戯曲を書く
昔、書いた戯曲が映像化された。
10年前くらいから戯曲を書いているんだけれど、書き方がどうこうテーマがどうこうって話は置いておいて、そのもっと前から思っていたことがあった。
というのも、二十代の頃、自分は売れない舞台俳優という世にも悲しい肩書きだった。舞台俳優ってのは映像に出られないようなやつとか、顔がさほど上等でないやつがやるもの、なーんて思ってる人も多いのではないか。まあ、そういう俳優志望もいるのかもしれないんだけど、お芝居好きだし、テレビとか映画には興味はない(呼ばれたら全然やりますけど?)って人もいるのです。かくいうわたくしもそうでした。
僕は基本、面白い芝居に出たい、と思っていた。で、ぼくにとっての面白いは、初めて観ていたく感動した蜷川幸雄とか、野田秀樹とか松尾スズキとか、あるいは緊張感があるなかで観客もまた解釈を試されるような松田正隆とか平田オリザみたいなもの、古典を現代に上演するとゆーことの意味をきちんと探っているような劇団(まあ僕が養成所で通っていた文学座ね)だった。
養成所を出てぽーんとフリーの役者、みたいになってみると、事務所とか劇団みたいな後ろ盾orオーディションが降ってくるような状態はなくなり、自分で芝居ができる場所を探さなくちゃならんくなったわけです。
雑誌『シアターガイド』とか『演劇ぶっく』のオーディション・ワークショップ情報に必ず目を通し、そして芝居を観にいってはチラシを漁り(たまにオーディションがある)、好きな劇団があったらそこに連絡してみるなどしてきたわけです。まあ受かったり落ちたり、ワークショップで馬鹿にされたり(なんというか、そこそこ名のあるところや独特なところは、雰囲気がもう出来上がってて、新参者はなかなか溶け込めなかったりするわけですよ)して暮らしてきたわけです。
あとは知り合いの伝手だね。「人足りないから出ない?」とか。
そういう暮らしをしていると腐る。でもまあ情熱(笑)はあったので、バイト代の娯楽費は舞台に費やし(好きなもの観たいじゃん)、図書館でとりあえず戯曲集を読んだり(おかげでいまもこうして文章書いてます)していたのであった。
二十代も終盤になったとき、「うーん、演じるよりお話を作りたいな」となって、演じるから書くのほうにシフトした。ここで演出になりたいとか思ってたら別の自分になっていたであろう。でもね〜演出家に散々怒られてきたんで、なんとなく敷居が高くって。どっちかといえば、地味にブログとか日記を書いていたので、そっちのほうがいいな、ってんで。とりあえず学校に通ったり、自分なりに書いているうちに、戯曲を書きませんか、と言ってもらえて、ちょぼちょぼと上演されるようになった。上演してくださった団体さんには、ほんと感謝でございます。
自分が売れない俳優だったからなのか、とりあえず、登場人物はどんなに小さかろうと「見せ場があるほうがいい」と思っている。あと、ちょっとばかりかっこいいセリフややりとり、ギャグでもシリアスでもなんでも。どんな役にキャスティングしてもらっても嬉しいものなんだけれど、長い稽古期間を経るのだから、楽しい方がいいに決まっている。もちろん、どんな役にでも「おかしみとかやりがい」を作るのが伸びる俳優であるんだろうけど、いい場面や、作中で重要な人物であることは、役を好きになる第一段階を軽く飛び越える。
知り合いの芝居を観にいくたびに、言いたかないけど、「なんかスッカスカだな〜」と途中で寝たり、立ち上がることもできずに我慢しているみたいなことがあった。やっぱ話が面白くなくっちゃな、でもその面白いは、テレビのギャグをかますとか、ずっこけるとか頭を叩くとかそういうもんじゃなくって、「セリフではこう喋っているが内心は違う(に違いない)、なにかを隠している」とか「会話がどこかすれ違っている」とか、観ていてちょっとした気づきがあるものだったり、「本人は大真面目だけれど、客観的には笑える」みたいな状況だったりするのがいいな、と思っていた。
地獄のような小さい劇場でする芝居のだいたいが、わりと単純な真理で、わりとどうでもいい話を、わりと真面目ぶってやっていた。そういう芝居は、有名人がやるとなんとなく楽しいものなんだけど、たいして有名でもない人がやっても、そこまで面白くなんないんだよなあ、と。
2024年で令和になっておりますが、いまだに昭和からずっと変わんない、小劇場の芝居の脚本のなんかだめ〜な感じってのはある。売れたり人気になる舞台の百倍くらいの数、ある。
(↑あくまで戯曲の話をしている。やはり頭角を表す集団って、俳優の質が整っていて、戯曲がしっかりしている。そして一番重要なのは演出が面白いことなんだけど、そこは置いておきます)
ぼくもそういう芝居に何度か出たけど、なんかつまんないんですね。二ヶ月稽古してて、みんないい人・集団的にも居心地よかったとしても。
そういう意味では自分の芝居は、なんとなく作品や役に恵まれていない俳優には新鮮に映ったのだと思う。出たい、って言ってくれる人もいたし。よく演劇関係者が「チケットをどうやって売るか。俳優にチケット売らせるだけなのはどうなんだ」ということを語っているんだけれど、関わっている人間全員が「これ絶対おもろいからみんなに見てほしい」って思えてるなら、そこそこチケットは売れる、というかみんな売る気になるだろうな。お客は「面白そう」ならきてくれるし、開催している方は「面白いから見て」ってテンションが高ければ宣伝も頑張るし。
毎度のことだがオチもなくそんなふうにつらつら書いてみたけれど、ツイキャスで配信することになった『情事のない日曜日』は自分なりに「俳優が演じて面白いと思えるし、全体を通してみても楽しい、そして観てくださったかたにも観ている時間を無駄にさせない」作品になっていると思います。
映像を想定して書いたものではありませんが、こうして作品として残ってくれたのは、書いたものとしては最高に嬉しいです。
書いていた時期の、風土病のような、「誰かに愛されたい」気分が刻まれていてたいいなと思う。
もしかして、もう2024年には、こんな悲しみすらもぬるいのかもしれないけれど、いまでも通ずるものがあるはず。そうでなくちゃ、書くことに意味はあんまりない。