共依存。
今年の優勝は、ないな、と思ったのは、勝てなくなったころナカジさんがあるコラムで「サポーターの力で勝たせてほしい」という言葉を見かけたときでした。
それで応援の気持ちを緩めることは、しませんでしたが、中を知っている人が勝つための要素を自分たちからサポーターに求めたということは、チーム内で勝とうという雰囲気がなくなってきているんだなと思ったからでした。
この言葉を聞いたときならずともいつも思うのは、確かに応援の力というものがあと一歩につながることは、あるのですが、サポーターの応援というのは、アシスト機能のようなもので、動いているものをさらに動かす力は、ありますが動かないものを0から動かせるほどの力は、持っていないと思うんです。
チームがまず立ち上がる力、やろうとする思い、そこからもう一歩上に行きたいというときに後押しするのがサポーターの応援であって、なにもかもサポーターの力で何とかなるというものでもありません。
うまく行かない時というのは、その様子を見守ることしかできないのがサポーターだと私は、思っています。結局、自分次第です。どんなことも、まずは、自分の足で立ち上がらなければ、何かをつかむことはできません。それは、無償の愛で子供を支えるという親でも同じことです。いくら自分の子供が苦しんでいても、それが自分の足で立たなければならないことであればじっと見ているだけで手出しは、しませんし、時には、厳しいことも言わなければなりません。仕事でもうまくなにもなくうまく行くことは、ほとんどありません。本当にいいものを作りたいという気持ちがあれば、ぶつかることもありますしお互い厳しい意見をかわしあうこともあります。そのような思いの応酬があったのち、乗り越えて、出来上がるものがあると思うのです。ネガティブなことは、言われたくない、だれかの後押しで結果をださせてほしい、この言葉に魂を揺さぶられるものがあるのかどうか、今一度考えてほしいと思っています。
誰しもズキっと来るようなことは、言われたくないものです。しかし、なぜ、心のズキっと来たか、というその理由を探れば、その理由が相手だけでなく自分にもあるということがわかってくると思うのです。
私は、自分の事について好き勝手にふるまってしまうタイプなので、親や家族から心配されてしまい時に結構な叱責を食らうことがあります。今でもできることなら言われたくないのですが、実際、心配をかけてしまう事柄が多すぎていたことに気づき致し方ないと思うようになりました。こちらが少し聞く耳を持てば、その意味が見えてくるのです。以前は、まったくシャットアウトでしたから、そこに意味があるとすら思っていませんでした。
自分の中だけで、物事を済ませていて、迷惑かけなければいいだろうくらいの思いで周りのことはあんまり気にしていませんでしたが、そこが自分の成長できない理由でもあったのです。自分の考えだけですべてがうまく行っていると思っているうちは、自分というレベルでしか物事ができないのですよね。
自分のレベルが高かったとしても、自分以上の想像力には、なりませんし、ましてや人のことを理解するなんてことは、しているといいながらできるはずもないのです。
きっかけは、仕事と人間関係で行き詰った時でした。それまで人に気を使っていると思っていたのですが、そうでは、なく、頼りすぎていたこと逆に頼らせすぎていたこと、共依存の状態を作ってしまい、最終的に破綻するということを繰り返していたことに気が付いたのです。共依存になる人の傾向として、自分の世界をわかってほしい、という、ことがあります。お互いがお互いのみだけで分かり合える存在となるように、自分のことをぶつけ合います。ぶつけ合えることが存在意義になってくるので、当然、疲れてきます。でも相手のことを考えていないので、自分だけがわかってもらえない気持ちが大きくなり関係は、破綻していきます。破綻した時にこれまた自分のことしか考えていないので、自分のどこがよくなかったかを受け入れることは、しません。
しかし、この破綻について、自分がなぜ受け入れられなかったかをずっと考え続けるのです。そうこうしているうちに、病んでしまうわけです。組織にしてもいいことしか聞きたくない、どんな自分たちであっても受け入れてほしいというところが見えてくると、周りは、正常な進化を遂げようとしないものに肩入れできませんから共依存してくれる人だけを残して去ってしまいます。組織の中で依存を繰り返し、進化することなく、消えていく存在になりかねない、そういうものをはらんでいるのでは、ないかと考えています。
まっすぐ、まじめに取り組むのもいいのですが、そのことだけにとらわれて、進むべき転換点を見失うことのないようにしてほしいと願っています。
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