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自分と対話するときの言語は、辞書にあるとおりとは限らない。
10月も1週間が経ってしまった。
昨日、ある人から受け取ったメッセージにあった単語から、
日をまたいで、感情や思考をめぐらせていた。
その単語は「妥協」
最初受け取ったとき
「妥協」かあ。
私、なんか妥協しているのか?
何の場面での妥協?
物欲とか、煩悩的なやつか?
我慢とはちがうのか?
妥協っていけないことなの?
それほどでもないんだけど・・・
わりと幸せに暮らしてるし。。。
といいながら、
「それほど」「わりと」って、すでに妥協かも
ぐるぐる、ぐるぐる。。。
一つの単語で、自分が何を感じて考えるのか。
味わいながら、
浮かんできたことをメモする行為を繰り返してみた。
自分との対話では、
出てきた単語の意味を、
必ずしも辞書のとおりに正しくする必要はない。
きれいに整っていなくてもいいし
偏向で変人的な思考でも
ぶっ飛んでても、妄想でもOK。
誰も困らないし。
自己完結するための意味づけだから、採点も評価もされない。
こう受け取る必要がある とか
このような意味づけをすべき とかを取り除いていい。
そう思うと
私なりの「妥協」って意味が、
ちょっとした発見にもつながって、おもしろいひとときだった。
相手の人は、すごく安心できる存在なので
今日になって、昨日のメッセージに返信したんだけど。
その言葉をくれた相手の人も、
この「妥協」という単語を私に送るのが
「?(←送っていいかをちょっとだけ違和感)」だったらしい。
それでも、そのまま伝えてくれたのは
その人のあり方が伝わってくるし
それがうれしかったなあ。
正しいとか間違っているとか
良いとか、悪いとか
すぐに答えを出すとか
ばかりを重視していた時期もあるけど
そうではないこともあるって
最近受け止められるようになってきた感じ。
それが不思議と、不安ばかりではないし
不快とも感じなくなってきた。
自分との対話で生まれる答えは、
自由で面白いなって感じた体験だった。