短編「傘」
この日はいまだ暑さと乾いた風が残る9月であった。
夕暮れ時、帰路。私は喉に痛みを感じ首元をさすった。
ちょっと酷使しすぎたな・・。
誰だってともに時間を過ごす人が無口なら、気を遣ってなるべく空白を満たそうとするだろう。ましてやそれが気になっている異性ならなおさらのことだ。そうして私の口は酷使された訳だ。
帰りの電車には思考を放棄したような時間が流れている。夕暮れが次第に暗闇へと変わっていく時間であった。車窓には郊外の背の低い家屋が立ち並ぶ。そろそろ夕飯時か。そう思い窓の中を覗き込むと、自身の顔が映り込むから、私は思わずその表情を確認した。車内の照明は顔のたるみの陰影をがいつもより多く見えた。
それから無造作に窓辺へ目を遣っていると、いつの間にかそこには小さなひっかき傷のような小雨がいくつも付着しているのに気が付いた。
雨か。。
そう思っていると、雨は段々強くなっていくようであった。窓のひっかき傷はいつしか大きい丸い粒へと変貌する。おまけに窓を打ち付ける音は大きくなっていくようだった。私は強くなった雨を見て思った。
なんだ、今頃か。
私は折り畳みの傘を持ってきていた。それは天気予報が私に促したことだ。私自身も、もしこの傘が二人の距離を縮めることになったらいいと、思っていたんではないかと思う。そう、思っていなかったといえばうそになる、ということだ。
しかし結局その傘は私の鞄の片隅に始終おかれているだけであった。私は、窓外の雨を眺めながら二人の男女が降り注ぐ雨を一つの傘でよけながら歩く姿を想像した。
電車はいつしか私の町に着いた。その頃にはにはいよいよ本降りの雨になっていた。人は電車とホームの間の雨に気を取られ颯爽と電車を降りていく。私もそれに続いた。
人の流れに沿って改札を出る。しかしその流れは駅舎の軒先で止まっていた。みな一様に空を見ている。そんなにも雨が好きなのであろうか。
さて、帰るか。
私は片隅に置かれていた傘を取り出し、歩き出す人々の群れに紛れた。
些末な帰り道である。道の上には温かみのない蛍光灯の光が水たまりの上で踊る。雨の中、行く末をとらえると、いつもより深くなった暗闇が存在するかのようであった。私は少し心ぼそくなった。
目の前にある200メートルほどのまっすぐな下り坂を私は折り畳み傘と共に下っていくのであった。
すると途中、携帯電話からの着信があった。雨音で着信音はかき消されているので、振動だけでそれが分かったか、もしくは気のせいであるかもわからない。しかし私は主人を待ちわびた犬のようにそれを取り出す。私に尻尾がついていたら、感情を見事に見破られたことだろう。
そうした感情は一つの着信で成就された。今日時間を共にした異性からの着信である。しかし画面の上には水滴が次々に踊りだし、内容がよく読めなかったし、そもそも傘が邪魔であった。あたりを見ると人が二人分が入れるほどの雨宿り場所があったから、その中に駆け込んだ。そうして私は傘を傍らに立て掛けた。
・・しばしの雨宿り。私は暗闇の中で誰にも気づかれないような小さな笑みをこぼした。尻尾がなくとも私の感情は容易にわかるであろう。そんな2、3文の文章で人の気持ちは湧き上がるのだ。
そうして私が着信の返事を考えていると、私の前を颯爽と歩いていく男の影。どうやらその男は頭から雨をかぶっているようで、傘がない。私は冷ややかな目でそれを眺めた。きっと、あの男は雨に打たれたいのだろう。もっと頭を冷やすがいいさ。
しかし顔を見上げるとこんな暗闇にも関わらずサングラスをしていたため、徐々に冷笑が奇妙な感に変わっていった。
私は彼の右手に持ってあるものが気がかりだった。傘か?彼は棒状のようなものを握っている。しかしそんなことなら雨をしのぐために使えばいいのに。いや、違う。彼は道を探っているのだ。その棒で。
私はそこで気づいた。途端に足が動いた。立てかけてあった傘を片手に。
私は男に寄り添って歩きながら、さも店の販売員のような若干高めの声を彼にかけた。怪しまれないように。
「いやぁ、雨がすごいですね」私は左隣の男の顔を見る。
すると驚いたような声。しかし私のいる方が雨音に遮られ判別がつかないのか、それとも私を警戒してか、顔は振り返らない。
「え、あ、ありがとうございます。」
続けて私は
「突然の雨ですね、実は私も同じ方向に行くので、ちょっと一緒にそこまでいきませんか。」と私は進行方向を指さす。すぐにそれが無意味だと悟ったけれども。
「そうですね、ではお願いします。」
意外にもすぐに落ち着きを取り戻した言葉。私はその日女性に行なったように間つなぎの言葉をかける。だって何しろ同性の相合い傘程、奇妙なものはないと思ったから。
「ところで、今日は仕事のお帰りですか?」
「はい、ちょっと社内で仕事がありまして、その帰りです。」
「今日はお仕事でしたか。もしかして明日もですか?」
「いえ、休みです。」
「よかったですね、雨に打たれた後の休日ほどいいものはないですし。」
男は雨の音に紛れて笑ったような気がした。
「それにしても、突然の雨ですね。」
「まったくです、困りますよ。」
「会社を出られたときは降ってなかったんですか?」
「そうですね。雨の匂いにさえ気づかなかったです。」男は恥ずかしそうに笑った。
私は続いて声をかけた。
「ちなみに、お仕事は何をされてるんですか?」
「自分ですか?音楽関係です。」
「音楽、ですか?」
「はい、今日はちょっと楽器は持ってないですけどね。」
「いや、むしろ持ってなくてよかったですよ。雨にぬれると厄介じゃないですか。」
「そうですね。」
「ちなみに楽器は何を?」
「ヴァイオリンを、弾いてます。」
「ヴァイオリンですか?それはかっこいいじゃないですか。」私の声は若干調子の外れた上ずった声になってしまった。正直、驚いた。
「へぇ、いいですね、ぜひまた今度、ストラディバリウスの音色でも聞かせてくださいよ。」しかし、その問いかけに対する返答はついに聞けなかった。
雨の音は強くなっていた。か細い電灯の光が私たちの進行方向を照らしている。道は枝分かれになっていた。私は男に言った。
「ところで自分、この道をまっすぐなんですけど、どちら方面にお帰りですか。」
「自分は、コンビニがある方の道に行きます。」
それは私とは逆の進行方向だった。私は彼に気づかれないように、傘を見上げた。あいにく今日はこの傘一本しか持っていない。私は答えた。
「そうでしたか。自分はまっすぐ行きますが、大丈夫でしょうか。」
自分で言っといて、大丈夫ですか?はないだろう、と心の中の声。
「大丈夫です、大丈夫です。自分の家はすぐそこなので。」
結局彼とは枝分かれの道で別れた。私はそのまままっすぐ進行方向に進もうとしたが、ふと足を止め、その男のいる方を振り向いた。私はなにがしかの後悔を感じていたのかもしれない。せめて後先はどうなるであろうか、だけでも見届けようと男の方を見つめた
するとそこには暗闇で雨に打たれている男の後ろ姿があった。ヴァイオリンの弓などではなくそのステッキが、雨音の中、コンクリートを打ち付け音を奏でている。そしてその音は徐々に小さくなっていった。
その姿を見えなくなった後、私は差している傘を見上げた。
私は後悔を感じていた。