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毒親、依存、そして統合失調症の家族

こんにちは。ありんこです。

長らくこう言うのも書けなかった私ですが、またつらつら書こうと思います。

去年末、パーンと部屋を掃除しました。
仕事を辞めてからしばらく。綺麗な部屋で新年を迎えたら、自分が鬱だったのではないかと思い至りまして。

仕事にも集中できず、心配事ばかり。家では統合失調症の姉が誰彼構わず喧嘩を売り、一日中叫ぶ。そんな状況で、病まないわけはないよな。と改めて思いはじめる。
今回は、それまでの話です。

母という存在

昨年母のがんについて、病院で快癒(転移などがなかった)がわかるちょっと前に、母と大喧嘩をしました。

お嬢さま気質少々、ヒステリックも適量、過干渉に昔のトラウマみたいなものも兼ね備える母は、父やその兄妹から蔑ろにされてきたと幼い私に話す人だった。その時はふーん。と鬱陶しさがあるものの、大人になるにつれて叔母の母を蔑むことしかできない話にうんざりしたり、横暴で幼稚な父との会話についていけなくなった時、どっちもどっちだろうと思っていたあの母の話が本物だったと知った。
ハタチを過ぎたときも0時を過ぎると、20件以上の電話が携帯の履歴に母の名前が残った。そんな過干渉な所がとても嫌だったけれど、叔母の発言が激化し、父が適当なことを言うたびに母という存在を大事にしなければと思うようになっていった。

私が社会人になり、次女が統合失調症を発症して数年後。問題が徐々に深刻化した頃だった。
最悪なことに母を虐げてきた風潮は、姉にも受け継がれていることに気が付いた。問題が起きると「それはパパとママが悪い」「ママのせい」と話を終えようとする。これに私は吐き気がした。この気持ち悪さは今でも拭えていない。

「それ誰かのせいにして、解決する問題なの?」

話の発端はパワハラ問題だったけど、誰かのせいにして終わらせようとする強引さ、証拠もないのにあいつが悪いと決めつけるその姿勢。時代に逆らっているだけじゃない気持ち悪さ。
母という存在のせい、父という存在のせいにしておく事で、なにもかもなぁなぁにしようとする明け透けな魂胆が気持ち悪い。家族にだって礼儀はあることを、知らない子どもみたいな主張だと思った。

元々尊敬してたし大好きだった姉たちが一瞬で崩れ去り、人のせいにすることでしか生きていけない可哀想な人たちに成り下がっていた。

母にもこの気持ち悪さを話していたし、これについて母の悪い所もあること、でもそれを越えて周りが気持ち悪いことも言葉を重ねて伝えてきた。

「ママも、なんでもかんでもママのせいだって言うのやめなよ。ママがママのせいだって言うから、周りが調子に乗って便乗するんだよ」

そうやって言いつつも、ずっと母を支えてきたつもりだった。母の代わりに怒り、負担を減らそうと正しい家族としてあろうとしていた。
けど、大喧嘩の時、母は泣きながら言った言葉は、私にとって1番の地雷だった。

「あなたも私の家族じゃないのかもしれない」

数日後、売り言葉に買い言葉でしょうと母は言ったが、吐いた言葉は戻らない。私は家族じゃなかったと知ってしまった。
この人は、母ではなく産んだ女であって、姉だと思っていたのは同じ産んだ女の子どもであるだけだった。
あの時からなにも伝わらなかったし、なにも響かなくなった。むしゃくしゃして車を走らせてる間中、涙が止まらなかった。

タバコの煙と一緒に吸った秋の風が冷たくて、苦しいほど胸が痛かった。

統合失調症の家族という苦しさ

数年前、姉が精神疾患になったばかりの頃。まだ家族として認識していた私は、対外的な事務処理が苦手な家族に代わり、いろんな所に出張っていた。
病院での手続きに始まり、役所とのやり取り、入院先を調べたり、医者の知人に相談もして対策を立てて。良い結果だけじゃなく、最悪の結果についても調べて、どれがベストで何がマストなのか。その時どうしたらいいのか。調べた。
いろんなことを家族で共有して、保険やら入院費などの日中でしかできないことは金銭面は母に任せ、電話で済むことや土日でできることは私がとなんとなく分担していた。

そんな状態で数年過ぎた頃、突然私は何もしない病気でない姉たちにイライラしはじめた。これが私の病み気の始まりだったような気がする。
私が妹だからというだけでマウントを取るような発言に、現状を理解しようとしない無関心さ。何度も言葉を重ねても理解しないのに、さも協力的であるという態度を続ける傲慢さ。
彼女たちは何について私が怒っているのかも理解しようとしなかった。私の怒りすら自分の親のせいにするのが、心底気持ち悪かった。

それでも次女は「あんたらが私を病気にしたせいだ」と叫び、時には「あの車はヤバいやつだ」と知らない人をなじっている。
去年、説得して私と母と一緒に行った病院で次女は言った。

「私を病気にしたいのはそっち。私には助けてくれる人がいない」

そらそう思うか、と素直に思った。だって、自分で自分を病気だと思えない統合失調症という病気を持った人だもの。
自分にしか聞こえない声、自分にしかわからない人影。それに恐怖している状況で、それは病気だと突然言われても、はいそうですかとは、私だってなれない。病院で病気だと言われて納得するのは、自分が不調だと自覚しているからだろう。
叫ぶ内容を揚げ足を取るように会話して、実際に確認したりして怒りをおさめさせて。そんなことをしてたけど、それだって本人には救いにもなっていないのかもしれない。

まあ、ぐだぐだ言っても、ずっと叫び怒鳴る人がいる状態に辟易するのもわかる。黙れと言ってしまう父の気持ちもわからんでもない。
病気のことも誰かのせいにして、解決すればいいのにと思ってしまうのも否定はしない。だけど、これを言葉にして、誰かに押し付けても逃げられないとわかっていて、なぜ人のせいにできるのか。私には理解できなかった。

段々、心を麻痺させていくしかなかったのかとも思う。病院に入れることで、互いの平穏を探す事にした。

そんな折だ。
先の大喧嘩が勃発した。

これは共依存か、刷り込みか

家族は捨てられない、とずっと思い続けていた私。私がやらねば壊れてしまうと思い続けていた。
そんな思いは、母との喧嘩の末に家庭内別居状態になってから、大きく変化した。今もまだ何かあったらと思う怖さが燻っているけど、私が居なくても良いんだとも思えるようになった。

それもこれも喧嘩をした後、家庭内のゴタゴタと決別した時から始まる。
その意思表示も兼ねた、年末の大掃除。おおよそ1週間かけて、1番大きな指定ゴミ袋を10個以上、それと同じぐらいの袋2つ分の洋服を始末した。

思い返してみれば、一年ちょっと大掃除なんぞしていなかった。今までは最低でも季節の変わり目に大きな洗濯やら、大掃除やらをしていたのに。
よく良く思い出すうちに、それだけの気力がなく、TVでやるような汚部屋でも何も思わない。心が動かない。仕事に行くから仕方なく着替えるのであって、外出がないときは何もかもが面倒くさくて、肌荒れも別に気にならない。そんな生活をしていた。

クリアになった頭で改めて状況を整理した。
母がガンだとわかってから、私は家族に依存しているのかもと思い、友人からは共依存だよと言われ。それでも逃げられる状態でない事に雁字搦めになっていた。

好きだったファッションも美容も手に付かなくなるまで、虐げられてきた母は守らなきゃいけない存在であること、母が大事な家族は守らなきゃと刷り込まれていたのでは思うようになった。これらはきっと、幼少期から紡がれた虐げられたと言い続ける母の呪禁から始まっていたように思う。

結果論でしかないけれど、母は私というか娘という存在に依存していて、母という者であろうとしていたのかもしれない。

いつでも始まりは病気の発覚

社会人になり、色々理解できるようになったと同時に、私は思っていた家族との乖離に耐えられなくなっていた。理想的な家族であると思っていたこの形が急に気持ち悪いものに見えて仕方がない。なんなら私が異常なのかもしれないとさえ思う。
外に出るたび、私の家族が異常であった事にも嫌気がさした。

この違和感は、統合失調症という病を姉が抱えなければ、無かったもの。知らなかったものだ。
働きつつ普通に誰かと付き合って、結婚したりして。新しい家族を作る未来もあったかもしれない。

でもまあ本質としては、父は事流れ主義でその場が良ければそれで良い、姉たちは人の気持ちが理解できない典型的な40代。母は自分のせいにして解決したがる過干渉のヒステリック。問題そのものは見えなかっただけで、変わらないものだったとも思う。
次女の病気がわかった時、私の中で元々薄かった結婚という文字は消失していたけれど、逃げ道として、1番早いのは結婚だったのではと思うことがないわけではない。むしろ今が1番強く思っているまである。

もっと年老いて、このまま逃げられなかったとしたら?

今思うだけでもゾッとする。
社会に出て様々な大人を知り、私の家族だった人たちの危うさを理解できたという意味では、次女には感謝しなければならないかもしれない。


年を追うごとに、叫び方や内容が激しくなる統合失調症の姉は、たぶんもう家族から切り離してあげないといけないだろう。
母も父もガン治療を経験しているので、先が長いとも言えないはずだ。いつまでこの家が維持できるかわからない状態で、家族から責められていると感じて叫んでしまうなら、ここから解放するのが1番良いと思う。

その決断をするのが私でなくて良かったと心から思ってしまうのは、まだ私が家族に対してなにかしらの期待か依存か、なにかしらの思いがまた燻っているからなのかもしれない。

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