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読書経験談始め 〜万葉と沙羅を読んで〜

初夏を感じる雨の夜、吉祥寺で待ち合わせる予定だった弟から1時間遅れると連絡が入った。酔った学生や弾き語りの喧騒が鬱陶しく、閉店直前のBOOKS RUHEに入ってみる。3冊買ったうちの1冊が中江有里さんの「万葉と沙羅」。

万葉と沙羅は幼馴染で、通信制高校で再会する。万葉は古本屋でアルバイトをしており、訪れた沙羅が探し、読むを繰り返すことで物語が動き始める。

2人の日常は進学や家族事情によって大小の時間スケールで変化し、時には重い展開が訪れる。しかしながら読了後に暗い印象をそれほど感じないのは、2単に今の季節の東京は初夏の浮かれた雰囲気があるからだろうか。

万葉と同じく古本屋でアルバイトをする私は、入職前は日常的に読書をする人間ではなかった。入職後も読書は仕事をやりやすくするだけの行為で、娯楽という位置付けではなかった。先輩やこれから入ってくる文学好きのスタッフに気後れしないように、読めるものは片っ端から乱読しないと、というプレッシャーさえもあった。

しかし最近、大学院の講義で人間の意識経験について学ぶ機会があった。詳しい内容はまた後日話すかもしれないが、感覚受容器から人間の意識まで、学術分野の最先端を解説してもらいながら自身の日常における行為を分解して考察するようになった。

この講義は私の本に対するスタンスにも影響し、本と出会い、購入、解説まで文字を追い、そして日常生活の中のちょっとしたタイミングで引き起こされる情動があったりする、その一連の経験こそが「私の読書」であるのではないかと思うようになっていた。

「万葉と沙羅」の序盤で万葉が全く同じ考えを言葉にしていて、全5章の物語の至る所にこの経験のピースが散りばめられている。本の探し方や売り方等、書店員として物申したくなる部分は0ではないが、日常と読書を連続的に捉え、それを言語化してくれた彼に感謝したい。

今後の私のNoteでは、本そのもののプロットに拘らず、本との出会いから読了、そして読了後の情動や考察までを文字に起こしていこうと考えている。

※20代も半ばの中途半端な大人が文章力、表現力のトレーニングを兼ねているものなので、稚拙な箇所については恐れながらお目溢しのほどをよろしくお願いします。


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