飛び出す絵本理論
たしか、ウルトラマンだった。
子供のころ、伯母に贈られた飛び出す絵本に夢中になった記憶だ。ページをめくれば、街か起き上がってきて、暴れる怪獣をやっつけるウルトラマンがいる。
厚紙の突起をつまんで、動かすと怪獣やウルトラマンが連動して動く。その場に参加し、ヒーローの活躍を後押している感じが楽しくて、何度も何度も飽きずに動かした。微笑ましい記憶だ。
クッキーカウント、おばけやしき、あかまるちゃん、オズの魔法使い。これらは、名作といわれる、飛び出す絵本たちだ。ページをめくれば、3Dもかくやと思しき精緻な立体物が顔をだす。
クッキーカウントは、よだれかでそうなお菓子を。オズの魔法使いはドロシーを迷わせるファンタジー世界を。ロバート・サブダの作品は芸術の域。子供騙しのウルトラマン絵本など、霞んでしまいそうだ。
いわゆる子ども向けの仕掛け絵本の出版が始まるのは、18世紀以降。1765年のロンドンの書肆ロバート・セイヤー刊の道化絵本が最初だと言われてる。その系譜はいまに繋がり、幼かったぼくのような子どもを夢中にさせた。
夢中になったのは、飛び出す絵本のどこだろう。見たことない仕掛けとお遊びに驚き、それをいじること、それのみに満足していただけの気がする。
移り気で観察眼の乏しいぼくは、仕掛けを探すのが下手だった。だから、同じページをめくるたび、新しい仕掛けをみつけては驚き、それを摘んで、絵本の参加を楽しめた。人の倍は、遊べたろう。
仕掛けが楽しかった。見直すたびに、仕掛けみつける。一端の発見家になっていた。
そのうちすべての仕掛けを見つけ、楽しみのネタが尽きる。発見家きどりが終われば、その絵本はつまんない存在になり、見向きしなくなる。
子どもの娯楽にしては、絵本や安くない。飛び出す絵本はなおのことだ。一つに飽きたぼくは、傲慢にも、伯母に次の絵本を要求。優しい叔母は、新しい絵本を与えてくれたが、その本にもスグ飽きる。もっとないの? こうして何冊か積み上がったところで、飛び出す絵本そのものに飽きてしまった。
受動的な娯楽は、飛び出す絵本みたいなものだ。
大人にはなったが、もしかすると、ぼくは今も、飛び出す絵本を巡っているんじゃないか。繰り返し手に入る娯楽をただただ読み耽り、垂れ流し。どれも身につけることなく、刻だけを重ねているのではないだろうか。
叔母は、三年前に亡くなった。ぼくは、彼女の目にどう写っていたのだろう。