はしぇくぐり
澄んだ秋晴れの空の下、どこまでも延々と続いていそうな田園地帯が両側にそびえる直線道路。
対向車はおろか障害物の影すら見当たらないほど視界が開けていたにもかかわらず、上杉憲雄が愛車シボレーのブレーキを踏んだのは、視界の端に見慣れぬ物体を発見したからだった。
サイドブレーキをかけてから、上杉はシボレーから文字通り飛び下りて、物体――生まれて初めて目にした奇妙な動物の死体に近寄ってみる。
恐らくは車に撥ねられたのだろう、道路の隅に横たわっていた死体の腹は裂け、内部に詰まっていた臓物は辺りにぶちまけられていた。
体長は、猫よりひと回り大きい程度。頭部以外は暗褐色の長い毛で覆われており、己の血にまみれた手足は太く短い。胴体だけを見れば狸やアナグマの一種だろうと見過ごしていただろうが、そのどちらにも全く似ていない頭部が、上杉に車を停めさせた。
車に撥ねられて路上に叩きつけられたせいか、半分潰れている頭部には毛が生えておらず、ピンク色の地肌が露になっていた。前方に突き出された口吻から突き出た門歯は大きく反り返り、その間からだらりと伸びた舌は細長く、黒ずんでいる。
上杉はその頭部を見て、土中を掘り進む外国の鼠、ハダカデバネズミの姿を思い出した。あれは全身の毛が無い、かなり風変わりな鼠ではあるが、目の前の死体はサイズという点で鼠とは違うと言い切れる。
あえてもっとも顔の造りが近い動物をひとつ挙げるとすれば、ヒトだろう。
シボレーに戻った上杉は、助手席に鎮座する撮影用ケースの中からデジタルカメラを取り出し、横たわる轢死体をファインダーに収め、シャッターを切った。一眼レフのカメラも持ってはいるが、撮った写真を現像する必要なしに人に見せる事が出来るデジカメを選んだのである。
シボレーを発進させ、ガソリンスタンドすらない田舎に向かってアクセルを踏み続ける上杉の脳裏に浮かんだのは、彼自身の幼い頃の体験だった。
四つか五つの頃に、県内ではそれなりに名の知られた自然公園へ、家族そろってピクニックに出掛けた。
両親は生まれたばかりの弟に夢中で、なんとなくつまらない気分のまま、独りで公園の外れを歩いていた。
その公園の東側は私有地の山と繋がっており、特に整備されていないと知ったのは、中学に上がってからの事である。
まだ子供だった上杉の目の前を、見た事も無い鳥が横切った。
全身がトルコ石のような淡い青色の羽毛に覆われた、鶴の様に細長い首を持ったその鳥は、振り返るなり上杉に向かって一声甲高く鳴いたかと思うと、ビロードのように煌く美しい翼を広げ、雲ひとつ無い晴天へと飛び立ち、そのまま溶け込むように姿を消してしまった。
それまで「鳥」といえば鶏かヒヨコかアヒルしか知らなかった上杉少年は、その美しさに見惚れながらも呆然としたまま鳥を見送った。
しかし、両親は彼の遭遇体験をまともに信じようとはしなかったし、上杉自身も今となっては幻想による錯覚だったのではないかと半ば否定し、無意識のうちに記憶の彼方に封じ込めていた。
その記憶が、たったいま甦ってきたのは、件の動物の正体がまったくつかめないからである。
現実に存在するのに、世間では認知されていない動物がいる。
これが証明されれば、あの美しい「鳥」の存在だって無碍に否定されるいわれはなくなる。少なくとも、自分にとってはそういう事に繋がる。
アクセルを踏む力は知らず知らずのうちに強くなり、気がつけば速度メーターの針は時速百二十キロ超えを指していた。
川中村は、その名前とは裏腹に、丘陵を利用した段々畑から成る、のどかな雰囲気の農村だった。
屋根瓦付きの土塀に囲まれた、平成という年号を与えられ損ねたまま今日まで生き延びてきたような、昭和時代の名残を感じさせる古びた旧家屋。
それが、今回の取材先である涌谷夫妻の自宅である事は、上杉も重々承知していた。
適当な空き地にシボレーを停め、二種類のカメラを首に提げ、取材用具を詰め込んだ鞄を肩に掛ける。車から降りた上杉を最初に出迎えたのは、老夫婦でも村人でもなく、いつの間にか足元に近づいていた一羽の雄鶏の鳴き声だった。どうやら人間というものを、あまり怖がっていないらしい。
その声のけたたましさに驚き、声の主を見つけて苦笑してから、上杉は呼び鈴も無い玄関の引き戸に指をかけた。
「こんにちはー」
引き戸を勢いよく開けてから、雄鶏の鬨の声に劣らないほどの声量で訪問を告げる。少し間を置いてから、そう変わらない程度の大声で、もう一度来訪を告げた。
二度目の大声をあげてからまた待ち、しばらく経ってからようやく、粗雑な服を着た老夫婦がいそいそと連れ立ってやってきた。 ふたりとも齢は七十代を超えているはずで、揃って皺だらけの顔ではあるのだが背は曲がっておらず、歩く姿勢もかくしゃくとしている。
「こんにちは」
上杉は笑顔を作り、本日三度目の「こんにちは」を言って頭を下げた。
先に口を開いたのは老爺だった。
「どちら様ですかいのう?」
取材の連絡はしたはずである。
「農業未来社の上杉です。本日は、よろしくお願いします」
「農業未来社?」
「はい。こちらは涌谷様のお宅ですよね?」
「んだ。おらいは涌谷だけんども・・・」
「先日、お電話させて頂いた者ですが」
それでもしきりに首を傾げる涌谷老人に、婦人がそっと耳打ちする。ただし耳が遠いらしい亭主にも聞こえる声量なので、内容は上杉にも丸聞こえである。
「爺様。ほれ、おらほの村ば雑誌に載っけてくれるっていう」
「おお!」
一瞬だけ晴れやかな笑顔に変わった老人の顔が、また怪訝そうな表情に戻る。
「明日じゃなかったっけかな?」
「いえ。本日十九日の予定だったはずですが」
「今日は十八日だべ?」
婦人にまで訊かれたのでは、さすがに不安になる。二対一なのだ。
上杉は携帯電話と手帳、両方のスケジュール帳を確認した。
「今日は十九日ですね」
「おい」
「はいはい」
老爺に促され、老婆は玄関から奥へと消えた。カレンダーを見に行ったのだろう。ひと言ふた言交わしただけで相手の意図を汲み取って行動できるのは、熟年夫婦の特権である。
「ところで……」
老爺がすぼまった口を開きかけたところで、老婆が小さな身体には似合わないほどの大声で笑いながら戻ってきた。
「やんだぁ、ほんとに今日は十九日でねぇか。はよこい、はよこいと待ってたつもりだったのに、いつの間にか一日間違えてたみたいだなっす」
「ほんどが?」
「んだ。カレンダーとテレビとラジオ、全部見たからよ」
「ラジオ見たってしょうがねぇべ」
「あらやんだ爺さま、言葉のあやってやつだよう」
そう言って皺だらけの顔を一層皺くちゃにしてひとしきり笑い声を上げる老婆を見て、上杉は何となく安堵感を覚えた。取材先でのトラブルは日常茶飯事だが、この老夫婦に限って言えば杞憂に終わりそうである。
「なんか悪いことしたな、兄ちゃん」
「いえ、そんな」
こういう時は作り笑いを浮かべながら下手に出た方がいい。長年のライター生活で身につけたマナーのひとつである。
「ま、上がってけさい」
「はい、それではお邪魔します」
涌谷老人に促され、上杉は靴を脱いで昭和の残滓に上がりこんだ。
有限会社『農業の未来社』が発刊している隔月刊誌「田舎風景」は、都会の生活に疲れた社会人や定年後の就農生活に憧れる中高年をターゲットに置いた雑誌であり、会社の規模から考えると看板と称しても遜色ないほどの業績を上げている。
その「田舎風景」の人気記事に紛れてひっそりと掲載されているのが、上杉の担当している「田舎散歩」のコーナーである。
ほとんど過疎化した地方の辺鄙な村を取材し、その寂れ具合を写真付きで紹介するという、記者の苦労が忍ばれるような仕事を、上杉が自ら立候補したのは、碌な仕事がもらえないフリーライターからの脱却を図ったが故の事だった。
他の記事が地方特産物の紹介や地元住民との交流、さらには当地の地価など現実的な内容であるのに対し、経済新聞の中に民俗学の論文が放り込まれたかのような立場にある「田舎散歩」は、読者にとって息抜きや箸休めのような意味合いを持ちこそすれ、指示されるようなものではないらしい。
創刊以来、増ページする度に打ち切りの危機にさらされながらも、どうにか低空飛行を続けていた「田舎散歩」が次の紹介場所として選んだのが、川中村だった。
「ま、おらほとしてもな、若ぇ連中が興味を持ってくれたらとか、ひとりでも村の名前を覚えてくれたらとか、そんなみみっちい考えで手紙ば出したんだけどな」
「しかし、そういう動機で手紙を送ってこられる方も多いのですよ」
愛想笑いを浮かべながら上杉は答えたが、実際にはそのようなケースは少ない。ほとんどは上杉の調査で選出される。
茶の間に案内された上杉は、二十年以上は時代に取り残されたかのような室内の様子に我が目を疑った。
携帯電話の個人所有が常識となりつつあるこのご時勢で、涌谷家に設置されているのはダイヤル式の黒電話。壁には手作り感溢れる箱型の柱時計が振り子を揺らし、枠が木製のテレビにはダイヤル式のチャンネルが付いている。
もっとも老夫妻が言うには、見た目は古いが中身はちゃんとした最新型になっているそうだが。
「この辺りで採れるもんっつったらさ、米とか野菜とか、そんなありきたりのもんばっかだからよ」
ここで素直に頷けば、相手の機嫌を損ねてしまう。
「いやいや、例え同じ野菜を育てたとしても、地域によっては味が異なっている事も少なくはないんですよ? 米だって、地域ごとにブランド米なんかがあるわけですし」
「でも、この辺にはなぁ」
「それに、同じ食材でも調理法が違っていたりするものですし。どこだったかなぁ、人参を雪の中で保存することで糖度を増して、甘味を強くしている地方もあると聞いた事があります」
「まぁなぁ」
これまた古臭い卓袱台で胡坐をかいていた涌谷老人は、上杉の言葉を聞き、神妙そうな顔つきで頷く。
「それに、私が担当しているコーナーは、景観やその村の成り立ち等を紹介するものですから。無理に特産品をアピールする必要はありませんよ」
「ほうか? それならええけどな。ほんじゃ行くか」
「お願いします」
涌谷老人と上杉は、ほぼ同時に立ち上がった。
取材内容を整理し、原稿を締め切りまでに書き上げるには、一日でも早く取材を済ませなければならない。滞在も一泊が限度である。
これから老人の案内で川中村を一周し、夜明けまでにすべての情報を整理する事が、さしあたっての上杉の仕事だった。
「九輪間神社と村長のとこと、あとどこだっけか?」
「村役場ですね」
「ああ、んだんだ。そこだけでええの?」
ええも悪いも、川中村で紹介できる場所はその三つのうちふたつしかない。村長宅へは話を聞きに行くだけだ。
「お客さん」
一眼レフをぶら下げた上杉に、老婦人が声を掛けてきた。
「今夜はどうすんの? 泊まっとこ、どこ?」
「役場の隅でも使わせてもらおうかと」
今までの取材でも何度か行っているし、地元の紹介記事を盾にすれば無碍には断れない。それでも断られたら、シボレーの中で寝起きすれば済むだけの話であり、車の後部トランクには野宿用の道具が一通り揃っている。
「なんだ、決まってねぇのか。だったら家さ泊まってがい」
これもよくある。ただし上杉は、一応辞退する事にしている。
「いやいや、それはさすがにご迷惑でしょうから」
「んなこたねぇって、なぁ婆さん」
「んだ。東京とかお隣の大阪とか、都会の話ばしてけろ。テレビの情報だけだと、どうにも味気ねぇからよ」
東京と大阪とでは、だいぶ離れている。
「なぁに、たまの客さもてなさねぇと、おらたちは日付すら忘れちまうからよ。ボケ防止の手助けみてぇなもんだと思って、どうか泊まってけらい」
「んだなぁ」
「はぁ」
そうまで言われては、断るわけにもいかない。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます・・・あ、この村にガソリンスタンドってありますかね?」
「ああ、ちょっと遠くにあるぞ」
「ちょっとって、どれくらいですか?」
「行って戻って半日ぐれぇか、今からだとここに着くのは夜中になるな」
明日の早朝にしよう。
上杉は即断した。
「てぇしたもんじゃねぇけど、まあ食ってけさい」
涌谷婦人――初音婆が用意してくれた夕餉は、いかにも田舎らしい、素朴ながらも味わいのある料理で膳が埋め尽くされていた。
「ありがとうございます。いやあ、これは美味そうだ」
社交辞令ではなく本当に美味そうであり、美味かった。
鯉と一緒に炊かれた牛蒡は柔らかく、味が染み込んでいる。
「ホウレン草ですか」
「そりゃ水菜だ」
敬二郎爺に正解を教えられてから口の中に放り込んだ和え物から滲み出る辛味に、上杉は悲鳴を上げた。
「からっ!」
「辛し和えだかんなぁ」
呆れながらも笑う老夫婦に一瞬だけ恨みがましい視線を送り、大慌てで椎茸と筍の吸い物に口をつける。舌を落ち着かせてから、山菜のおひたしに箸を伸ばした。
「たらの芽ですね」
「今度は当たったな」
「これも食いなせ」
初音婆が差し出してきた藁束の中には、糸を引いて粘る納豆が入っていた。
「これ、自家製ですか」
「んだ。ちょくちょく作っとるだよ」
「いただきます」
白米と一緒にかきこんだ納豆は、市販のものよりかなり柔らかく、簡単に噛み潰れた。
さらに箸を伸ばそうとした小鉢の中に入っていた、黒い殻を持つ物体。
「これは・・・」
「田螺だ。食ったことねぇか?」
「初めてですね」
答えてから口の中に放り込んだそれは、歯ごたえが少し硬めだった。
「うめぇか。この辺の田螺は育ちがええからな。狐や狸も、田螺ば食いに田んぼさ入ってくる様なもんだ。まあ、こっちとしちゃ田んぼ荒らされて困んだけどな」
「はぁ」
曖昧な返事をした上杉の脳裏に、泥中を這い回る田螺食べたさに田んぼに鼻面を突っ込む狸の姿が浮かび上がる。
入れ替わるように浮かび上がってきたのは、路上の死骸だった。
「どうしたね、上杉さん?」
箸で田螺の殻を挟んだまま硬直する上杉を、初音婆がおずおずと気づかう。
「田螺、口に合わんかったか?」
正気に返った上杉が、慌てて言い繕う。
「ああいえ、そういう訳ではなくてですね、ここに来る途中、変わった動物を見かけた事を思い出したものですから」
「変わった動物?」
「ええ。ただ、食事中にする話題ではないので・・・・・・」
「ええよ、言ったんさい。おらほも気になってきたからよ」
上杉の説明を聞き終えた涌谷夫妻は、ほぼ同時に笑い出した。
「そりゃあんた、はしぇくぐりでねぇか。珍しくもなんともねぇ」
「はしぇくぐり?」
「んだ。この辺じゃ、よく見かけるべ。今見てぇな時期に出てくるんだけどな。あいつら、はしぇの下ば隠れてたり、はしぇの下ばくぐって逃げたりするから、おらほはこぞってはしぇくぐりって呼んでんだけどな」
「はしぇ・・・?」
「ああ、よそじゃはせって言ってるな」
「なるほど、稲架ですか」
収穫期の農村でよく見かける光景で、刈り入れが終わった田んぼや畦などに二本の柱を立て、それに長い竹竿を渡し、地面に着かない程度の高さで稲穂を掛けて、天日干しにして乾燥させる。
その土台が稲架である。
「あいつら、お天道様にはてんで弱いからな。はしぇの下に隠れながら、畦にいる蛙とかザリガニとかば狙ってんだ。まあな、こっちも別に田んぼさ荒らされて困るってわけでもねぇし気にしてねぇんだけど、たまに犬やら猫やらにはしぇの下から追い出されているとこば見るなぁ。まあ犬も猫も馬鹿だから、追い詰めて本性剥き出しにしたはしぇぐぐりに噛み殺されるってのも、よくあんだけんどもよ」
「狸じゃないんですか?」
「見たべ? あの面は狸じゃねぇ」
「まあ、そうですが」
しかし、何らかの病気に罹っているだけなのかもしれない。現に、寄生虫が原因で発症する皮膚病に罹って体毛が抜け落ち、従来の種とは別ものにしか見えないほど醜く変貌した野狸の写真を上杉は見た事がある。新種と騒がれるのもむべなるかなと同乗したくなるほど、ひどい変わりようだった。
「一匹だけ、変わった奴がいたってことでしょうね」
「一匹?」
敬二郎爺は細い眼を大きく見開き、バタバタと手を振った。
「あいつら、そこら辺にいくらでもいんだぞ」
「いくらでも!?」
「んだ。おめぇさんとこにゃ、はしぇくぐりはいねぇのか」
「初めて見ましたよ」
「そうなのか? ここじゃ、別に珍しくもなんともねぇから、どこにでもいるもんだとばかり思ってたんだけどな。ところで上杉さん、あんた酒はイケる口かね?」
旅慣れしている上杉でも、ノートパソコンの電源を入れた途端に涌谷家が停電したときには、さすがに驚きを隠せなかった。
「すまんかったな、上杉さん。うちはすぐにブレーカーってのが落ちちまうもんだからよ」
敬二郎爺はすまなそうに頭を下げたが、そもそも上杉が無断でコンセントを借りたのが問題だったのだし、電力不足が解決するわけでもない。
間の悪い事に、バッテリーランプは赤色に点灯している。
「これは・・・」
つぶやいてから、上杉は心底から落胆した。こうなった以上、パソコンを使った資料整理は不可能である。
老夫妻から借り受けた客まで、畳の上に資料を並べる。
とにかく、いつでも記事を書ける段階までには準備しておかなければならない。
村を出てから撮り忘れや調査ミスに気づいても遅いのだ。
九輪間神社に関する調査メモを、五枚重ねる。この箇条書きの中から活字に変わる文章は、ほんの一握りである。
白地のA3用紙を取り出し、記事と写真の掲載場所をレイアウトしてみる。もっともこれは、上杉が駆け出しの頃に引退直前の年輩ライターから教わった手法で、レイアウトと証するのも怪しい手口ではあるのだが。
いつもならパソコンを使って容易に進むはずの作業が、今日はやたらと手間取る。
収穫期に入った田舎の夜の静寂を、多種多様な虫たちが己の羽を精一杯震わせて奏でる音色でかき乱す。
はしぇくぐり。
死骸の名称を思い出すも、すぐに振り払う。
村長宅で聞いた話を、それなりに読める文章に纏める。
川中村という名称の由来は、戦国時代にこの辺り一帯を治めていた豪族の名が川中氏だったというのが真相で、どうやら川とは何の因果も無いらしい。
思い込みによる勘違いというのは、よくある。はしぇくぐりにしてもそうだった。村民が「どこにでもいる生き物」だと思い込んでいたからこそ、珍しがられることもなく今日まで静かに生き延びていたのだろう。
違う。あれを記事にするのは間違っている。
気持ちを入れ替え、村役場で得た情報も整理する。
川中村の総世帯数は、わずか十一世帯。しかも全員が六十歳以上の高齢者だった。やはり本来なら定年に達している役員の話では、高度成長期の頃から若者が次々と村を離れ、しかも誰ひとりとして帰村しなかったらしい。年号が変わる頃には、まだ三十代だった住職までもが後継者捜しの為に日本全国を歩き回り、たびたび寺を空けなければならないという有り様だった。
時の流れと共に過疎への道を進まざるを得なかったからこそ、あれは騒がれもせずに生き続けて……
上杉は資料を束ね、取材用鞄の中にねじ込んだ。
認めるしかない。
自分は、生きたはしぇくぐりを見たいのだ。
本物を見て、あの死骸と同一のものであるという確信を持ちたい。
それだけではない。
写真も撮りたい、記事として紹介したい。
世間に知らせたい。
功名心があるのは認める。地方情報誌に寄生している、しがないフリーライターが表舞台に立てるか否かの瀬戸際である。
しかしそれ以上に、世間一般に理解してもらいたかった。
日本には、未知の生物が存在する可能性があるのだ。自分が幼い頃に垣間見たはずの、あの青い鳥が実在する可能性だってあるはずなのだ。
涌谷夫妻の証言と、自分が路上で目撃した死骸とのイメージを合わせてみると、どう考えても未発見のUMAか新種の動物であるという結論しか出ない。 一体だけならともかく、村人が釣り上げた野鯉を狙って二匹のはしぇくぐりが争っている光景も目撃されている事から、ひとつの種であると見なした方がいい。鼠や鼬の亜種かもしれないとは思ったが、それにしてはサイズが大きすぎる。それならそれで新種の鼠かあるいは鼬を発見した事になり、フリーライターとしての株が上がるかもしれない。
そうだ。やはり自分は、はしぇくぐりが見たい。
どうあっても自分の目で真偽を確かめ、写真に収めたい。
例え既知の動物が正体だったとしても、それはそれで納得できるし、話のタネくらいはなる。
原稿は、社に戻ってから徹夜で仕上げればいい。
立ち上がった上杉は、黒のジャケットを羽織り、一眼レフを首にぶら下げ、鞄の中から懐中電灯を取り出してポケットに詰め込んだ。ペンとメモ帳をはじめとするライター七つ道具は、ジャケットの中にいつも携帯している。
「どっか行きなさるんかね?」
玄関でブーツを履いているところを敬二郎爺に見つかった上杉は、自分の笑みが引きつっている事にも気づかず、やや上ずった声で答える。
「ええ。念の為、ここの夜景も撮っておこうかと思いまして」
「ほうか。ライターっちゅうのも大変じゃのう」
「いやあ、これも仕事ですからね。それでは行ってきます」
余計な詮索を避けたい上杉は早口で告げ、逃げ出すように夜灯すらない夜の川中村へと飛び出した。
排気音は動物を驚かせるので、車を使うわけにはいかない。
光量調節により最小限まで弱めた懐中電灯の明かりで足元を照らしながら、上杉は深夜の農村を徘徊する。晴れていれば月明かりか星明りが澄んだ空気の中を輝く証明になっていただろうが、あいにく今夜は一面の雲が天空を覆い、降り注ぐはずの眩しさを遮っている。
初めて訪れた土地は、昼と夜とで雰囲気が一転する。懐中電灯で足元を照らしていても、辺りは無窮の闇に包まれたままである。
その闇の中を、夕暮れに訪れた際の足取りだけを頼りに、上杉は覚束ない足取りで溜め池へと向かう。
釣り上げた野鯉を巡って二匹のはしぇくぐりが争った場所であり、敬二郎爺の話では、主と呼ばれる巨大なすっぽんが棲みついている場所でもある。
静かに水を湛えた溜め池は、冷涼な水と時折沸き立つ気泡で深夜の来訪者をもてなした。光量を強くした懐中電灯に照らし出された水面では、風に運ばれた枯れ葉や何者かに引きちぎられた水草の欠片がゆっくりと漂っている。
中央で沸き起こった小さなうねりは野鯉のものか、それとも言い伝えに登場した溜め池の主によるものか。
溜め池の淵まで近づく気にはさすがになれず、上杉はそこから歩道――と呼べるようなものでもないが――寄りに近い場所に繁茂する、人の背丈を越えるほど高い芦の茂みを見つけ、蝮がいない事を確かめてからその中に入り、膝を曲げて身を屈めてみる。
おそらく、これではしぇくぐりの警戒の目からは逃れられるだろう。
続いて、はしぇくぐりを誘き出す為の撒き餌を用意する。
これは簡単だった。野宿用に常備している荷物の中には、道中の憂さを晴らす目的で詰め込んだ、缶ビールとつまみのセットがある。その中からビーフジャーキーとサラミソーセージを取り出せば済むだけの話である。
ついでに燻製卵とスモークチーズも用意した。はしぇくぐりの好物が肉類とは限らないからである。鮭とばを用意しそこなったのが、少しだけ悔やまれた。
とにかく姿を拝見し、写真に収められれば、それでいい。
用意した餌をばら撒き、自分は芦の茂みに身を隠した。
最初にやって来たのは、野狸だった。
一応はと一枚だけ写真を撮り、茂みから飛び出して追い散らす。イヌ科に属するだけはあり、愛嬌のある姿とは裏腹に、逃げ足だけはやたらと速い。
次にやって来たのは、燻製卵を狙った野鼠だった。さらにそれを狙って、シマヘビが長い胴を引きずりながら餌場へと向かう。
ひょっとしたらシマヘビを狙ってはしぇくぐりがやって来るかとも考えたが、犬や猫に追い立てられるような臆病なはしぇくぐりに、蛇と渡り合えるような度胸があるとは思えなかったので、これも追い散らした。
夜光塗料を塗った時計の針が日付変更を指し示した時分、ようやく待ち焦がれたはしぇくぐりが、びくびくと周囲を警戒しながら姿をあらわした。
物音を立てないように注意しながら赤外線スコープで除き見つつ、上杉は控えていたメモ帳にその容貌を書き綴った。
体長は六十センチ前後、サイズは大型の猫程度。
禿げ上がった頭部以外は長い毛で覆われ、四本の足で移動する。見た限りでは、前足と後足の長さや太さは均一で、二足直立する可能性は低い。
表面に一切毛が生えていない顔面は猿に酷似しているが、鼻が潰れていなければ、犬や鼬にも似ている。
アナグマにしては、体つきがスマートである。
体だけなら、やはりイタチ科か。
ラッコや四国に生息している川獺なら、サイズ的に最も近いが、両種とも水場に棲んでいる。
いや、淡水性の川獺ならまだ可能性あるかもしれないと上杉は一瞬だけ逡巡したが、すぐにその考えを棄てた。写真や映像で見た川獺と、目の前でビーフジャーキーの欠片を貪っているはしぇくぐりとでは、あまりにも姿が違いすぎる。
はしぇくぐりの顔は、やはり霊長類――それもヒト科に近かった。
本来の目的の半分を果たした事に気づいた上杉は、残り半分の目的をも達成しようと、はしぇくぐりをカメラのファインダー内に捉える。
シャッターを押した直後、状況が一変した。
それまでにやって来た野狸や野鼠、シマヘビなどは、上杉がシャッターを切る音など意にも介さず、生命維持の為の捕食行為を黙々と続けていた。
しかし、ただでさえ用心深く警戒心の強いはしぇくぐりは、その音だけで乾物を貪るのを中止し、しきりに首を動かして辺りの様子を伺いだした。
虫の音色に紛れていたはずのシャッター音すら聞きとがめたとなると、どうやら音に対しては過敏に反応するらしい。
上杉がそう判断した刹那、はしぇくぐりの猿にも人にも似たふたつの眼球が、茂みの中に身を伏せていた上杉の視線とぶつかった。
見つかった。
次の行動を考えるより早く、はしぇくぐりは身を翻してその場から逃げ出す。
もはや考えている余裕は無い。
上杉は立ち上がり、懐中電灯のスイッチをオンにし、光量を最大にしてから、逃げるはしぇくぐりの後を追い始めた。
「くそっ!」
丑三つ時の静寂を打ち破る怒声が林道にこだまし、樹上で安らかな眠りについていた鳥たちが驚いて一斉に飛び立つ。
その羽音を耳にしながら、上杉は逃げるはしぇくぐりをひたすらに追った。
高校時代は陸上でインターハイにも出場した経験がある上杉ではあるが、ここ数年の不規則な生活と運動不足が祟ったのか、はしぇくぐりの姿を見失うのに、さしたる時間はかからなかった。
それでも諦めようとはせず、上杉は懐中電灯の光量を弱める。
地面に転々と付いた小さな足跡が、仄かな灯に反射してぼんやりと浮かび上がり、上杉の進むべき道筋を作り上げた。
その正体は、微小なマグネシウム粉である。こんな事もあろうかと、撒き餌を置いた餌場の地面に、上杉があらかじめ撒いておいたのだ。餌場で同じように光を当てたなら、野狸や野鼠の足跡もすぐに見つかるだろう。
とはいえ、はしぇくぐりの四本の足の裏に付いたマグネシウム粉は、それほど多くはない。マグネシウム粉が全て払い落とされるか、あるいは夜が明ける前に見つけ出さなければ、見失ってしまうのは確実だろう。
それにしても。
上杉は走りながら、マグネシウム粉によって型取りされた足跡に注目する。
狸や狐のような、イヌ科に属する動物の足跡とは、やはり違う。
今まで何度も廃村寸前の村を歩き回り、住民と会話し、時にはフィールドワークも勤めてきた上杉には、野生動物に関する知識もそれなりにあった。
狩猟の醍醐味について地元の猟友会会員に取材している最中、猪の足跡とそれ以外の野生動物の足跡との違いを、実物も交えて説明された事があったが、はしぇくぐりの足跡は、そのいずれにも該当しない。
偶蹄類である猪のような蹄は、もちろん無い。
狸や狐のようにつま先が均等に並んでいるわけでもなく、かといって熊やアナグマのものとも形状が異なる。
やはり一番近いのは猿ということになるのだが、それはそれで疑問が生じる。
猿が全力で逃げ出す時は、左右の前足を同時に地面について、跳び箱を跳ぶような姿勢から何度も前足と後ろ足を入れ替えて走るはずである。
しかし先ほど目撃したはしぇくぐりの走り方は、まさにイヌのそれだった。
知っている動物のいずれかに相当し、しかもそれと特定した途端に矛盾が生じる。実に奇妙奇天烈な生き物だ。
そうたせ、カモノハシのようなものだ。嘴を持ち卵を産む哺乳類カモノハシのように、はしぇくぐりは動物学者の頭を悩ませる存在になるのだ。
だが、悩むのは学者先生方に任せておけばいい。
自分はとにかく、はしぇくぐりの存在を世間に知らしめさえすればいいのだ。
結論付けた上杉の足が、土以上に硬い床を踏んだ。
それだけで自分がどこに辿り着いたのかがわかる。コンクリートを使っているのは、ここと役場の玄関口だけなのだから。
川中村で唯一、国家の手による工事が行われた地、用水路。
村のあらゆる田んぼに水を供給する構造物の袋小路で、はしぇくぐりは進退行き詰っていた。
残されている唯一の逃走路は自分が通ってきた道のみであり、既に上杉という凶悪な訪問者によって封じられている。
人間ならば軽く飛び上がって指を掛けるだけで乗り越えられるであろう高さのコンクリート壁も、はしぇくぐりにとっては絶望を促す断崖絶壁でしかない。
上杉は、はしぇくぐりの外見を再確認する為に、懐中電灯の光量を最大にした。
その時点で、上杉は敬二郎爺の話に出て来たはしぇくぐりの特性を失念していた。
はしぇくぐりは、光を極度に嫌う。
顔を背けたはしぇくぐりに対し、上杉は怯えさせないようにと、できるだけ慎重かつ弱腰に見えるポーズのまま、そろりそろりと忍び足で接近する。
ようやく表情が拝めそうな距離まで近づいたところで、上杉の視界から、はしぇくぐりの姿が忽然と消え失せた。
「ぎゃっ!」
足首を襲った激痛に、上杉は顔を歪めてうずくまる。
激痛の発信源となった右足首に手を添えると、ぬるぬるとした感触が手のひらに伝わってくる。
足首を傷つけられた。
言いようのない恐怖に駆られた上杉に、殺気を纏った何かが接近する。
「ひっ!」
とっさに前へと突き出した一眼レフが吹き飛び、コンクリートの床に叩きつけられてバラバラに砕け散った。中に収められていたフィルムも駄目になっただろうが、今の上杉にはそれを気にする余裕などない。
「な、何が――」
痛む右足首を庇いながら立ち上がろうとする上杉の視線と、殺気の正体の視線が正面からぶつかった。
はしぇくぐり。
しかし、ようやく目の当たりにしたその表情には、怯えの色など微塵も見当たらない。
血走った眼を大きく見開き、耳まで裂けた口を歪ませたはしぇくくぐりは、狂気に捕らわれたまま笑っているようにも見えた。
剥き出しになった犬歯にべっとりと張り付いている赤黒い液体と、その足元に落ちている端切れが自分のズボンの裾と一致していると気づいた上杉は、そこでようやく敬二郎爺の言葉を思い出した。
「まあ犬も猫も馬鹿だから、追い詰めて本性剥き出しにしたはしぇぐぐりに噛み殺されるってのも、よくあんだけんどもよ」
それは犬や猫を相手にした時だけだろうと、たかをくくっていた。
まさか人間に襲い掛かってくる事は有るまいと、見くびっていた。
唸り声を上げ、今にも飛びかかろうとしているはしぇくぐりに最大光量を浴びせた上杉は、右足を襲う激痛を堪えながら、獰猛な禽獣が怯んでいる隙を見計らって、コンクリート壁を乗り越えた。
生命の危機を感じた上杉はすぐさま立ち上がり、排水溝から逃げ出そうとした。
はしぇくぐりの牙によって抉られた右足首の傷は思っていたよりも浅いようではあるが、流れ出る血は止まる事を知らず、急いで止血する必要があるのは変わりない。
ウェストポーチの中から包帯を取り出し、傷口よりも上――右脛をきつく縛る。先輩ライターに常備しておけと言われた、ライター七つ道具のひとつである。
やはり同じ七つ道具のひとつとして十得ナイフが入ってはいるが、護身用の武器とするには、さすがに心許ない。
傷口からの疼きを堪えつつ立ち上がり、足首への負担を確かめながら、ゆっくりとした足取りで前へと進む。懐中電灯は、もはやはしぇくぐりに対する唯一の抵抗手段となっていた。
上杉が追う側だった時は、逃げるはしぇくぐりをただひたすらに追ってさえすればよかった。逃げる側に回った事で、上杉は逃走ルートの重要性を痛感した。深夜まで起きている人間は少ないであろうこの過疎村で、自分が逃げ込める場所というのは本当に限られている。
いっそ用水路に戻り、管理室に立て篭もった方が安全だったか。
いや、管理室の鍵をこじ開けられる自信が無いし、そもそも肝心の管理室が存在するのかどうかさえも怪しい。
役場はどうか。確かに警備は甘いし、鍵は全てねじ込み式だった。盗られて困るような書類は持ち帰っていると役人は言っていたから、自衛目的で侵入したと説明すれば罪状はつかないだろう。何しろ本当に命を狙われているのだ。
問題は、役場までの道のりがあまりにも遠く、たどり着くまでに夜が明けているだろうという事だ。朝にさえなってしまえば、光を嫌うはしぇくぐりが上杉を追ってくる可能性は、まず無い。
朝まで逃げ切ればいいだけの話だが、その為の避難場所が確保できない。
木に上ってみるのはどうかと考え、すぐに捨てた。あまり世間には知られていないが、ネコ科の豹は易々と木登りをする。はしぇくぐりができないという保証は、どこにも無いのだ。
右足首が限界に達し、上杉はついに膝をついた。ここから前へ進むには、路上を這うか転がるしかない。
駆ける足音が、上杉の背筋を貫いた。
四つん這いから仰向けになって、後方を確かめる上杉。
その手に握られた懐中電灯が、はしぇくぐりの体毛を照らし出す。
「うわっ!」
すぐに闇に紛れるはしぇくぐり、上杉はポケットに空いている方の手を突っ込み、ビーフジャーキーの残りをつかんで放り投げた。
「ほれ、に、肉だぞ!」
濃い味付けと微かな油臭を漂わせるビーフジャーキーは、放物線を描いて路上に落ちたが、はしぇくぐりがそれに近づくような気配は感じられなかった。もはやビーフジャーキーは、はしぇくぐりの興味を引く対象ではないのかもしれない。
拍子抜けした上杉の胸板は、次の瞬間には、はしぇくぐりの足場となっていた。
暗がりから飛び出してきたはしぇくぐりが、両足を放り出して腰を下ろしたような体勢になっていた上杉に飛びかかり、一瞬で押し倒してしまったらしい。突然の衝撃に、上杉の右手から懐中電灯が零れ落ちる。
「ひっ」
身をすくめた上杉の脳裏に浮かんだのは、リカオンというアフリカ在中のイヌ科の猛獣だった。茶色い地毛に浮かぶ黒縁が特徴的なこの狼の親戚は、何匹かの群れで馬や水牛、インパラなどを追い回して疲れさせ、動きが鈍ったところで走っている相手の腹部に食いつき、噛み千切って温かい臓物を引きずり出す。獲物は生きたまま喰らい尽くされる恐怖と絶望に打ちひしがれながら、それでも奇跡を信じて力尽きるまで走り続ける。
はしぇくぐりが真っ先に狙うのは、上杉の喉笛か目玉か、あるいはリカオンのように生きたまま腸を引きずり出すのか。
狙いを定めているらしいはしぇくぐりの眼球に、恐怖する上杉の顔が映し出された。
笑っている。
確かに、はしぇくぐりは笑っている。
そして、はしぇくぐりは笑いながら砕け散った。
「!?」
頭部だけが爆散し、残った体がグニャリと崩れ落ちる。
「良かった、間に合ったみてぇだな」
暗がりから、聞き覚えのある声が聞こえた。
倒れたまま手探りで広い上げた懐中電灯で照らしてみると、そこにはライフル銃を持った敬二郎爺が立っていた。
「上杉さん、どっか怪我してねぇか? ああ、してんのか。足首やられたな」
「あ、あの」
「うちにええ薬があっから、帰ったらすぐに塗るべ。一晩で車ば動かせるかどうかまでは、わかんねぇけどよ」
敬二郎爺の手を借りた立ち上がった上杉は、やはり敬二郎爺の肩を借りる。頭の無いはしぇくぐりの死骸は、地面に転がっていた。
「こうなってんじゃねぇかと気になって来てみたら、やっぱりこうなってたんだなぁ。上杉さん、あんまり無茶するもんでねぇぞ」
「すいません。でも、よく俺の居場所が」
「なにっすや。長年こんな辺鄙な村に居続けるとな、遠目も夜目も効くようになるんだわ、これが」
「はぁ」
「それにな、こっちゃの方でちょくちょく光が点いたり消えたりしたもんだから、気になったってのもあるわな。その正体がお化けでも人魂でもなく、ほれ、そいつだ」
敬二郎爺がライフルの先で指し示したのは、上杉が握っていた懐中電灯だった。
「しかし、おらいの使っている猟銃が散弾じゃなくて良かったなっす。散弾銃みたいに広範囲にゃ当たんねぇけど、こいつは熊だろうが猪だろうが一発で仕留められるから、使い勝手は悪くねぇんだけんどもさ」
「涌谷さん、猟師のご経験が?」
今更ながらの失礼な質問に気を悪くする素振りすら見せず、老人は笑顔で答える。
「ご経験も何も、この辺じゃ皆、鉄砲ぐらい持ってるべ。山から下りてきた動物なんかから身を護らなきゃならんからなぁ」
「な、なるほど……」
呆気にとられる上杉に、敬二郎爺はにんまりと笑った。
その笑顔が、撃ち殺された未知なる動物の最後の表情に重なり、上杉の腹の内から言いようの無い恐怖と不安が沸きあがる。
「どうじゃ上杉さん、都会と田舎、どっちが恐ろしい?」
(了)