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穂積陳重「竹内柳右衛門の新法、賭博を撲滅す」を読む
明治時代に日本の法制度の基を築いた法学者、穂積陳重の法律エッセイ「竹内柳右衛門の新法、賭博を撲滅す」を読んでみましょう。
読解のポイント
読解のポイントは、7つです。
(1) 竹内柳右衛門は、どのような目的で新法をつくりましたか?効果はありましたか?
(2) 著者は、竹内新法をどのように評価していますか?それは何故ですか?
(3) 著者は、竹内新法の代わりに、どのように対処することを想定していますか? それは効果が上がるものなのでしょうか?
(4) 著者は、法律と道徳とをどのような関係だと捉えていますか?
(5) 著者の考え以外での、法律と道徳との関係は考えられますか?
(6) 社会的に必要となるルールと、道徳とは、本来、どのような関係にありますか?(または、どのような関係であるべきでしょうか?) 自分の考えをまとめてください。
(7) 立法における正義の考え方について、まとめてください。
本文を読んでみよう
竹内柳右衛門の新法、賭博を撲滅す
穂積陳重
伊予の西条領に賭博が大いに流行して、厳重なる禁令も何の効力を見なかったことがあった。
時に竹内柳右衛門という郡(こおり)奉行があって、大いにその撲滅に苦心し、種々工夫の末、新令を発して、全く賭博の禁を解き、ただ負けた者から訴え出た時には、相手方を呼出して対審の上、賭博をなした証迹明白な場合には、被告より原告に対して贏(か)ち得た金銭を残らず返戻させるという掟にした。
こういう事になって見ると、賭博をして勝ったところで一向得(とく)が行かず、かえって汚名を世上に晒(さら)す結果となるので、さしも盛んであった袁彦道(えんげんどう)の流行も、次第に衰えて、民皆その業を励むに至った。
この竹内柳右衛門の新法は、中々奇抜な工夫で、その人の才幹の程も推測られることではあるが、深く考えてみれば、この新法の如きは根本的に誤れる悪立法といわねばならぬ。法律は固(もと)より道徳法その物とは異なるけれども、立法者は片時も道徳を度外視してはならない。
竹内の新法は、同意の上にて悪事を倶(とも)にしながら、己れが不利な時には、直ちに相手方を訴えて損失を免れようとする如き不徳を人民に教うるものであって、善良の風俗に反すること賭博その物よりも甚だしいのである。
これけだし結果にのみ重きを措(お)き過ぎて、手段の如何(いかん)を顧みなかった過失であって、古(いにし)えの立法家のしばしば陥ったところである。
立法は須(すべか)らく堂々たるべし。竹内の新法の如き小刀細工は、将来の立法者の心して避くべきところであろう。
出典
穂積陳重『法窓夜話』(岩波文庫)
穂積陳重「法律道徳の関係区別」(『明法志林』誌 第36号・37号(1882))
読後感
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漢字がむつかしいです! こんなに短いのに!
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江戸時代、安政2年(1855年)生まれの方ですので・・・ ちなみに、著者は、日本で史上初めての法学博士の一人です。この時が、明治21年(1888年)ですので、明治憲法(大日本帝国憲法)の発布の前年。明治時代の帝国議会がはじめてできる2年前になります。そんな時代の方ですね。
ちなみに、親族もすごくて、1万円札になった「日本の資本主義の父」渋沢栄一さんの娘婿でもあります。ご自身も枢密院の議長などを務めましたが、長男の穂積重遠さんも有名で「日本家族法の父」と言われ最高裁判所の裁判官や東宮大夫などを歴任されました。
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ということは、これもう、古文の一種ということですね(笑)
読解のポイント(1)
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では、読解のポイント(1)です。竹内柳右衛門は、どのような目的で新法をつくりましたか?効果はありましたか?
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領内での賭博の撲滅です。効果はありました。
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その通りですね。著者も、同じ伊予国の宇和島藩領の出身でしたので、隣の西条領の話はよく聞いていたのでしょう。
読解のポイント(2)
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著者は、竹内新法をどのように評価していますか?それは何故ですか?
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賭博の抑止には役立ったとは理解していますが、小刀細工だと。姑息だという評価だったということでしょうか。
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そうですね。「立法は須(すべか)らく堂々たるべし」と書かれていましたね。しかし、堂々とした立法って、具体的には何を考えているのでしょう?
読解のポイント(3)
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著者は、竹内新法の代わりに、どのように対処することを想定していますか? それは効果が上がるものなのでしょうか? これは如何でしょう?
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「賭博はダメだよ」と書いておいて、あとは見つけたら逮捕します、ということを想定していたのではないでしょうか? 賭博の収益を返還させるといったお金のやり取りも、そもそもダメなことをしているのですから、自業自得、という感じで静観するのかも知れませんね。
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そうです。おっしゃる通りですね。実際、関連する法令は、どのように規定しているか見てみましょうか。
■ 刑法第185条(賭博罪)
「賭博をした者は、五十万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。」
賭博は、射幸心を煽るだけで、健全な労働意欲・経済倫理を麻痺させてしまうので、公の秩序や善良な風俗に反する行為ですね。この公序良俗について規定しているのは民法です。
■ 民法第90条(公序良俗)
「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」
賭博によって債務を発生させることは無効ですので、賭博で負けたとしても、その負けについては、債務は発生しない、ということです。仮に賭博の相手から支払を求める裁判を起こされたとしても、この債務が賭博により発生した無効なものだと言えば支払い義務はない、ということですね。
他方で、こんな規定もあります。
■ 民法第708条(不法原因給付)
「不法な原因のために給付をした者は、その給付したものの返還を請求することができない。ただし、不法な原因が受益者についてのみ存したときは、この限りでない。」
賭博で負けて支払いをしたものが、後になって不当利得として返還を求めるというのは、反社会的・反道徳的な行為をしておきながら、自分に不利な時は法の保護を受けましょう、という行為ですので、これを不当として、あえて法の保護の対象外にしているということですね。
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竹内さんと穂積さんで、真逆の対処方法になったんですね・・・ 竹内さんの手法だと、賭博の関係者間で最初は揉めるでしょうが、いずれみんなバカバカしくなって、誰も賭博はしなくなるのかも知れません。(実際、賭博の減少に役立ったのは、そういうことだと思います。)
他方で、穂積さんの手法だと、賭博の勝者は、敗者から一度お金を巻き上げてしまえば、法律上も収益として確保できると読む人もいるのではないでしょうか? そうすると、力づくでお金を巻き上げることが出来るほど強い人たちは、賭博は手っ取り早く、働くよりも早く儲ける手法として温存するかも知れませんね。
穂積さんのように、「堂々と」したら経済倫理が麻痺した(逆効果になった)というのは、まったく意味がありませんね。
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そうなんです!これ、どこに問題があると思いますか?
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「堂々と」という穂積さんの言葉が、賭博の関係者に理解されていないんじゃないかと思います。
私も、この言葉をここで使う意図が分かりません。賭博を無くすことが目的なのに、関係のない価値観を持ち込んで、結果を出せないようにしようということなんですよね。穂積さんは真意を書くべきだったと思います。
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私も、これ、舌足らずと思います。ただ、おそらく著者は、自分はきちんと書いていると思っていたと思いますよ。
読解のポイント(4)
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その観点から、次の読解ポイント(4)に行ってみましょう。著者は、法律と道徳とをどのような関係だと捉えていますか?
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「法律は固(もと)より道徳法その物とは異なるけれども、立法者は片時も道徳を度外視してはならない。」と書いていますね。道徳を、ルールのような形で人間関係に適用したものが法律だという考えでしょうか。
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いいですね。実は、著者の別の論考には、答えらしきものが書かれているものがあります。(その名も「法律道徳の関係区別」という文章です。)
「道徳は一個人の自己或は他人に関し又社会に対しての人の人たる義務を尽すにありて、地の東西を問はず、時の古今を論ぜず、其規則唯一なり。
(中略)
法律は之に反して国民と国民との間に生ずる権利義務を定むる者にして、其効用の範域僅に一国内に止まるを以て、其国民の風俗習慣或は立法者の見込に依りて、其法令を制定するが故に、各国全て其法を異にせり。」
道徳は一人の人間として他者にどう向き合うかを示すもの。法律は国民と国家との向き合い方を定めたもの、ということですね。その分、国家の担当者(立法者)が、どういう見解をもち見込みを立てているかで立法の仕方も変わるのは仕方ないとしています。
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そうすると、なおのこと、竹内さんの立法を否定する必要はないと思いますけど。
読解のポイント(5)
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いいですね。もう読解のポイント(5)に入ってしまいましょうか。著者の考え以外での道徳と法律の関係があり得るでしょうか。
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あり得ます。会社でいう企業理念と就業規則のようなものなのではないかと思うんですよね。
企業で同じようなことを規定する場合、私だったら、どこに書き込むか考えていたのですが・・・
まず、企業理念(最近の言い方だとミッション・ビジョン・バリュー(MVV)とも言います)は、前向きに、未来志向を表現するものですので、賭博を禁止したいという場合、この理念レベルで「きちんと働くのは尊いこと、大切なこと」と明言するのがよいと思います。
その上で、行動指針として、「きちんと働く」「賭博をしてはならない」ということを記載します。
そして最後に、就業規則で、「賭博をしても、その収益は返還しなければならない。賭博の儲けに意味はない」「賭博をしたら懲戒対象とする」と書くのだと思います。
最初に道徳的・倫理的な目的を書く場所があれば、その他のルールは、目的を達成するための手続きなのですから、道具と割り切って、効果のあるような施策のための言葉を書いていけばいいと思います。
その意味で、法律も、道徳に照らした「目標」のようなものと、目標の達成のための「道具」としてのものとを分けて作れば間違いは少ないと思います。
穂積さんの間違いは、異なる目標や性質ものものを一緒くたにして、すべてを穂積さん個人の自分なりの道徳だけに基づいて処理しようというところから、おかしくなったのではないかと思いますね。
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いいですね。もう読解のポイント(6)も説明いただきましたね。
読解のポイント(6)
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社会的に必要となるルールと、道徳とは、本来、どのような関係にありますか?(または、どのような関係であるべきでしょうか?) ご自分の考えをまとめてください。
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そうですね。繰り返しになりますが、ルールは、「理念」「行動指針」「関連ルール」に分けて捉えるのがいいと思います。「理念」と「行動指針」は道徳に合致するか、少なくとも反しない内容を書くものとします。他方で、関連ルールは、これらを実現するための手続きや罰則を規定するものなので、当然、違反を想定した記載が必要となります。ですので、関連ルールの方は理念を達成するための道具と割り切って、一つ一つの道徳性についてはこだわらずに、効果を出すルール作りに徹すればよいと思います。
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面白いですね!
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でも先生。ルール作りの上で、道徳って、元々そんなに重要なんでしょうか?
昔の道徳には「女性は男性よりも劣っている」というものも含まれていた訳ですよね。道徳にも、「ひとりひとりが自分らしく、他者を尊重し合って生きていくためのもの」と、「社会秩序を維持するためのもの」とかが含まれていたと思うんです。社会秩序の維持のために、女性は道徳の中で差別されてきたと思うので、差別を助長するような道徳まで本当に必要なのか、と考えてみたいです。道徳とはいっても、実際にはけっこう必要ないものもあるよねと、つい思ってしまいます。
読解のポイント(7)
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いいですね! その論点、実は、ポイント(7)立法における正義の考え方に関連しています。参考までに、著者の子ども世代にあたる末弘厳太郎博士の文章「嘘の効用」の一節をみてみましょう。
「われわれは「尺度」を欲する。しかも同時に「伸縮する尺度」を要求する。実をいえば矛盾した要求です。しかも人間がかくのごときものである以上、「法」はその矛盾した要求を充たしうるものでなければなりません。
そこで私は、今後創造せらるべき「法」はおのおの具体的の場合について「規則的に伸縮する尺度」でなければならず、「法学」はまたその「伸縮の法則」を求めるものでなければならぬと信じます。「自由法運動」が単なる――ゴムのごとくに――「伸縮する尺度」を求めているかぎり、それはただ「過去」を破壊する効果があるにすぎません。
しからば「規則的に伸縮する尺度」はいかにしてこれを作ることができるか。これ実に今後「法学」の向かうべき唯一の目標であって、しかも、事はきわめて困難なる問題に属する。」
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あぁ、いいですね。伸び縮みするモノサシって大切なことですね。
どう伸び縮みさせるかを議論する「場」って、公的には議会ですよね。
議員さんには、議会で議論するということをキチンと理解して、実践してほしいですね。議員さんたちと私たちとの対話の場がない(少なくとも、少なすぎる)のは残念です。
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そうですね。ほんと、実践してほしいですね。
それにしても、この末弘博士の文章をみると、穂積博士の考えとはだいぶ異なっていることが分かりますね。状況に応じて、道徳とか正義とかの当てはめ方が変わる(末弘博士の言い方だと、伸び縮みする)ことのいい例でしょうね。
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穂積さんと末弘さんが対等な立場で議論したら、どうなるんでしょうね。
穂積さんは自説を曲げないでしょうし・・・ 案外、お互いが自分の思い込みを脱却できずに終わって、議論も平行線になるかもしれませんね。
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そうでしょうね。むつかしいところですね。こういう複数の「正義」が対立・拮抗した場合は、本当に面倒ですね。
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えぇ、本当に。
読み終えて
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正義を主張するというのは、互いにお互いを間違っていると考えるということですね。自分なりの正義が、自分の思い込みだった、という場合もあるということですから、自分の思い込みを脱却するためには、自分が変わらなくてはいけない、という示唆なのだろうと思うんです。
今がずっと続けばいいのにとか、変わるということに不安があるという人には、実践するのはむつかしいことなんでしょうか。
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そうですね。だからこそ、まずは、その正義が自分ごとなのかは、胸に手を当てて考えるようにしたいですね。他人事を正義として語ることほど無責任なことはありませんので。
人間の認知能力は、それぞれ、大したことがありませんので、「自分にはこう見えた。なぜなら・・・」 「私には、こう見えた。なぜなら・・・」と立場や根拠を示しながら対話を繰り返すことで、徐々に正しそうだと、皆が納得できるところを目指すしかないように思います。
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正義って、実は相対的なものなんですね。すこし衝撃的です。真実は一つ、ということでは「無い」といわれているようで・・・
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そうです、そうです。ただ、この問題の最大の根源は、人間の認知能力は、それぞれ、大したことがないという点ですから。もう仕方ないですね。
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お互いさまなので、許し合いながら対話できるといいですね。現実には、話し合いが出来る人も、出来ない人もいるので、上手くいくとは限らないですけど・・・
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そうですね。また話が巧みな人は大義名分を持ち出すのがうまかったりしますよね。
ヨーロッパの諺に「地獄への道は、善意で敷き詰められている」という言葉があります。
人々がそれぞれの欲望を満たすために大義名分を持ち出して、お人よしの人々を利用・搾取するので、大義名分が結果を伴いません。結果的に、信じた人々が右往左往し疲弊していき、みんなで地獄に落ちていくということですね。
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大義名分を立てて、いいことをしようとしているのに地獄に向かって行ってしまうというのは、皮肉というか残念ですね。
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行動を見れば一目瞭然でも、ついつい聞き心地の良い言葉の方を信じて騙され、傷つけられてしまいますね。本当に温かい人間は、「言葉」ではなく「行動」が温かいものですから、行動を見るように心がけるしかないでしょうね。