見出し画像

シェアハウス・comma 「薙 葵 編」

この作品は文芸誌・文活のリレー小説シリーズ『シェアハウス・comma』の第2話です。シリーズを通して読みたい方はこちらのマガジンをご覧ください。


「台所で使うタオルってどこにある?どこにありますか?」

光をきろきろと反射する真っ白なマグカップを陳列していたら、後ろから勢いよく声をかけられた。少年の鼻の頭が汗で濡れている。子犬みたいだ。早く早くと急かすように足踏みをして、彼はもう一度、台所で使うタオル、と言った。親におつかいを頼まれたのだろう。台所のタオルと一口に言ったって色々なタオルがある。棚の間を通り抜け、ひとまず台所用品コーナーに少年を連れていった。

「これでもこれでもこれでもない」

いいリズムだ。「これでもこれでもこれでもないですか」と繰り返すと、うん、と力強い返事が返ってきた。もしかしたら超吸収生地のタオルを探しているのかもしれない。2つ先の棚にある風呂場用品コーナーに向かおうとすると、少年は「あった」と叫んで急に立ち止まった。指差す先にあるのは、仮面ライダーの巾着袋。全然台所で使うタオルじゃない。

「これですか?」
「これです」

レジで少年から手渡された100円玉は、手汗でじっとり湿っていてあたたかかった。綺麗な100円玉。桜花の模様が指先に当たる。側面のギザは103本。軽そうで重い。

お会計を済ますと、少年は嬉しそうに帰っていった。彼の手にある巾着袋に描かれた、仮面ライダーと目が合う。帰ってから親御さんに叱られませんかね。大丈夫、そんなことより彼はとても勇気のある少年だね。仮面ライダーは満足気な表情をしていた。


「先、上がります」

倉庫で在庫確認をしている店長に声をかける。

「あれ?今日早番か。薙さんが早番なんて珍しいね」
「ちょっと予定があって。すみません」
「謝る必要なんかないのに。安心と信頼のスーパーバイトリーダーよ、バイト以外も楽しみなさい」
「そうですよね、ありがとうございます」

失礼します、と頭を下げて外へ出る。100円ショップでバイトを続けて10年。正社員への昇格の機会は何度もあったが、どうしても書類に判を押すことができなかった。いつからか周りから“スーパーバイトリーダー”(茶化されてる?)と呼ばれるようになり、月末は貯金通帳を見て天を仰ぎ、お金がないのに禁煙もできずに、今に至る。

100円ショップの入っているショッピングモールを出て、大通りを進み、右に曲がって、坂を下る。坂の下には高級住宅街が広がっていて、公園からは子どもの笑う声がする。平和だ。セミの鳴き声がまばらに聞こえてくる。前まで住んでいたアパートは、ここからでも見えるのだろうか。ふと思い立って目を凝らす。赤茶色の屋根。クリーム色の外壁。薄い壁。お湯の蛇口と水の蛇口の開き具合で湯加減を調節する水道。ぐちゃぐちゃの自転車置き場。全然見えなくて、探すのを諦める。見えなくなって、見なくなって、忘れていくんだよな。見えていたことも、忘れちゃうんだよな。


今日から住む場所にたどり着くと、ちょうど日が暮れ始める時間帯で、全ての窓がオレンジ色に光っていた。玄関先に咲くアロエに教えてあげる。窓がオレンジ色だよ。そんなの知ってるよ、いつもだよ。玄関を開けて、すみませんと声を張る。知らない家の匂いだ。知らない家の匂いだけど、懐かしい匂いだ。はあい、という返事と共に、若い女の子がエプロンで手を拭きながら現れたから驚いた。

「今日からお世話になる薙です。薙葵です。よろしくお願いします」
「お話は聞いてます!よろしくお願いします。しらすさあやです」

少し緊張したような面持ちの彼女は、「案内しますね」と綺麗に切り揃えられたボブカットを揺らしながら前を歩き出した。一階をぐるりと回りながら、ここでの暮らしについて教えてもらう。家賃は光熱費水道代込みで月5万円。それと、大家に毎月何か素敵なものを贈ること。台所の使い方、風呂場周り、各人の持ち物の保管方法について。

「で、2階が女性専用になってて」

ふと横を見ると、広い庭が見えて「おお」と声が出る。


「あ、そうそう。言い忘れてました、すみません。外からじゃ見えないけど、うち意外と大きい中庭があるんですよ」
「いい庭ですね」
「いい庭ですよね。今の季節は毎年住人たちでBBQとかやるらしいです」
「らしい?」
「私も今年の春にここにきたばっかりなので、詳しくは知らないんですよね」
「あれ?大家さんじゃないんですか?」
「え?」
「あれ?」

目を丸くさせて、その後彼女は大きく笑った。

「私は大家じゃなくて、大家の孫なんです。色々あって、大家の手伝いをしながらここで生活させてもらってて」
「そうだったんですね、随分とお若い大家さんだなって勘違いしてました」
「先に言えばよかったですね、すみません」

若いのにしっかりしていて、賢そうな瞳を持っているのに、やけにすみませんを多用するのが少し気になった。すみませんを多用してしまうのは、私も同じだから。すみませんを多用してしまう人の、笑顔は胸に刺さるから。

「庭は自由に出てもいいんですか?」
「もちろんです!縁側でお昼寝する方とかもいますよ」

玄関先のものより大きいアロエが庭の隅に鎮座しているのが見えて、後で観察しにいこうと思った。2階に上がり、205号室の前で「ここが薙さんのお部屋です」と案内される。扉を開くと、引っ越し会社に依頼した段ボールが既に運び込まれていた。
「部屋の広さはどれも6~8畳、鍵付き、窓有りです。鍵が壊れたとか、窓がうまく開かないとか不具合があればいつでも言ってくださいね。じゃああたしは下にいるんで、後はごゆっくり」
ぺこりと頭を下げて、彼女が出ていこうとするので呼び止める。

「あの、タイミング逃しちゃって聞けなかったんですが、なんてお呼びすればいいですかね?」
「皆さん普通にさあや、とか、さあやちゃん、とか呼んでくれることが多いですかね。なんて呼んで欲しいかとか考えたことなかったな」
「あ、じゃあさあやさんで。さあやさんって呼ぶので、大丈夫です」
「あたしは勝手に薙さんって呼んじゃってますけど、いいですか?葵さんの方がいいですかね?」
「薙で大丈夫ですよ。下の名前苦手なので」

そう言うと、さあやさんは少し驚いたような顔をして、何か言いかけて、そして口をつぐんだ。

「薙さんですね、OKです。薙さん、改めてこれからお願いします」

もう一度ぺこりと頭を下げて、さあやさんは部屋を出ていった。

荷解きに時間がかかるかと思って早めに来たが、1時間もかからずに段ボールは空になった。いくつかの服と、本と、それと小さな金庫。金庫を開けると、綺麗に並んだ100円玉たちと目が合う。手にとると、ひんやりと冷たい。額に乗せて寝転がる。セミの声がほんの微かに聞こえる。この部屋、壁が分厚いんだな。前いた家は壁が薄くて、セミの声も、車の音も、子どもの泣き声も、外のあらゆる音が聞こえてくるものだった。100円玉を金庫に戻して鍵をかけると、よし、と膝を叩いた。


一階に降りて、台所にいたさあやさんに「煙草吸えるところなんてないですよね」と一応聞くと、「中庭とかバルコニーに洗濯物干してなければ、外で吸えますよ」と教えてくれたので、確認してから中庭に出る。気になっていたアロエに触れてみると、分厚い葉がすべすべしていて、なんだか動物みたいだと思った。

「薙さん、よかったらお茶どうぞ」

焦げ茶色の湯呑みを乗せたお盆を持って、掃出窓からさあやさんが顔を覗かせた。

「ありがとうございます、いただきます」

湯呑みを受けとってお茶を啜ると、口当たりがいいながらも深みのある香りと味が口に広がって、思わず「おいしい」と声が出る。

「ほんとうですか?よかった、理津子さんに教えてもらった甲斐があった」
「理津子さん?」
「はい、大家で私の祖母の理津子さん」
「ああ、そういうことか」

合点がいった。理津子さんが大家さんだったのか。てっきり理津子さんは住人の一人だと思っていた。さあやさんは訝しげな顔をしている。

「このシェアハウスについて説明するとき、理津子さん自分が大家だって言わなかったんんですか?」
「立派な案内役が待ってるから安心しておいでとは言ってたけど」
「それで私を大家だと薙さんに思わせて、驚かせようとしたんですね。いたずら好きにもほどがあるなあ」

さあやさんはくすくすと笑いながら、猫のように音も立てずに隣に腰を下ろした。よく見ると、確かに笑い顔が理津子さんに少し似ている気がする。


理津子さんも、初めて出会ったとき音を立てずに座ったのを覚えている。バイトの休憩時間に、いつものようにショッピングモールを出て路地を一本入ったところにある喫茶店に行くと(ショッピングモール内の店は、バイトの同僚に会いそうで嫌だ)、その日は珍しく混んでいて、後から入ってきた理津子さんと相席することになったのだ。新しい豆が入ったというのでアイスコーヒーではなくブレンドを頼んだところ、少しチョコレートのような甘い匂いがしたので驚いていた。すると向かいの理津子さんも「あら」と声をあげたので、思わず「ですよね」と話しかけてしまったのだ。

「今日のブレンド、チョコレートみたいな匂いするわよね」
「します、私も驚きました」

そのたった一言の会話をして以来、喫茶店で姿を見かけると、なんとなく挨拶をするようになった。なんとなく挨拶をした後、理津子さんは最近発見したことを話してくれるので、私はそれがいつも楽しみだった。「ショッピングモールの本屋の店長が、13時になると屋上で歌を歌ってるのが見える」とか、「近くのガソリンスタンドにたくさんのツバメが巣を作ってる」とか、教えてくれるたびに謎の元気が湧いてきて、それなのに私は「そうなんですね」とか「知らなかった」とか、あたりさわりのない返事しかできなかった。だからある日、真顔でじっと私の顔を見つめられて、ああ、一辺倒の返事しかできないから嫌な気分にさせちゃったかなと不安になった。後悔した。けれど次の瞬間「あなたうちに住む?」と言われたものだから、あまりに驚いてカップの中身をこぼしてしまった。「あなた最近顔色悪いんだもの」と眉間に皺を寄せて言われて、よく分からないけど泣きそうになって、それでほんとうに泣いてしまったのか、堪えたのかは覚えていない。

「大人も泣くことあるんですね」

理津子さんとの出会いについて話すと、さあやさんはなぜかそこに注目した。

「大人は泣かないですよ。泣くふりをするだけです」
「どうしてですか?」
「本気で泣くと、地球を滅ぼしてしまうから」
「うそ」
「うそだと思いますよね」

不思議そうな顔をして、でもさあやさんはそれ以上詳しくは聞こうとしなかった。人との距離のはかり方が上手なのだろう。私が彼女くらいの年頃に、それができていれば今でも思い出して叫びたくなるような失敗はしなかったかもしれない。けれど、それができるさあやさんは、それができてしまうからこその苦しみもあるだろう。「風が気持ちいいですね」と、さあやさんは目を瞑って風を撫でた。

ぼうっとしていると急に携帯が震え、店長から電話がかかってきた。

「ごめん薙さん、明日やっぱり遅番でお願いしてもいいかな?一人体調崩しちゃったらしくて」

いいですよ、と返事をすると、
「さすがうちのスーパーバイトリーダー、ありがとう」
と返される。スーパーバイトリーダーって、ただ都合がいい人って意味なのだろうか。電話を切ると同時に、さあやさんに「スーパーバイトリーダー?」と聞かれる。

「100円ショップのバイトリーダーを長くやっているだけですよ。なぜか“スーパー”なんてつけて呼ばれていて」
「かっこいいですね、異名にスーパーがついてるって」

嫌味なのかと一瞬身構えたが、彼女はワクワクした目でこっちを見ている。

「ただのバイトです。かっこよくもなんともない」
「でもいいですよね、100円ショップ。いろんなものが売ってて見てて飽きないし」
「そうですね。品揃えはいいと思います」
「なんで100円ショップで働いてるんですか?」

そう聞いてから、さあやさんはしまった、という顔をした。そんな顔しなくていいんだよ。別に聞いちゃいけないことじゃないんだよ。もっと自由に喋ったり聞いたりしていいんだよ。

「100円玉が好きだからです。100円玉ってかっこいいでしょ」

さあやさんを安心させるために早く答えようと焦り、敬語が抜けてしまう。
「確かに、100円玉ってちょっと独特ですよね。500円玉より小さいけど、ちゃんと重みがあって」
「そうなんですよ。あの光沢と重みが好きで。50円玉と同じ白銅で出来ているんですが、表面の桜がまた綺麗で」
「ほんとうに好きなんですね、100円玉」

安心するんです、100円玉を見ていると。それは伝えず、さあやさんの好きなものについて尋ねる。

「あたしですか。うーん、あんまり好きなものとかないんです。つまんない人間ですよね」

少し寂しそうな顔をして、さあやさんは笑う。それが、さっき「下の名前苦手なので」と私が言ったときに見せた表情と同じで、ああ、この子は私が推し量れないような影を持っているのだろうなと思う。

「でも、さっきさあやさんが淹れてくれたお茶はすごくおいしかったですよ。お茶を入れるのは好きじゃないんですか?」
「好きなのかな。まあちょっとは好きなのかもしれないですけど」
「ちょっと好きだって、好きの一つですよ」

さあやさんは驚いた顔をする。表情がころころ変わって、好奇心旺盛な子犬みたいだ。

「だれかに必要とされたり、好きだと思われるよりも、自分が必要とするものと、好きなものが分かっていればそれでいいと思うんです。見栄を張った考えかもしれませんが」

彼女にこの言葉が少しでも届けばいいと思う。私が彼女くらいのときに誰かに言って欲しかったこの言葉を、多少クサくても伝わればいいと思う。

「薙さん、ありがとうございます。お茶淹れるのもっと上手になるんでまた飲んでください」

下手な笑顔を見せて、さあやさんは室内に戻った。煙草に火をつけると煙が広がって、風に流されていった。


ここはほんとうにシェアハウスかと思うほど、夜はとても静かだった。たまに誰かが階段を上る足音がしたり、窓を閉める音がしたりというのはあったが、大きな物音もなく、びっくりするほど快眠できた。朝が来て目を開けたときだけ、一瞬ここがどこだかわからなくて冷や汗が出てしまい、一人で少し笑った。


住人たちに何か引っ越しの挨拶品を贈った方がいいかと、午前中のうちに家を出て菓子を買いに行く。これからこのあたりが近所になるかと思うと、どこに続いているか分からない道に入ってみたくなる。菓子の紙袋を持ったまま散歩がてら歩いていると、「常盤屋」という花屋に辿り着いた。花屋なんて入ったこともないし、花を持って歩くなんて考えたこともないから、足早に通り過ぎようとして、シェアハウスの家賃である「月5万円と、理津子さんに何か素敵なものを贈ること」という決まりを思い出して立ち止まる。素敵なものなんて思いつかないけど、花はきっと素敵なものに含まれるだろう。手動ドアを手前に引くと、花のいい香りが広がった。

「いらっしゃいませ」

花の水換えをしていたお店の人は、挨拶だけしてほっといてくれたので安心した。花屋ってもっとガンガン話しかけてきて、花の知識がないと呆れられる場所だと思っていた。自分勝手な偏見だ。よくないな。

「あの、花のことよくわからないんですが、花束を作ってもらうことってできますか?」
そうお店の人に聞くと、任せてください、と表情を変えずに振り返った。

「贈るお相手はどんな方ですか?」
「背筋が伸びていて、瞳が綺麗で、よく笑うけど、皮肉を言うこともある人です。あと」
「あと?」
「とてもあたたかい人です」
「わかりました。5分ください」

お店の人はぶつぶつ言いながら、テキパキと花を選んでいく。壁に貼ってあるカレンダーは、なぜか来月のカレンダーで、日付の欄をまたがってでかでかと犬の絵が描いてあった。果たしてこれでカレンダーの役割を果たしているのだろうか。

「こちらでいかがでしょうか」

見せてもらった花束は、檸檬色の花でいっぱいで、少しだけ緑が入っていて、いろんな花が入っていないのが理津子さんにぴったりだなと思った。

「ありがとうございます」

感想も言わずにお礼だけ言ってしまい、どうしてこういうとき気の利いたことが言えないのだろうとまた自分が嫌になる。
お会計をしようとして、レジ横にある橙色の花に目が止まる。

「あの、これも小さなブーケにしてもらってもいいですか」

任せてください、とまたその人は言って、丁寧に小さなブーケを作ってくれた。

お代を渡して店を出ようとして、呼び止められる。

「お客さん、これ、お客さんが渡してくれたこの100円玉、ぴかぴかですよ」

お店の人は100円玉を両手で2枚持って嬉しそうに見せてくれる。綺麗な100円玉を持ってきてよかった。気づいてくれるなんて思わなかった。

「それと、お花気に入ってくれたようでよかったです。またぜひ」

会釈をして店を出る。花束を両手に持つ自分の影が道路に映る。風が吹く。目を瞑って、頬で風を撫でた。

<了>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年2月号に寄稿されています。今月も読み切り企画「チョコレートな戦い」ほか、文活の参加作家が毎週さまざまな小説を投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品へのリンクは、以下のページからごらんください。

ここから先は

0字
このマガジンを登録いただくと、月にいちど、メールとnoteで文芸誌がとどきます。

noteの小説家たちで、毎月小説を持ち寄ってつくる文芸誌です。生活のなかの一幕を小説にして、おとどけします。▼価格は390円。コーヒー1杯…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?