生と死

実際の検証やさまざまな思想哲学はさておいて、138億年前にビッグバンがあり、空間が膨張し、その光が届く範囲の宇宙のみ観測可能、という。果たしてそんなことがありえるのか。存在を持ってきた時に、メタ視点からして、この時間軸にこの時刻に、存在をぽんと置いたようなこと、そんなことがありえるのかという話。始まりと終わりのような端点があるという違和感。
不自然。

存在は存在自身からして永遠を内包するはずだと思う。
その永遠のうち、始点と終点を切り取るならば、そこが宇宙の始まりであったり、人の死であったり、ライブのステージなのです。
存在は永遠であるし永遠でなければ存在できない。
永遠でなくて、終わりがあるのなら、すでに終わってしまっているはず。
たまたま開演時間に間に合うなんてことはありえない。ずーっとそこに元々あって、ある地点からある地点までを切り取って、ライブイベントにしているだけ。

産まれてきた時に、どこからともなく存在が供給されて、いつのまにか3歳になり、物心がつき、四苦八苦してさまざまに死んでいく。それが消滅?そんな不自然なことはありえない。どこからともなく現れたわけではないし、消滅もしていないはず。ただし、外見、形や質が変わっていることだけは確かで、それが五感で認識できるものの範囲でしか解釈できないという話で、把握できる範囲は非常に狭いものなので、100年くらいの時間経過や100メートルくらいの距離によって観測不能になる。観測できないからといって昼間にも月はあるし、夜中にも太陽はある。

つまり対象の生や死というのは、見られる感じられる範囲の、内側と外側を分ける端点であって、解釈の区切り目でしかないもの。存在自体は永遠に回転し続けているので、産まれたり死んだり、日が出て沈むように、ただ回っている。見える範囲が狭いだけ。

"帰ろう"のことをそのように解釈してます。自我意識が観測できなくなっても、観測の外側がある、死後の世界は、夜に日が沈んでいるようなものだという解釈。登校して下校する。誕生してないし消滅もしてない。解釈が変わるだけ。存在は永遠。


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