。
今でもYouTubeで田中角栄を検索すれば必ず出てくるだろう、名シーンを真似してたのを憶えています。
たしか「あの田中角栄の日本列島改造論なんてダメだ! …… ダメだダメだと言うな! それよりいい案を出しなさい!」
あと続けて「まー、そのー」というのをだみ声で真似するんですね。
とくに「ダメだダメだと言うな! それよりいい案を出しなさい!」というフレーズを強く記憶していますね。
角栄のこの演説をそのまま貴方に聴かせてあげたいですね。
私がダメだと思って貶め切り離し工作をするのは流れとしてK氏折伏スキップ事件を起こしているくらいなんでおかしくはない。
裕子女史の年齢とかを全く考えてはいない暴挙だと思いますが、当の本人がようやく自分が出産限界を超えた事に気づいていたぐらいなんで、親とはいえ、同じ血が流れている父親の貴方も、その辺なにも考えていなかったのではないでしょうか?
前編に書いたとおりに、自分の置かれた境遇を正確に認識できないタイプなんだと思います。
父親として、私だけはダメだダメだという心理は、世の父親の半分ぐらいが持つ可能性がありそうですしね……。
(まあ、45の未婚の娘の事となると話は別で、逆にぜひにもという買い手市場に普通は変化するはずなんですが…。)
当時の貴方に指摘したい失敗は「それよりいい案を出しなさい!」という風に対案を出さないのに私を否定していったことです。
私を否定して切り離し工作をするのは、33歳までの娘を持つ父親の行動としては間違いでは無いと思います。
しかし、上記の工作が行われたのは裕子女史が45の時の話です。
一般に45から内向的な女性が自分で結婚相手を見つけて来たり、丁度良い歳の男性から求婚されるという可能性は著しく低いと言えるのではないでしょうか?
裕子女史の性格を考えると、新たに自分で相手を見つけてくるような外向性は当時、間違いなく無かったという事には貴方も同意すると思います。
(今もですが…。)
既に貴方の斡旋で同志医師に嫁ぐのか、来北してうちへ嫁ぐかの2択しかない状態だったんです。
貴方が娘を人並みの幸福へ導くには、どちらかを選んで後押しするしかなかったのだと思いますよ。
K氏折伏スキップ事件とN氏老人長就任事件、偽装査問事件、興信所依頼のすすめ事件で私を遠ざけようとしたのですから、おのずと残された同志医師に嫁がす工作を選んだ事になるでしょう。
それなのに、貴方は裕子女史に相手を見つけてこなかった。
これは、見つけられなかったという事でないのは、各種著名人来訪工作を実現させた実績でもって証明されると思います。
T氏一行という、組織内の高位役職陣を動員出来ていたのだから、神奈川県内の妻に先立たれた独り身の天才内部外科医を探し出す事など朝飯前の事。
さらには組織内での会員同士が組織の仲介で結婚するケースの数の多さを考えれば、体裁を損なうということも無い。
貴方はなぜ、同志医師を裕子女史に会わせなかったのか?
裕子女史が私がいいと言っていたからなんですね。
こう書くと、余程好かれて好き好き大好き状態でいるように思ってしまいますが、前編に記したとおりに、私が一番、同級生同志勢の関心を集める効果があると言うだけなんですね……。
普通の愛情であるのなら、35年も会わずに距離を詰めずにいるなんてことありえませんよね。
私は、裕子女史にとっては会わずに35年も難癖をつけ続けて、周りから拍手喝さいを得られるという、最高に都合の良い男なんです。
が、実態はそんな感じでも、貴方が父親として取るべき責任を果たさなかった事を肯定できるものではありません。
貴方は自分の娘に人並みの幸福な人生を望んでおきながら、与えられた2つの選択肢のどちらも放棄してしまった。
裕子女史が同志医師を拒否するのであれば、私の所に来るしかないのだから偽装査問事件や興信所捜索依頼事件のような、マイナス工作を即座に破棄しなくてはならなかったんです。
私を否定するのであれば、強制的に裕子女史を同志医師の元へ嫁がせなければならなかったんです。
途中で、私でも良いと考えを変えたのなら、貶め工作を全て中止してすぐに裕子女史と私を会わせなければならなかったんです。
貴方はN氏の闘病期から死に至るまでの期間に於いて、過ちを犯して悲惨な境遇に娘と相手の私を追いやり、娘の為にいろいろ尽力してくれた同志の葬儀に際して不義をはたらいて終わっている。
解説
※ここは非常に重要な所です。
よく読んでください、お義父さん。
再びお義父さんと呼ばれる筋合いわないわと叫んでそうですね…。
貴方の犯した失敗を誰にでもわかるように書いてあります。
貴方が取るべき責任は完全に嫁(い)き損ねた娘をどこかに強引に嫁がせてやる事です。
彼女の本音をよく見極めてください。
35年も私のような雑魚キャラを殺すために関わっているほど貴方の娘は愚かではないでしょう。
裕子女史の本音は私の所に来たいというものです。
本文
この発信は勉氏への書簡と題して書いているんで、貴方の犯した過ちを指弾するような内容になってしまっていますが、前に書いたとおりに、過失割合で言えば私が65%、貴方が残りの35%の責任があると思っています。
私の指摘を読んでいると、K氏折伏スキップ事件が決定的に裕子女史に致命的で回復不能な転落をもたらしていて、その後の偽装査問事件や興信所捜索依頼事件期の私への失墜切り離し工作で、残り少ない人並みの幸福な人生を送るチャンスをほぼ失っている事に気づくと思います。
実際、貴方の失敗が今の悲惨な境遇を招いた事は事実だと思います。
では、何故に私の過失割合の方が多いのか?
貴方は私よりも守るべき人、家族が多いからなんですね。
妻子3人に加えて、孫娘と姉旦那氏で5人。
貴方と母氏に兄弟がいるのか知りません。
貴方はおそらくは親類の中でも出世頭になると思います。
いろいろ相談を持ち込まれていたりしていたのではないでしょうか?
次々に現れる案件全部に、満足行く結果を出せる人間なんていませんよね。
裕子女史は次女ではあるが、家族の誰に起こった問題を優先して対処してゆくかと序列を作るわけにもいかないだろうし、起きた順に手を打って行ったのではないでしょうか?
特に貴方にとっての私などは、間に裕子女史がいるから関係があるだけなんで主戦場ではなく、外周の僻地の紛争みたいな感じで捉えていると思うんです。
N氏の葬儀などと苦情申し立てた所で、貴方にとっては親族の葬儀や組織や仕事上の葬儀も複数ある中の一つの案件でしかない。
この辺を、きちんと認識しておかないと身勝手な難癖をつけているだけに終ってしまう。
代わって私はと言えば、守るべき家族は仮想配偶者の嗜虐メンヘラを除けば、2人に過ぎないし、しかも私の働きで養っているという事も全く無い。
私の働きで守っているという事も全くない。
逆に貴方の威光に守られている事の方が多いのではないでしょうか。
知らんけど。
多面的にとらえる必要があって、ある面で見ると65対35だが、上記のような側面がある事を考慮に入れれば100対0で全部、私が悪いと言ってもいいと見れる事もある。
さらには、姉夫妻とよもぎ嬢という一家和楽と成功を実現させた家族が身内にいる事で、私などの転落を極めた場所から、何を指弾したところで、無意味な事になる。
貴方でなくとも、誰であれ聞く耳持たないでしょうね。
どんな物事にも、成否、勝ち負けはつきものです。
ただし、完全無欠の勝利というのも無い。
勝利という日の当たる部分の裏には、必ず影があるもんです。
貴方にとって姉夫婦の人生が日の当たる部分で、裕子女史がその影みたいな感じですかね…。
しかし、世間の家庭では兄弟の片方が影となりもう片方が日を浴びる為に生きるというような面倒くさい事は行われてませんよね。
2人兄弟なら2人とも人並みの幸福を掴む努力をして、なんとなく日の当たる幸福を手にしているのが大半ではないでしょうか?
それは影の部分の負担を親が自ら背負って、子供には日の当たる場所へ行かせようとするからだと思うんです。
儒家と法家の対立みたいなものとは違いますが、親の立場での人生の成功を定義するとして、兄弟の子供の片方を犠牲にして、もう片方を生かし日を浴びさせるという方法で親が自分の人生を成功者、勝ち組だとするのは冷たすぎる。
そんなにメンツや体裁ばかりに囚われるほどの地位にいるのでしょうか?
貴方は引退しても、以前の立場での体裁の幻想を見続けているように思うんです。
貴方の存命中に貴方が自分の中で体面を守れたと思っていても、このままでいると貴方が旅立った後に残されるのは、年老いても未だに独身で、私に嫌がらせを続けている裕子女史の醜態なんです。
周りの同志達は次女が老醜やさぐれているのを見て、貴方を想いかえす時に肯定的に捉えてくれるのでしょうか?
良く思う人はいないでしょうね。
裕子女史を今、人並みの幸福への道へ立たせてやらないと、後で貴方の体面も崩壊するという事です。
親子は死ぬまで、やはり親子のままだと思います。
親はいつまでも親でいて、子が60過ぎても親から見たら愛しい我が子。
貴方がどのような家庭環境に育ったかは分かりません。
いろいろあるのかもしれませんが、普通の関係であったなら、貴方の父母も貴方の為に犠牲になる事を厭わなかったと思います。
全てを失う可能性があろうとも情で判断を左右し、情動的な方が悔いの残らない生き方と言えるのではないでしょうか?
幼少期の裕子女史との思い出を考えてみて下さい。
今は孫のよもぎ嬢もいて、守るものも増えてしまってはいるでしょう。
しかし、よもぎ嬢には姉夫妻という両親がいて旦那側の祖父母もいます。
裕子女史には貴方と母氏の二人しかいないんですよ。
解説
これも読み返してくださいとしか言いようがない。
そして、一番重要な所だと思います。
裕子女史には貴方と母氏の二人しかいないんですよ。
で、このままの状態を放置して去ると結局の所、貴方は悪い評価を受けて永遠に語られて行く事でしょう。
これを忘れないようにしてください。
本文
ここまで書いて、次の日、壮大な反作用工作が行われた模様をTwitter発信でご覧ください。
今日は出かける時に当地安価勢が7、8人待っているという未だかつて無い多重嫌がらせシフトを組まれていた。 まあ、やられるとは思っていたが、今まで2人だぞ…。 15年間最悪の日よりも悪い。 今日が史上最悪になりそうですよ。 安価勢多数配置を見ると貴方一家から、制裁指令が出ているのでしょう?
それやっているから、話しが先に進まないんですよ。 それにしても、安価勢のうれしそうな事といったら…
基本、貴方からの指示が出ていると考えています。 そういう権限を維持しているのでしょうが、先の事考えて一段高い所から計画的に行動していただきたい。 ここで大ダメージ受けると発信妨害してるのと同じことになります。 時間が無いのだから、同じ目線でいないで下さい。
史上最悪の超損害確定した…。 これどう始末つけんだよ。 まあ、勉書発信か対抗勢力への言及に対する制裁なんだろうが、勉書に関しては公平な正論しか述べていないでしょう。 対抗勢力については、貴方一家は10年前の昔から、マッチポンプ式に私を貶める為に、なんかしら関係がある的な事を吹聴してる
のは薄々分かっています。 実際はバイト仲間に1人いたのとH市で政治的な抗議を受けた時に助けてもらっただけで、全然関係ないの知ってんでしょう。 裕子女史が私と会うのを恐れて難癖つけて貶めにかかってくるのと同じ事。 その茶番劇をやめてくれないと、だから話しが進まないんですよ
貴方、今、裕子女史を 見に行って下さい。 安価勢のあの高揚感と幸せそうな顔を見て、裕子女史も興奮してるのを見る事になるはず。 35年間、何のために、私を相手にして来たか一目瞭然となるでしょう。 彼女は私をダシにして周りの注目を集めたいだけなのが丸わかりになります。
しかし、今日は機材の点検が来て、契約の更新をしないよう勧められて継続しなかったんですが、あれも仕込みか? 一日で4人しか来なかったぞ…。 廃業強制が始まっているんだろうな… 貴女、おそらく廃業のここで自滅確定させる事になるだろう。 自分でやった事だから人のせいにしないでくださいね
15年間どころか、20代後半からだから、25年間最悪の超損害になりますよ。 裕子女史は、気が弱い女なんで、20年間最悪はやれないだろうから、貴方の仕業で間違いない。 35年も続いたわけわからん話しが遂に終わる時が来ている感じがします。 まあ良くない方で決着するんでしょうね… そんなに私と会うの嫌なんですかね?
2023
1FRI6C1
1SAT7B1
1SUN8B2
1THU12D5
1FRI13B1
1SAT14C5
1SUN15C5
1THU19C1
1FRI20B1
1SAT21C5
1SUN22A2
1THU26D4
1SAT28B1
1SUN29C4
2THU2B2
2FRI3A1
2SAT4C3
2SUN5B2
2WED8C4
2THU9D1
史上最悪の巨額損失を与えられて、帰宅するなり、また内破系最強照射されて発信妨害されている。 貴女、完全に狂ったか? 早まるなよ。 言っても聞かないんだろうけども
続けて眠り系で4時まで眠らされました……。 帰り道に片目ライトと安価カーが現地で待機させられていたから、やはり貴方の仕業で間違いないでしょう。 昨日、H氏が地区報を投函して帰っていて、御書講義をネットで見ろと走り書きしてありました。
まあ、貴方批判に対して御書を引いて正したい貴方の差し金で来たんだと思います。 で、交通費、光熱費、廃棄損害と合せて1万ぐらいは支払って帰ってくるという、史上最大の超赤字を食らいました。
まず御書を引用して反駁したいのなら、貴方が私に直接するべきですね。 貴方の世代が対話から逃げてしまうと、下の世代はそれを見て同じように逃げてしまう。 宗教の原点は識者からの悩める人へのアドバイスみたいなものでしょう。 貴方は私と会えないと遠回しに、伝えているのでしょうか? すぐに
裕子女史に同志医師を引き合わせて下さい。 K氏折伏スキップ事件にしても、その後の誹謗失墜工作にしても、父親としてやってしまう気持ちはなんとなくわかるんです。 ただ何を批判しているかと言えば、代わりの相手を用意しないで、貶め工作だけで終わらせてしまう貴方の不手際について批判しています
で、このレベルの損害を受け続けるとすぐに廃業を決定します。 裕子女史に乗せられているのでしょうが、これはいつものマッチポンプ技なのなんでわからないんですか? K氏折伏スキップ事件時に○○波と低迷工作で仕事を回らなくして、それをあげつらって来北出来ないと主張し始めたのと同じ行動。
裕子女史的には、廃業期の混乱と新たな仕事を始めるまでの時間を来北から逃げられるという狂った思考でいる事でしょうね……。 しかし、ことごとくヘタ打ちますね……。
こんなん俺の手にはおえんやろ
解説
これ、もう先々週くらいの最近の話ですね。
商業支援開始から20年経ちますが、最大の損害を受けたのがこの日なんですね。
まあとうとうクライマックスを迎えているという臨場感みたいなものが物凄いですね。
貴方のことだから、来もしないTI解除もしないという結果になる可能性が一番高そうです。
しかし、ここで来ないと裕子女史を潰して滅ぼしたのは貴方という事になります。
注意してください。
結局、人間の選択なんて地の蟻が右へ行くか左へ行くかを選び取っているぐらいのもので、雨が降れば群れ全部が流されたり、落石でも落ちてくれば、巣全体が消し飛ぶことだってあり得ると思います。
自分の娘の悪事を正せずに、貴方自身も一緒になってやらかしたりすると、良くないものを引き込みます。
本文
だが、35年関わっていると分かるんですが、貴方が同志医師を連れて来ても、そこに嫁ぎはしないでしょうね。
私を死ぬまで〇○○○○〇するでしょうね。
伏字は貴方一家と裕子女史の来北を前提に関わる事に決めた時に、いくつか絶対、公には口には出さないと決めた言葉の一つです。
外にもいろいろ禁句を決めたんですが、全部、裕子女史が傷つくだろうと思って生涯、口にはしないと誓いを立てています。
これは私が裕子女史と完全に離れて生きて行く事になっても続くものです。
関係ないとなっても、35年はいろいろあったから、そこで誓いを翻すようなマネも出来ないでしょう。
私、この辺は、全般にいかれていそうでいて、まともなんですね。
で、貴方が同志医師と引き合わせてもそこへは嫁がないでしょうね。
私は知りませんが、実は貴方は裕子女史に何度か見合いをさせていたんじゃないですかね?
K氏折伏スキップ事件は裏でそういう動きがあったからだとしか思えないからです。
貴方がいかに現役時代に力を持っていたとしても、あれだけ何人もの同志達の協力を得て実現へ邁進していたK氏折伏を成功させたのに、そこから貶め工作へ移ると、流石に協力していた同志勢から恨まれたりするでしょう。
そういった周りの目もあるし、何も次の手を打たなかったというのは考えにくい。(それに対してのN氏の壮年長昇進だったのでしょうが。)
貴方は現実世界を生き抜いてきたから無為無策という事は無かったでしょう。
で、裕子女史はそれを蹴り続けて今がある。
同志医師の所へ行ってくれれば貴方も一番いいのでしょうが、断り続けて50過ぎてしまっている現状を見れば行かないのは明らかなのではないでしょうか?
当時も一度断ったのなら、その時に本心を察してやるべきだった。
それでいて今でも私の所へ来る気も無いんです。
ひと手間かけてやらないと動けなくなっているんですよ。
裕子女史的には一番快感を得られるのは、私の非をあげつらって、だから自分はあいつと会う事もできないのよと喧伝し、周りの同級生同志と取り巻き達から注目と同情を得られている状況なんです。
しかし、その茶番劇マッチポンプ技が通じたものK氏折伏スキップ事件時の42まで事で、残念ながら、その後は冷ややかに裏で愚かだと蔑まれていたでしょうね……。
普通の社会で働いている40代の人間がその程度の茶番を見抜けないわけが無いからです。
それじゃあ裕子女史が断るんだから、だれの責任でもなく裕子女史自身の落ち度じゃないかと言われるでしょう。
それが違うんですね、前述している裕子女史の本音本心である「誰か何も言わないでも仲を取り持ってほしい」という想いを汲み取ってあげなければいけなかったんですよ。
メンヘラの本音など分かるかボケ!と言いそうですが、当時42とはいえ、内容は30ぐらいの発達不全の裕子女史の事なんで、思春期の女性と同じ括りで考えてみるべきだったと思うんです。
一番わかっていただろう母氏と姉氏が貴方に助言できなかったのは、貴方が強い父権、家父長制を強いていたからだと思います。
母と姉の真摯な助言を封殺してしまった。
裕子女史は貴方の娘を想う慈愛の心を信じていたが、達成されなかった。
家族の忠告を封じていながら、裕子女史の本音を見抜けなかった貴方に非があるんです。
解説
裕子女史と縁があり、いくつか言わない事に決めた事が有ります。
当初は私はどうでもいい事だと考えるんで普通に周りにも話していたんですが、最近ですよね、言わない事にしたのは。
50近くなって、相手の話を聞くようにもなりました。
ようやくまともな大人に近づいているような気がします。
だから、会うのに一番いい時ですよ。
で、裕子女史の本音を解析する文章が始まり
それでいて今でも私の所へ来る気も無いんです。
ひと手間かけてやらないと動けなくなっているんですよ。
裕子女史の本音本心である「誰か何も言わないでも仲を取り持ってほしい」という想いを汲み取ってあげなければいけなかったんですよ。
家族の忠告を封じていながら、裕子女史の本音を見抜けなかった貴方に非があるんです。
↑これがお義父さんの失敗ですね。
再び「誰がお義父さんやろうがむん!」と聞きなれない下関地方の方言で叫んでそうですね。
本文
私が貴方に求めているのは、会って話をして欲しいという事だけです。
○○波等の加害機器の全廃や商業支援についても書いていますが、それは前述の通りなんで前編後編を読み返してください。
端的に言えば来北の障害を除くために訴えているものです。
前述している通りに加害機器で危害を加えられ続けていると、裕子女史自身が報復を恐れて萎縮してしまい、逃げ口上の捏造に走って来た経緯があるからです。
商業支援は、これも私の仕事の低迷を逃げ口上として来た過去があるから、ある程度の業績を維持していなくてはならないんです。
これを書いて次の日から第2次反作用工作が始まっているのが分かるんですが、そこまでして私と会いたくないんですかね……。
勉氏へのこの書簡も1年かけて書いているし、物凄い超難事業に挑んでいるかのように見えますね。
しかし、実態は恐ろしく高い山へ挑んで、頂上に旗でも立てて来いと言うようなことでもなく、絶海の孤島に裕子女史のメンヘラの特効薬を取りに行けという荒行でもありませんよね。
残念ながら、このひと手間が無いと裕子女史と会う事は叶わないと分かっているんで、私と会って話をしてくださいというだけの事なんです。
相手と話をするのって、全然難しい事なんかじゃありませんよね?
逆に貴方の立場になって考えてみたら、話をする事、面と向かって立つ事すら逃げる心理が理解できるかと思って、何度か考えて見たことがありました。
が、基本理解できない。
自分の娘が嫁(い)き損ねて50過ぎているのに、35年間事実上追い続けている相手と話もしないという行動が理解できないんです。
35年も関わっているのなら、もう話してもいいでしょ?
普通はそう考えると思います。
けれどもこれは、私しか相手がいない場合の話。
で、貴方が内部でも高位にいる同志や同志医師を見合い相手として紹介できる立場にあると仮定したらどうか?
前述の通り、T氏一行や若手幹部勢を動員できるという事は、彼らは全国幹部だから、それより狭域の神奈川県内組織の高位役職者を連れて来る事も可能でしょう。
そういう視座に居て私を見ると確かに同志医師や高位役職者の方が何もかも優れて見えてしまい。
見劣りする私はどうしても避けなくてはいけない相手として認識してしまう。
貴方が35年も私と話をしなかった理由の半分はこれだと思いますよ。
しかし、貴方のこの逃げ口上に裕子女史の年齢という要素を加味してゆくとどうでしょうか?
K氏折伏スキップ事件時の42で考えて下さい。
一般的な常識で考えると、もう遅すぎる春みたいな超買い手市場で裕子女史が、えり好みしている場合ではない状況で間違いない。
けれども貴方の威光で内部同志勢という売り込みで何とでもなる嫁ぎ先が山ほどあった。
この時点では、まだ1年ほどの短い時間ですが、出産も運が良ければ可能だし、内部見合い相手を説き伏せて嫁がせることも難しくはない。
しかし、裕子女史が内部見合いを全部蹴っていたでしょう?
だから今があるのだと思います。
今、50ですが、42の時とは事態が一変している事にお気づきでしょうか?
出産も現実的には不可能となり、まず内部見合いでも相手方から敬遠されてしまう場合があると思います。
同志医師や高位役職者であればあるほどその傾向が強くなるはず。
跡取りで墓守が途絶えてしまうのを避ける、当然の選択ですよね。
この境遇に至るまで、裕子女史の本音を汲み上げずに、私と話もせずに第一次反作用工作に及び、離間させておきながら、同志勢の元へ強引に嫁がせもしなかったのは完全な失態と言えませんか?
何故話が出来ないかに戻りますが、貴方は未だにそれなりの同志勢へ裕子女史を嫁がせる構想を持っているのではないでしょうか?
そう考えると第一次反作用工作期とK氏の他界後にも、一切、接触してこなかった謎が解けるような気がしています。
貴方がそういう心を持っていると、この勉書発信を書き終えても会いには来てくれないでしょう。
すぐに挑戦してみて下さい。
妻に先立たれた子持ちの同志医師や高位役職者を探して来て何度も見合いでもさせてみて下さい。
まんざらでもないというような感じだったら強く後押しして見ればいいと思いますよ。
もしかしたら、すんなり結婚して、案外人並み以上に幸福になるやもしれませんよ。
あとは裕子女史が断る場合もあるというか、十中八九は断るでしょう。
が、これも本音を見極めてホントに断りたいのか精査しなくてはなりませんね。
よく母氏と姉氏を呼んで3人で話し合うべきでしょう。
女性なら裕子女史の本音を見極める事が出来るはず。
2人がダメだと言ったらダメだし、押せば嫁ぐと判断したら強引に嫁がせたほうがいい。
やってダメなら、もう選択肢が私しかないのだから、私に会いに来てください。
いつまでも選択肢がいくつもあると想定していると貴方は動かないだろうから。 すぐに内部で相手を探して見て下さい。
解説
この辺も重要な事がかかれていますね。
説明不要。
誓願の章はそのまま受け取って欲しいですね。
本文
この工作が今現在も続いているという事は、まだ裕子女史的に出産をする気でいるという事に見えますが、実はそうでもないんですね。
まあ、50以上で出産というニュースをネットで見たことありますが、インドの65歳が突如出産とか、米歌手が55歳で衝撃出産とかよく見ますよね。
ああいうニュースって、その後、生まれた子供の情報が一切上がってこないのは、やはりいい事にはならなかったという意味なんだと思います。
その辺は裕子女史もよく理解しているんです。
内破系照射とTwitter発信でよく書いている○○波の波長があります。
下腹部、特に生殖器に激痛を与える波長なんです。
この○○波の照射加害には被害者世界で諸説飛び交っていて、○○波の波長には、体の各部位に影響を与える強さがあり、例えば出力2が頭通で、4は関節痛、7は腹痛と言うようにそれぞれ一つの機材で対応させることが出来る説と、それぞれの部位ごとに何とか線とか○○波とか機材を別に使っている説もあったりいろいろ言われています。
私は一つの機材で出力調整して各部位に合わせている説で述べて行きます。
内破系照射を一番初めに体験したのは8年前ぐらいでした。
普通の頭痛を催す波長を当時使われていたんですが、2回ぐらい20分ほど試験的に内破系の照射をされた事が有ったんです。
当時は、あまりの激痛にこれやられると生殖機能を破壊されるんじゃないかと思い、痛がっていると悟られるとさらにやられる恐れがあるんで発信もしないし表に出さないようにしていました。
そういう対策もしていた事もあってか、普通の頭痛誘発○○波しか使われなかったんです。
もう一つ、普通の○○波しか使われなかった理由があったと思います。
裕子女史的にもまだ出産の希望があったんで私の生殖機能にダメージを与えるのを避けていたんですね。
今現在は毎日、内破系照射9割に頭痛誘発系1ぐらいの割合で○○波の被害に遭っているんで、隠す必要もなく公開しています。
内破系照射が生殖機能を破壊すると上記しましたが、ホントにそういうものなんです。
私の運がよほど強力でかわしてくれていないと既に破壊されているんでしょうね……。
こういう業の深い事すると物凄い危険なのにね……。
で、この内破系照射主体の加害が始まったのが、N氏が亡くなって間もなくだったと記憶しています。
45ぐらいの時ですかね。
ある日を境に内破系に切り替わりました。
裕子女史の心の中である変化があったのだと思っています。
自分の出産をあきらめた瞬間があったのだと思います。
そして、相手の私の生殖機能を維持する必要が無くなり、工作人員へ内破系照射への切り替えを指示した。
まあ、残虐性とか倫理的なものとかいろいろ指弾するべきでしょうが、前述のとおりに別文化圏を構成している人なんで、なんとも思っていないのだと思います。
裕子女史は幼い時から、その教育を受けてきているんで、真面目な話、なんの悪気も無くやらかしているんです。
この辺について、彼女を悪く思わないようにしてますよ、前編後編に書いている通りに貴方の軛の元でコントロールされていて彼女自身の意思ではないと考えているからです。
本章冒頭部に戻ります。
なぜ自分の出産もあきらめて私の生殖機能へもダメージを与えておきながら、障害児の出産への危惧を工作で伝えようとするのか?
これも実はいつもの逃げ口上に過ぎないんです。
周りへ向けて、障害児出産への危惧を来北への逃げ口上として打ちだしているだけなんです。
この工作はおとついの2023年の2月12日の話です……。
50面下げて、いまだにこんな事やっているんですね。
こういう事は貴方からは人間的に似すぎていて、灯台下暗し的に見えないのだと思いますが、こうして指摘しているのだから、すぐに裕子女史と話合って下さい。
青汁販売の成功とかを並行してやって行けば、今の科学技術を持ってすれば金かければなんかの方法をあるかもしれないし、私はトラックと巨トレーラーに轢かれて生きてまっすぐ歩ける状態でいるし、人運も普通じゃないでしょう、強運の男なんで奇跡も起きるかもしれませんよ。
つい先日、鉢植えの花をいただいたんで、ずいぶん派手に咲くもんだなと感心して眺めた次の日が休みなんで日の当たる場所に移して、あまり水をやってはいけない花だとの事でほんの少しの水をやって帰宅しました。
な、なんか、か、枯れちゃってんじゃん……。
休み明けに日の当たる場所へ行くと、ピンピン立っていた花の茎がドロンとざるそば状にしなしなにしなだれてしまっていて枯れかけてしまっていたんです。
これは困ったなと、とりあえず水を沢山やってみたものの全然回復する様子がない。
しかし、もらいもんを3日で枯らすとは…
大体1週間ぐらいは何もしないでも持ちそうなもんを3日で枯らす方が難しいような気がするし…。 どういうことやねんと。
すぐそこの花屋さんで買ったものなので、贈呈主が花を見に来る前に同じ花を買ってすり替えて隠蔽するかと思案を巡らしていました。
そうしているうちに謎の老人が訪れ新聞紙で巻いて支えを作ってやると回復すると教えてくれたんで、その通りにすると元通りになり、事なきを得ました。
願兼於業の法理と言うのを組織の冊子で読んだことがあります。
障害とかを持って生まれてくる子には、重要な使命がある的な記述で説明されていました。
病気になる人はその痛みに耐えられるから、その病気が与えられるという話を昔聞いたことがあります。
障害を持った子も使命を果たすのを支えられる能力を持った両親の元へ、生まれてくる気がするんです。
最近、餌いらず、水の交換不要な、ほぼ不死身のポロポロエビと言うのを飼い始めたり、鉢植えをもらったりしていますが、私のような泥ガメの元には障害を持つ子供の方で拒否してやってこない気がしますよ。
子供は普通に考えると出来ないでしょう。
が、来たら来たで、幸せに生きられるように一生懸命努力すればいいんじゃないでしょうか。
深く考える必要ないでしょう。
運命ってそういうもんで、避けようとして避けられるものでも無い。
気負わず、波に乗るように流されていいのではないでしょうか。
とにかく早ければ早いほど有利になるのは貴方も同意するはずです。
もう書き終えるのを待っている的な逃げ口上を言っていると親子そろって逃走癖で醜態を晒している事になりませんか?
すぐに会いに来ていただけることを信じています。
解説
内破系照射の開始が裕子女史が出産をあきらめた時だと指摘する部分です。
これも、そのとおりで、よく女性タレントが夫婦の事をインタビューされて病気や年齢的な事で出産が出来なくなっていると、旦那にもよそで子供を作ったりしないように誓約させましたみたいな話がでたりするんです。
これと同じなんですね。
裕子女史的にはすでに年齢的な事を自覚して出産は諦めています。
ここまでは一般的な反応なんですが、裕子女史の場合は誓約させるのではなく、健康を害して対処するという業が深すぎる行為に及んでいます。
こういう事すると非常に悪因を引き込むことになり危険です。
お義父さんは言っている事を理解すると思いますんで、やめさせてください。
「今度、お義父さんと書いたら、またトラックに轢かしてやろかむん!」と息巻いてそうですね。
で、障害児来訪工作について続けて書いています。
鉢植えも未だに元気に咲いてますが、あれも5月くらいで枯れるのが普通らしいんで早く会いに来ないと見れませんよ。
もし、障害のある子供に恵まれたとしても、あまり気負わずに生きるべきだと書いています。
運命なら避けられないでしょうし、今70億人も人間がいるんですから、障害児だって凄まじい人数が生まれて生きているんです。
何か使命や生きる意味を持って誕生するわけです。
そのまま受け止めてやるしかないのだと思いますよ。
ここで再び、めぞん一刻の最後の方の五代の墓参りシーンを読んでください。
本文
本章で、既に裕子女史が出産育児をあきらめている事を証明しているんです。
いろいろ障害児出産の危惧工作とか、幼児連れ工作とかは、まだ子供を持つ気でいるという意思を偽装しているだけなんです。
貴方はこの事実を知って、父親としてどう思うのでしょうか?
50でもまだ1%くらいの可能性があるぞと言うのか?
現実的には無理だから、他の養子をとるとか科学技術で試験管の中で子供が出来るような方法を探すべきと勧めるのか?
私も35年間、貴方の行動を見てきているので予想すれば、何も言わずに裕子女史本人の意思で、裕子女史が自分で孤独死街道を進んだという事にして終わらせるのではないでしょうか?
貴方も80年以上生きて同志勢や外部の人達の無数の人生とその帰結を見てきたと思います。
因果応報的に、行いに対する相応の結果が出るから責任とるべきだと月並みの話をしても仕方ないと考えています。
人を何人も殺めているような極悪人だって、極悪なままで、裕福なまま家族に看取られ大往生することだって普通にあるし、超善人で誰からも好かれる良い人が、極貧の孤独の独り身で物凄い痛みの中で死んでゆくことだって現実には有りますよね。
極悪人をやくざの親分として考えると、何人も人を殺した事が有ってもその世界のルールにのっとった上での結果として出来事。
詐欺で年寄りから老後の資金を巻き上げたり、何の罪もない人を殴りつけて脅したりしても、それはその世界の決まりの中での話。
外に対しては無茶苦茶だが、内側の家族や子分に対しては慈愛の心で接していたりして、そういう場合、裕福なまま大往生しちゃったりする気がしますよね?
闇米は食わんと杓子定規を厳密に守る裁判官でいて、(闇米拒否餓死裁判官で検索)物凄くいい人で、誰からも好かれていながらも、全てに公平で、家族も他人も平等に扱う。
外から見たら凄い偉人のようでいて、この場合、家族から見たら愛情に薄い良く分からない人と映る。 家族は飢えてひもじい思いをし続けている。
こういう人は元から家族を作らないか、いても離れて行ってしまったりするのではないでしょうか?
両方、極端な例なんでそんな奴、現実におらんやろという感じですが、もうちょっと中間の職業や立場を想定すると、そういうのあるよねという事例が見つかるかもしれませんね。
まとめると家族だけは大事にして幸せに生きられるように努力するべきだと思います。
60億人、70億人も人間がいればそれぞれ全く違った人生があります。
人一人が関われる人数にも、限りがあるでしょう。
その人の能力でも数が違ってくるし、家族の数でも2人家族と大家族では触れ合う数が何倍にも差が出てくる。
関われる人数を守れる人の数と言い換える事も出来るのではないでしょうか?
そうなると、誰しも守れる人、守らなくてはならない人が見えて来て、自分の立っている場所を認識したりすると思っています。
私がその守るべき人達と規定するのは老母と兄弟。
この二人は親兄弟ですね。
あともう一人いて、貴方の次女裕子女史なんです。
親兄弟は分かるが、勝手にうちのメンヘラを混ぜるなと言われるかもしれませんが、14の時から、蛇のように執念深く追われ続けて35年。
老母と兄弟の二人との関係は50年だが、それに次ぐ長さになってしまっています。
二人は血を分けた家族だが、それ以外の人間で最も長く関わって来た人間なんです。
話した事もよく見たことも無い異常な関係だが、世界は広いんでもっと異常な関係なんかいくらでもある事でしょう。
日本でも60年ぐらい前まで、親の決めた結婚相手の顔を当日まで見たことないなんてざらにあったというし、色んな人生がありますよ。
裕子女史を否定してしまったら、亡父と同じ60で身罷るとしたら私の人生の人とのつながりは何も残らない事になるのではないでしょうか?
(逆に裕子女史の立場からも同じ事が言えると思います。)
簡単に言うと、もう腐れ縁も腐れ縁で今更、別個に離して考えても良い結果を生むとも思えない。
私がこの勉書発信で書き綴っているのは、裕子女史と私にプラスになる事なんですね。
で、この書簡の受取り手である貴方の守るべき人達とは誰なのか?
前述しましたが、この人数が私よりも多いから、裕子転落事件における過失割合が低く見積もられているんです。
具体的に書けば、家族の3人、貴方と母氏の親兄弟と姉氏の家族になると思います。
これも前述した通りで、裕子女史以外の人には支えてくれる存在が貴方と母氏以外にも周りにいるんですね。
裕子女史にも母氏も姉氏もいますが、貴方が家父長の権限で押さえつけてしまっているんで、手を出せなくなっている。
裕子女史を救えるのは貴方と私だけなんです。
とりあえず、貴方の立場では、妻子3人の幸福だけは自分の体裁や身を引き換えにしても守るべきだと思います。
貴方を見ていると、御自分の面子や体裁を保つために行動しているんじゃないかと思える時が多々あるんです。
これは裕子女史が50になるまで独身でいるのに相手を連れて来て強引に嫁がせていない事や、35年間に一度も私と話をしていない事で証明できると思います。
裕子女史がこのまま寂しく死んでゆくと、貴方がいかにメンツを保っていたとご自分で考えていても、周りから見たら、父親として失敗しているとしか見えませんからね。
相手を連れて来て強引に嫁がせるか私と会って裕子女史と引き合わせる
上記のどちらかを実行するしか道がないのではないでしょうか?
私と会って、裕子女史と引き合わせてくれる方で書き進めていきます。
前にも書いてますが、誰か同志医師を探してきてそこに強引に嫁がせても私は貴方を悪くは思いません。
裕子女史が終わりよければ全て良しという感じで幸せになれば、それでいいと思っています。
私の役割はきちんと果たした事になると思うからです。
解説
ここも特に重要な貴方へのメッセージですね。
何度も読んでみて下さい。
本文
上記部を書いた次の日、裕子女史的に記述に不満があったのでしょうね。
この地方栓の直前にも関わらず、出かける時に5人以上の安価勢を待機させていましたよ。
業績的にはあそこは元々、あんな感じだから支援はされていたんでしょうね。
が、嫌がらせが多発したんです。
帰宅するなり、最強内破系照射されて昏倒させられました。
裕子女史的に、どの部分が腹の立つ所なのか聞いてみて下さい。
この辺じゃないかと考えています。
・既に裕子女史が出産育児をあきらめている事を証明しているんです。
・14の時から、蛇のように執念深く追われ続けて35年。
・誰か同志医師を探してきてそこに強引に嫁がせても私は貴方を悪くは思い ません。
まあ、裕子女史でなくとも怒るかもしれませんね…。
が、その怒りを相手に伝える方法が裕子女史と貴方一家が普通の世界の人達と違う所なんです。
これは非常に重要な所なんで書いておきます。
内部外部問わず普通、この3点の記述に怒りを覚えたとしたら、どうすると思いますか?
まずは異議を申し立てる、文句を言うんですね。
解決しなければ暴力に訴えたり、訴訟を起こしたりして行く事でしょう。
これは文明社会に暮らす人間である限り、洋の東西を問わず世界中どこでも同じだと思います。
裕子女史の場合は、同志を動員してアンカリング工作を仕組み、不満がある事を仄めかし、壁一枚隔てた上の階の部屋へ来て○○波を照射して、私に激痛を与えて、怒っている事を伝え、記述に対して報復するんです。
どうしてこういう行動に移るのか前に考えてみた事が有りました。
宗教組織のヒエラルキーの傘をかぶせる、前と後での同じ人の行動の違いを比べると分かりやすいと思いました。
普通の会員は普段の仕事中は組織の傘の外に生きているんで、直接会話して外部の上役の指示に従ったり、部下に指示を出したりして普通の世界の人間の行動をしているんです。
しかし、退勤後、仕事の外部世界から外に出ると、行動規範を組織の構成員のものへと書き換えて行動し始める。
今は公務員でも一般の民間会社でも社員が会員である割合が3割に及ぶ所が結構あるそうなんですね。
この仕事の外部世界が、組織の影響が強く色濃い場合は切り替わる転換点が無く、一日中、組織構成員の行動規範で動いている事になる。
裕子女史は公務員ですが、御存じの通り公務員の会員率が高い事はよく知られています。
裕子女史の所属部署はまさにそんな感じなのではないでしょうか。
一日中、組織構成員の行動規範で生きているんです。
よくネットで組織職員幹部が民間の会社員の会員に無茶な指示をすることを指摘する内容の発信を見たりするんですが、これも同じ事で、普通の外部と内部とを切り替えて生きている会員の生活を分からなくなっているんでしょう。
で、貴方も裕子女史と全く同じ組織構成員の行動規範を生きていると分かる行動が散見されますが、これも貴方が現役時代に社員中の会員の割合が非常に多い会社(組織系の会社か会員経営の会社)にいたからなのではないかと思います。
そして、これを裕子女史の異常な仄めかし体質の原因としたい。
しかし、私は内部会員との接触の方が、外部の人よりも圧倒的に多いのは間違いないが、仕事中や外に普通にいる時は普通の人間の行動規範で生きていますよね。
だから、貴方や裕子女史のやり方を見て、上記のように理解はしていますが、私を相手にする場合、私が組織の傘を被っていない時には普通の接触をするべきだと思いますね。
話かければいいだけだろ、アホなんじゃないのかとしか思えないんです。
35年も裕子女史が私の前に立つ事すら出来ないのを肯定するのも、この組織の行動規範のベールに包まれてやんわりと体裁が立つと認識されたからで間違いありません。
組織の行動規範にスポイルされて、弱さを修正できずに破滅の道を歩んでいるんです。
貴女と貴方は異常な事をしているんだから、それを自覚して下さい。
で、普通の世界で通用する行動をしなくては話が先に進まない。
そして前述の通り、周りの同志勢も50で独身の老女とその父親が異常な行動をしているのを見て、肯定的に捉えてなんかいませんよ。
普通の行動を兼ね備えて生きた同級生同志が結婚出産と人並みの幸福を手にしているんだから、貴方一家のやり方は間違いだった事になるのではないですか?
周りもそう思っているが言わないだけです。
この記述に対しても、仄めかしと○○波と報復で返してきそうですが……。
もろに正論を大上段から振り下ろしているつもりですが、聞いてくれないんです、難しい一家でしょ。
解説
ここは裕子女史と貴方の異常行動の考察です。
自分について言われても、あまりにも身に沁み込みすぎていて自分では分からない事ってありますよね?
まさにそれなんです。
お義父さんと裕子女史は、組織の工作とかに従事しすぎて、普通の生活が見えなくなっているんでしょうね。
今度、お義父さんと書いたら絞めてやろうがむん!と叫んでそうですね……。
裕子女史には表向きの建前があり、それを意見として出してくるんです。
貴方父娘の組織の流儀に染まった行動様式とは別に世間一般の価値観が存在するんです。
それを理解して下さい。
本文
上記の次の日、仕事はあの辺はあんなもんだろうという感じで終わりましたが、また店の前にゴミを捨ててゆく嫌がらせと嫌がらせ駐車勢多数が来ていました。
帰宅すれば、速攻内破系照射されて、激痛が走り発信妨害されています。
まあ、いつもの通りということなんです。
で、発信を催促するように、上階からの盗撮内視鏡ワイヤーレンズで内壁を這わせて四方から異音をたてていますね……。
金曜の夜なんで、裕子女史本人がいるか、指示を出しているので間違いありません。
前日の発信と同じく、裕子女史の異常さが良く表れているので書いておきます。
まず、私を相手としているのだから、壁一つ隔てた所に待機していて、私が帰って来るのを待っているのではなく、駐車場の前で昔待っていた時がありましたが、あの時のように見える所で外で待っていて接触をはかってこないと。
貴女、そこで監視スコープかなんか覗いている姿は、周りから見るとアホそのものだぞ……。
独身50女が相手と面と向かって立つことすら出来ずに害基地めいた行為に勤しんでいるなんて……。
このまま、私と対面できず、私が死ぬなり離れて行ったあとで80になり寝たきり状態&孤独死モードにいる貴女は50の今の愚かな行いを涙ながらに悔やむことになりますよ。
上の部屋を持ち主から借り上げて工作部屋とするのではなく、そんな余計な手間暇かける労力を自分の勇気を振り絞るための別なものへ使えよと言いたい。
これが上記の常時組織構成員行動規範を生きる裕子女史の異常行動です。
が、しかし、これを裕子女史の愚かさとしてかたずけてはいけないんです。
こういう行動をしてしまうのは貴方がそれを是認したから、そして、しているからやらかすんです。
私は裕子女史が可哀想だといつも思っていますよ。
貴方、自分の娘の心の叫びが聞こえないんですか?
裕子女史って子供の頃から私に話しかける事ができなかった。
遠くの柱の陰から顔を半分出して覗いているタイプだったんです。
私が話しかけるのをずっと待っているという性格。
歩いているだけで、その歩き姿が蒲田のヤンキー娘の反感を買いしばかれてしまうという、どんな不条理に巻き込まれてんだと言いたい、幸薄さ、運の悪さ。 気の弱さ。
26くらいまで、そんな相手の目が自分を向いてくれるのを待つタイプだった。
そこから、私が手紙を出したり、待ったりし始めるんですが、逆に追われ始めると逃げてしまう。
その後は、人垣の後ろで薄ら笑いをしながら、私へ礫を投げては自分へ目を向けさせようとし続けている。
往年のムード歌謡の歌詞をそのままに
やさしくされると切なくなる
冷たくされると泣きたくなる
この心はざわめくばかりで
追いかけられると逃げたくなる
背を向けられると不安になる
誰より好きなのに
伝えたいことはたったひとつ
ずっと想ってるあなただけを
いつも見てるいちばん近くで
やさしくされると切なくなる
冷たくされると泣きたくなる
誰より好きなのに
彼女は組織の傘から外れて丸裸にしても、公務員だし、真面目な丸眼鏡の地味な女なんで特に生活に変化はないのではないでしょうか?
そういう立場なのになぜ、組織の後援を前面に押し出してくるのか考えたことありますか?
貴方がそれなりの役職に就いていたからですよ。
父親のその威光を利用しようというのではありません。
(今なんか引退してますよね)
信心と組織第一で生きてきた、貴方の気持ちを動かしたいからなんです。
ずっと貴方が力になってくれるのを待ち続けているんです。
で、50になった今も引退した貴方の活動家時代の威光に縋っているかのように振舞っている。
これって、もう貴方が仲立ちしてくれることを待っているとしか思えませんね。
現在はもちろんですが、15の時からの話ですよ。
35年間、貴方が仲介してくれることを待っているんです。
なんでわからないんですか?
解説
そのままコピーを貼ります。
勉書全部の中で一番お義父さんに伝えたいのがこれなんです。
理解したと思うまで、必ず繰り返し読んでください。
これを貴方に伝えたい。
その為に1年間書き続けてきました。
彼女は組織の傘から外れて丸裸にしても、公務員だし、真面目な丸眼鏡の地味な女なんで特に生活に変化はないのではないでしょうか?
そういう立場なのになぜ、組織の後援を前面に押し出してくるのか考えたことありますか?
貴方がそれなりの役職に就いていたからですよ。
父親のその威光を利用しようというのではありません。
(今なんか引退してますよね)
信心と組織第一で生きてきた、貴方の気持ちを動かしたいからなんです。
ずっと貴方が力になってくれるのを待ち続けているんです。
で、50になった今も引退した貴方の活動家時代の威光に縋っているかのように振舞っている。
これって、もう貴方が仲立ちしてくれることを待っているとしか思えませんね。
現在はもちろんですが、15の時からの話ですよ。
35年間、貴方が仲介してくれることを待っているんです。
なんでわからないんですか?
本文
本章、冒頭のプリウスミサイルの老人は70代と言っていました。
70代で認知機能が著しく低下してわけわからなくなる事もあるんですね。
と言うよりも、一昔前の70代って今の90代みたいなヨボヨボ老人の扱いでしたよね。
医療技術が向上してなんとなく若く居られるようになったんだと思います。
昨日なんか、元大臣が日本は90代も働ける社会にすべきだ的な事を言ったとか言わないとかいうネットニュースを見ました。
お前が働けボケ!とか、70過ぎたら補助金でゆっくり暮らせるようにしてくれよと、皆憤慨していましたね。
貴方は80過ぎているんで、普通に老人と見て間違いない年齢です。
N氏が他界したのは76の時だったと思います。
最近も共有案件についてのメールが入っているのは前述しました。
ああいう案件については貴方が関わっていると考えています。
裕子女史は何も考えていないでしょうし、能力的に向いていないと思うから。
去年の勉書後編での発信で子供が出来ないだろうから墓守がいなくなってしまうんで樹木葬共同墓地に墓を写そうと考えていると書いた時がありました。 明日は墓参りに行きますと書き添えて。
で、その次の日に墓参りに行ったんですが、そこに墓園の販売会社の社員らしき工作人員がアンカリング工作させられていたんです。
私と家族が墓を掃除しているのをそばの東屋に座って何かメモをしているんです。
それを見て私は思いました。 ああ勉氏が墓の移転の記述を読んで、早くも次の日に手を回して来たんだなと。
おそらくは墓所の位置を把握して、墓仕舞い(墓を撤去すること)を私が申請したら、円滑に進められるようにするということらしい。
次の日ですよ……。 書いてから12時間も経っていない。
情報を得てから工作を行うまでの時間が短すぎるのは言うまでもなく、次の日に墓園販売社員の同志を手配できた事にびっくりしますよね。
準備時間があまりにも短いのは、貴方ではなく工作責任者X氏が仕切っているのかとも考えましたが、一応は娘の関係の案件として扱っているのだろうから、不動産や資産の情報を他人に開示するとも考えられないんで、やはり貴方か、姉氏の旦那さんが不動産関係者で手配できたのだと思っています。
実家案件でも、大手不動産会社社員の同志勢を動員して工作していたし、共有案件にしても墓所仕舞いにしても、不動産関係に関しての動きが手際が良すぎる。
これは貴方が不動産会社に勤めていたからなのではないかと思っています。
さらにこの話は去年の夏の話なんで、とっくに貴方が80歳を迎えて数年たっている時なんです。
80過ぎても、まだ思考も定かで矍鑠としてらっしゃるのがここに見て取れるんですね。
プリウスミサイル化はまだまだ全然無いくらい。
で、墓仕舞い斡旋工作に戻りますが、子供が出来ないだろうから墓仕舞いして共同樹木葬墓園に移そうと考えていると書いたものへの貴方の対応なんです。
実際、最終的にはそうするつもりでいますが、いろいろすべての手を尽くして全部がダメだとなった時に仕方ないから墓仕舞いして移転するという話なんです。
亡父との子供がいて良かったとの会話や、入会前からK氏折伏スキップ事件時まで裕子女史の出産リスクを叫びつつ努力してきた事を綴っている書簡の中の一部の話を取り上げての事ですよね。
御自分の得意分野だからと速攻で工作をしかけているのだとおもいます。
しかし、それをやられた私や家族の心証を想像した事あったのでしょうか?
もう子供は出来ないから、墓所は処分するしかないだろ、業者を紹介してやるよと言っているようなものですよね?
その言葉を聞く人の中に実の娘の裕子女史も混じっているという事ですよ。
いくら転落の原因を全部、私のせいにして押し付けているとはいえ、子供について微塵も未練の無い女性って少ないと思います。
これ普通の社会だと無神経過ぎると糾弾される事案でしょう。
私は、初めから出産リスクに合わせて、N氏を探し出して会ったり、入会をして条件を揃えたり、K氏を折伏したりしてきました。
私の苦労と努力を無にしたのは、事実上、貴方の娘を導く事の力不足と選択の失敗だったのは誰の目にも明らかな事だと思います。
普通の幸福を掴む為、裕子女史に人並みの幸福を掴ませる為にやって来た事を潰しておいて、もう駄目だから墓所を売る方法を教えてやるよと言われている事になります。
どういう思考でそういうことが出来るのか理解できませんが、それは育ってきた文化的背景の違いに過ぎないのだと思います。
それでも、言いたいのは、墓仕舞いの斡旋よりも先に貴方にしか出来ないもっと重要な事が有るとは思いませんか?
一年に渡ってこの勉書発信を続けていますが、文中で○○波や加害機器を撤去して下さいとお願いしています。
これを書いている今も内破系照射されているんですが、一向に廃絶する気配すらありません。
裕子女史が、加害を繰り返す事で自分の中に私から報復を受けるという妄想の恐怖を育て上げ、逃げる事しか出来なくなっている様を解説しています。
さらには安価行為とか、無意味な動員で受益権を消費するのは愚かな事だと指摘もしましたが、ますます安価勢の勢いが増している始末。
今日もスーパーカー安価勢が動員されていたんですが、あれも私が利用されているだけなの分からないんですか?
今の場所は難しい場所なのが分かってきましたが、○○波もそうですが、嫌がらせ多発するほどの利益は無いですよね。
今の利益よりも、生活保護の方が金額が上なぐらいですよ……。
そんな状況なのに、マイナス工作なしで商売をしている同志勢ばかりの中で私だけ当て馬のようにしてマイナス工作を集中させているの分らないんですか?
貴方一家は腐して貶めつつ支援依頼を出していると思いますが、普通に宣伝しないと商売なんかうまくいくわけがない。
それも前に書いています。
貴方、さらなる転落を招いているから、お願いした通りに動いていただかないと、このまま奈落へ真っ逆さまに堕ちて行ってしまいますよ。
解説
プリウスミサイル的な老耄老人の暴走車を2回見ました。
2回とも高速を爆走してんですよ。
体裁が服を着ているとすら言われている貴方は、事故を起こした後の悲劇を避けるために既に免許は返納していそうですね。
80過ぎるとどうしても、なんかの拍子に脳の回路が途切れてしまったりすることがあるものと思いますから、それが正しいと思います。
ここが問題の墓仕舞い斡旋工作について書いている部分ですね。
それでも、言いたいのは、墓仕舞いの斡旋よりも先に貴方にしか出来ないもっと重要な事が有るとは思いませんか?
文中のこれを重ねて伝えたいです。
貴方にしか出来ない事とは、私に会って裕子女史と引き合わせる事です。
墓仕舞いとか、無駄な来訪工作、安価工作、小型犬部隊とかそんなものは貴方の自分の中で頭でっかちに考えている体裁含みの見栄なんですよ。
裕子女史と会わない限りは、貴方にとって私は全然関係のないその辺のアホでしかないでしょう?
会う前には、何を支援しようとも形だけのものになってしまう。
無意味なものなんです。
本文
この裕子女史の主張の裏を読むしかないんです。
で、50になった今も引退した貴方の活動家時代の威光に縋っているかのように振舞っている。
これって、もう貴方が仲立ちしてくれることを待っているとしか思えませんね。
現在はもちろんですが、15の時からの話ですよ。
35年間、貴方が仲介してくれることを待っているんです。
なんでわからないんですか?
これは、貴方が裕子女史の気持ちを理解していない事例として前の前の部分で書いているものですが、これと同じように裏を読むしかないんです。
裕子女史は生来の元々がものすごく気が弱い50女で、14の時から私に話しかける事も、誰かに仲立ちしてもらう事も出来なかったんです。
子供の頃なんか、T方女史が間に入ってあげようかと提案している決定的な場面も見た事が有ったくらいです。
その気の弱さが度が過ぎていて、姿を見せられないレベルのものだったんです。
そのせいで、私は裕子女史をほとんど見た事ない状態で成人して、大森に居た頃にようやく人相と体型の情報を得たという…。
裕子女史的には、貴方の存在もあり、組織の傘の元で全てを思考し判断して生活していたんで、地元組織の中では、力もあり同志勢からは知られる存在だったのに、なんであの泥ガメは私を見ないのだろう?という感じでいたのだと思います。
確かに出身区の組織は巨大で、前編で同級生勢が私の危機を観覧させられるために学年の35%ぐらい動員されている様を描いていますが、子供の世代が3割超えているのだから、ベビーブーマー世代なんで大人は同等もしくは、その倍ぐらいの割合になるのかもしれませんね。
(あれだけ大勢いた子供達が50になって、どのくらいの割合で非活化したのか……。裕子女史は把握しているでしょうね。)
話しかける事も、前に立つ事も出来ないという自責の念に苛まれ続けた、ある日、鬱屈した心が破裂して逆切れしぶち切れはじめてしまったんです。
キャリーで言えば、豚の血を浴びた段階ですね。
で、前編、後編で書いたとおりの展開で、代理ミュヒハウゼン症候群を発症してしまい、私を貶めて自分に注目を集めるという歪んだ愛へと向かって行ってしまったんです。
こういう言い訳を前面に出して置けば、私と会わずとも体裁が立つからなんです。(これで済むのは35まででしたけどね…)
T氏折伏スキップ事件時まで、このマッチポンプ技貶め技が周りの同志勢から見切られていないと幻想を抱いて、裸の王様状態でいたんです。
(前述しているんでそこを参照されたい)
45の時にようやく「もう年だから子供は出来ないかもしれないじゃない」と言っているぞとN氏から伝言を聞きました。
ここで、上記の幻想が崩壊したんでしょうね……。
女性にとっては、かなりつらい時期だったでしょうから、さらっと流してゆきましょう。
今の裏の心理は、いまだに注目を集めたいという性癖が疼いているのと、50まで独身でいるという事への社会的な圧迫に押しつぶされそうになっている、欲望と過酷な現実の相克に苦しみ続けていると思います。
どうにかほかのものへ目を向けたいと欲するままに、自暴自棄へ陥り、やり場のない怒りの吐け口として私へ非をなすりつけて加害攻撃を続けているんですよ。
貴方には、それをやっていても、未来の裕子女史に一利すらもたらさない事が分かると思います。
自分で道を見失って、道を作り出す事も出来ずに苦しんでいる姿が見えて来ませんか?
貴方は入会時とK氏折伏スキップ事件とその後の反作用工作期の3段階の全てで間違いを犯して裕子女史を誤導してしまっています。
裕子女史の私への加害と貶め工作を主張する意見を真に受けて、裏の本心に目を瞑ってしまい、大勢の力を借りて実現した来北体制を蹴ってしまったんです。
この勉書発信の終了が貴方の娘が人並みの幸福を手にする最後のチャンスで間違いありません。
最後のチャンスにK氏折伏スキップ事件時や入会時と同じ過ちを犯さないように気を付けていただきたい。
切なる願いです。
ここで、私のお願いする通りに動いて、裕子女史の心の中の障害を取り除いてうちへ笑顔でやってこれるようにしてください。
すぐに○○波の機材等の加害機器は全廃して下さい。
加害工作も廃止して下さい。
支援は同志商工業者勢と組織貢献度に比例した公正なものにしてください。
(もう裕子女史は自暴自棄になっているんで、私へのいわれなき罪への制裁を叫んでさらなる攻撃を始めるかもしれません。 十中八九はそうなるでしょうが、貴女の幸せを願って尽力し続けてきた人間を滅ぼして、貴女が幸せになるという事はありませんと言ってあげてください。 私が嫌なら、ほかの男を探すか、一人で生きて行く決意を固めればいいと伝えてください。 何の罪もない人間を貶めるのは自滅を招くだけです。 わざわざ人生を無意味なものへする必要ない。 今ならまだわずかだが、人並みの幸福を手にする可能性が残されています、それを娘に説いてください。)
解説
ここはそのままです。
読み返してください。
本文
上記の次の日、やられるとは思っていましたが、やはり裕子女史が報復に出てきました。
起きると老母が躁○○波でいきり立っており、怒り狂っているんです。
ああこれは、またコントロール波を受けて操られているな……。
と、聞き流していましたが、老母が明日は休みだろうから車検証を出しておいてと頼んだだろうという内容が含まれていました。
明日は休みの予定では無いんですね。
が、ここんところ数か月、頻繁に休業強制させられている曜日なんです。
これを言わされているという事は、夜から朝にかけて結石激痛誘発波を照射して、休ませるつもりでいるのが分かりました。
また激痛で悶絶するのも困るんで、早々に休業を決定しました。
この日を休ませているのは、前の業者にかち合わせる不利を悟らせる為か(貴方一家からは直接依頼が行っているわけではなく横浜組織を仲介して現地組織へ依頼されているので、前の業者は実態を掴んでいない)ただ単に、赤字垂れ流し予測しか立たないんで、面目を守るために潰しにかかっているだけなのでしょう。
まあ、どちらにせよ、今、利益がほとんど出ていないんで、貴方が私に会いに来ない時は、早期に廃業する予定でいます。
解説
4連続してこの曜日を休業強制させられています。
火水休みに変更させようとしてんですかね?
本文
書き始めたのが、去年の初めかおととしの終わりなんで、一年以上かけて書き続けた事になります。
もう書くべきことは、書いたと考えています。
監視人員も読んでいるし、他にも数人ぐらい物好きが読んでいそうなんで、なんか趣向を凝らした感動を呼ぶような終わり方をした方がいいのかなと考えたりしましたが、何のために一年を費やしたのかと言えば、貴方を動かす為だけに書き続けてきたんです。
貴方以外の読み手を想定して、いらん小細工をする必要はないという結論に至りました。
が、貴方がくる気配を全く感じない……。
これで話が進まないなら、もう裕子女史の人生も破綻した事になるでしょう。
もう一度、おさらい的に前編から内容を軽く解説して終わりたいと思います。
35年も関わって来たから、幸せになって欲しいと心から願っています。
色んな不思議な縁が有ったんですが、なかなか公開できないような分野ばかりで、この先裕子女史と会う事が無いのなら、もう忘れて行こうと思っています。
人の一生なんて儚いものですね。
亡父や親戚達、N氏や入会当初担当幹部として来た老人達の死を見てきたので、そう思ってしまいます。
芸能人でも、生前あんなに有名だった人も、亡くなって半年もすれば完全に世間から忘れ去られてしまう。(例梅宮達夫氏や志村けん氏)
学歴、職歴も何年勉強していようが、病気になったり、天災にでも見舞われれば、その努力と苦労は失われて、無に帰してしまう。
組織と関わるようになり、世の中の仕組みが見えるようになると、世にある肩書のもろさを目の当たりにすることの連続でした。
貴方一家と関わらなければ、世の中の真実を見つめる勇気も機会もなく、何もわからず、家畜のように死んでいったと思います。
世界を知るきっかけを生んでくれた貴方と貴女にはその辺を感謝しています。
無駄に金だけ持っていて世界が見えないで死んでゆくよりはるかにましだと思いますよ。
自分がどんな場所に立って生活していたのとか、どんな時代を生きたのかとか何も知らないで生きて行く。
そういうの虚しいから。
50になって分かったのは、きちんと家庭を持って、自分のやりたい仕事を真剣に一生懸命に続けて生きられれば、それが勝利の人生だったという事ですね。
結婚して家庭を持たなかったからなんでしょう、何を残すべきなのか、何をすればいいのか、50になっても、暗中模索して、もがき続けるしか術がない。
家庭を持ち、子供でもいれば、家族の為にがむしゃらに働くしかないという揺るがぬ強い信念を持ったのかもしれません。
これは、50独身女となってしまった、裕子女史にも言える事で、おそらく悲しい心でいるのでしょう。
私のような小物を相手にして、報復と称し加害を繰り返して、滅ぼしたとて、裕子女史の人生に価値が見いだせるかと言えば、そんなことはありませんよね。
下々下賤の衆生の醜い殺し合いに過ぎず、物笑いの種にしかならない。
裕子女史はおばあさんの話を聞いて、今の仕事を志て一生懸命働き続けています。
私の観念では、それだけでも人生として半分は成功していると思います。
あとは二人でもいいのだから、きちんと家庭を作って生きるべきだと思います。
それに加えて、宗教的な使命を果たせたら、何よりの大勝利の人生となるのではないでしょうか。
貴方一家は物凄い組織の力を頼って私に働きかけてきましたよね。
その組織と私の縁もあると思っています。
私の入会は10年前ですが、10年前の時点で既に若手活動家は激減していました。
○○班とかで、人がいないとぼやいているのを見たことありましたね。
今はさらに若手が非活化しているとSNSとかで見る機会が多くなりました。
私が本格的にTI工作を受けるようになったのは、30過ぎた頃だったと記憶しているんで、20数年前です。 嫌がらせが本格化したのはH市時代なんで12年前ぐらいから。
私と裕子女史はベビーブーマー最盛期の生まれなんで、前編で記したとおりに学年の35%ぐらいが会員子弟で占められていたという凄い状況を経験している最後の世代だと思います。
我々ベビーブーマーが27,8歳ぐらいの時がおそらく男子部、女子部が人数も多く活気もあった、組織の最盛期とのちには語られる事になるのではないかと思います。 しらんけど。
私は、組織の最盛期の最高の体制で行われたTI工作を受けている事になります。
組織の衰退については諸説あるようです。
私は昔の会合とかを見たことないんで、入会した10年前も今と同じぐらいの出席者しかいなかったんで、衰退しているという実感がない。
私の世代の小学校ってベビーブーマーなんで一学年6クラスあったんです。
今は一学年1~2クラスしかなく、一クラスの人数も半分くらいに激減しているそうです。
組織の若手が減っているというのは、そのまま日本国の若手人口と連動して増減しているだけの話で、今が一学年70人とすると、我々の世代では一学年が270人はいたんで、組織若手が四分の一に減るのは当然の事ではある。
国の若手人口の減少率よりも組織の若手の減少率が上回っている部分だけが衰退していると言えるのではないでしょうか。
その上澄みみたいな組織の落ち度部分が、若者にも魅力的な活動への変化を起こせなかった失敗とSNSでよく指摘されていますね。
組織草創期より、同志は同志の為に踏み台となり、次の世代を自分より上へ登らせて、登った同志はさらに後から来る同志を引き上げて、自ら踏み台となって後から来た者を上に登らせるという自己犠牲の異体同心運動を繰り返してきたと思います。
親や先達世代が社会的な地位が低かったりすることを見るかもしれないが、それは後から来る同志を上に引き上げてきた結果であるし、追い風が吹いている中に就職して、大学を卒業して、その後に離反するのは、恩恵を受けた後で恩を仇で返しているのと同じ事。
国内のあらゆる組織の若者活動家が減り続けている中で、同志50~60世代は各分野に進んで、追い風をうけて、社会の中枢を占めるまでに至っていると思います。
数的には国と連動して衰退しているが、資産や地位と言った個々同志の質は向上し続けていると思います。
でないとスーパーカー工作とか企画出来ないでしょう?
246号線から藤沢へ向かう、湘南台とか六会とかを通る何とか街道をよく通るんですが、そこの通り沿いに新宗教の2番手とされている団体の施設があって、最近新しく立て替えられました。
元は平屋の地味なものだったんですが、建て替えられて壮麗なものになったかと言えば、前とほぼ同じの平屋の地味な建物へ立て替えたんです。
これ見て、組織ごとに違った性格みたいなものがある事が見えて面白いなと思いましたね。
2番手的には、今ある施設を同じように使えるだけの建て替えをする会員数の減少を見越した緊縮財政的な選択をしている事が分かります。
奈良の某教団の本部は物凄い壮大な建物で、戦後の拡大期に勢いで建てたはいいが50年経って建物が古くなり、色々問題が出ているとニュースで見たことがあります。
組織運営は今でもガンガン会館を建てて行っていると10年機関紙を読んでいて分かります。
無計画にやらかしているのか?
そんなわけないんですね。
貴方は下関から40前後の歳に引っ越してきているんで、横浜組織である程度の役職に就く事は出来ても、やはり地元の人間が優先されてしまったと思います。
その貴方が不動産市況を先読みして、実家売却工作を仕掛けてきたのを見ているんで、本部の不動産とか施設の担当者が、無計画にやらかし続けるとは思えない。
まだ拡大に転換する時があるかどうかは謎だが、教勢を維持するためには万全の対策をしていると思いますね。
いくつかあるXデーとか、Zデーとかの転換期をきちんと予想して対策を立てていて、自分達で見落とした部分を補うためにコンサルタント会社を雇ってチェックさせているんだと思う。
退会しようとしている同志は、組織の草創期からの上昇運動を調べて、同世代の同志の(質)に目を向けて見てもらいたい。
軽く離れて行くべきではない事が分かると思うんです。
私は組織の最盛期にTI化されていて、離れる離れないという問題でなく、自分の意志で道を選べない状態にありました。
強制参加させられていたんですね。
それを恨みに思ったりしていないんです。
ここまで巨大化した強大な運動の最盛期にめぐり合わせたという自分の縁の方が重要だと思うからです。
で、私と裕子女史の関係性に於いて、TI工作を偽装して利用していた事になります。
表向きには監視対象として登録して置き、なんかの時には支援の手を差し伸べる。
これは今も同じ構造で続いていますよね。
表向きは毎日毎日○○波で危害を命令して加えておいて、反面では支援をするという。
これって私から見ると、貴方が裕子女史の本音を見抜いて、私と会わせるだけで全て解決する問題なんですね。
(同志医師に嫁がせる手もあるが、それが出来ていれば50独身女になっていないだろうという事で除外する。 が、それを選択したら祝福します。)
マイナス工作を必要以上にする必要もなくなるし、監視勢もいらないし、何より裕子女史が人並みの幸福に手をかける事になるからです。
私と組織との縁に戻りますが、ほんとになんかの縁が有るんでしょうね。
私は身延山にも行った事が有るし、大石寺にも行ったことあって、池上本門寺が散歩コースだったんです。
両山は小学生の時に父親に連れられて富士山に登る旅行のついでに寄ったのと、山梨の温泉地に旅行に行ったついでに行ったものです。
身延山は、ほんとに山の上でケーブルカーに乗った記憶があるだけ、大石寺はまだ、組織と離れる前の話で、登山者が列をなしていて綺麗で清潔な和風の街だった記憶しかありませんが。
本堂みたいな最大の建物の前までしか入れずに、奥の大きな建物の屋根だけみた気がします。
その話をN氏にすると、その建物は千年持つという最高のコンクリートを使って会員が寄付したお金で建てたのに、わざわざ壊してしまったんだと憤っていました。
あとそのコンクリートか鉄骨を寄付者に記念品としてくれた話をしてましたね。
N氏の墓参りのついでに寄ろうと企画したのは、あの綺麗な街並みが40年を経てどのように変わって行ったのか確かめてみたかったというのが本音の所でした。
N氏は今はぺんぺん草が生えているらしいよと言ってましたね。
20過ぎてからは○○先生のお兄さんを称する人物を大森に居た時に見たことがありました。
その事については最後にTwitter発信の転載をしておきます。
私は法華経系の信仰団体に所属してもいないし、全然関係の無い時代に、主だった聖地的な場所を訪れているんです。(千葉の有名寺院は行ったことなかったと思う。)
そのことについて、N氏に過去世前世とか来世とか転生するシステムがホントにあるのなら、私も前世で宗祖の弟子だったりしたのかもしれませんねというと、よく分かったねと答えてましたね。
解説
いよいよ感動のフィナーレですね。
私の人生観を述べる所から始まり、組織の衰退について書いています。
組織の衰退が国の衰退と連動して起こっている事から、避けられるものではない。
しかし、自己犠牲の精神で後進同志を引き立ててきた上昇運動で会員の質、社会的地位が高くなっていると書いています。
私は貴方父娘やN氏や入会から世話になった同志達の助力を知っているから離れて行こうとは考えた事もありませんが、かえって福子だったりする方が、生活になじみすぎて見えなくなるのでしょうね。
今、私が退会すると言い出したとしてN氏が存命ならば、な、なんで!!と絶句するでしょうね。 二の句を継げなく。
結構、命を削って後援してもらった形で死別しているんで、恩義を仇で返すわけにも行かないんです。
退会を考えている方は、あなたを上に登らせる為に踏み台になった同志が必ずいるという事を忘れないでほしいとは思います。
秋元殿御返事
秋元殿御返事 文永八年正月 五十歳御作 於安房保田
御文委く承り候い畢んぬ、御文に云く末法の始・五百年には・いかなる法を弘むべしと思ひまいらせ候しに聖人の仰を承り候に法華経の題目に限つて弘むべき由・聴聞申して御弟子の一分に定まり候、殊に五節供はいかなる由来・何なる所表・何を以て正意として・まつり候べく候や云云、夫れ此の事は日蓮委く知る事なし、然りと雖も粗意得て候、根本大師の御相承ありげに候、総じて真言天台両宗の習なり、委くは曾谷殿へ申候次での御時は御談合あるべきか、先ず五節供の次第を案ずるに妙法蓮華経の五字の次第の祭なり、正月は妙の一字のまつり天照太神を歳の神とす、三月三日は法の一字のまつりなり辰を以て神とす、五月五日は蓮の一字のまつりなり午を以て神とす、七月七日は華の一字の祭なり申を以て神とす、九月九日は経の一字のまつり戌を以て神とす、此くの如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ現世安穏後生善処疑なかるべし、法華経の行者をば一切の諸天・不退に守護すべき経文分明なり、経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」云云、又云く「天の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」云云、諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり、法とは法華経なり、童子とは七曜・二十八宿・摩利支天等なり、「臨兵闘者皆陳列在前」是又「刀杖不加」の四字なり、此等は随分の相伝なり能く能く案じ給うべし、第六に云く「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」云云、五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地成就せしめ給へ、委細は又又申す可く候。
次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を得ん是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、提婆品に云ふ「所生の処常に此の経を聞く」の人はあに貴辺にあらずや、其の故は次上に「未来世中・若有善男子・善女人」と見えたり、善男子とは法華経を持つ俗の事なり弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし、恐恐謹言。
正 月 十 一 日
此くの如く心得て南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ現世安穏後生善処疑なかるべし、法華経の行者をば一切の諸天・不退に守護すべき経文分明なり、経の第五に云く「諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」云云、又云く「天の諸の童子以て給使を為し刀杖も加えず毒も害する能わず」云云、
次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕り御弟子となると仰せ候事、師檀となる事は三世の契り種熟脱の三益別に人を求めんや、「在在諸の仏土常に師と倶に生れん若し法師に親近せば速かに菩提の道を得ん是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉る事を得ん」との金言違ふべきや、
文永二年一月十一日、日蓮大聖人が安房国保田から下総国印旛郡白井荘の秋元太郎兵衛尉に与えられた御手紙です。なお、本抄の御真蹟は現存していません。
秋元殿は、大聖人様が松葉ケ谷の法難をのがれ、下総国若宮の富木邸に身を移された文応元年頃、親戚の間柄であった富木殿の縁によって入信した。
大聖人が伊豆配流を赦免され、鎌倉に帰られたのが、二年前の弘長三年二月です。
翌文永元年に、大聖人は安房に帰られ、母親の病気平癒をなされ、その直後に地頭の東条景信の襲撃を受けられるのです。
本抄は、その二カ月後に書かれたもので、まさに法難の中に法華経を弘通されている、そうした時期のお手紙と拝されます。
大意
まず、秋元殿からの手紙の内容に触れられ、五節供に関する質問を挙げられます。
次に、この五節供については伝教大師の相伝があること、また五節供の次第が、妙法蓮華経の五字の次第の祭りであることを明示されます。
さらに、このように心得て題目を唱えていくことによって「現世安穏後生善処」は疑いない事、題目を唱えることが生活万般にわたるすべての根本であることを教えられます。
続いて、末法において大聖人様の御弟子、檀那になられたことは、三世の契ちぎり、すなわち過去世よりの深い因縁によるものであることを、法華経の諸文を引かれ説示されます。
最後に、この三世の契りによって大聖人様の御弟子となったことを深く自覚し、いよいよ信心に励むよう勧誡され本抄を結ばれます。
三世の契り
過去世よりの因縁によって妙法を受持できるということです。
本抄には、 「師檀となる事は三世の契種熟脱の三益、別に人を求めんや」 とあり、師匠となり弟子・檀那となることは決して偶然ではなく、三世の契りによると説示されています。
種・熟・脱とは、下種益と熟益と脱益のことですが、これは衆生が仏様より下種を受け、さらにその機が熟し、最後に得脱をする過程を示すものです。
釈尊の仏法においては、法華経に三千塵点劫・五百塵点劫というような長遠なる化導の次第が説かれるように、まさに三世にわたる因縁によって衆生の得脱が叶うのです。
末法の衆生は、本未有善の衆生であり、こうした悠遠なる化導の次第を経ることなく、下種即得脱の妙法を受持するのです。
したがって、釈尊の仏法における仏と衆生の因縁とは当然違うのですが、大聖人との因縁の深さを示すため、このように教示されているものと拝されます。
私たちは、一面においては本未有善の荒凡夫という立場ですが、妙法を受持することによって、仏様との深い因縁を自覚していくことができるのです。
つまり、客観的には本未有善の衆生ではあっても、主観的には地涌の菩薩の眷属としての自覚が胸中に顕現するのです。
大聖人は法華経の行者として「法華経の題目」を弘通されるのですが、大聖人のみが弘通されるのではありません。
妙法を受持する私たち一人一人にも、その使命があることを忘れてはならないのです。
大切なことは「師檀となる事は三世の契ちぎり」 と仰せのごとく大聖人との深い因縁を自覚することです。
すなわち地涌の菩薩の眷属としての自覚を持つことによって、いかなる諸難も乗り越えて広宣流布に邁進することができるのです。
請願の師弟は「三世の契り」
「師匠となり、弟子となることは三世にわたる約束である」――仏法の師弟の絆は、永遠であると教えられています。今世で初めて弟子となったのではなく、三世の契りなのです。永遠の絆であると聞いた門下の感動と歓喜は、いかばかりだったでしょうか。
また、この一節は牧口先生が、傍線を引いて拝された御文であり、日蓮仏法、そして学会精神の根本を示す大変に重要な仰せです。
仏教は「師弟の宗教」です。師弟がなければ、民衆を幸福にする広宣流布の実践は成り立ちません。師匠は、民衆のために戦う仏の境涯を、なんとしても弟子に伝えたい。弟子は、その師匠の生き方を、わが生き方として貫き通すなかで、不二の境涯を自身の人生に厳然と確立していく。師と一体となって戦う民衆が出現することが、人間の境涯を高め、人類の宿命を転換する大道となるのです。
弟子を自分と同じ境地に導く師匠、また、師匠と同じ生き方を力強く歩む弟子。師弟共戦――共に戦うことが師弟不二の本義です。
そして、この師弟の絆は、今世だけのものではありません。師弟は「三世の契り」であることを、明確に教えているのが法華経です。
とりわけ法華経の焦点は、末法という法滅の時代の救済にあります。人々が正法から遠ざかり、無明が増長する闘争の時代です。この時に、正しき法を、正しく求めて、その法を説く正しき師匠と出会う。そして師匠と共に不惜と請願の人生を貫く。
そう決定した人にとって、師弟の縁は、現世だけのものではなく、過去世から未来世にわたっても続くものなのです。仏と同じ慈悲の行動を、自身の振る舞いで体現し、根源の地涌の使命を発揮しているからです。それゆえに、三世永遠に連なっている本来の境地を、生命の奥底に会得していけるのです。これ以上の誉の人生はありません。
師弟の縁を示す「種熟脱の法門」
仏法における師弟の深い縁について、大聖人は「種熟脱の三益」を通して教えられます。
法華経では、釈尊の方便品以降、「諸法実相」「開三顯一」の法理や譬喩を説いて、続いて、弟子の声聞たちのために、今世だけでなく、「因縁」を伝えます。すなわち、弟子たちは、遠い過去に成仏の教えを下種され、長時間にわたって導かれ、調え、成熟され、法華経に至って仏と等しい悟りに到達し、苦悩から根源的に開放、脱出できるのです。
後年、秋元殿に与えられた「秋元御書」でも、「熟脱の法門・法華経の肝心なり」(1072:04)と仰せです。まさしく、この種熟脱の三益は、法華経のみで明かされる成仏のための肝要です。
種を植えた人こそが、その種の正しい育て方が分かり、収穫まで携わることができます。それと同じく、仏種である法華経を説いて下種してくれた、自分にとって最も縁深い師匠を離れて、別の人に求めても成仏は成り立たないということを示されているのです。
大聖人は、化城喩品に説かれる師弟の三世の絆についての文証として、「在在の諸仏の土に 常に師と俱に生ず」という経文を引かれています。
このように、師匠とは、有縁の弟子を三世にわたって化導していくのです。弟子は師匠を求め抜き、師匠は弟子を守り導く。仏法の師弟とは、最高に麗しき「人間の絆」といえるでしょう。
「これは、弟子の側から見れば、単に「師匠と共にいた」という次元の話ではありません。師と共に菩薩行をしてきたという「共戦」の目覚めです。“師匠によって救われる存在”から、“師匠と同じ側に立って民衆を救う存在”へと、自身の本源の生き方を確立していく。それは、菩薩の誓願に徹することにほかならないのです。
自身の「久遠の使命」を自覚
この地涌の菩薩の誓願を私たちに教えてくださったのが、恩師・戸田先生です。「在在諸仏土 常与師倶生」との一節は、戸田先生が、文字通り、命を懸けて読み切られた経文でもあります。
戸田先生は戦時中、軍部政府からの弾圧を受け、先師・牧口先生と共に投獄されました。その獄中闘争で、戸田先生は法華経を身読され、遂に仏法の深い真実を覚知されたのです。その第一は「仏とは生命なり」との確信でした。さらに、唱題と思索の中で、「我、地涌の菩薩なり」との悟達を得られました。広宣流布い久遠の師弟の使命を覚悟されたともいえます。そして、師弟の縁もまた永遠であると深く感得されたのです。
これが、わが創価学会の確信の精髄であり、学会魂そのものなのです。
ちょうどその頃、獄中においてなお、不惜身命の実践を貫かれた創価の父・牧口先生は、栄養失調と老衰のため、獄舎で息をひきとられました。それは、正法正義のために戦い抜かれた殉教の姿そのものでした。
戸田先生は、牧口先生の三回忌法要で、次のように語られています。
「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで、『在在諸仏土・常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたるしあわせでございましょうか。
根源の師・日蓮大聖人の御遺命である広宣流布に殉じゆく強き信心の一念、これこそが、牧口先生と戸田先生を不二ならしめた要因といえるでしょう。生きて牢獄を出られた戸田先生は、先師の意志を受け継ぎ、創価学会を再建し、本格的な、師弟不二の広布拡大の大闘争が開始されたのです。
師弟は永遠です。戸田先生は、牧口先生と来世も共にあること、そして、我々もまた共にあるのだと語られていました。
真実の「正しい人生」に生きる
第2次世界大先後の混沌とした時代に、私は稀有の師、戸田先生と運命的に出会いました。
昭和22年(1947)8月14日、19歳の私は、初めて学会の座談会に参加しました。友人から「生命哲学」の話を聞こうと誘われていたからです。
終戦からちょうど2年。折しも、読書サークルの友人たちと“真実の正しい人生とは何か”等と、毎晩のように議論しているさなかでした。そして、“自分たちの疑問に答えられる人がいれば、その人こそ師父である”と語り合っていたのです。
座談会の会場では、強い度のメガネをかけた壮年が、確信に満ちた闊達な声で、気迫を込めて語っていました。
「個人であれ、一家であれ、一国であれ、この仏法哲理をもって、根本から解決しない限り、一切のことははじまらないのです」
「私は、この世から一切の不幸と悲惨をなくしたいのです」
それは、戸田先生が「立正安国論」を講義されていたのでした。そして、講義と質疑応答が終わった後、先生は私に、旧知のような親しみを込めて声をかけてくださったのです。
私は、青年らしく尋ねました。「先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」と。
先生は、「さぁ、これは難問中の難問だな」と、顔をほころばせながら、誠実に答えてくださいました。そして、最後に毅然とこうおっしゃったのです。
「正しい人生とは何ぞや、と考えるのもよい。しかし、考える暇に、大聖人の仏法を実践してごらんなさい。青年じゃありませんか。必ずいつか、自然に、自分が正しい人生を歩んでいることを、いやでも発見するでしょう。私は、これだけは間違いないと言えます」
このほかにも私は「本当の愛国者とは」等、日頃から友人たちと語り合ってきたことを質問しました。お話の中に出てきた「南無妙法蓮華経」についても伺いました。
先生は、全てに、確信に満ち溢れた明快な回答をくださいました。一人の青年に対して、なんの隔てもなく、懇切丁寧に語ってくださったのです。
私は感動しました。“この人の指導なら信じられる”と直感しました。
そして10日後の8月24日に入信しました。68星霜を数える今に至るまで、戸田先生に指導していただいた通りの「真実の正しい人生」を歩んでいくことができました。
恩師への感謝は尽きることがありません。今でも私は、戸田先生の顔を思い浮かべては、恩師と語り合う毎日です。
“この師匠に、随順して学ぶ”
さて、御文に戻れば、大聖人は続けて法師品の文を引かれます。正しい法を説く師に親近するなら、正しい菩薩道に入ることができる。その師に随順して学んでいくなら、多くの仏に会って学ぶことができ、成仏への軌道を歩み続けることができる、との意です。
「随順是師学」――師匠を定めたら、この師匠に随順し、徹底して学びゆく。
師弟とは、弟子の自覚で決まります。
私も、徹して戸田先生の仰せ通リに修行した。いついかなる時も、「私は戸田先生の弟子である」と言い切ってきました。先生の事行が逼迫した時も、ただ先生と運命を共にしようと、お仕えし、お護りしました。そして、戸田先生は、第2代会長に就任され、生涯の願業である75万所帯の折伏を宣言されたのです。
あの時の師弟の闘争があればこそ、冥の照覧の大功徳が雲の如くにわき上がり、今日に至る世界宗教への道が開かれたと確信しています。
師弟の大願に徹した時に、弟子の境涯は大きく開かれます。
「師弟共戦」とは、弟子が、わが使命の道で戦い、勝って、常に胸中の師匠に報告することにほかなりません。私は戸田先生のもと、常にその決心で真剣に戦ってきましたし、今もその思いは変わりません。
師弟は物理的距離ではありません。大聖人の御在世も、直接、お会いしない門下も多くいました。熱原の農民信徒たちもそうです。
たとえ、遠く離れていても、心は瞬時に伝わります。また、時代を超えて、生命と生命は響き合います。空間も、時間も、師弟を阻む壁にはならないのです。
本文
なんかの縁で今があるのは間違いない。
私にも私にしか出来ない使命があるのでしょう。
私のような40での入会者にどんな使命があるのか?
実は私も貴方も裕子女史も薄々こういうものなのではないのか?という私の使命が分かっている気がします。
だから、著名人来訪工作を仕掛けずにはいられなかった。
そういう不思議な事ってありますよね。
私は、私に与えられた使命を果たす為に戦い続けるのです。
誓願を成就させる為に。
了
解説
解説は最後に。
ここから裕子号泣ピンポンダッシュ事件と裕子東北地震の深夜2時アンカリング事件のTwitter発信をそのまま転載します。
まとめようかと思いましたが、Twitter発信は即興感が出ていて、何か伝わるものがある気がするんで、そのままの形で。
北枕 静太郎 @kitamakura44 2021年9月22日
勉氏への続き
前回が9月の初めだからひと月近く発信妨害されていたんですね…。
何書いていたか忘れてしまったんで、読み返そうとするも、なんかのアプリを使わんと見れたいほど、ツイートが堆積してしまっている。
毎日毎日嫌がらせされて、それを非難するツイートを繰り返しているんですね、、、、
愛犬プーの話と裕子女史の技術職挫折の話をしていたようです。写真見たら、どうも小2か3くらい(私は小学生の時デカイ子供だった)から飼い始めているようなんで10年以上生きたみたいです。
裕子女史と宿縁がありそうだと書いていますが、具体的に言うと産科医の息子T沢が裕子女史が引っ越してきた時に私一人だけ呼びに来て本人のいない教室まで連れていかれた時の事です。
あれも仕組み工作された出来事だったら、縁なんか無いから、いろいろ考えなおして好きにしてください。
でも、あの日は確かに裕子女史の転校初日だとしか考えられない。
仕組んだとしたら、相手は私では無かっただろうから私より学業成績も親の資産や仕事も良質な同志子弟が複数いた。NO2氏(過去ツイ参照)もその頃引っ越してきたような記憶がある。組織施設での会合や子供グループで接点もあっただろう。その後、淡い交際に至った実例があるだけに相手の素性はよく調べてから工作に移るはずだ。
あれは仕込みではない。
という事で、勉氏がいかに裕子女史の相手としての私に接触を怠って来たか、これからすぐに会いに来るべきかを書いてゆきたいと思います。
TBに仲立ちを依頼して失敗するのは出身区での出来事で、その前居住地、父が癌になる前に住んでいた中区での話に話をさかのぼりたいと思います。長者町の富士見中の前のワンルームMに住んでいたんですが、その頃、中国人留学生と交際していて、子供でも出来ていたら、そのまま結婚して今は日本にいなかった可能性すらある状態になっていました。 働き者の娘で母国で小学校の先生をしていたのも、うちの父も同業なんで話が通ずるところがありました。
当時はまだ日中関係も今のような感じではなく、発展途上国からきた苦学生という感じで学費を稼ぐのに毎日いろんなバイトを掛け持ちしてましたね。とにかくこれからどうなってゆくのか想像もつかなくなんも考えてませんでした。
そんな中でも裕子女史から無言電話が頻繁にかかってくるんです。中区に来てからも忘れましたが、何度か裕子女史の実家宛てに手紙を出していたからなのでしょうが、私的には裕子女史は私と話を出来ない性格してるから、どうしようにも無理な女だなと思い始め、次第に気持ち的に遠ざかるようになっていったんです。若い時分でそらそうなるやろと勉氏もそう思っていた事と思います。
で、無言電話も未練の現れと思い、また実家宛てに手紙を出したんです。たしか、電話で話をしてくださいとか、うちの前で何時に待っているから話をしましょう、それが出来ないのならもう電話は止めてくださいとかそんな内容だったと記憶してます。
それ出して、その期日の日にまた無言電話かけてきたのを覚えています。
この頃の裕子女史は、勤め始めて6年経ち、技術職挫折も経験している時なんです。それでも私と相対して立ち止まる事すら出来ない。私に対してだけ真性の気の弱さを持っているんです。
中区時代に複数回マンションの入り口で立って安価工作をする60ぐらいの男性を覚えているんですがあれが勉氏ではなかったのか?しかし似てなかったから依頼を受けた地元勢だったのでしょう。(裕子女史と勉氏は目つきの陰湿なところが… いや目元が激似なんですぐ父娘と分かるんです)まあ、中区時代も大田区に引き続いて監視対象にされていたんです。
この中区時代は25,6の時だから、20年以上前の話です。 当時黄金町の売〇街が全盛期を迎えており、歩いて10分ぐらいの距離なんで後学のために庶民の風俗を見て見分を広めんと、見学だけをするために同地を足繫く探訪していました。たまに○○○○してました。
そんなある探訪日に例の河畔をピンクな灯の群れへと歩いていると、水色のワンピースを着た若い女が横切るのです。
それが裕子女史でした。
街娼しか立っていない場所と時間で一際、異様な感じを醸し出していましたね…。 裕子女史は若い頃はかなりの美人として通っていたんで、あの時周りにいた男が声をかけなかったのは、女装男娼だと思っていたんでしょうね…。
まあ、そばに勉氏か男の同志勢が待機していたんでしょうが、(実際、前述の入り口の安価男を黄金町の飾り窓を出たところで見た事が有った…。そう考えるとあれは勉氏か?)その時もあわわあわわと動揺が動きに出ていました。裕子女史的にショックだったのでしょうね。
その頃の勉氏は私のアラさがしをして、裕子女史にあいつはやめた方がいいと諭していたんです。私が遼寧女と懇ろな感じでいる時期の事です。
勉氏は父親として当然の事をしていたんですね。当時は進んで参戦してきていたんです。
ある日の事、遼寧女史と横浜橋か近くの名も無きスーパーかで二人で買い物をしてマンションに戻るとすぐに呼び鈴をピンポンと鳴らす人物がいました。
その前にも何度かピンポンダッシュをして逃げる不審者がいたんで、また奴か!とすぐベランダに出て下を見ました。(不死身中の前のライオンズを想起されたい道路へ出るには上から見える構造なんです。)
髪の長いワンピースの女が嘆きのフォースを激しく発しながら、歩いて去ってゆくのが見えました。
遼寧女史が犯人を見たかと問うのに私は首を振っていなかったと答えていました。
産科医T沢の話もそうですが、なんか見えないものの不思議な紐帯が有ると、感情が伝わってくる事があるんです。すごく悲しくなったのを記憶しています。その後もずっと裕子女史はそんな事繰り返してましたね。
父が小細胞癌と診断され、先に母と兄弟が出身区で借家を借りて住み始めました。
当時の癌宣告はそんなもんだったようで、父は余命1年と包み隠さずに言われてしまい。
しばらく抜け殻のようになっていました。私は以前中区に住んでいたんで、そこから出身区の病院へ見舞いに行っていました。
前述の裕子ピンポンダッシュ事件を見てから、なんとなく気持ちが揺らぎだしてゆくのです。裕子女史は、私と話すら出来ないがあれはああいう人間なのではないのか?私だって人にはできても自分は出来ない事なんていくらでもある。裕子女史はもうきついと伝えられる仕事に従事して8年経つ。
他に接していて、私に接せられないのは、意中本命であるからとしか思えない。どうでもよい人間なら、こっちは忘れようとしている時にわざわざピンポンダッシュ事件を起こさんやろ…。 裕子女史は真正の不器用な人間なんだ。
同時期に遼寧女史の底辺大卒業が迫っていた。この頃の中国人留学生は日本の日本語学校から定員割れしている底辺大学へ、有無を言わさず送り込まれ、大学は国か補助金を受け取る仕組みが出来ていた。日本語学校は必ず進学できるルートを作った。
遼寧女史は真面目な人で本気で勉強しに来日していたが、その利権構造にからめとられてその他大勢と同じ道を辿っていたんです。
そんなアリジゴクの巣に吸い込まれてゆくかと思われた彼女に救いの手が差し伸べられました。有名私大の大学院への進学が決まったんです。なんか二世政治家の学歴みたいな展開を見せ始めた遼寧女史ですが、そこに至った経緯は…。謎ですな。まあ真面目で来日4年で日本語ペラペラになっていたという優れた資質のおかげだったのかな。
で、その辺から少しずつ疎遠になってゆきましたね。
別れる2か月前ぐらいに公営の留学生寮に遊びに行った事が有りました。
公設の施設に入居するだけあって学生が、皆、希望に溢れていてキラキラするものを発散させていましたね。遼寧女史も仲間の輪に加わると同じような明るい未来を背後に湧き立たせるんです。彼女はこれから大学院で新しい知己を得て、新しい道を行くんだろうと思いましたね。
無言電話も続いていたんで、再び裕子女史の実家に手紙を出しました。会ってほしいとかどこそこで何時に待ってますとかそんな内容だったと記憶してます。
今考えれば実家へ行き、勉氏夫妻と面会すればいいじゃないかともいえますが、一度も話した事無い相手の親に会いにゆくわけにもいかないでしょう。とにかく昔から、よく意志の伝わってこない50女だったんです。その時は27女か。手紙への反応はありませんでした。
父の癌は小細胞癌で切除することが出来ず、抗がん剤と放射線治療だけしか治療法がありません。見舞いに行くたびに、どことなく影が薄くなってゆくのを感じていました。
父の闘病記とか遼寧女史とかもう20年以上前の話で全然関係ないやろ、なんでそんなもんを持ち出してくんねんという疑問を勉氏及び裕子一派一同はお持ちになる事と思います。
ここからが目的を示すところなんで静かに読んで行って下さいね。
遼寧女史の大学院も希望すればだれでも入れるだろと思われるかもしれませんが、20年前の留学生には、金の問題で余程の信条でもない限り難しい事でした。
当時は爆買いする中国人観光客なんて想像もつかない時代で、その後の中国の躍進と日本の凋落が思われて悲しいですね。
その時の遼寧女史にはなんか好機が巡って来ていたんです。
N氏と出会って私が入会した後のある日、呼び出されたか遊びに訪ねて行ったか例の店で二人で話をしました。「君は裕子さんに会う為に入会までするんだから、当然いいとして、おっかさんは彼女についてどう思っているの?」「うちは全部自分の考えるように生きろという感じだから、何も言いませんよ」
ふーんと言って話を切り替えたかどうか忘れましたが、N氏は勉氏や裕子女史にそれを聞いてくれと依頼されていたでしょう?
その後もたびたび母の裕子女史に対する気持ち的なものに探りを入れてくる事が有ったんです。
しかし、N氏は私とほんとに2人で話をする時は裕子女史はこう言っているというように包み隠さず話していました。それを考えると裕子女史が隣室にいるか、録音をして後で聞くようにしてあるから、回りくどい問い方をしてさりげない体を装っていたんです。
兄弟についてもN氏にいろいろ聞かれた事が有りました。その時もN氏と兄弟は全く面識のない関係ながら、口を滑らしたのか兄弟の人柄について言及していたのを覚えています。裕子女史から聞いた内容をつい言ってしまったんでしょうね。
その時に私は裕子女史が取り巻きへの体裁で逃げる言い訳に北枕の老母と兄弟の反対に遭っているという虚構を捏造しようとしているんだと思いました。
そのあたりから、老母に同志勢が会いに来たり、老母の行く先で組織に対する失言を引き出させるような工作を仕組んでいたのを聞いています。思想団体系の手芸の集まりに誘いに来る人がいたりしてましたね。あれどうやったんですかね、後で聞きたいくらいですよ。これらの失墜工作は老母本人は分かってませんからね。私が35年もいろいろやられてきて情報を集めているから判明するだけの話です。
なぜこれらの工作をしたのか?逃げ口上の構築だけだと、8年で3回だけだが、私の前に姿を現している事実を説明できない。逃げたい気持ちは根底に有るには有るが、それでは孤独死真っ逆さまなのは裕子女史も理解していて何とか脱したいと考えているんです。
なぜか? さんざん考えてみて答えに結びつきそうなN氏との会話を思い出して見たりして、判然とはしないが2つの事を導き出していました。
一つは、私が母に反対されて遼寧女史との別れたという嘘。もう一つは…。
遼寧女史と疎遠になるにつれ、ピンポンダッシュして泣きながら走り去ってゆくメンヘラ女裕子女史との縁を思い出して引き戻されてゆきました。数年ぶりに手紙を出したんです。これが勉氏宛てになっていたのかな?もう忘れてしまいましたが。
やはり反応は無かったと記憶しています。
ところが、私には反応なしと見せかけて、不思議な事を仕掛けてくる裕子家の奇習を目撃することになりました。
ある父を見舞った日になんか荷物を運んだのか車で行き(いつもは原付)、病院駐車場に止めて中に入ったんです。父との用事を済ませ駐車場へ向かうと、痩せた老婆が私を一瞥するなり車の列へ向けて年甲斐も無く全力で走りだしたんです。車の陰に隠れて見えない人物に呼ばれたようでした。
特に爆走という年寄りの冷や水以外に不自然な事でもないので気に留めずに車に乗り込み駐車場を出ようと走り始めます。
そうすると遠くの病院通用門(面会者はここから入る)にさっきの老婆と水色のワンピースのメンヘラ女が中に入ってゆくところでした。76%裕子女史だったんです。老婆はおばあちゃん子で、おばあちゃんの影響で入職したと組織会合で発表していた、そのおばあちゃんだったのです。
で、その時もう一人通用門の中に入っていて見えないが人がいたような感じを受けました。
そのもう一人が勉氏か、裕子母氏だったのでしょう。
もう20年以上前の事なんで、はっきりは思い出せないんですが、駐車場老婆疾走事件の時は父が他界する半年前ぐらいだったと記憶しています。
一人で歩けなくなり始めて車いすで移動するようになっていました。
事件後、数週経った、私が一人で父を見舞った日に父はいつもと少し様子が違う感じで私を待っていました。小学校の教師だったんで幼少期は私の勉強を見ていたりしたんですが、自分の仕事領域を実子に教えるのに変な違和感があるのか、その日のような妙な空気をいつも醸し出していました。その日もなんか話があるんだろうなと思いました
車いすを取って来てくれと言い、鼻からガンダムのザクのようにチューブの伸びる酸素ボンベの小さい奴を後ろに乗せさせて、「ちょっと眺めのいいところが有るから、其処へ行こう」というので、病棟と病棟をつなぐガラス張りの回廊まで押して行きました。海の見える場所で確かに眺めが良かった。
そこで自分の若い頃の恋愛の話をされました。それまで一度もそんな話はしたことありませんでした。貴女にも会ったら話してあげますよ。
自分はいろいろな反対や時代の空気で、あきらめた恋があったけど、お前は自分の意思を通してあきらめるなという内容でした。
なぜ、この話をしたのか?
裕子一家と会っていたからなんですね。
で、なぜ父は自分の恋愛話で私を諭すような事をしたのか?
老婆疾走事件の日に祖母と裕子女史と勉氏で父に面会しているんです。
通用口でもう一人いたらしいという人物は勉氏なんですね。
なぜならそういう工作をする人は裕子家で勉氏だけであるからです。
父は市の教職員で、組織系の政治力が業界で優勢になる前から務めていた人です。有名な組合、○○組とか知られていましたから、退職間際まで組織の存在をほぼ知らなかったと思います。
退職間際に組織系の影響力が強い所に転勤させられて、嫌がらせされたんですが、それも結局の所、裕子女史と私の関係から父にも工作が及んでいたのです。
退職して千葉に引っ越す頃には、いろいろ感づいていたと思います。今考えるとだから県外に出たのかなとも思うんです。
私が都内を転々としている時、国立、阿佐ヶ谷と短期間ですが住んでも裕子電話(無言電話)はなく、居場所を掴んでいた形跡が無かった。
大田区でようやく探知された感じがありましたね。裕子電話が再開し近隣同士勢の協力を取り付けたんです。
晴海ふ頭のクレーンの仕事を斡旋しようと工作された事や大田区内での数々の工作実例を考えるとどうも東京の海沿いに知り合いというか内部で話を通せる人脈集団があり、その人脈集団が薄い所ではあまり活動を出来ない感じがしていました。
という感じで、勉氏は色々な工作を手掛けていた人なんです。裏も表もよく知っている組織の拡大期を生き抜いた歴戦の勇士みたいなもんですかね。
その勉氏が草食系のうちの父を丸め込むことなど、容易い事だったのでしょう。
勉氏の提示した、私の書いた手紙を見て、私の躊躇みたいなもんを読み取り、あの日の話をしたのだと思います。
(あと迂遠な病人に効く脅しすかしも少し含まれたと推測される)
疑問も出てくるでしょう。
なんでお前そこまでわかってんのにすぐに勉氏なり本人に会いにゆかなかったのか?
今はまとめて書いているんで時系列が省かれているんです。
亡父回廊の訓話は27の時で、老婆と裕子女史とを気づいたのはその数年後の事です。TB仲立ち拒否事件の頃。 さらに組織を背景としている事に完全に気づいたのはH市で団体的な抗議を受けた後の事。パソコンを買ってYouTubeで団体構成員を確認した時です。それまではうすうす公開されてるなとは思っていたが内部限定だと思っていた。37,8歳の時です。
(ここでネット圧力団体北枕機関が組織されるわけです)
27の時には何もわかっていないから、手紙を出しても反応なしと解釈していました。
ここで、もうひとつ疑問を持つでしょう。
なんで、亡父を間に入れたのに、仲介を裕子家は頼まなかったのか?
癌で末期になると、人それぞれ個性的な表情を見せ始めます。最後まで泰然自若な人もいれば、恐怖に打ち震えて周りに当たり散らす人、横柄だった人が、何にでも感謝するような聖人のようになる人もいたりします。
うちの父は老婆疾走期にはすでにモルヒネを打たれていて、朦朧としていて、それでいて知覚の芯は確かにあるんで、厭世家のだるさというか、もうどうでもいいというような心境にいた感じでした。
貴女が話しても、反応がだるそうだったでしょ?そういう変化の個性が有るのは医者とか看護師とかでないと知らないことなんですよ。
貴女一家の会ったうちの父は、以前の父とは違う人格なんです
もしかしたら、亡父に仲介を頼んでいたのかもしれませんが、最後の気力を振り絞って、私を励ましてくれていました。
悪い方の解釈では、その後ずっと続けている。良く分からない秘密主義というのか教条原理主義というのかで、はっきりとは裕子女史の事を言わないで話してくれと父に依頼したという愚行をこの時も犯していた。
裕子一家は静太郎トラックに轢かれる事件の時に姉法子女史一家が私を偵察にきて、旦那と姪のさそりちゃんが普通にしているにも関わらず、法子女史だけ後ろを向いて立っていた事と裕子女史が私の前に来た時、ほぼ後ろを向いて立っていたという実例、2年ほど前に朝うちの前で私の出勤を待っていた勉氏らしき老人が後ろ向いて立っていたという、物凄い分かりやすい親子の習性家風が有るんです。内部家庭でも他に観た事の無い裕子家特有の原理主義的な規範を持っているんです。
これは老婆疾走事件のおばあちゃんから伝わった慣習なのかと考えてみた事が有ります。
走っているおばあちゃんの動きを私の特殊能力で再生してみると、どう見ても誰かに厳密な言葉で指示されて全力疾走している動きなんです。
あのおばあちゃんが勉氏の母だったのか、勉氏の義母であったのかはしりませんが、車の陰に隠れておばあちゃんを呼んだ人物に指示されて走っていたんです。
とにかく身を隠せという指示を受けている。
後年、出身区のコンビニで何時に待つと手紙を出した日、夜9時ごろコンビニへ向かう道すがら年配の夫婦とすれ違いました。
その昼間、どこかへ行った先でズボンのチャック(今風に言うとパンツのジッパー)社会の窓が全開でそそくさと近づいてきたご婦人に「あなたチャック空いてるよ」とささやかれたのがトラウマとなり、ついつい夫婦とすれ違う時に開閉確認をしてしまったんです。それをみた妻君が小さく吹き出して笑いだしたんです。妻の笑いを旦那がすぐにオイと制して「笑ったらわかっちゃうだろ」というんです。
その時は、すれ違ってすぐに夫婦が裕子母と勉氏であった事に気づき振り返ると、既に歩道橋の反対側を歩いて去っていました。(あの当時の裕子女史はあのあたりに住んでいたんでしょうね。線路沿いの犬飼えるマンションだったか?)その日はこれは今日は裕子女史来ているなと意気込んで現場へ行きましたが、生体反応なしでようするには両親へ私が現場へゆくところを見せたんです。
そして、ここで見えてくるのは、この悪習の考案者、創始者が誰であるか。
裕子女史ではない、姉法子女史を飛び越して一家の規範を構築するはずないから。
同じ理由で法子女史が母氏を超えて規範化しない。
おばあちゃんは姉妹の後ろ向き行動と同じく創始者に指示されて走っていたから違う。
母氏は社会の窓事件で、勉氏に叱責されているから違う。
祖父から伝承されたとも考えられますが、その場合、おばあちゃんが指示を受け全力疾走する全力具合が弱まると思う、だから違う。
全部が勉氏から始まり、勉氏が娘たちに教え伝えた規範なのです。
この亡父回廊の訓話時に思いっきり亡父に仲介を依頼すればすべて解決していただろうという話ではありません。
当時は20代で裕子女史にも、まだまだいくつもの選択肢があり、後年、私が同級生勢に裕子女史の人柄を問うた時には、顔だけは綺麗だった(他は……)とすら言われていたくらいのメンヘラ女なんで、結構マジな話で引く手あまたの無双状態だったんです。
勉氏的にもなんとかもっと条件の良い男に嫁がせたいというのが本音で、裕子女史に請われるまま亡父に会いに行っただけで、若さゆえの過ちを時間が解決するのを待っていただけだったと思います。
伝え聞いた話では、この後父の他界後に裕子女史は同志勢医療関係者と結婚を前提とした交際を始めたといいます。
想像するに勉氏が手配した同志医師だったのではないでしょうか?
話が前後しますが、私は父が他界してから出身区の家族の住む借家に合流しました。
そこからしばらくは裕子電話(無言電話)はなく、とうとう忘れられちゃったみたいだなと、中学生の時からの話だったんで、裕子号泣ピンポンダッシュ事件とかを考え、悪いことしたのかもないつか謝る機会があればいいなと思ったりしました。
遼寧女史と別れたのも父他界後の事でこの裕子反応の無い同志医師と交際していた時期なんです。だから遼寧女史との別れに裕子女史の存在は今考えるとあんまり関係なかったのかもしれませんね。
が、遼寧女史と別れてから、しばらくして裕子電話が再開し始めたんです。
ある日、私のバイト先に母氏と共にやって来て姿を見せました。中学の時からずっと髪を長くしていたメンヘラ女なんですが、この時、バッサリと草間彌生風の心を病んだ感じのストレートボブに髪型を変えていました。
わざわざ同志医師と別れたという事を伝えに来たんです。
解説
裕子ピンポンダッシュ編は続きが消失してしまっていてここまでです。
これは勉書で書いた内容と重複しているんで、そのまま読んでください。
裕子号泣ピンポンダッシュ事件は私が裕子女史への負い目として記憶していて、私からは離れて行かない理由の一つです。
北枕 静太郎 @kitamakura44 2021年4月18日
未来の為にも、支援系の戦いに勝ち抜く必要があると思いますよ。
ここで逃げても、あなた自身の未来に誰かからの支援がなくなるだけです。やらない人間はやってはもらえない。ようは成功要素は失われる。
全力で戦うしかあなたに道はない
すぐに今いる奴を交代させて二度と来させるな。
戦いましょう
申告が終わったんで地震の時の話の続きを公開しときます。
地震という言葉が入っているだけで数万人が読むようになるとこを見ると、内〇でこの話が広く伝えられているんでしょうね。
裕子女史が地震の日の深夜2時過ぎに一人アンカリング工作を仕掛けてきた話。
当時、H市の店で働いていて(C団体の抗議活動に遭いそうになったとこ)午後2時ごろ車で家を出て夕方から23時まで営業。その後、準備作業を深夜の2時まで店でやって帰宅する毎日を送っていました。
3月11日は丁度、家を出ようとした時にあの地震が発生。大家さんが自分で建てたバラックみたいな借家だったので、壁土が割れて揺れるたびにさらさら音を立てて崩れてゆきました。横浜市内では倒壊した建物は無かったんじゃないかな、うちの借家もえらい揺れましたがつぶれはしなかった。
TVでミヤネ屋を見ていました、あの番組は大阪のスタジオで収録しているそうなんですが、宮根屋氏がセットの演台を掴んで揺れている地震だと言っているのをみました。
あの地震は東北はもとより、北海道から大阪まで揺れたほどの巨大さだったんです。
私は出勤をやめて、TVで情報を得ようとしてました。
最初は千葉沿海部でなんかの工場のタンクが爆発したと報道されました。
停電がそこかしこで発生していると知り、D氏(店の社長、私は偽店長)に連絡してH市内の停電は大丈夫か聞くと、駅前は来ているが店の方はわからないとの事。
冷蔵庫が止まっていたら、なんか対処しなくてはならないので店に行くことにしたんです。
横浜市内からH市までの道の信号が停電で6割ぐらい消えていて点かずにいました。
皆、騒然とした状態で道すがら見るのは家から外に出て数人で話し込む姿。
その日は余震が何度も続いていたので、家の中にいるのも不安だったんでしょうね
警官が交通誘導しそうなもんですが、なぜか一人もみませんでした。警察の騒擾災害マニュアルの最高度厳戒での対応が決まったのだと考えています
個々に街中に出動すると、暴徒化した輩に武器を奪われ、かえって治安を悪化させる的な感じで、武装組織として数的有利を維持するために。
この対応策は関東大震災時の大混乱から作られているのだと思います。
H市の店に着くと何一つ問題ない。すぐ落ちそうなもんすら昨日と同じ位置にある。電気もついている。
そんな状態なんで、周りの店は普通に営業をしていたんです。その土地は岩盤の上にあるらしく堅固なんだと誰かが後で言ってました
仕方なく私も営業することにして、いつもの通りに仕事をしました。でもやっぱりなんか誰もが浮足だっていて、町全体がなんか唸っているような騒然とした空気に包まれていたんです。
店のTVを見ていると、東北の沿岸を津波が襲い、大変な事になっていると伝えていました。
やがて、宮城の海岸に数百体の津波の犠牲者の遺体が打ち上げられていると報道が始まりました。
その海岸の光景を想像してものすごい陰惨なものに包まれた感覚を記憶しています。
そのころ裕子女史はというと、いろいろ混乱の最中に遭ったと聞いています。大変だったんでしょうね。公務員なんですが、そういう役ではないんで通常の定時勤務で帰宅したのではないでしょうか。前述の通り、中年にして子供っぽいので、家族の安否確認なんかを盛んにしていた事でしょうね。皆、無事だと確認して、私の安否確認を始めました。自宅に居るか隣家の同志一家に連絡するも、車がないからいないだろうという答え。H市のいやがらせ同志勢の担当者に連絡するとそれどころじゃないからあとで連絡すると言われ、不安に駆られていた。静太郎氏はトラックにひかれたり運も悪い男だし、自宅に帰らず外で死ぬ馬鹿な猫みたいなオーラを放っている。しかも頭悪そうだ、あいつは地震で死にかけているに違いないと妄想を膨らませていった。
H市同志勢は、裕子女史と私を結びつけない様に盛んに工作を続けていたんで、わざと安否確認の返答を遅らせていた。現地はいたって平穏でいた。
が、裕子女史の不安はインフレを起こし、被害妄想の虜となり、私の死は間違いないという確信すら覚えるようになっていた。
それはチャオチュールを瞳孔を開いたまま貪り食う駄猫のごと…
私は障害のある老母を一人にしている事が心配だったんで午前1時過ぎには店を出て帰路につきました
その夜は、さすがに車がほとんど走っておらず、(深夜でもいつもは数倍)静かで不思議な空気感に包まれていました。
夜が深いというのか、まあ実際停電でところどころ真っ暗な地域もあるし信号も消えたままなんですが、原始の闇、太古の人類の目で見る暗闇、暗がりの向こうに野獣や怪物が死を抱えて息をひそめて待ち構えているような危険な世界が広がっていました。
私がH市へ出かけた後、老母が外を見ると晴れているのに、みぞれというか湿りっけの無い、小さな雹みたいな氷の粒がパラパラと降っていたそうです。 老母は世界が終わるのではないのかと不安を覚えていたそうです。
その夜の構成成分が青いと表現すればいいのか、すごくひんやりとして肌寒いのも相まって、感覚的に青白い刃物みたいな特殊な感じがしていました。
この不思議な青白い闇を長く放置しておくと、人々が狂いだして虐〇や反乱を起こしてしまうのだと思いました。
25年ほども前になりますが、私は大田区山王地区の小さな沼のほとりに住んでいました。 南は六郷土手のバッティングセンターから北は銀座のクラブまでいろんなバイトをして激安アパートの家賃をやっとこさ払いつつ無駄な人生を無駄に浪費していたんです。
このころからもう暇な時に釣りをしに行ったりしていたんです。金がかからないから。
蒲田あたりでバイトしている時は原付を持ってはいたが、わざわざ1時間歩いて行っていました。池上通りと並行して旧池上通りみたいな細い通りが走っていてなんとなく雰囲気が好きで歩いていたんです。蒲田の脇を斜めに池上通りへ向かう死にかけ商店街を通ってたまに池上本門寺の境内の中を通り馬込に降りて行き旧道へ進むんです。
本門寺の馬込側の階段の下に、小さな池が(小学校のプールを小さくしたくらいの大きさ)あり、私が通るとよく一人の老人がクチボソを釣っていたんです。
大田区の淡水釣りと言えば、多摩川ですが、平和島の公園内にも大きな池が有ったり、馬込にヘラブナセンターもあるし結構、盛んな土地なんです。 私が熱心に見つめているんで、老人から話しかけてきた事がありました。「クチボソは昔からいて、俺がフナも多摩川から持ってきて入れてあるんだ」釣りすんなという看板が確かあったような記憶がありますが、それを指さして怒られないのかと老人に尋ねたと思う。自分も来ようと思ったんです。
その年の夏の夜のバイトの帰りに、肝心な所があいまいな記憶となってしまっているんですが、その旧道の少し奥の方であるお祭りか、大森のアーケード商店街の神社のお祭りに遭遇してビールとたこ焼きと焼きそばを買って、長会議机で作られた飲食コーナーで夕食と晩酌にしていました。
5列10机ぐらいの飲食スペースには、20時近かったのでもう酔いつぶれたハッピと股引みたいな白い奴を穿いた老人やねじり鉢巻きの若衆が群れていました。 私も祭りの運営で一仕事した感を意図的に醸し出して紛れ込む努力をして、次第に酒が回って図々しくしていました。 日曜日だったと記憶しています。 皆、祭りの後で明日の仕事を忘れないようにセーブしながら飲んでいるようでしたね。
隣に座っていた同じ町内のグループらしき男女5人が話しているのを聞いていました。
飲食スペースの奥にテントで貴賓席が作られており、地元の長老や役員が座って同じように飲み食いしています。
そこを見ながらひそひそと話を始めるんです。
私もそのテントを見やると、どこかで見た老人が座っているんです。ああ、あのクチボソ釣りのおっさんじゃん。この辺の町内会の人だったんだな。怒られないわけだわ…。
耳をそばだててかすかに聞こえる5人の話を聞き漏らすまいとしていました。
「あの真ん中の人が○○●〇の兄ちゃんらしい。へえー。ほんと!と皆、目を見開いて何かの事件を見守るかのようにその人を眺めているんです。
どうもクチボソのおっさんの隣の隣に座っているのが○○先生のお兄さんだと話し合っていたんです。
当時の私は○○関係者と明かされての付き合いは全くなかったんですが、
写真週刊誌で顔を拝見した事があったので、その映像と比較してみると、似ていると言えば似ている。似てないと言えば全く似てない。そもそも面長で骨太ながら痩せていたんです。あの世代にしては背も高い方に見えた。
5人のうちの一人の壮年男が言い出していたんですが、まずデマっぽいなと思いました
その時、私とその5人を挟んで座っていた50がらみの女性がその老人に向かって手を合わせて深々と頭を下げ、何かをつぶやいているのが見えました。
夏祭りの昭和歌謡のカセットテープが音をひずませていて裸電球で一面が夕照に包まれ、宴の後の高揚感が満ちている中にその女性だけが別の世界にい
感じ。なんかの膜につつまれていて何かを願っていた。
その光景がその日の後、しばらくこびりついたように頭を離れなくて困りました。
F市を出て、横浜市内に入ると停電しているところは見られなくなりました。 後で流れた噂では、大病院がある地域や集合住宅密集地は停電させずに混乱を防いだというものがありました。
F市から横浜市内まで環状4号のすきやの店員が外に出て携帯で話をしているのを例外として、一人も外にいる人間を見ませんでした。 すべての人が等しく、あの夜の闇の深さを感じていたんです。
うちへたどり着く、3つ前の交差点に青いワンピースを着た中年女性が立っているのが見えました。信号待ちで前に車がいて、150mぐらい先の歩道で遠くを見るようにして横を向いているんです。 あの青いワンピどこかで見たことあるなとも思いましたが、騒乱時に記憶がつながるわけもなく、家族が帰ってこなくて心配してんだろうなぁとそのまま通り過ぎて家に帰りました。
帰宅後、午前2時まで起きていた老母と少し話をして、遅い夕食を取り、TVを見ながら酒を飲み始めて、ようやく昔みた裕子女史の青ワンピの記憶と、さっき交差点で立っていた地震で圧死した帰らぬ不運の旦那を待つ青ワンピ妻の映像が一致した。
40キロ中にすきやの店員しか外に出ていない極限状態に裕子女史は待っていたんですね。
あの50がらみの中年女性が包まれていた不思議なものを、感覚を、地震の日の裕子女史にも見ていました。
その後、うまくはいきませんでしたが、ただ一つ確かなのは、全世界で私の事を心配してくれる血のつながりのない人間は彼女一人だけなんです。
追記
こう書くと裕子女史が4時間ぐらい外で待っていたかのように読めますが、さにあらず、F市のいやがらせ人員が私が店を出るの待っていて話しかけてきました。私の動向を知らせるように依頼されていたんですね。あの状況で今度飲みに行こうという異常な話をされたんです。
その人員が裕子女史に連絡して、おおよその交差点を通過する時間を割り出し、30分ぐらいそばの駐車場に同級生勢かなんかと待機していてGPSで接近を確認してから外で立って待機していた。
大勢に迷惑かけて大変なメンヘラなんですね。
が、裏事情はどうであれ、待っていたんです。それだけを見たい
解説
大田区の池上本門寺の沼で釣りをしている老人というのは、実際に居ましたが、話した事はありません。
したがって、お祭りの役員席に座っていたというのも作り話です。
これを書いた当時、中国ドラマかなんか見ていたんでしょうね。
太公望の釣りの逸話みたいな場面が中国ドラマってよく使われるんです。
ドラマに影響を受けて創作挿話として入れてしまっているんです。
もう30年前の事なんで、肝心の場所とかの記憶が消えてしまっているんですが、○○先生のお兄さんとこそこそ囁かれていた老人がお祭りに居たのは実話です。
蒲田でバイトした帰りだと記憶してるんで、馬込の住宅地の中か平和島の釣り池のあるデカイ公園、東邦大の前の通り沿いの公園、大森の駅前商店街のお祭りのどれかでしょうね。 たぶん…。
30年前から超有名人な○○先生なんで当時も写真を見たことがありましたが、正直な話、100%全く似てなかった。
体型が違っていたんです。
あそこまで似てない兄弟もいないでしょうから、ガセネタを囁き勢が掴まされているんだと当時も思ってました。
その話をN氏にすると、○○先生のお兄さんではないが、もしかしたら奥様系のお兄さんを見たのかもねと言ってましたね。
で、私と一緒に囁き勢の会話を聞いて、その偽お兄さんを見て、手を合わせている夫人がいたんです。
この時の強烈な印象を今でも覚えているんですね。
最後の解説として
おととしの11月くらいから書き始めたんで、1年半に渡って書き続けてきました。
昨年初めに新しい商売へ移行したんで、その忙しさもあり、半年くらいで書き終えようと始めたものが一年半かかってしまいましたね。
昨年の夏のお盆休みまでに書き終えようとしている記述が残っているのを見つけて随分と難航したなと書き終える今、感慨深いです。
もう一度、お義父さんには初めから通して読んでいただきたい。
お前にお義父さんと呼ばれる筋合いはないと激昂してそうなんで以後、貴方に切り替えます。
前編後編で裕子女史が何故私を選んだかについて記しています。
裕子女史は周りの同志勢、特に同級生勢から注目されたいが為に私を選んでいたんです。
これは、成人して、横浜、神奈川県から出ていれば、おそらく解消された情念だったのだと思っています。
彼女は地元で公務員になったので、広い世間を見る機会を失っていました。
袖振り合うも他生の縁といいますが、同じ鉢の中に植えられた花みたいなもので60億の人間の生きる中で隣り合って思春期を過ごしていました。
裕子女史が横浜に引っ越してきて、初登校の日にT沢という近所の産科医の息子が下の階の私の教室まで来て、何故か私だけをかわいい子が引っ越して来たから見に来いと休み時間に呼びに来たんです。
裕子女史は教室に居なくて休み時間が終わり自分の教室に走って帰ったのを憶えています。
不思議な事があって、ほんとに縁があったんだと思います。
そこから、後編ではお義父さん……、いや、貴方の組織の裏工作に染まった人間性について書いています。
その組織の気風に裕子女史も染まりきって世間とはかけ離れた感覚を持っている事を書いています。
これはもう沁みついていて、彼女自身と一体となっていて剥がす事の出来ないものとなっている。
その異常な行為や感覚を持つ裕子女史のまま、受け入れるしかない事を繰り返し書いてますね。
その異常さの中でも一番彼女を転落させているのが、私に話かけられない、話しかけられないどころか、面と向かって立つことが出来ないという臆病さです。
そのまま受け入れると言ったんだから、それも認めてやれよといわれるでしょうが、話しかけてこないというか、前に立てないんで私からも話しかける事が出来ないんです。
そこで、貴方が私と会って裕子女史と引き合わせていただきたい。
その願いを貴方に伝えるために勉氏への書簡を書き始めました。
こう書くと、裕子女史は怒っているでしょうね。
彼女が私の前に立った事もあれば、話しかけてきた事もあるからです。
(マスクなど無しに顔を見せて立ったのは全部で10回ぐらいはあったと思います。30までに6回、40までに3回、それ以降Xデーに一回)
裕子女史的には物凄い勇気を振り絞った行動なのでしょうが、普通の人はその一回一回に成否の結果を自分で割り出すんです。
会話を成り立たせて、二人で御互いを審査する。
ダメならほかの異性の方がいいだろうと目を周りへ向けるんです。
この経験値を低く抑えてきた臆病さも、地元を離れなかったのと同じく、相手を私とし続けた理由だと思います。
そして50過ぎてしまい、なおさら相手が私しか考えられなくなってしまう。
が、逆に考えると、裕子女史は若い頃は美人で通っていたし(今はしもぶくれのヒロですが…。)物凄い真面目な性格で健康。 しかも公務員で働き続けている。
普通はこういう人種は私みたいな泥ガメを相手にしないんですね。
私なんか真面目な話、スカウターで見たら2とかですよ……。
(同志医師は54000。)
なぜ私が今、裕子女史の視界に入っているのか?
それが37年前にT沢慎が私だけを呼びに来たあの日から始まる二人の縁なのだと思うんです。
本文中、同志医師を連れて来て嫁がせろとか書いていますが、私が亡父が死んだ60までしか生きられないと仮定して、残りの短い人生を裕子女史以外の女性と生きるというのも考えられないんです。
彼女は50過ぎた今、なおさら自分からは接触できなくなってしまっている。
いい年のおばはんなんですが、50の同級生勢は居間を全裸で徘徊するだけ羞恥心など消えてなくなっているのに、彼女は真面目で純粋なままでいるんですね。
貴方から見てもそんな感じでしょう?
もう貴方が私に会って引き合わせてくれるしか、道がなくなっているんです。
最終章、真最終章で、貴方父娘が仕掛けてくる各種工作を解説しています。
概ね書いている通りですね?
私の夢と会員としての誓願を成就させる為に、本文中に書いている通りに、裕子女史と私が会ってからの工作だけを評価して下さい。
誓願の章で裕子女史が貴方を頼りにしているという事を書いています。
裕子女史は、ほんとに私との事は貴方に全て委ねているんです。
それを貴方が理解してくれないんで、無視した恨みで私を嫌がらせで殺すというやけっぱちの宣言をしている。
最終章から、裕子女史の本音が誰か二人の仲を取り持ってほしいというものだと書いています。
この誰かという部分が貴方であるという事を誓願の章で書いているんです。
ここだけは再度転載しときます。
彼女は組織の傘から外れて丸裸にしても、公務員だし、真面目な丸眼鏡の地味な女なんで特に生活に変化はないのではないでしょうか?
そういう立場なのになぜ、組織の後援を前面に押し出してくるのか考えたことありますか?
貴方がそれなりの役職に就いていたからですよ。
父親のその威光を利用しようというのではありません。
(今なんか引退してますよね)
信心と組織第一で生きてきた、貴方の気持ちを動かしたいからなんです。
ずっと貴方が力になってくれるのを待ち続けているんです。
で、50になった今も引退した貴方の活動家時代の威光に縋っているかのように振舞っている。
これって、もう貴方が仲立ちしてくれることを待っているとしか思えませんね。
現在はもちろんですが、15の時からの話ですよ。
35年間、貴方が仲介してくれることを待っているんです。
なんでわからないんですか?
裕子女史も立場的に苦しい思いをしていると思うんです。
未婚で50という昔風にいうとオールドミスってやつに完全になってしまい、家族連れとか同僚の旦那とか見るとなんか思う所があると思います。
父親の貴方の手で苦悩する娘を救ってあげてください。
娘の本音を見てください。
照れ隠しついでに否定するでしょうが、じゃあ何のために37年も追いかけ続けているんだと貴方自身が考えてみて下さい。
おそらくは、このままの状態で嫌がらせをして潰してやりたいくらいに言うかもしれません。
人生を賭けて復讐するという。 私は小物過ぎて、そこまでする相手ではないでしょう。
一生懸命、勉強して働いて、組織と公布に尽くして来た彼女がそのような人生を送るのは、あまりにも悲しすぎる。
本音を引き出して、苦しんでいる娘を救って下さい。
私と会って、裕子女史と引き合わせてください。
出来る限りの努力をして裕子女史が幸せになるようにします。
嫌疑をかけられていたようですが、裕子女史に暴力を絶対に振るいません。
裕子女史がやられたと、貴方に訴えたら、殺されてもかまいません。
あと何とか、文業と健康販売の仕事を成功させるように懸命に働きます。
孤独死を避けるためにいろいろ考えて行きます。
とりあえず、店は7月まで続けて、貴方が来なかったら、好況不調に関わらず、そこですぐ退去を大家さんに伝えます。
その後、どうするかは…。
どうするかな?
考えてませんよ。
これから物凄く気を付けて行きますが、後ろ向いてたりすると厳しいです。
正直な話、貴方を見たことありません。
もうここまで来たら、どんと構えて話しかけてきていただきたいというのが本音です。
分かるようにしていてください。お願いします。
必ず勉書をはじめからもう一度読み返してください。
今は無き上大岡の店で、今は亡きN氏と初めて会って、N氏がこの信心で叶わない願いは無い、必ず近いうちに裕子女史と会えるだろうと言い切ったのを聞いてから10年経ちます。
毎日、お題目をあげて、祈り、願い続けたのは、裕子女史と会って一緒に生きるという事です。
組織と共に生き、組織を血肉をしてきた信心強盛の貴方が、ここまで、やって来た私の願いを叶えるために力を貸してくれると信じます。
そして、娘を悲しみから救って下さい。
貴方父娘と会えることを楽しみにお待ちしています。
なんかの縁で今があるのは間違いない。
私にも私にしか出来ない使命があるのでしょう。
私のような40での入会者にどんな使命があるのか?
実は私も貴方も裕子女史も薄々こういうものなのではないのか?という私の使命が分かっている気がします。
だから、著名人来訪工作を仕掛けずにはいられなかった。
そういう不思議な事ってありますよね。
私は、私に与えられた使命を果たす為に戦い続けるのです。
誓願を成就させる為に。
了
一年半の長きに渡り、お付き合いいただきありがとうございました。