「表現する」ことで自分も相手も癒やされていたのかな
約10日前の令和こどもの日。 cotreeさんのnoteに記事を寄稿しました。今日は寄稿してみた体験と気づいたことをダラダラと書きます。
自分の中で練った言葉が多くの人に伝わって嬉しかった
まず一番大きかったのは、やはり多くの人に自分の言葉が伝わった、ということの嬉しさでしょうか。
今までは好き勝手書いていた個人のnoteですが、今回書くのは一企業のnote。自分はプロのライターではないとはいえ、やっぱりもらったチャンスにはちゃんと誠実にこたえたい想いはありました。
「誰かを攻撃しない」とか「炎上させない」みたいなことは大前提として、
・自分が今まで感じてきたことはどんなことだったろうか?
・cotreeを通して出会った人たちと何を感じて考えてきただろうか?
・このメディアで自分が伝えたいことはどんなことだろうか?
・このメディアを読む人たちにどうやったら喜んでもらえるだろうか?
・自分だから伝えられることはなんだろうか?
みたいなことをGW中にすごーく内観していました。(もちろん、休みはちゃんとのんびりしましたが。)
その結果、
・自分のnoteで一番読まれた記事になった
・自分のnoteで一番Likeをつけられた記事になった
という予想外の結果になりました!バズる(=大量に拡散される)みたいな記事ではなかったですが、たくさんの人が心の中で大切に受け取ってくださったみたいで、それがとても嬉しく思いました。
反応を見せてくれた人たちの姿を見れた
単純にビューが伸びたとか、Likeがたくさんついたとか、も十分嬉しいのですが、それ以上に反応を見せてくれた人たちの姿も嬉しく思いました。
こんな嬉しいタイトルのマガジンに加えてくださったり
嬉しい感想をTwitterでつぶやいてくれたりなんてこともありました。
過去記事を引用して寄稿してくださった方も・・・!(お二人ともありがとうございます!)
「表現」することもケアなら、「表現」を受け取ることもまたケアだと思う
上記のべとりんさんのnoteで、こんなことが書かれていました。
「表現」は、「心のケア」の極めて根本的な構成要素だと、私は思う。
詳細は該当記事を見ていただくとして、寄稿してみた今、この一節は確かにすごく納得感を持って感じられました。
べとりんさんの記事では、身体的な反応などを「表現」として看護学的な立場から説明なさっているけれど、きっと文章とか、歌とか、ダンスとか、あるいは日々のおしゃべりとか、日々の食卓で作った料理とか、仕事の成果物とかも、きっと同じ。
今回は文章っていう形で、自分の心の内をめちゃくちゃ内省して、言葉をこねこねして「表現」して、それをたくさんの人に大切に受け取ってもらえたことで、自分のケアにもなっていたなあとすごく感じたんです。
自分が葛藤してきたプロセスを、言葉にして語る機会に恵まれることで、一番救われていたのは自分だったから。本当は今なお葛藤しているプロセスの途上でもあるのだけれど、それに立ち向かう気力も「表現」することでもらえていた気がします。
(※cotree advent noteは別にケアを趣旨とする企画じゃないです、念の為。)
ただ、それと同じくらい、「表現」を受け取る人にとってもケアになっていたんじゃないかなって今回のことで思いました。
「あの記事読んでホッとした」って言ってくれる人、記事を読んで実際に自分の思いを表現してくれた人、あるいはこっそり何度も読み返してくれる人、etc...
別に誰かを元気づけようとか、ケアしようと思っていたわけじゃないけど、与えられた打席で目一杯バットを振っていただけだけど、結果として自分の「表現」を受け取った人たちが、ちょっとホッとしてくれて元気になってくれていた感触は、感じられたから。
そんな人達の「受け取ってくれた」という「表現」が、また一周回って自分を癒やしてくれた気もします。(それってある意味カウンセリング的でもあるんですけどね。)
「傷つける」ことへの葛藤と、たくさんの人が「表現」することの意義
ただ、櫻本さんは以前、下記のようなことをおっしゃっていました。
言葉は、他者に「伝える」ために使われます。言葉を発するとき、人はそれが他者に届いてほしいと願っているはずです。
でも、究極に誠実であろうとするならば、あらゆる言葉は語られるべきではないのではないか。なぜなら言葉が完全に現実や真実を表象することはありえないし、そこに書き手が他者に伝えようとする「意図」が存在する以上、完全に中立的ではありえないから。
誰も傷つけることなく、ひとつの嘘をつくこともなく、多くの人に向けてビジネスや発信をすることは不可能です。
自分も寄稿するにあたって、やっぱりいちばん悩んだのはここでした。
メンタルヘルスのサービスで、かつ心が辛い人が多く読むと予想されるマガジンの中で、「自分の記事で誰かを傷つけないか?」「自分の言葉で意図せぬ苦しさを生まないか?」と葛藤したのもあります。
自分で言えば、
・男性である
・20代である
・割と恵まれた環境下にいる
みたいな属性から逃れることはできないから、例えばどんなに頑張っても、女性の気持ちは完全には想像しようがないし、30代40代の人の感じ方はわからないし、恵まれた環境下に居ない人がどう感じるかもわからない。
頑張って傷つけないように誠実の言葉を編みながら書いたつもりでも、きっとどこかでこぼれ落ちて傷つく人はいるんだろうと、記事を書いて10日たった今でも思います。
それはきっとcotreeの中の人のみなさんも同じで、どんなにメンタルヘルスケアに精通していても、どんなに心のプロであっても、誰も傷つけない完璧な言葉を編み出せるはずはないと思います。それでも多く人に誠実に届けたいと日々葛藤をしつづけているのも、Twitterやリアルな場でお話していて感じます。
だからこそ、advent noteみたいに、いろいろな人が寄稿していることに救いも感じています。
書いている人たちは、いろいろな属性や立場や経験の人がいる。
・中の人の皆さん
・ユーザーさん
・オフィスに遊びに来た人
・精神を病んだ人 or そこから回復した人
・心理士さん etc..
そんな多種多様な人たちが、それぞれの感じる「やさしさ」の形を伝えていったら、もしかするとこぼれ落ちる人、傷つく人がほんの少しでも減るかもしれない。あるいは誰かの表現した「やさしさ」の形がしっくりこなくても、別の誰かが表現した「やさしさ」の形にしっくりきて、救いを感じるかもしれない。
中の人だけでは、あるいは自分みたいなちっぽけな一人のユーザーでは、すべての意図を掬い取りきれないからこそ、多種多様な人たちが参加していろいろな形で「表現」することに一つの希望も感じるのです。
もしかすると単にマーケティング施策だったのかもしれないけれど、大げさに捉え過ぎかもしれないけど、このマガジンがそんな風になってくれたら、寄稿したユーザーの一人としても嬉しいなと思います。
(|ω・`)チラッチラッ(平山さんの方をみながら...
おしまい。