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『生きていた頃』
朝、研修には行けなかった。道で声をかけてきた男が、かつての同期にあまりに似ていたから。
「なんで俺をブロックしたん?何か気に触ることした?」
「どうして朝来なかったの?」
「番号順だからもう担当のところスキップされちゃってるよ」
ノイズを消し去り、先へと進む。
あぁ、講師に何とメールしようか─
あのプレゼンやらないと欠席扱いだろうか─
まぁ別にいいか─
そんなことを考えながら過ごす午後。建物と木陰の狭間、薄闇に控えめな赤陽が差していた。
またある日の午前。その日は夜に同期飲みがあった。
「夜まで時間があるからそれまでどっかで時間潰そう」
そうして君と時間を過ごす。
人を好きになることはない。誰かに心ときめくこともない。ただ、君を見ていると少し不思議な感覚になった。
午前、2人で立ち寄った海。波は高く、荒れていた。
そのままどこかで時間を潰し、西日も沈み、薄明かりを包む闇が立ち込めた。
月が道を照らす中、再び君と海を訪れる。いつしか波は落ち着き、静寂が水面を包む。
それから君と色々話した。仕事のこと、私生活のこと、価値観のこと、、、いつしか夜も更け、同期飲みはとうに始まっていた。
「痛っ、、」
多くのことを話したあと、君は何かの節に足の指を切ってしまったようで、血が出てくる。
よくあることだ。傷口を軽く消毒し、持ち合わせのティッシュなりで塞いでやった。
それからもしばらく話していたが、ある時を境に君は不安を吐き出し始めた。
描けない将来像、自身への無力感、明日への不安。
話す声は震えていた。しばらくして、君は限界を超えたかのように静かに泣き始める。
とても驚いた。君は不安も感情も、周りに吐き出すような人ではなかったから。
同時に、凄く不思議な気持ちになった。
何ができるかわからない、けど何かはしてやりたい。
なんて労しい。
護ってやりたい。
1人気丈に自らを奮い立たせることに疲れたなら、俺が傍で支えてやりたい。そんな思いが込み上げる。
「大丈夫、君は本当に頑張ってる」「自分なりの信念を持ち、健気に進み続けるのは本当に素敵なこと」
憔悴しきった君が、無力な目で自分を見つめる。
あの何事にも真っ直ぐで気を強く持ち、信念を曲げずに生きている君が。
白い服から垣間見える華奢な手足。なんて小さい顔なのだろう。擦れに擦れたこの期の自分が、再び誰かにこんな気持ちを抱いたことに驚きを覚えた。思わず抱きしめ、唇を重ねた。
あまりに閑かな夜だった。
少し熱を失った秋の夜風、凪いだ海と夕闇。
それからいつしか場面は変わり、飲み会近くの喧騒の中、君とただそこにいた。
繁華街、行き交う人々、声を鋭く照らす無数の白熱灯。
このまま2人、喧騒の中へ行方を晦ましたい。
君の手を引く。
「今日はもう、2人でいよう。」
「今日だけじゃない、これからも。君が好きだ。いつも真っ直ぐ何かに向き合ってる君が。どこかか弱く、心細いその気立てを、必死に押し殺して強く生きる君が。もう誰も好きになれないと思った。それでも、君が隣にいればもう誰もいらないと思った。ありのままの君のことが、俺は本気で好きだ。」
誰にも言わなくていい。言えない。
この恋を誰かに知られてしまったら、俺も、それ以上に君も、今までのように目の前のことに向き合えなくなるから。
我々は同期なのだから。
あの2人どこいったんだろ、なんで2人ともいないんだろ、そんなふうに言われていればそれでよかった。それすら幸せだった。
やり場のない苦しみを胸に、焦燥に突き動かされるように君が口を開く。
「私、行かなきゃいけない」
待て、ここにいてくれ そう急がないでくれ 行かないでくれ
君は瞬く間に人混みへ消えていく。人が多い。
この喧騒の中、君への声はきっともう届かない。
我を忘れるかのように人を掻き分け、君を探す。
分かっている。君はもうどこにもいない。
もう二度と会うこともない、この世界の中でただのひと時だけ巡り会った、そんな人。偶然の賜物。
酔いが回っているかのように、景色が、人混みが、自分を取り巻き渦を巻く。その中を、全速力で駆け抜ける。
今は、今だけは、手を伸ばせば確かに君はそこにいる。
「危ないn──!」「えなn──?!」「個─あいてまーす居酒y───」「とり──ずここ行k─」
絶えず人の声がした。
驚いた顔でこちらを見る無数の目とぶつかる人の重み。その全てが虚構に思えた。
無我夢中で君を探し、人混みを駆ける。正気も失っていたと思う。
ふと一瞬人混みを抜けた時、小太りの男が絡みついてきた。歳は4~5つ上だった気がする。
あぁ君がいなくなる。
もう二度と会えない君を、今探せばきっとまだそこにいる君を、永遠に失う。
身動きが取りにくい。自分の中で、信じられないような何かが込み上げてくる。
「おい触んじゃねぇクソ野郎!!!!」「汚ねえな!!何なんだよこの豚が!!」「ふざけんじゃねえ!!!絶対にブチ○してやるゴミ!!」
地面に薙ぎ倒し、力のままに殴打し、蹴り飛ばした。
自分でも何をしているのかわからなかった。
「てめぇ生きて帰れると思ってんじゃねえぞ!!」
手が止まらない。
喧騒、人の悲鳴、何食わず照らす白熱灯。
目に映るもの全てが渦を巻く中、その男を蹴り続けるまま視界は消えた。
それからは、何があったのかわからない。記憶は何もなく、そこで全てが途切れている。
ただ、君の細い手足と、風に漂うシャンプーの香りだけが、いつまでも自分の中に焼き付いていた。
『生きていた頃』(2024)
※フィクションです。