見出し画像

聖アンデレ(1-E) イエス ~歴史的存在として

イエスは、生没年は不詳ですが、おおよそ紀元前 4 年頃に生まれ、紀元後 30 年頃に亡くなった と推測されています。

(もともと、紀元という手法は、イエスの生誕前後で歴史を二分するために 設定された概念です。それが、実は少しズレていた可能性があります。)

また、クリスマスは、一般にイエスとしてこの世に使わされた救い主(キリスト)の誕生を記念 する日とされています。12 月 25 日にイエスが生まれたわけではありません。暦によっては 1 月 6 日がクリスマスになることからも分かる通り、日照時間が一年で最も短い冬至を「光の死」と して捉え、その次の日をもって「光の子」であるキリストの復活になぞらえて、祝う日です。ロ ーマ帝国でキリスト教が国教化されるにあたり比定されました。ですので、歴史的なイエスにつ いては、クリスマスからは何も分かりません。

洗礼のヨハネに弟子入りした後、死の直前 3 年間ほどの間に独自の布教活動を行い、その過程で 人々の病気を癒したり、死者を復活させたりといった奇跡を起こし、絶大な人気を博しました。 エルサレムで磔に遭って亡くなりましたが、その後、復活したと言われています。

なお、復活を祝うのがイースター(復活節、パスハ)とされ、春分の日の後の最初の満月の次の 日曜日を祝います。ただし、これはユダヤ教のお祝いである「過越しの祭り」(パスハ、ペサハ。 エジプト脱出における神の奇跡を祝うもの)に合わせてキリスト教でも祝っているものですので、 イースターからも歴史的なイエスについては分かりません。

出身地としてのガリラヤ、ナザレ

先ずガリラヤという地域についてです。旧約聖書で「異邦人どものガリラヤ」(イザヤ書 8:23) と表現され、エルサレムから一段低く見られている地域です。

イスラエル王国は、紀元前 926 年にソロモン王が亡くなったことで、南北に分裂しています。エ ルサレムなどはユダ王国(南)に属しましたが、ガリラヤ地域は、イスラエル王国(北)に属していました。そのイスラエル王国は、紀元前 732 年に隣国アッシリア帝国に敗北し、ユダヤ人の多 くはイラク(バビロニア地域)に強制的に移住させられました。(この事件は「バビロン捕囚」と 言われています。)そして紀元前 721 年にイスラエル王国は滅亡しました。その後、紀元前 104 年になってユダヤ勢力(ハスモン王朝)がガリラヤ地域を占領し、この地域のユダヤ教化を改め て進めました。

そのため、純粋な(南のユダ王国にいる)ユダヤ教徒から見ると、「イエス時代、およびその前後 のガリラヤの一般民衆は、宗教的に差別されると同時に、経済的にも搾取の対象とされていたの が実情であった」(佐藤研『聖書時代史 新約編』p.35)と指摘されています。

次にナザレという村です。村自体は貧しいところはありましたが、文化と通商で栄えた大都会セ ッフォリスまで歩ける距離にあります。土木工事から建築、家具製造まで行うテクトンとして活 躍したヨセフやイエスは、当時、造営中だった近隣のセッフォリスで、都市建設に長らくかかわっていたと推測されます。

ナザレで問題なのは、この村が泥と煉瓦でできていたことである。手のかかっている 建造物があったとしても、せいぜい石造りだったであろう。屋根には木の梁を使い、扉 は木製だったかもしれない。 ナザレのような100世帯そこそこの質素でほとんど忘れられたような村では、貧し い家族の大半は、最低生活レベルぎりぎりの暮らしも覚束ないくらいで、家族を養うこ とはむずかしかったであろう。イエスやその兄弟たちのような職人や日雇労働者は、も っと大きな町や都市に仕事を探しにゆかねばならなかったと思われる。 (レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』(文春文庫)p.86 以下)

イエスは、(幼少期はエジプトにいたという伝説もありますが)ものごころついてからは、貧しい 人々の多いガリラヤ地域で、テクトン(おそらく日雇いの土木工事業者)をしていました。手紙 なども見つかっておらず、おそらくは文字の読み書きができなかった人物だと考えられます。(加藤隆『新約聖書の誕生』P.65)

テクトンは、現在の言葉でいうと、建築・土木事業者。木工も石工なども含めた幅広い概念で、 適当な翻訳が見つかりません。

ガリラヤ地区では 9000 年前に使われたセメントも発掘されていますが、土木工事には、切石な ども含まれます。イエスも、重労働に従事していたのでしょう。石の下敷きになるかもしれない し、高いとことから落ちるかも知れず、熱中症で死ぬかもしれない。そういった状況の中で働き、リーダーシップを身に着け、磨いた人物と考えられます。

悪霊につかれて口のきけない人を癒したり、手足の不自由な人を癒したり、死んでしまった人たちを蘇えらせたり、といったイエスの「奇跡」は、日々の重労働のなかで、応急処置をしたり仮 死状態に至った人を蘇生させたりした経験によるものなのかも知れません。

イエスは、なぜ有名になったのか?

洗礼のヨハネ(バプテスマのヨハネ)の後継者として活動したからです。

ナザレという低く見られる貧村・寒村の出身であり、文字の読み書きができなかったにも係らず、 イエスがヨハネの後継者になれたのは、イエスが教団の中でヨハネに一定の評価を受け、それな りに高い地位についていたためと考えるのが自然です。ヨハネの福音書には、聖アンデレら 2 名 がヨハネの弟子だったと書かれていますが、むしろ、イエスの初期の主要な弟子はほとんどヨハ ネ教団の出身だったのかも知れません。

イエスの師としての養父ヨセフ

イエスを、父として育てた人物が、ヨセフです。 イエスとは血のつながりはありませんが、イエスを後継者として育 て、また、イエスの母マリアとの間で子宝に恵まれつつ、生涯をテ クトン(建築・土木事業者)として過ごしました。

ヨセフ自身がどのような人物だったのか、ほとんど記録はありませんが、以下3つの理由から、敬虔なユダヤ教徒であり、子供たちに も敬虔な暮らしをさせたのではないか、と推測されます。

1. 血のつながりのないイエスを、聖霊からの授かりものと受 け容れ、自分の長男かつ後継者として育成したこと。

2. イエスに、旧約聖書に関する広範な知識があり、かつイエス自身の信条・体験として内省 化され、活用されていたこと。

3. イエスの弟であるヤコブは、エルサレムにおける教団の初代教会長となり、エルサレムの ユダヤ教徒からも戒律を守る人物として尊敬されていたこと。

なお、ヨセフには、イエスが幼児のうちは(つまり、ナザレに落ち着く前には)、妻マリアとイエ スを連れてエジプトに行ったという伝説があります。テクトンですので、腕が確かであれば、場 所を問わずに働くことはできたことでしょう。ナザレに限らず、意外に広範囲で活動していた可 能性は軽々に否定すべきではないでしょう。

イエスの師としての「洗礼のヨハネ」

イエスが弟子入りし、バプテスマ(洗礼)を授けられたのが、洗礼 のヨハネです。生没年は不詳です。エルサレム神殿を守る名家の出 身です。出身家は政治的な理由で神殿を追い出されていましたが、 本当の神につながった家系として尊敬を集めていました。

ヨルダン川が死海に流れ込む河口付近を拠点に、罪の赦しのための 悔い改めのバプテスマ(ルカ福音書 3:3)を宣べ伝えており、必ず しも純血のユダヤ人だけではなく、ギリシア人なども含め、ユダヤ 全域から人々が彼の下に集まりました(マルコ福音書 1:4~5)。 当時のバプテスマは、川または水槽の中に全身を浸すというものです。(ちなみに、例えば、いま もロシア正教では、新年 1 月 19 日(ユリウス暦 1 月 6 日)に行われる「主の洗礼祭」で、教徒 はヨルダン(氷水の穴)に全身を浸しています。)


イエスはヨハネを「再臨のエリヤ」として尊敬していました。エリヤは、旧約聖書の中でただ一人、死ぬことなく昇天したとされる特別な預言者です(列王記下 2:1~14)。

イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、 彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、どんなに布を晒しても、これ ほどまでに白くすることはできないほどになった。その時、エリヤがモーセとともに現 れ、イエスと語りあった。

ペテロはイエスにむかって言った。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは 祠を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤ のために。」

そう言ったのは、みなが非常に恐れていたので、ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。

すると、雲が湧きおこり彼らを包んだ。そして、その雲の中から声が聞こえた。
「これはわたしの愛する子である。これに聞け。」

彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一 緒におられた。

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、い ま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。彼らはこの言葉を心 にとめ、死人の中からよみがえるとはどういうことかと、互に論じ合った。

そしてイエスに尋ねた、「なぜ、律法学者たちは、エリヤが先に来るはずだと言ってい るのですか」。イエスは言われた、「確かに、エリヤが先にきて、万事を元どおりに改め る。しかし、人の子について、彼が多くの苦しみを受け、かつ恥ずかしめられると、書いてあるのはなぜか。しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そし て彼について書いてあるように、人々は自分勝手に彼をあしらった」。
       (マルコ福音書 9:2~13。関連:マルコ福音書 11:30)

このイエスの発言は、旧約聖書にある「ヤハウェの日(終末の日)の前に、エリヤが遣わされる」 という構成の下、そこに、ヘロデ王によるエリヤが処刑されたことを踏まえたものです。

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつか わす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。こ れはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。 (マラキ書 3:23~24)

そして火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉は松明のように燃えていた。 エリヤよ・・・あなたはいと高き方の言葉によって死者を死から、黄泉から立ち上がら せた。・・・あなたは定められた時に備える者。神の怒りが激しくなる前に、これを鎮め、 父の心を子に向けさせ、ヤコブの諸部族を立て直す者。あなたを見る者、また、愛のう ちに眠りについた者は幸いである。確かに、私たちも生きるであろう。
                 (ベン・シラ 知恵の書 48:1~11)

しかし、そのエリヤ(洗礼のヨハネ)が、ヘロデ王によって処刑されたのです。弟子たちの間に は、終末の日がいよいよやってくるという危機感が高まるのも無理ありません。ヘロデ王の迫害 によって、ヨハネ教団のメンバーが各地に散らされた時、イエスは決意します。最後の瞬間が来 るまでの間、エリヤ(洗礼のヨハネ)の意思に従って、すこしでも救われる人を増やしていこう、と。

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。
                     (マルコ福音書 1:14~15)

イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた。 「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。・・・預言者を見るためか。そうだ、あ なたがたに言うが、預言者以上の者である。・・・ あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい 人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激し く襲う者たちがそれを奪い取っている。すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハ ネの時までである。そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、 きたるべきエリヤなのである。耳のある者は聞くがよい。」
                     (マタイ福音書 11:7~15)

当然、イエスの宣教の中身は、ヨハネの宣教を踏まえたものになります。ただし、神の国が本格的に近づくという緊急事態を目前に踏まえ、より一般の人々に即した形式で布教が進められたと考えられます。

イエスは、ヨハネをとても尊敬していました。このことは、聖書の解釈において重要な手がかりとなりますので、留意しておいてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?