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「わからない」に自らを開くこと ~ヨコハマトリエンナーレ2020感想~

もう1ヶ月以上時間が経ちますが、ヨコハマトリエンナーレ2020に行ってきました。

普段芸術になんて触れない自分が珍しく美術館に行ってみた、という点でも、行ってみて感じたことがあった、という点でも、とても大きな経験をしたなあと思ったので、感想や考えたことをnoteに書きたいと思います。

○ヨコハマトリエンナーレとは?

正確なことは公式のページを御覧ください。

ざっくり言うと3年に1度、横浜で開催されてきた現代アートの国際展。2001年からはじまって、もうすぐ20年の節目になるそうです。「トリエンナーレ」は3年ごと、という意味だそう。

コロナ禍で、世界に先駆けて開催された展覧会で、かつ街を上げて盛り上げてきたみたいです。


○眼の前に「わからない」ものだらけ!?

館内を巡ってまずびっくりしたのが、眼の前にあるものが「わからない」ものだらけ、ということでした。

最初は、絵や彫刻が飾ってある、そこに解説が書いてあって....なんてテンプレ的なイメージを持っていました。

ただ、実際に行ってみると、イメージとは裏腹に、眼の前には「よくわからないもの」がたくさんあって、ギョッとする体験がたくさん詰まっていました

「わからない」絵、「わからない」映像作品、「わからない」立体作品、etc...


言葉に表現するとチープになってしまいますが、「わからない」ものだらけで、思わずグイグイ引き込まれてしまう時間を過ごしていました。

一方的な解説もない、正解もない、ただ眼の前にある「わからない」をじーっと見ながら味わう時間。(詩的な説明書きはありましたが、それもあまり意味がわからず、正しい見方としての「正解」となる解説はどこにもありませんでした。)

「この眼の前にある「よくわからないもの」は一体何を伝えたいのだろう...?」とじーっと見てるようなことは、自分の中でもとても新鮮な体験でした。しかもそれが不快でもなく、むしろ心地よくもあった。

"「わからない」を楽しもう!"と公式のPR動画にもあったけれど、その意味がとてもよくわかった気がしました。


○「わからない」と5つのソース(思考の源泉)のこと

今回のトリエンナーレ、事前にアートディレクターのラクス・メディア・コレクティブ(以下ラクス)がテーマ、ならぬソース(思考の源泉)を提示していたのだそう。

テーマ(≒ある種の「正解」、「ゴール」)ではなく、ソース(≒思考の源泉≒連想の源)をもとに展覧会を構成するのは、珍しいらしいです。

そこで提示されていた5つのキーワードが、展覧会を経た今も心に残っています。

「独学」:人に教えられるのではなく、自ら学ぶこと
「発光」:学んで光を外に放つこと
「友情」:光の中で友情を育むこと
「ケア」:互いをいつくしむこと
「毒」:世界に否応なく存在する毒と共生すること
(「いっしょに歩く ヨコハマトリエンナーレ2020ガイド」 より引用)

思わずドキッとするキーワードばかり。コロナ禍でのことを重ねてしまいますが、それを抜きにしても、自分が怠ってきたキーワードばかりで、展覧会が終わったあとも何度も反芻して考えていたことでもありました。

展覧会には誰かが示してくれる「正しい解説」は一つもなかった。

鑑賞者が「よくわからない」作品をわからないままに味わい、自分で考えることをラクスは願っていたのかな、と感じました。

でも、それはきっと日常でも同じことで、本当は、誰かが示してくれる「正しい解説」にすがりつくばかりじゃなくて、自ら味わって、自ら考えて、自ら学んで、自ら感じたことを外に伝えていかなきゃいけなかったんじゃないか、と深く考えるようにもなりました。

ずっとそのことから逃げ続けて、誰かが示してくれる「正解」を求めてさまよって、自分が気に入らなければブーブー言ってるばかり。そんな無責任な自分のこととも重なって感じるようにもなりました。

誰かが示す秩序、誰かが示す正解、誰かが示すゴール、そこから離れて、自分の力で自分の視点を作り上げて、伝えていく(≒独学、発光)努力。

それはきっと他者のことを理解し合い、尊重しあい、互いを慈しむ(≒友情、ケア)ことにもつながる。

そこからどうしようもないものを受け入れたり、誰かと一緒に考えていく(≒)ことだって、できるかもしれない。

あの美術館で出会った「わからない」作品たちを、「正しい解説」もないままに、自分で考えて味わうのは、きっとそのための練習だったりしたのかもしれないなと今は思えるようになりました。それはとても豊かなことでもあるはず。

そうした先に、今回の展覧会のサブタイトルにもある「光の破片をつかまえる」ことができるんじゃないか、とも今は思っています。

誰かが与えてくれた「正解」に安易にすがらず、努力して世界に満ちた「光の破片をつかまえる」ことを続けて、紡ぎあげることができた人は、きっと自分だけの見方をつくることができて、それが「知性」(≒「」)にもなるのかもしれない。

そんな努力、自分はどれだけやってこれただろうか、と展覧会を経て思うようになりました。

僕にとっての"「わからない」を楽しもう!"は"「光の破片をつかまえる」ための練習"にも思えました。

(美術手帖にあったキュレーターさんのレビューも近い意見かも)


○「わからない」に"自らを開く"こと

ここまで気づいて、自分の先天的な傾向のことも、少し変わった形で見れるようにもなりました。

僕は"自らを閉ざす"という先天的な傾向をもった人間です。振り返ってみると、その傾向が悪い方に出たとき、だいたい「わかりやすい」ものにすがりついていたような気がしています。

「お手軽」で「インスタント」で「わかりやすい」ものにこだわって、ぐるぐる同じところを回ってばかりでした。誰かに流されてばかりでいたし、「わかりやすい」から外れたときにはパニックをしょっちゅう起こしてもいました。「わからない」ものが来たときは、自分の心の門を閉ざしていた気さえもします。

ですが、上記とは逆に、"自らを開く"ができたとき、「わからない」ものに興味を広げたり、「わからない」を楽しむことができていたようにも思いました。

変化を楽しめていたときでもあったし、自分と他者を尊重しながらわかちあうことができていたときでもありました。「わからない」ものを弾き飛ばすのではなく、心の門を開いて、受け入れることができていたようにも思います。

上記はあくまで僕の場合に限った話だし、同じ傾向を持つ人を非難するものでもありません。

ただ、トリエンナーレが伝えてくれた"「わからない」を楽しもう!"は、そんな僕の"自らを閉ざす"傾向を克服して"自らを開く"ことへのヒントも与えてくれたようにも感じました。

「光の破片」ってきっとこんな感じでしょうか。

○一歩踏み出してよかった

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ここまで展覧会で感じ取ったことをつらつらと書きましたが、こんな考えたことを抜きにしても、一歩踏み出してみてとてもよかったと思えました。

今まで、ビフォアコロナの世界でも、アフターコロナの世界でも、スクリーン越しのデジタル刺激の中に中毒のように夢中になって、誰かが示してくれるインスタントなものばかり見ていました。(もう立派なスマホ依存症かもしれません。)

それが、美術館というリアルな場所で、芸術作品というアナログなものを、自分の心と身体で逃げずに感じ取っていく経験は、何にも代えがたい豊かなものだったと感じました。

こんなアナログだけど、豊かな経験、もう少し積み重ねていきたいなと思えるすばらしい展覧会でした。

展覧会はすでに終了していますが、テレビ神奈川さんが様子を上げてくれているので、よかったらご覧になってください。