聖アンデレ(2-B) イエスの磔刑と復活を検証する①
イエスの磔刑と復活は謎だらけ
イエスの磔刑と復活は、キリスト教信仰の核心でありながら、謎に包まれています。いろいろな福音書で必ずしも同内容が書かれているわけではありません。
概略は似通っています。イエスは、エルサレムに向かい、郊外に泊まりつつ、日中、エルサレムに向かい、なんどか神殿に入っているとされています。その際、さまざまな議論をしていますが、その一方で屋台をなぎ倒してもいます。その後、ゲッセマネという場所で地元の人々につかまり、宗教上や政治上の権力者の前に引かれていき、十字架に磔けられ絶命します。その後、その日のうちに磔から下ろされ、3日後に復活したとされています。
この点、聖書の記述だけでは、イエスが処刑されなければならないような活動をしたようには見えません。なぜイエスが捕まったのか、イエスが何をしたのかといったことがよく分からないのです。その他にも、残忍・冷酷で知られたローマ提督ピラトがなぜイエスに甘かったのか、アリマタヤのヨセフはイエスを十字架から降ろす前にローマ当局に何を確認したのか、などなど、様々な疑問点があります。この時に何が起きたのかが理解できれば、歴史的な存在としてのイエスたちについても、理解が深まるはずです。
レザー・アスランの著書『イエス・キリストは実在したのか?』の助けを借りつつ、考えていきましょう。
エルサレム入りの時期
イエス教団がエルサレムに入ったのは、「過ぎ越しの祭り」の期間です。過ぎ越しの祭りというのは、モーセがユダヤ民族をエジプトから脱出させる際に、ユダヤ人を選んだこと(ユダヤ人たちについては神が過ぎ越したこと)を祝うお祭りです。
しかし、なぜ、この時期に、イエスはエルサレムに行ったのでしょうか。
それは、この祭りが、神と大祭司が交感する年一回の貴重なタイミングだからです。
神殿との闘い
イエスの神殿との闘いは、「本来の神殿のあり方」を巡り、神殿に奉仕する人々に対してのイエスの孤独な闘いでした。「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15)というメッセージを人びとに伝えてきた集大成として、エルサレムに向かいました。
彼は本来、大祭司と向き合い、神に自らの正統性を判定してもらう覚悟で神殿に乗り込んでいったものと思われます。
イエスは、たびたび、神と人間は直接交信できると説いています。そして、先例を盲目的に踏襲することについては、批判的です。他方で、ユダヤ神殿の側は、年に一回、神と大祭司が過ぎ越しの祭りの際に「至聖所」において交信するとされ、庶民が神と交信することは否定しています。(参考として、民数記16:1~17:28など。)
また、「神の国」という場所において人々が本来の姿に還るのであれば、神との交感の権限を集約するエルサレム神殿を壊し、交感の権限を人びとに解き放つことは、イエス自身の自己解放(イエスの心中の一抹の不安の解消)にもつながっており、ゆずれない闘いと位置付けられたことでしょう。
とすると、イエスが対決するにあたって真っ先に狙うべきは「至聖所」であるべきでしょう。
実例はあります。ユダヤ戦争に至る重要事件の一つとされる大祭司ヨナタンの殺害事件(西暦56年)では、ヨナタンが至聖所から出てきたところを狙われています。とすると、イエスは、祭りの喧騒の中、大祭司と同時に至聖所の中に入り天罰がどちらに下るかを見定めるべきだったのではないでしょうか。
しかし、イエスは、至聖所までたどり着こうとはしませんでした。実際、神殿の庭で店を広げている屋台を倒したり、神殿関係者と議論をした程度しか、聖書に記載されていません。
また、イエスが営業妨害した店には限りがあったようです。どの福音書の記載にも共通しているのが、両替人の台や、鳩を売る者の腰掛をひっくり返したことです。(ヨハネ福音書だけ、牛や羊も追い出したことになっています。)ここから、店が特定できる程度にしか活動できなかったことが分かります。もちろん、騒ぎに近い場所で屋台を広げた店主たちにしてみれば、イエスたちのせいで自分たちに被害が及ばないよう、メンバー総出で、イエスたち一行が来ないように睨みつけ、威嚇し、追い出しにかかったことでしょう。イエスたちは、神殿の手前の方の数軒(場合によっては2~3軒)に狼藉を働いただけで、神殿から出て行かざるを得なかったというのが実態なのではないでしょうか。
何故、こんなことになったのでしょう。
端的に考えられることとして、「イエスたちは神殿の中の構造を知らなかった」のではないでしょうか。神殿の中が、すべて至聖所であろうという程度の理解だったのかも知れません。なので、神殿の核心(至聖所)に迫ることなく、入り口付近(庭)で活動を始めてしまったのでしょう。
それは何故でしょうか。
イエスは、事前にエルサレム神殿に来たことがなかったので、神殿の間取りやそれぞれの場所の役割について分かっていなかったのです。
(この結果として、少年期の神殿のエピソード(ルカ福音書2:41~51など)はエルサレム神殿のものではないか、そもそも創作。布教中のエルサレム神殿のエピソードは、他所でのエピソードでなければ、最初にして最後であるエルサレム訪問でのエピソードが分散させられていると分かります。)
屋台との闘い
そこで、改めて、イエスたちと屋台との闘いについて、エピソードをみてみましょう。
同様のエピソードは他の福音書にも書かれています(マタイ福音書21:12~16、ルカ福音書19:45~48、ヨハネ福音書2:13~17)。それだけ重要なエピソードであることが分かります。
この文書を踏まえて、神殿で物を売ることが爾後禁止されたという解釈があります。例えば、「人間は考える葦である」と唱えた哲学者のパスカルは、次のようにまとめています。
しかし、年に1回の大祭です。人もごった返していたでしょう。イエスたちは、神殿の構造も知らずに殴りこんで、神殿の入口付近の一部の屋台を倒しただけで終わった、と考えた方が自然です。屋台を壊された商店主や、周りにいた参詣者たちにイエスたちは取り押さえられ、大祭の運営事務局(神殿関係者)が、不測の事態が発生したと聞いて飛んできたことでしょう。
かみ合わない問答
神殿関係者とイエスとの問答は、かみ合っていません。これも、神殿内での問答については、この時期に行われたものとして、いくつか見てみましょう。
先ずは、先ほどの屋台との闘いに近接して登場する問答です。
この問答は、屋台を壊すイエスたちに、「誰に了解を得てやっているんだっ!」と神殿関係者たちが怒り、そこに対してイエスが「バプテスマのヨハネ」の権威を言い出したので、神殿関係者が呆れた、という場面のように見えます。その後、テロリストなのか確認されています。
イエスの回答は、ある意味で満点回答だったことが分かります。ローマ帝国に歯向かう意思はなく、あくまでユダヤ教の本来あるべき姿について議論したい、と回答したのです。この議論に続けての問答でも、イエスはこう言っています。
イエスはローマ帝国の敵ではない
今までのところをまとめて、イエスの闘いを3方向から確認しましょう。
ローマ帝国の為政者にとって、イエスは処罰するような対象ではなかったことが分かります。
さて当時、ローマ帝国からユダヤ地域の占領統治のために派遣されたのは総督ポンティウス・ピラトゥスです。紀元26年に赴任し、10年ほどこの地位に就いていました。
冷酷でユダヤ人を軽蔑しているピラトですが、イエスの暴挙については、ユダヤ人内部のもめごとでしかなく、また、首謀者(イエス)がローマ帝国の義務を果たすべきと主張していることから、自分には関係ない話と思ったのではないでしょうか。少なくとも、ローマ帝国としての費用や兵士などの手間暇をかけて、ユダヤの大祭という大きなイベントの時期に、あえてイエスを逮捕・処刑する理由はなかったでしょう。
イエスはローマ帝国に磔にされたのではない
この点は、当然、と思う人もいるでしょう。そのことは聖書も認めている、と。ピラトとのやり取りの中で、ユダヤ人がイエスを「引き取った」からです。
同様に、どの福音書においても、ピラトが、イエスを自分の問題(ローマ帝国の問題)としては捉えていないことが明らかにされています。しかし、その後、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」などの罪状書きは、ピラトの命令によるものとされています(ヨハネ福音書19:19)。また、他の福音書では、兵卒たちが死刑を執行したとされています(マルコ福音書15:16以下、マタイ福音書27:27以下、ルカ福音書23:25)。混乱した記述が続き、いずれもローマ帝国による処刑というイメージにつながるような記載があります。
とはいえ、ピラトが、(軽蔑対象である)ユダヤ人の懇請を受けいれ、(ローマ帝国の義務を果たせと言っている)イエスをユダヤ人の求める通りに処刑してあげたというのは、「意思決定がユダヤ人、執行がローマ軍人」と植民地での主従関係が逆転していることも含めて鑑みると、相当無理のある設定なのではないかと思います。ここは、福音書が同時代ではなく後代に書かれたため、教団の権威向上につながるようにドラマティックな物語が創作されていった、というのが、文書の設立経緯にも合致しており、真相なのではないかと思います。
また、もう一つの疑問があります。十字架刑の目的に関しての疑問です。
イエスはローマ帝国に対する反逆者ではなく、政治犯でもありません。そして、磔刑も手順に則っておらず、磔に遭ったその日に磔から下ろされています。これらを鑑みると、イエスの処刑は、正式な手続きでもなく、ローマ帝国の意向にかなったものでもなかったと分かります。
アリマタヤのヨセフは何を確認したのか
アリマタヤのヨセフは、地元の議員でしたが、イエスの遺体の引き取りをピラトに要請し、ただちに認められています。しかし、十字架刑が公的なものであるならば、見せしめのための死体を下ろすことは認められなかったはずです。
ここから、アリマタヤのヨセフがピラトに確認を願ったのは、「イエスが磔にあっているが、これは正式な刑罰として行ったのか。正式な刑罰でないのであれば、引き取ってもいいか」という事柄と推測できます。
ピラトとしては、ユダヤ人同士の小競り合いでしかないものに興味はないでしょうから、「好きにしろ」と、アリマタヤのヨセフに引き取りを認めたのではないでしょうか。
そこで生じる疑問があります。
アリマタヤのヨセフに、ピラトのところに行ってほしいと依頼したのは、いったい誰でしょうか。(この点については、別途検討しましょう。)
イエスはユダヤ民族の正当な裁判を受けたのでもない
議論を先に進める前に、この点も明らかにしておきましょう。
なお、旧約聖書で「人の子」というのは、ダニエル記に出てくる神聖な存在です。イエスたちが僭称するのは許されない、というのは、ここからきています。
神殿関係者の対応を考える
さて、イエスがユダヤ教徒の正式な手続きで処刑されたのではない、という点に関連して、もう少し考察を続けましょう。
イエスが、大祭司が神と交信する機会を選んで殴り込みをかけたとすると、その「当日」、すなわち、過ぎ越しの祭りの最中に行われたはずです。しかし、過ぎ越しの祭りの最中に、神殿関係者が、暴力犯の処刑や裁判といった俗事にかかわることは、神よりも重視する俗事があるという態度、つまり神への冒涜となるため、あり得ません。イエスを逮捕したり、処刑したりといった活動も(関係者個々人の心中はともかく)、公的には当然やってはならないことです。そのため、過ぎ越しの祭りの最中は、「事なかれ」対応が基本になります。
この点、神殿関係者にとって良かったことに、幸い、イエスは、宗教論争をするつもりで来ていました。そこで、こんな問答も行われていました。
イエスが言及した神殿ですが、これは、いわゆる第2神殿(ソロモン神殿を再築した神殿)のことです。このころ、神殿の大拡張工事が行われていました。
ヘロデ大王(在位:紀元前37年~紀元前4年)という新しくヘロデ朝を起こした支配者があり、ローマとの協調関係を重視し、ユダヤ地域の観光資源を積極的に整備しました。その一環で、神殿の増改築をはじめました。この工事が紀元前20年から西暦64年へと、80年超となる長期間の大工事になったのです。
そういう環境下ですので、「3日で神殿を建てるなど、支離滅裂なことをいう人間が暴れているだけ」と感じた神殿関係者は、イエスたちを体よく神殿から追い出して、一旦、決着させようとしたのではないかと思われます。
イエスを磔にした人々
イエスの敵の可能性として、先に(1)ローマ帝国、(2)神殿関係者、(3)屋台の店主等の3つの可能性を挙げました。そして、ここまでの検討で、イエスを磔にしたのが、(1)ローマ帝国や(2)神殿関係者とするには、問題があることが分かりました。
そこで、次は、(3)屋台の店主たちについて考えてみましょう。イエスたちに屋台を荒らされた店主たちは泣き寝入りしたのか? という話です。
一年に一度の大祭は、彼らの年間の生活費の多くを稼ぐ書き入れ時です。店によっては、この機会に売れるものを売っておかないと、次の大祭までの一年間は生活費もままならないかも知れません。その商売を邪魔されただけでなく、事前にコストをかけて準備した商品まですべて台無しにされたわけです。泣き寝入りはあり得ませんよね。
しかも店主たちが捕まえたら、イエスは反省しておらず、屁理屈ばかり並べたてています。店主たちは、怒り心頭となり、損害の補填だけではなく、あるべき利益も含めて出来るかぎり全額支払わせようとしたことでしょう。
これは福音書作家の演出でもあったでしょうが、営業妨害のために自分たちの生活費が脅かされた小規模事業者たちの切実な怒り、救いを求める叫びにも聞こえます。
祭りの最中なので神殿関係者は相手にしてくれず、警察(ローマ帝国)側も動かず・・・ といった状態の中で、店主たちがやれることはただ一つ。イエスたちから身ぐるみ剥いで、少しでも損を回収しようとすることでしょう。
ゲッセマネの急襲
イエスたちは、この後、ゲッセマネに行き、ユダヤ人たちに急襲されています。神殿からゲッセマネまでは坂を下りていけば着き、けっして遠い距離ではありませんが、ここに至った経緯や経路は不明です。
重要なのは、イスカリオテのユダの動きです。
先ずユダは、イエスたちが集まっている場所に向かって、遅れて到着しています(マルコ福音書14:43、マタイ福音書26:47、ルカ福音書22:47、ヨハネ福音書18:3)。
そして、ユダはイエスを見つけると、「先生っ!」と大声をあげながらイエスにキスをしています(マルコ福音書14:45、マタイ福音書26:49。参考としてルカ福音書22:47)。
ユダの後ろには、イエスたちを逮捕し、懲らしめようとするユダヤ人がいました (マルコ福音書14:43、マタイ福音書26:47、ルカ福音書22:47、ヨハネ福音書18:3)。
ユダは銀貨(30枚)をもっていましたが、ユダにとって何のメリットも生じることなく、襲ってきたユダヤ人たちに、その銀貨が渡っています(マタイ福音書27:3~8)。ちなみに、この金額については、あまり気にしない方が良いようです。というのも、金額は、旧約聖書に合わせて、後代が創作したものと思われるからです。出エジプト記(21:32)に描かれた奴隷の代価と同額(30シェケル銀貨/90日分の賃金相当)とすることで、イエスが「売られた」ことを、より劇的に示そうとした記述だと思われます。
ここから合理的に考えられることは何でしょうか?
イスカリオテのユダは、被害者ではないか? ということです。
ユダが宿泊先で庶務をしていたところ、イエスが神殿内の屋台を複数壊して揉めていると聞き、賠償用のお金を持って現場に駆け付けた。しかし、イエスたちがいなかったので探し回り、ゲッセマネでイエスたちを見つけた。その時はイエスが無事だったのでホッとして、駆け寄りキスをした、ということだったのではないかと思います。
イスカリオテのユダは、まず神殿に駆け付けたことでしょう。そこで先生の居場所を聞いた時にガリラヤ地方の方言が出たりなどして、イエスの仲間だと気づかれ、尾行されたのかも知れません。違う可能性としては、神殿の門の外からずっとイエスたちと店主たちがにらみ合いを続け坂下まで移動してきた中、一触即発の状態の時に、ユダがゲッセマネに到着し、イエスだけをみて無邪気に先生の無事を喜んでしまって抱き着き、その場の空気が乱れ、店主たちに一気に襲い掛かられたのかも知れません。
イスカリオテのユダが、イエスのことを「先生」と呼んで飛びついていることからも、年少(おそらくティーンネイジャー、ローティーン)であったことの傍証になるように思います。彼は、そのまま屈強な大人たちの殴り合いに巻き込まれ、息絶え、金銭もすべて奪われたのでしょう。
そこで生じる疑問があります。
イスカリオテのユダに金銭を持たせ、現場まで走らせたのは、いったい誰でしょうか。
また、なぜ彼はスケープゴートにされていったのでしょうか。
(この点についても、別途検討しましょう。)
イエスが磔にされた理由
イエスを磔に架けたのは、当局ではなく、イエスに商品を台無しにされた屋台の店主たちだったとすると、イエスを磔に架けた理由も見えてきます。
イエスたちは複数人のグループで神殿に殴り込んでいます。ゲッセマネで半死半生の状態にしたのは、イエスの他、イスカリオテのユダ。ここに、(身代わり役の「双子の」)聖トマスが最後まで付き添っていたと推測されます。この3人以外のメンバーは、逃げてしまっているのです。
この逃げたメンバーたちが、また神殿に忍び込んで悪さを図ることは避けなくてはならない。そのために、代表者を見せしめにして、仲間が来るかどうかをみるために磔にしたのでしょう。
残りの犯人捜しをしていたことについては、聖書にも傍証があります。神殿の中庭でペテロが見つかった場面です。
逆に言えば、その故に、アリマタヤのヨセフが呼ばれたのでしょう。イエス教団の側にしてみれば、アリマタヤのヨセフという金満家の地元議員という味方がいたので、見張りで残っていた者や怒り狂う店主たちに金を渡して引き下がらせる(手打ちをさせる)ことが出来たのです。
イエスの絶命時の言葉
さて、イエスは臨終にあたって「わが神、わが神、なにゆえにわたしを捨てられるのですか。」と叫んだと言われています。
実際に日食があったのかどうかは、分かりません。神や王などが亡くなる際に天が暗くなるというのは、古今東西を問わず神話などでみられる文学的な表現ですので、日食が事実でなければ、文章上の演出である可能性もあります。イエスが神に見捨てられたように見える瞬間です。ここで、「見捨てられたかも知れない」という不安を掻き立てる言葉がイエス本人からも発せられるわけで、口頭での説法においては、まさにクライマックスに向かう最後のハラハラドキドキの瞬間になったことでしょう。
しかし、この言葉。旧約聖書に収録された「詩編」第22篇の冒頭部だとしたら、どうでしょう?詩編(第22篇)の全文を読んでみましょう。
イエスは、死が眼の前に迫っていても、神に見捨てられたことを嘆いたのではなく、逆に、真の神を賛美すべきと説いたのではないでしょうか? しかも、ここでいう「神」は、イエスが直接交信する「神」であって、大祭司が過越の祭で出会うべき(つまり、大祭司が出会ったと称しているだけの)「神」ではないのです。
すなわち、イエスは、まったく反省も後悔もせず、「今に見てろ、お前ら」と、むしろ自分の主張を最後まで繰り返し続けた、ということなのではないでしょうか? 正に「信念の人」に相応しい反応だったように思います。しかし、イエスが神殿関係者と思っている相手は、神殿関係者ではなく、神殿の場を借りて屋台を広げただけの小売商たちでした。戦う相手を間違えたのです。迷惑をかけた小売商たちへの謝罪がなかったことが、イエス側の不幸を増幅させたことは間違いないように思います。
イエスの復活
ここまでの議論から、イエスの磔が、屋台の店主たちによる私刑(リンチ)であり、春の陽射しの中、日中の数時間架けられていたものと分かりました。本当に死んだのか、それとも、可能性として、例えば、殴られたり槍などで刺されたりしたショックで心臓が一時的に止まっていたのか等、なにがあったのかは、正直よく分かりません。イエスが「一旦仮死状態になったあとで、快復した」とすれば、「死と復活」は、これが脚色されたものと解釈する余地は充分に残されているように思います。
エルサレム郊外で、マグダラのマリアたち少人数が交代でイエスを必死に看病していたのでしょう。マリアが、他の弟子たちに回復を伝えに行ったことには必然性があったと思われます。
イエスよりも後になって回復したトマスが、一緒にリンチに遭って死んだはずの師イエスについて、実際に目で見るまで生存を納得しなかった、というのは、あり得ることと思います。直情径行な人物ですので「理由なくついてこなかった」または「師を守らずに現場から逃げ出した」他の弟子たちについては嫌悪感を抱いていたことでしょう。「身代わり役の自分が生きているのに、先生は死んでしまった」と嘆いているとしたら、看病していた他の弟子たちに対して「先生が生きているなんて適当なことを言ってんじゃねぇ」くらいの反発は感じていたと思われます。
その後のイエス
マルコ福音書とマタイ福音書は、その後、イエスはガリラヤに向かったと示唆しています。
他方、ルカは、エルサレム近郊のベタニヤで40日ほど滞在した後、天に昇ったと書いています。
イエスが実際にどこに行ったかは、まだ分かっていません。