脱サラ物語/第2章~転職成功で人生が動き出す
ども。kissyeeです。
自分事ですが「脱サラ物語」を書きます。長いこと平均年収以下の派遣社員だった私が40歳を迎えて十分稼げるようになったリアルな話を書くことにします。
※第1章を読まれていない方は是非 第1章からお立ち寄り下さいね↓↓
それでは、脱サラ物語 第2章のはじまりはじまり~( ・ω・)ノホイ
転職3回目は成功だった
転職の手続きは慣れたもので、これで3回目(4社目)でした。
1社目は、東京日本橋の内装ディスプレイ会社。空港や百貨店などの裏方でほぼ体力勝負、朝昼夜と関係なく働きまくり、ついには自律神経がおかしくなって高熱が下がらず、3年弱で辞めました。(その後フリーターへ)
2社目は、エンジニア会社から出向で上場企業の原子力部門へ。暗黒の社畜時代です。フリーターから正社員だったので文句は言えませんでしたが、社風に耐えきれず約1年半で退社しました。(その後2度目のフリーターへ)
3社目は、別のエンジニア会社から出向で上場企業の石油化学部門へ。ここでは本当に温かくも厳しく教えて頂き、自己成長することが出来ました。今でも多くの方と繋がっていて私の財産になりました。(でも、契約単価安かったのよぉ~)
そして4社目は、お洒落な大人の街「恵比寿」にある設計会社。この話は後述します。
伯父から教わった世渡りのコツ
子供の頃から尊敬する伯父様が居て、学生時代に教えて貰った言葉を社会人になっても秘かに守っていました。それは、
「目指すものがあるなら出来るだけその道の近くに居ること」
若い時分にあれこれ動く事は悪くないけど、根無し草になるんじゃないよというアドバイスでした。これを教えて貰ったのはラッキーなことでした。
色んな会社を渡り歩きましたが、一貫していたのは「設計」にこだわったこと。設計職も色々なので、若いうちに「デスク」も「現場」もたくさん経験できたのは、結果として自分の引き出しの数を増やすことに繋がりました。今でも後悔なく「動いて良かった」と思っています。
大好きな地元の景色
3社目から4社目に転職した当時のこと。住まいは神奈川県の西の端。山と海がキレイな街で、奥さんも私も心底大好きな場所に新居を構えました。転職が決まっても移住する気はありませんでした。多少の不便さもなんのその。
写真は住んでいた分譲賃貸マンションからの景色。古めの掘り出し物件で、運良く格安で入れたのでした。(最上階5F/3DK/6.5万円)
〈玄関側の景色〉
〈ベランダからの眺め〉
4社目の会社は当時の私にとって凄く魅力的な会社でしたが、同時にこの景色も捨てがたかったので、わがままを通してどちらも取ることにしたのです。結果として、片道2時間の通勤を受け入れることになりました。
語弊があるといけませんが、4社目の会社は今でも魅力的だと思っています。私服OK、変動時間制勤務、社内は多国籍、夏冬ボーナスたっぷり、決算賞与あり、毎年みんなで海外旅行、社長を「さん」で呼ぶ風土、迷惑かけなければ基本的になんでも自由な会社。今までの自分の常識を見事に変えてくれました。
これが私の正しい評価額なのか!
給料は上がりました。転職初年度で前職+180万(交通費別)ってとこ。試用期間は6か月でしたが、1か月で正社員に切り替えて頂き、無事正社員の仲間入りを果たしました。その後も給料は右肩上がりで毎年上がりました。
入社3か月の私に「ほんの志(こころざし)」という名のボーナスが出ました。銀行残高が少ないことを社長に見抜かれて、不憫に思ったのかもしれませんがw 奥さんと喜び合ったのを今でも鮮明に覚えています。
前職とやっていることは変わらないのに、この差は一体何なんだ!と最初は半信半疑になりましたが、次第に激務となり、意外と適正なのかもとすぐに気づくのでした。それでも実入りが増えるとモチベーションも上昇するので当時は全く問題ありませんでした。
自分の市場価値を知る
あとで調べたのですが、世の中にはその業界に深く染まりすぎると自分の社会的ニーズ(評価額や価値)が見えなくなる傾向があるそうです。やっていることが当たり前に出来るようになると、特別な能力に思えなくなってくる。周囲の人も自分と同じことが出来る環境なら尚更その傾向が強くなってしまうのです。
僕の場合、給料が上がらないことを悩んでいたのに、持っている技術や能力を活かす場所を変えるだけで意外にも簡単解決でした。自分の市場価値を知ることは日頃から意識した方が良さそうですね。
私はずっと勝手にこう思っていました。
「こんなマニアックな仕事は他で使えないんじゃないか?」
つまり、転職したら使い物にならないと思っていたのです。しかし実際は、私が世間知らずだっただけでした。
「安値で捨てる神が居れば、高値で拾う神が居る」
充実した遠距離通勤生活
片道2時間の通勤は毎日小旅行でした。車窓から海を眺めながら出勤し、職場周辺にはお洒落な飲食店や商業施設、大人の街「恵比寿」はステイタスとしてもかなり満足度が高かったのでした。
昼休みは代官山や中目黒や渋谷方面にも散歩に行ける距離だし、買い物は何でも揃うし、歩いている人は見るからにハイクラスの人が多かったし、路駐の車はほぼ外車、ドラマ撮影もしょっちゅうやってるし、芸能人もよく見かけました。(芸能事務所も近いので)
片道2時間通勤の私を「すぐ辞めるんじゃないか」と心配してくれた先輩社員もいました。でも、個性的な面々に囲まれて刺激的だったし、お洒落な街にもすぐ馴染み、毎日が楽しくなっていました。
タイミング悪く昇進
設計会社に入社して2年目の頃。働きを認めてもらい、色々お鉢が巡って私が設計リーダーを務めることになりました。当時、社運を賭けた海外プロジェクトの一員で、上役が客先都合で出向に出ることになったため、消去法で私に白羽の矢が立ったのでした。
状況からして断れず受けましたが、内心「こりゃ参ったな」と思っていました。なぜなら、年一回しか受けられない一級建築士試験の受験ラストチャンスの年だったのです。
人生初、全力で本気になった時
一級建築士試験は一次(学科)と二次(実技)があります。一次通過すると、二次の受験資格が3回あります。3回目が不合格だと、また一次から受け直さなければなりません。試験は一年に1度だけ。最終合格率は5~7%と言われる狭き門でした。
私はこの振り出しに戻るを一度やってしまい、死に物狂いで2回目の一次試験合格を勝ち取りましたが、また二次試験で不合格を連発し、二次試験3回目(通算6回目)のチャレンジをする年がこの忙しい年でした。
仕事はとてつもなく忙しく、慣れない海外案件で帰宅は毎日午前様、休日祝日もほぼ出勤、日曜日の予備校(試験対策用)は辛うじて行きましたが、出される課題(宿題)がこなせないため、仕事から帰宅後に朝4時までは課題をやるしかない状況でした。
例年の感じから最後は体力勝負なのは分かっていたので、本気の本気でスイッチが入って「体力つけるには持久走だ!」と週3で深夜に筋トレ&ジョギング(5~10km/day)をやりました。
体力回復のためにアミノ酸の袋も毎日欠かさず飲んで、2ヶ月で8キロ痩せましたが、とにかくトップギアに入れっぱなしの毎日でした。
いよいよ勝負の時
これで不合格なら仕方ない、諦めよう。そう思えるくらいやりました。やれるだけ頑張った。さすがに2回目の振り出しに戻るは精神的にも金銭的にも無理だと分かっていました。
奥さんも乳飲み子2人抱えながら健気に支えてくれたし、もう色々込み込みで、どう転んでも悔いがない4ヶ月を過ごしました。
「毎年受験し始めて10年目。結果にかかわらず今年を最後の年にしよう!」
そう覚悟を決めて、運命の試験当日を迎えるのでした。
そんな僕に予備校の先生は予想外のアドバイスをしてくれました。
「kissyeeくん。試験当日は実力の半分だけ出しなさい。そうすれば必ず君は合格する。」
なんか、魔法をかけられたみたいでした。
つづく…(。・`з・)ノ
kissyee
※第3章もよろしくお願いします(。・`з・)ノ
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