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「PLAY」リューベン・オストルンド

 大学生の時「フレンチアルプスで起こったこと」で初めてリューベン・オストルンドを知った。その後「ザ・スクエア」や「Insident by a bank」などの冷笑的な眼差しに都度都度興奮を覚えていたが、今はまったくそう思わない。おそらく肥大した自意識に寄り添ってくれる監督だったからだと考えているが、今はそれほどでもないので「あぁ、オストルンド先輩、あいかわらずっすね」というドライな感想しか出てこない。ごめんね、オストルンド先輩。

 だから、先週「逆転のトライアングル」を観た時も、正直、それで?だから?という感じだった。富vs貧、美vs汚、資本vs社会、男vs女、などのヒエラルキーから生じる笑いも、なんだか今の笑いじゃない気がするんだよな。別に“やさしいお笑い”なる昨今の風潮を擁護しているわけではないが、、、なんとなく無理に背伸びして笑うオストルンドの姿勢が「あぁ、あいかわらずっすね」というか、なんか結構な名誉を手にしたのに、わざわざ俺たちだけに見せる顔をファンサービス的に振舞ってくれているというか、、、だから、なんかもっと等身大で自分を超えていって欲しいんだよなぁ、と思っている。彼はハネケを私淑しているらしいが、今のハネケの方がまだ自他共に厳しく誠実な眼差しだった。

ちょうど同じ背丈の少年たちは同じ方向を向いている。

 さてさて、ここにきて彼の出世作である「PLAY」をJAIHOで観る。そして私は「そうそうこれこれ!」となったのであった。

 移民の貧しい黒人キッズらがショッピングモールで「ジグザグザグ」なる遊びをしている。要は犯罪スレスレのカツアゲなのだが、これがまた非常に胸糞悪い。
 裕福そうな白人子供の使ってるスマホを見た黒人の一人が「それ、前に弟が盗まれたスマホなんだけど、なんでキミ持ってるん?」といちゃもんをつける。「弟に確かめるからそこで待っときいや!」と脅し、育ちの良い裕福キッズを待たせた後、やってきた弟が「それ、俺のスマホや!カバーの傷もクリソツや!」と言いがかりをつけ信憑性を高くし、最終的にスマホを奪うでなく頂戴するのである。

 まぁ今じゃ、滝沢ガレソあたりに恫喝映像を送りつければ済む話だが、やっぱ脅されると怖いし、頭も回らないよなとは思う。かくいう私も熊谷のゲームセンターで脅された挙句バイクで追い回されたことがあるから気持ちは良くわかる。

 さて、そんな彼らの“あそび”に付き合わされるのは白人少年2人とアジア系少年のグループ。彼ら3人は逆らおうとする意志を持っているが故に黒人集団から熾烈なあそびを受ける。尋問に用いられる「良い警官/悪い警官」の役割で3人を翻弄し、「あぁこの人根っこは悪くないのかも、、、?」と、さしずめストックホルム症候群のような感覚を抱かせる(少なくとも僕はそう感じた)。腕立て伏せで80数回まで行った時も「根性見せたな」と言われてドキッとしちゃったし、、、クラリネットを吹いて音楽は国境を越える感が出た時もなんだか救われそうな気がしたし、、、加点方式とは恐ろしいものだ。

 推測だけどレンズは30〜50ミリくらいかな?全体的に寄ることがない。だから人物をキャラとしてフォーカスすることはなく、群衆の代表という扱いだ。カメラは近づいたとしてもウェストアップくらい、それ以上は決して近づかない。近づき方も、カメラ自体が被写体に近づくでなく、望遠を採用していることから鑑みるに、やはり観察的意図が見受けられる。だから、全編ほぼフィックスの中に被写体を配置するという考え方ではなく、あくまでそのカメラ位置に被写体が入り込んでしまったという“監視カメラ“的佇まいとして、良い塩梅にドキュメントタッチな雰囲気となっている。そして、最後にカメラがパンやティルトすることで明かされる真実がシーンごとのオチとなっていく。
 でも個人的には、カメラの存在感をせっかく無くしたのにも関わらず、画角を動かすことで恣意的な見せ方になってしまっていると思う。だから終始フィックスで貫き通して欲しかった。

 まぁそのほかにも、サブストーリーであるゆりかごの話が移民問題を一筋縄ではいかないような機能を果たしていたり、白人グループの中でもやっぱりアジア系少年が下に見られていたり、様々な差別が顕在化していくのはさすがオストルンドと言ったところ。

 そういえば「ジグザグザグ」ってキアロスタミのオマージュなのかな?最後のかけっこの坂もどことなく「友だちのうちはどこ?」のジグザグ坂に似てなくもない。

PLAY
友だちのうちはどこ?

 さてさて、パルムドールを2度も取っちゃったオストルンドの明日はどっちだ???

<了>

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