2. RENTに背中を押されて夜逃げしました。
社会人最初の会社(音楽事務所)での仕事は、ピアノのコンクールに関わる事務作業でした。応募者からのハガキをまとめたり、データに打ち込んだり、諸作業をパートの方々に指示出ししたり。ベンチャー企業だったので、みなさんハイスペック&成長意欲旺盛な方々ばかりでした(やや無理をしているように私には見えましたが。)
私は、事務仕事が全くできませんでした。まず、パソコン自体が苦手でした。最初の会議で、先輩方がおのおののノーパソをテーブルに乗せているのを見たとき、血の気が引きました。私は、PCをどこかにつなぐ、とかがもうムリですし当時はブラインドタッチもできなかったため、ノートとペンで参加したのですが、必死でメモを取る自分の姿が、自分の心を傷つけました。「自分は、仕事ができない人なんだ」と思ったのです。同時に入社したサユミちゃん(彼女は最初から契約社員。アーティストのマネジメントをする部署に配属されていました。学生時代は劇団を主宰するなど、私とは搭載スペックが違いました)の優秀さとも比較し、惨めな気持ちでいっぱいになりました。
ちなみにサユミちゃんは入社後何年目だったか、統合失調症になりその会社を辞めます。自宅のエレベーターに「NO WAR」という張り紙を貼り、だんなさんに止められたけど自分はなぜ止められるかそのときは意味がわからなかった、それで病院に行った、という話を久しぶりに会ったときにしてくれました。発症の理由は、過労でした。
私の上司は、2歳年上のスドウさんという女性でした。就活時「旅行に行くんで最終面接行けません」の対応をしてくれた女性ですが、私のあまりの無能さ加減に情緒が不安定になっていきました。毎日怒っていました。誇張でなく、キーボードに手を置いたまま私をにらむ顔しか彼女の顔を思い出すことができません。ある日私が、袖から出ている糸くずを切ってもらおうとハサミを持ってスドウさんに近づいたとき「なに!なんなのよ!」と椅子から飛び上がり逃げました。刺されると思ったのでしょう。とにかく忙しく、何かしらで全員が追い込まれている環境でした。スドウさんを追い込んでいる要因のひとつは、間違いなく私でした。
今となっては、スドウさんに申し訳ないことをしたなあと思います。辛い仕事、向いていない仕事、いやいや行く場所は自分がしんどいだけではなく、まわりにも迷惑なのです。私は連日彼女から叱られ、ストレスから内臓にじんましんを作り、高熱で倒れました。4月に入社し、GWのことです。
言い直します。4月にアルバイトで入社し、GWのことです。
当時、武蔵小杉で一人暮らしをしていましたが、家には寝に帰るだけでほぼ記憶がありません。どんどん痩せていき、大学時代からの友人・ユウコに久々に会ったとき「(体が)薄い!」と言われたことを覚えています。アルバイト期間が終われば、再契約のタイミングで会社と話ができる。そこで辞めよう、あと少しだ。耐えよう、と思っていましたが、無理でした。目を覚まして「ああ死んでたらよかったのに〜」と思った朝も幾度かありました。ここで働いていた期間「何かを美味しいと思った」記憶がありません。いつもヴィドフランスのパンをかじりながら仕事をしていたため、35歳くらいまでそこのパンは食べられませんでした。
とぎれとぎれの記憶の中で思い出せるエピソードがいくつかあります。
ひとつは、日曜日、朦朧としている私が自宅の電話で謝っているところです。(なぜか俯瞰の映像なのです。死にかけてたんでしょうか)申し訳ございませんと、どう対応したら良いかもわからずひたすらに謝っていました。名古屋の会員の方(お客様)だったと思います。音楽イベント開催中にうちの段取りにミスがあったのでしょう。なぜ私の自宅にかかってきたのか分かりませんが、そのフォローの仕方がわからず、担当していた先輩社員の携帯に電話をしました。休日であることを謝り、折り返しを欲しいと留守電を残しましたが電話はかかってきませんでした。そして翌日、その先輩は口をきいてくれませんでした。
もうひとつの記憶は、全国から寄せられるコンクールの応募者のハガキを各都道府県ごとに仕分けしていく仕事をしていたときのことです。北海道の中標津市を私が「なかひょうつ」と読んでしまったのです。知らなかったんです、読み方。一瞬、みなさんの動きが止まったことはなんとなく気がつきましたが、なにしろ常に頭が真っ白なまま働いていたので方向転換できず「鈴木さん、なかひょうつ市デス!」などと連呼していました。その部屋には20人くらいいて、一緒に作業をしていた方も7、8人いましたがそのときも、そのあとも、誰も、正しい読み方を指摘してはくれませんでした。
3つ目の記憶は、勝手に最後の出勤日とした日曜の深夜、オフィスでひとりパートさんたちにメモを残す私です。(私、この時点で雇用形態アルバイトなんですよ。なんでひとりで休日出勤しているんでしょうか)仕事に必要な書類の置き場所と流れ、無断で会社から逃げることへの謝罪文を書きました。
私は、ちょうど3ヶ月働いたあと、会社から逃げました。共用サーバにあった自分の連絡先を消し、おそらく人事部のファイルから履歴書も奪取したような気がします。家の電話番号も変えました。確か、携帯番号も。プライベートのメールアドレスだけは変えられなかったです。変え方が分からなくて。会社の鍵は郵送で返しました。
逃げる1週間ほど前だったか、先輩社員が、みんなで「RENT」というミュージカルが来日するので見に行こう、と誘ってくれたのです。もう相当有名になった演目なのでご存知の方も多いと思いますが、社会から差別を受け、
虐げられている若者が自由や芸術を叫びながら立ち上がるストーリーです。私はこれにとても共感しました。これを観終わった帰り道、私は心で「辞めんべや!!」とシャウトしていました。
私が怒られたのではないけど、傷ついた出来事をいくつか覚えています。
同じフロアに、ベテランの女性社員がいました。彼女は全国にいる会員さんの電話番号をほぼ覚えていて、アドレスを見ないで素早く電話をかけ、いつも明るく元気に会員さんと電話で話している人でした。ある日、会議で社長は言いました。「Tさんが会員さんの電話番号を覚えてるのがすごいとか皆言うけど、そんな能力これからもうなんの役にも立たないから」と。
確かにそうかもしれません。でもそれ、みんなの前で言いますか?
全体朝礼に遅れてきた女性の先輩社員がいました。会長(社長の母親)は彼女の姿を見つけると怒鳴りました。「どうせ男のところで寝てたんでしょう!」先輩は謝ったあと小さな声で言いました「彼氏、いません」。
ブラック企業どうのこうの言える権利はないくらい、私は全然仕事ができませんでした。しかし、「いつかあの人みたいにできるようになりたい」とも、1ミリも思えませんでした。ただただ逃げたかった。ここに自分がいることの意味が分かりませんでした。
実家の母に会社から電話したとき、私は泣きそうだったけど「大丈夫だよ」と言いました。でも、父から電話が来て「おまえ、どこにいるんだ」と言われたとき(辛すぎてひとりの家に帰れず、彼氏の家から会社に行っていました。家に電話しても全く出ないから父は少し怒っていました)涙が止まらなくなって、会社がとても辛いと言いました。父は「そんなところ、すぐに辞めろ」と言いました。父はモーレツ社員で、娘ふたりは放任されて育ちましたが、ここはやばいというとき父は必ず入ってきてわたしと何かをぶった切ってくれました。結婚するギリギリまで、そうでした。3歳の頃から10年以上通っていたピアノ教室で、先生に「頭が悪い子」と言われて深く傷ついたときにそうしてくれたように、そのときも。理屈はどうでもいい、そんなところにおまえがいることはない。
最後、オフィスをあとにするとき、社長含め社員全員にメールを送りました。スドウさんに言われたひどい言葉、会員さんからのクレーム、少人数でこの大きなコンクールを運営しているとHPに自慢気に書いているが全く威張れたクオリティではないこと。「耐えられません。もう行きません。」と締めて、私は社会人最初の会社を辞めました。
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