OPEN DISCUSSION.04
OPEN DISCUSSION は、金沢工業大学にある五十嵐威暢アーカイブで開催されるラーニングプログラムのひとつです。アーカイブのスタッフがファシリテーターとなり、毎回異なるテーマに対し参加者が様々に意見を交わします。
第4回目のテーマは、「排除のデザイン」です。皆さんは「排除のデザイン」と聞いてどのようなものを思い浮かべるでしょうか?「排除」と聞くと強い言葉のように聞こえるかもしれませんが、私たちの身の回りを見てみると、特定の人々をあらかじめ排除することを目的とした造形物が意外にも身近に、時として「アート」として潜んでいることに気づくかもしれません。
今回のディスカッションでは、事前に参加者の皆さんに「排除のデザイン」について述べている記事を読んでいただきました。記事の中では、「排除アート」と呼称される、不思議な形をした何かしらの作品のような造形物が公共空間に増えている現状とその不寛容さについて述べられていました。この記事を読んだ上で行った「身近に排除アートを見たことがあるか?」という議論では、駅や商業施設、エスカレーター前といった様々な空間が議題に上がり、「そんなところにも排除アートが!」という驚きを感じられる場面も。中でも、ファシリテーターが提示した様々な公共空間にあるベンチの写真は、座面に仕切りがあったり、チューブ状の形をしていたり・・・。形状そのものが、何か腰掛けること以外を排除しようという意図を感じさせるものが多くありました。
「形」は時として「言葉」よりも人の行動に対する大きな抑制力を持つのかもしれません。学生の立場でこのことを特に身近に感じられるのは、金沢工業大学の扇が丘キャンパスを通る車道です。今回のディスカッションにおいても「形による禁止」という議題で上がったこの車道は、道幅が狭く路面も凸凹しているのに加え、S字になっている箇所まであります。確かに、道の形状がこのような要素を持つのなら、ドライバーは走行スピードを落とさざるを得ません。このように、形は特定の行動を抑制することができ、これは特定の人を予め排除する「排除アート」にも通ずるものがあります。このことを考えると、この車道はスピードを出すドライバーを排除する一種の「排除アート」とも言えるのかもしれません。
では、「排除アート」は誰のためにあるのでしょう?ファシリテーターが参加者にこのことを問いかけると、参加者からは「本来の目的で使用したい人のため」という意見が挙げられました。公共空間のベンチを例に考えてみると、ベンチに座りたいときにそこに寝転んでいる人がいたら座ることができず不便に感じます。そこで、ファシリテーターが最初に提示したような、一見するとおしゃれなパブリックアートに見えるチューブ状のベンチがあったとき、ベンチで寝転ぶ人を排除することができます。しかし、座って少し休憩しようと思った人にとってこのベンチはどうでしょうか?おそらく、座りにくさを感じ、そもそもの利用目的である「座る」という行動すらとらなくなってしまうかもしれません。
ここまで議論してきた「排除アート」ですが、果たしてそれは「アート」と言えるのでしょうか?この問いに迫るために、互いに混同されがちな言葉である「アート」と「デザイン」の違いについて議論しました。ここで、多くの人が議題に上げたのは、「目的があるか否か」という点。議論においては、「アート」は視覚的なものであり明確な目的が無く、「デザイン」は用途(=目的)があるものといった意見が多く出ました。この点で考えると、「ある対象を排除する」という明確な目的を持つ「排除アート」は、「アート」というよりも「デザイン」に寄ったものであると言えます。
最初の議論にもあったように、「排除アート」は公共空間にある身近なものです。しかし、すべての人が平等に利用できる場である公共空間において、特定の誰かを排除する目的を持ったデザインが施された「排除アート」を配置することは、果たして公共空間の在り方として正しいのでしょうか?ファシリテーターがこの問いに関して、「公共空間とはどのようにあるべきか?」参加者に問いかけたところ、「すべての人が公平に利用できる」、「皆が必要なときに利用できる」、といった意見が挙げられました。
すべての人が必要なときに公平に利用できるような公共空間を作っていくためには、まずは街中を観察し、公共空間を利用する私たち一人一人がその在り方を考える必要があるのかもしれません。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
(本投稿は、議事録を担当した学生スタッフによって執筆されました)