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恋をして 仕事して

「恋をして 仕事して 歴史刻んだ地球・・」とはモーニング娘。の歌。
バリバリのダンスナンバーに仕上がったのはダンス☆マンによる所業だ。彼のおかげで世に多くのモー娘ファンを生んだわけだ。
しかし確かこの曲がリリースされたのは20世紀末の就職氷河期真っ只中。企業はバブル経済崩壊後の自己保身のために新規採用者の募集を絞り、多くの新卒者が職業にありつけなかった時代だ。
そんな冷え切った時代においてまぁこんな歌などをリリースする等、「なんとまぁ能天気な・・」と人はいうことだろう。確かにこの国は昭和天皇の喪中にヌードグラビアの類が販売自粛に追いやられてしまうような国だ。知らず知らずの同調圧力スキルでそう思ってしまうも無理はない。しかし私はもっと実利的に考えて、暗い雰囲気を少しでも盛り上げるこのようなアップテンポの曲が世に出たことは素直に良いことだと思っている。

何なら私は現在でもよくこの曲を聴いている。時代は有効求人倍率も2倍に近づきつつある(東京)この令和においてである。私は比較的ノリノリな音楽が好きなのだ。マイケルジャクソン、Daft Punkが今もいたら、私は今でも踊りながら生活していたことだろう。もし仮に現代に「ええじゃないか」と踊り狂う集団があったら迷わず参加していたに違いない。

そしてこの「恋愛レボリューション21」。耳元のマイクロフォンはいつも賑やかな音を私に届けてくれるが、この曲を聴いて最近ちょっと思ったことがある。というのもこの曲それほどパリピな歌ではないなぁと。歌詞中には「BMW」とか「シャンパン」とか肉体的な恋愛(いわゆるワンナイト的な)というような言葉が見当たらない。(おいしいパスタ作ったお前でもいい)そんなことよりむしろ「自転車」「紙コップ」と、中学生時代を想起させるような、いわゆる素朴なフレーズが散見される。

そして歌は最高潮のサビ部分へ。
「恋をして(Wo-Baby)仕事して(Wo-Baby)歴史刻んだ地球・・」
聴いていて知らず知らずの内、私の膝は震え出した。いや、禁断症状ではない、リズムを刻み始めたのだ。そして私の首は縦に揺れ始めた。いや、アルコールに酔っているのではない、ノッているのだ。

そうして曲はエンディングをむかえる。聴き終わった後、私は束の間の喪失感に似たような感情を抱いた。大トロのマグロをとうとう嚥下してしまった後のような気分だ。食品は多少なりとも満腹感を与えるが、こと曲に関しては余韻しか残さない。

するとどうだろう、さざ波のような余韻に紛れ、波打ち際に流れ着いた違和感。「恋をして、仕事して、歴史刻んだ地球・・。」
その違和感は私の脳内をまたもや刺激した。

〇違和感の正体

それはTシャツを前後ろ逆に着た時のような違和感などではない。つまりそこまで大げさなものではないということだ。しかし目の端に映る人見知りの様な違和感だ。あぁ、なんかこの違和感は本で読んだことある。。
そもそもなんでこれってサビ前では本当に些細なことを歌っているのに、サビで恋とか社会とかちょっとスケールの大きい話をしているんだろう。
何せ、「歴史刻んだ…」である。「自転車」や「紙コップ」が歴史を動かさないことは、フェルマーでなくても簡単に導ける定理である。

その時、私の頭の中で何かがひらめいた。
「あ、そうだこの違和感は、丸山眞男の本で読んだことがある!」
まるで進研ゼミの(つまらない)漫画の様に私は気付いてしまった。それも確か「虚構性」にまつわる文章の中でだったと思う。
以下に私の思ったこの歌から着想を得た、「虚構性」にまつわる文章が続く。

○虚構性について

しかし一口に「虚構」と言われて最も私たちの頭に浮かびやすいのは、ファンタジーの類だろう。ドラえもんだとか、ワンピースだとか。しかし、私が言いたいのはそういう事ではない。現実に潜んでいる虚構性とでも言おうか。まったくそういうものなのである。
こういう時は辞書に言葉を借りよう。「虚構」と調べるととこんな言葉が出てきた。

①事実でないことを事実らしく作り上げること。また作り上げられたもの。
②文芸作品を書くにあたって、作者の想像力により、実際にはないことを現実に会ったことの様に真実味をもたせて書くこと。またその作品。

上記の説明はあくまで創作物の範囲に留められているが、ここにもう一つの創作物がある。それは「社会」。

〇社会の虚構性

「え、何だって?社会は実際に存在しているからこうして生きていられるんだろう?」
と言う人もいるだろう。確かにそれは私たち大地の上に生活しているといった定義である。それがあって私たちは生活できるのは言うまでもない。
しかし私が言いたいのはそれが何もまったく存在しない、という事ではない。私が言いたいのは、社会は確かに存在するけど、それって幻想に近いものだよね?という事だ。

ここで一つ疑問を投げかけてみたい。一体、誰が社会のすべてを認識していると言えるだろうか。すべてとはすべてである。全国各地、スラム街から高級住宅街に至るまでのすべてである。
私は断言する。そんな人はいない。
考えてみてほしい。超高所得者が味わう社会は、一般人が味わう社会とは大いに違うだろうという事を。例えばスペースXのCEOで熱狂的なトランプ支持者でもある、イーロン・マスクは夕方時、値引きシールが貼られるまで惣菜コーナーで粘っていることもないだろうし、パチンコに負けて、飲み屋で管を巻くこともないだろう。彼はこの手の庶民的な社会には息をしておらず、私たちよりももっと高貴な社会に暮らしていることは容易に想像がつく。(そしてケタミンパーティーを開いているという・・。)
こういった事例(仮に孫正義でもいい)があるにも関わらず、私たちの前には社会があたかも存在している。まったく私と彼が味わう社会とは趣を異にしているにもかかわらず。しかし社会派が頑として存在するのだ。なぜだろう。

実はこのことは「私たちは同じ社会の中に生きている」という幻想があるから成り立っている。もし社会が分断していたら、フランス革命のようなことが民衆で起こりうるだろうし、一部の日本人はいまでも「ええじゃないか」を踊っているかも知れない。しかしそんなことにはならないのは、私たちが一つの共同幻想の中に暮らしているから。そしてこれは近代ヨーロッパ以降からの産物である。

だから私に言わせれば「社会」と言うのは共同幻想にすぎない。それぞれ異なった「社会」の実感がある中で、人はそれぞれの国の憲法だとか、アイデンティティーだとかを持ち出して社会の定義づけを行っているのだ。実際にはすべてを捉えることができないのにかかわらず。
トランプはしきりに分断を煽り、得票を得ようとしているようだが、まったくこのことに気付いたからだろう。そうすれば熱狂的な支持が得られると。

〇日本文学のフィクション性

そして実は日本の文学にはこういった類のフィクション性があまりない。社会という幻想をあまり信じていないという事だ。丸山眞男の研究に従えば、日本における社会意識は顔という、実感によって支えられている(確か「忠誠と反逆」に出ていた。しらんけど。)という。

我が国の純文学はこのような幻想を信じない。そこまではいいとしても、その社会意識を実感でしか感じられないから、結局エロやグロ、個人的な恋愛といったものしか扱われない、そして社会との連関は極めて希薄になる。(まるで田山花袋の「蒲団」の世界)

その代わりに出現したのがファンタジーである。このファンタジーは全然社会とはつながりを持たないばかりか、メッセージもほとんどない。なんせ社会との軋轢からの解放と言った役割を担っていないから。それは解放と言うより逸脱に近い行為だ。

〇話を戻そう

すまない、ついつい、日本文学に対する愚痴をこぼしてしまった。何も私は売れない作家などではない。(そもそも文学作品を書いた試しがない。)

そうそう、モー娘。の話だ。私が気になった違和感を下に載せよう。
「恋愛~」では次の二つの視点が歌詞に織り交ぜられていると思う。

①日常的で具体的な物質、事象。「自転車」「紙コップ」「寝坊」など
②抽象的な概念。「恋」「仕事」「歴史」

そしてこの②の抽象的概念は、「社会」の認識と同じ様に共同幻想的な代物である。なぜなら私たちはすべての「恋」や「仕事」、「歴史」を認識しているわけではないから。みな辞書の定義に頼る様に、それを認識しているに過ぎない。

この2つの視点の邂逅こそ、この歌のダイナミックな所である。特にサビにかけて盛り上がる部分は素晴らしい。この曲を作った人に国民栄誉賞を挙げたいくらいだ。

〇終わりに

ふぅ。これで私の違和感は吐き出せた。まるで喉につっかえていた小骨が出てきたような気分。ごはんと一緒に飲み込まなくてよかった。

それにしても面白い点がもう一つある。
それはこの曲をアイドル、という一種幻想的な存在に歌わせていることだ。そこには売れないバンドマンが歌うような切実さは少ないし、悲壮感もない。アイドルという憧れを投射した存在がこの曲を歌って踊るのである。

「社会など幻想にすぎないけど、明るくいこうよ」

そんなメッセージが根底にあったら面白い。明るいデカダンとでもいおうか。




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