【光る君へ】苦労人の推し活貴族・藤原行成(後編)
前編の続きです。
道長と一条天皇の間で
どっちつかずの振る舞い
『光る君へ』でも、行成は一条天皇に自筆の古今和歌集を献上して、天皇の美貌のとりこになっていましたね。
行成は俊賢の推薦通りの有能さを発揮し、すぐに一条天皇から気に入られました。
天皇の指示を受け、ひと月のうちに25日も内裏へ参って、文字通り身を粉にして働いていました。
しかし同時に、行成は道長へも忠誠を誓っていました。
道長は娘・彰子が入内する時、花山法皇(本郷奏多さん)や公任らに歌を詠ませ、行成に清書させて屏風を仕立てました。
もちろん、堅物日記おじさん・実資は、公卿を私物化する道長とおもねる貴族たちを日記『小右記』で批判しています。
長徳の変の後、何人かの女御が入内しても、一条天皇の定子への寵愛は止みません。定子は形の上では出家しているのですが、お構いなしです。
満11歳になって入内した彰子が女御の位を与えられた日、定子は敦康親王を出産しました。
それでも、貴族たちは彰子を祝って定子を冷ややかに見ていました。
実資は定子の出産について「出家した者らしくない」と皮肉を書き残しています。
二后併立、敦康親王の家司になる行成
かつて定子の父・道隆は、中宮=皇后という同じ意味の言葉を分割し、円融法皇の皇后とは別に定子を一条天皇の中宮に就けました。
今度は、道長に同じ理屈を使われてしまいます。
大原野神社の祭は、代々藤原氏出身の后が執り行ってきました。
しかし定子が出家したので、神事を勤められる后がいなくなっていました。
道長はこのことを口実に、俗人の后が必要なので彰子を中宮に立てるように提案します。
この件を一条天皇に直接伝えたのが行成でした。
理屈としてはもっともだったので、天皇は彰子を中宮、定子を皇后としました。
本来は同じ意味のはずですが、落ち目の定子につけられた『皇后』という称号は『中宮』よりも一つ落ちるような印象を与えました。
それでも天皇の寵愛を受け続けた定子は、1001(長宝2)年に内親王を産み、そのまま産褥死しました。
定子の子は3人いましたが、特にその行く末を取り沙汰されたのは敦康親王です。
この時点でも満13歳だった彰子はまだまだ妊娠できませんし、今後皇子を産むという保証もありません。
天皇のいとこの東宮・居貞親王には既に何人もの子がいます。
より縁遠い居貞親王の血筋に皇統を継がれるのを防ぐため、道長は彰子に敦康親王を養育させることにしました。
一条天皇は定子の忘れ形見である敦康親王に愛情を注ぎ、居貞親王の次の東宮にしようと考えていました。
行成は一条天皇から信頼されていたので、敦康親王の家司(家の事務などを行う者)になりました。
次期東宮選定への諫言
しかし1008(寛弘5)年、彰子が敦成親王を出産しました。
もちろん、道長は孫の敦成親王を次の東宮に立てたいと考えます。
一条天皇は、定子への愛情と道長からのプレッシャーに挟まれ、この問題を先送りしていました。
1011(寛弘8)年、一条天皇は病に倒れます。
早く先のことを決めなければいけなくなったので、行成は敦康親王の次期東宮をあきらめさせるために、一条天皇へ以下の諫言を行いました。
かつて文徳天皇は更衣が生んだ第一皇子を退けて、藤原氏の母を持つ清和天皇を東宮に選んだ
晩年に即位した光孝天皇の例もあるので、今東宮になれなくても後にチャンスが巡ってくるかもしれない
定子は高階氏の母を持ち、伊勢神宮へのはばかりがある(当時高階氏は在原業平と伊勢の斎宮の間の子の子孫だと信じられていました)
こう説得されて、一条天皇は敦成親王を次の東宮に決定しました。 なお、義理の関係とはいえ敦康親王を実の息子のように思っていた彰子は、このことに対して道長を強く恨んだといいます。
平安時代において、皇后の生んだ第一皇子が皇位に就かなかった例は、他には満2歳で亡くなった白河天皇の皇子・敦文親王しかありません。
それだけ、この決定は異例でした。
『皇后』に宛てた歌
道長の伝書鳩のような動きを見せた行成ですが、決して中関白家への気持ちが薄れていたわけではないようです。
病がいよいよ重くなった一条天皇は居貞親王に皇位を譲りました(三条天皇)。
死の床で、一条上皇は辞世の歌を詠みます。
この歌は、『君を置きて』とあることから、普通は中宮・彰子へ宛てた歌であると解釈されています。
しかし行成の考えは違いました。
行成は自身の日記『権記』で、中宮=彰子、皇后=定子と、厳密に言葉を使い分けていました。
一条上皇が崩御した日の『権記』で行成は、この歌を『皇后に寄せた歌だ』と書いています。
また、出家したことで立場が悪くなった定子についても、『後に還俗(僧から俗人に戻ること)した』と記しています。
定子が亡くなってから10年経ち、彰子との間に皇子を儲けても、一条天皇は定子を愛し続けていたのだ、と行成が思っていたことがうかがえます。
若い頃に職の御曹司へ通っていたのは決して打算ばかりではない、と言っているようです。
道長と同じ日に没する
新たに即位した三条天皇と道長は不仲でした。
道長が天皇に入内させた娘・妍子が生んだのは内親王で、外戚になれないことがはっきりしてから、道長は天皇に嫌がらせを続けます。
道長は病で気の弱った三条天皇に譲位させ、敦成親王を後一条天皇として即位させました。
これで道長は、三人の娘(彰子・妍子・威子(後一条天皇の中宮))を立后させた空前絶後の権力者になりました。
行成は道長を権大納言として支え、同僚の公任・斉信・俊賢とともに、『一条帝の四納言』と並び称されるようになりました。
父も祖父もいない孤児として育ち、地下人(天皇に直接お目通りできない身分)にもなった行成にとっては最高とも言える出世です。
道長は息子・頼通に権力を譲って出家して、しばらく院政のようなことをしていましたが、娘の相次ぐ死などを受けて弱気になり、また糖尿病とみられる症状で寝たきりになりました。
頼通が加持祈祷をさせようとしましたが断り、大小の失禁や背中のできものなどに苦しんだ末、1028(万寿4)年1月3日(12月4日)に満61歳で亡くなりました。
実はこの日、行成も満55歳で亡くなりました。
しかし、世の中は道長の死で大騒ぎをしていて、行成の死はほとんど顧みられなかったと言います。
『光る君へ』の行成なら、推しと同じ日に亡くなれたことに運命を感じてキラキラしていそうですよね。
もしかしたら、この史実から逆算して道長推し設定が生まれたのかもしれません。
三蹟の真筆
行成は小野道風・藤原佐理とともに『三蹟』と呼ばれています。
1005(寛弘2)年に道長は行成に源信の『往生要集』の筆写を依頼し、行成が写した方を召し上げて原本をプレゼントしました。
また前編で紹介した清少納言とのやり取りで、行成の送った文を定子の弟・隆円が土下座をして持って帰ったという話もあります。
他にも能書エピソードは数限りなく、『光る君へ』での代筆ネットワークの話も「本当にあったのでは……?」と思わされます。
また、1003(長宝5)年には小野道風と夢で会って書を習い、語り合ったという夢を見ています。
それだけ、己の筆の達者さを自覚していたことがわかります。
現存している行成の真筆は数点で、どれも国宝や重要文化財に指定されています。
筆者は2024年2月にMOA美術館(熱海)にて開かれた『国宝 紅白梅図屏風』展に行ってきました。
今回は行成真筆の『白氏文集切』も展示されていて、書道ミリしらにも端正でバランスの取れた筆致がわかりました。
東京国立博物館蔵の真筆は定期的に展示されているので、タイミングが合ったらぜひ見に行かれてはと思います。
知っていることが多ければ、その分物語も史実も楽しめますので!