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|乱蛇《らんだ》

 宝暦の大飢饉といえば、寛永、享保、天明、天保と、いわゆる「江戸四大飢饉」に比べれば規模が小さく軽視されがちではあるが、しかし土地によっては毎年のように起こる洪水と冷害による不作、飢饉に歩調を揃えるかのように蔓延した疫病により二万人以上の死者を出した忌むべき天災でもある。微々たる収穫すら年貢として搾り取られたある村などは、冬に雪中を掘り、冷たさで感覚を失った指先でつかみ出した草の根を齧る以外に生き残る道は無く、それでも田畑を耕す者が死に絶え、荒廃するがままに任せるしかなくなった村よりはましだと思われてしまう、そんな地獄絵図さながらの様相だった。
これは、その宝暦の飢饉により農民が塗炭の苦しみを味わった、とある藩での話。
 


 人間、生きていれば飯を食わねばならないし、排便もまた然りである。
 従って奉行所だろうが代官屋敷だろうが、厠だけは唯一身分の上下を気にしないでいられる場所といえた。何しろ厠ですることは、誰しも同じなのだから。
 町奉行荏場宗十郎刑部えばそうじゅうろうぎょうぶは、その厠で用を足しながら、しかしその場所にそぐわない、町奉行としての己が抱える問題に悩んでいた。
 悩みの種は、藩士としての問題と町奉行しての問題である。
 飢饉が起こるほどの不作は、彼が使える大名家のコメ事情にも深刻な打撃を与えた。通年の収穫量ならば、扶持や備蓄分を差し引いた余剰米を海路で江戸へ送ることで莫大な金に変わる。逆に財政を潤すはずだった米が無いとなれば、それを元手にして行わなければならない開発や治水、修繕、それどころか参勤交代の費用すら賄えなくなってしまう。
 幸か不幸か、近世になっても知行地制を主としていたので、高い地位にある家臣は知行地から産出される米以外の収穫物を頼りに、どうにか体面を保つことはできたが、低い身分では与えられる知行地など嵩が知れている――つまり暮らしていけない――ゆえに固辞し、扶持米を支給してもらって暮らしている侍たちはそうもいかない。
 やれ倹約だ、忍従だと念仏のように唱え続けながら、爪の先に火を灯すような貧困生活を耐えに耐え、ようやく飢饉も静まり領民の腹と心が落ち着きを取り戻しつつあるというのに、また厄介な問題が浮上してきた。
 殿様が、「自分の官位を上げるように朝廷に進言していただきたい」と幕府や朝廷に対して運動を起こし、その工作費用として莫大な資金を徳川家の筆頭老中や御用取次に贈るよう命じたらしい。
 まいないである。
 この拒否不可能な命令により、せっかく持ち直した藩の財政が再び右肩下がりの低迷に戻ってしまった。
 なぜ殿様は、領内財政の窮乏を知っていながら猟官運動を始めたのか。
 それというのも、そもそもの原因が、日頃より折り合いの悪い外様の有力大名が彼より高い位を得たところから始まる。
 古くからの歴史を紐解けば多少の因縁やいざこざがあった大名同士であり、あちらの官位が上がればこちらの官位も上げて上手くバランスを取り、大名間の摩擦や軋轢を減らすというのがそれまでの慣習だったはずなのだが、今回の昇進は唐突であり、当家にとってはまさに「寝耳に水」の出来事である。
 今にしてみれば、世間知らずの田舎のお大尽が、自分からのうのうと罠に嵌りに行ったようなものだが、焦りに焦った自尊心の高いお殿様は、巷間ですら金に汚いと陰口を叩かれている江戸老中筆頭や御用取次、家老らに大枚をはたいてせっせと賄を贈り続け、あろうことか莫大な費用が掛かる普請まで進んで引き受けようとしているらしい。
 こうなると、殿様の性格を読み解いた御用取次あたりが、わざと相手方の大名の官位だけを上げるように進言したのではないか――と邪推したくなるほどである。
 このまま金の亡者に搾り尽されるのを待つしかないという状況に危機感を抱いているのは、荏場だけではない。中には現状を痛哭し一身を賭して殿様に直接諌言した家臣もいるにはいたが、逆に殿様の勘気に触れ、あえなく罷免された。
 荏場とて、殿様の猟官運動には渋面を作らずにはいられなかったが、実は諌言により罷免されたのが前の町奉行であり、彼はその後釜として今の地位に据えられたのである。
 抜擢されるという恩を受けながら、そう日にちも経っていないうちから面を犯して諫言すれば、また町奉行が罷免されてしまう。
 それでなくても大飢饉の最中にまつりごとの方針を巡って人事の刷新と疑獄騒動が起こり、奉行――町奉行の上に奉行がおり、政の一切を取り仕切っている――や奉行の補佐役である若年寄、司法職である評定役ら大物が一斉に罷免されたことで職務の遅滞と混乱が未だに続いているのだ。
 これ以上の混乱は配下と領民に負担が掛かるだけだーーというのが、五十を越して守りに入った荏場の本音だった。
 殿様が猟官運動に精出する理由が、もうひとつある。
 先代に対する使命感と劣等感だ。
 江戸勤めの最中に、咄嗟とっさの機転により他藩の大名の取り潰しを回避させたという逸話を持ち、賢者であると称えられた先代に対して、申し訳ないという気持ちと比較されたくないという気持ちがい交ぜになった行動なのだろう。
 臣下としてその気持ちは汲み取れなくもないが、やはり努力する方向を間違えているとしか言いようがない。
 その殿様に関わる、新たな問題が噴出した。
 昨晩、城の厩舎から殿様がいたく寵愛している名馬「氷雨ひさめ」が、忽然と消え失せてしまったというのだ。
 城中は蜂の巣を投げ込まれたかのような大騒ぎになっており、目下城内いたるところをくまなく捜索中だが、念の為に城下も内密に捜索しておくように、との通達が来た。
 家臣も領民も苦しんでいる時に、たかが馬一頭で大騒ぎかと呆れる反面、周囲に堀を巡らせた城から馬一頭が消えるという事件そのものについては、荏場も興味が無いわけではない。
「荏場様、このようなところにおられましたか」
 用を足し厠を出たところで、配下の町同心である杉谷誠四郎すぎやせいしろうこもを抱え、急ぎ足で近づいてきた。
「このようなところと申すな。人ならば用を足すのは自然であろう」
 杉谷誠四郎。
 まだ同心としては年も若く真面目であり、彼の父親とは知己の間柄ということもあり、荏場は日頃から彼には目を掛けている。
「して、いかがいたした?」
「それが、町はずれで変わった馬が公孫樹いちょうの大木に繋がれておりまして」
 普段なら、そんなことでと一喝しているところだが、件の通達に記された特徴が荏場の脳裏を過った。
「葦毛か?」
「左様にございます。某も見て参りましたが、頭に頭陀袋を被せられ、背にはこのようなものが」
 杉谷が抱えていた菰を広げると、そこには炭で黒々と「乱」と「陀」の二文字が大きく乱雑に塗り描かれていた。


 喜ぶべきことなのかどうかはさて置くとして、ともあれ町はずれで発見された葦毛馬は、荏場の予想に違わず藩主ご寵愛の「氷雨」だった。
 とりあえず体裁として葦毛馬の所有者がいれば名乗り出るように、と――名乗り出てきても無視するだけだが――触れ書きを出しながら、同時に城へ「氷雨発見」の使いを出し、確認の為に「氷雨」を知る者を寄越してもらいたいと嘆願すると、程なくして返書の代わりに城中警護の統括である大番頭おおばんがしら自らが駕籠に乗り、馬丁らしき供連れを走らせながら到着した。
「ふむ」
 人払いを済ませた夕暮れの町はずれ。
 頭陀袋は外され大人しく繋がれたままになっている葦毛馬の首筋を労わるように優しく撫でていた大番頭は、堀の深い顔に安堵と困惑の色を綯い交ぜにしながらも深く頷き、
「黒みがかった地肌を雪のような白毛がおおい、特に首筋から背中にかけて薄く広がるその混じり具合が、冬の曇り空の下に降る雨の如く・・・正しく、これこそが殿がご寵愛なされておる名馬、氷雨である」
と答えた時には、側らでかしづいていた荏場さえも同調するように、我知らず安堵のため息を漏らしていた。
 武士の番頭ばんがしらは商家の番頭ばんとうとは異なり、城中の警護一切を取り仕切り、また同時に警護の責任を負う大役である。大番頭は、その番頭のまとめ役だけに、日ごろから鍛えている筋肉は衣服の下からでも隆々としていることが見て取れる。
 しかも戦時には先鋒を務める立場にあるだけに、雄々しく威厳ある様相を崩さないが、彼が頷いた時だけはその大柄な体躯が一回りも二回りも小さくなったかのように錯覚した。
「見たところ怪我もしておらぬようではあるが、こうして我が藩の元に戻った以上は一刻も早く厩舎へと戻し馬医者に診せておきたい。雑事は随伴の馬丁に任せるつもりだが、異存はあるまいな?」
「ご随意のままに」
 こちらとしても、厄介払いは早めに済ませたいのだ。
 異存はないが、下げた頭に残る疑問は払拭できない。
 町奉行の役高は三百石。本来ならば六百石の大番頭を相手に口出しできる立場ではないのだが、城内に詳しい大番頭がこの場にいるうちに確認しておかなければ、後々後悔することになるかもしれない。
「実は、氷雨が発見された時には、背にこのようなものが乗せられておりまして」
 おもてを上げた荏場が、「氷雨」を繋ぐ大木に巻いて立て掛けておいた菰を広げて見せると、大番頭はそこに描かれた「乱」と「陀」の二文字を怪訝そうに一瞥してから馬丁の顔に視線を移す。途端に馬丁は即座に頭を振った。
「断じて申し上げます。それは氷雨のものではございませぬ。氷雨は乗馬よりも鑑賞に重きを置いた珍重すべき名馬。そのような汚らわしいものを背に負うたと知れただけでも恥でございます」
「左様」
 ゆったりとした口調で同意してから、大番頭は何かを察したかのような顔つきでまた荏場の方へと視線を戻した。
「ときに荏場殿、城下は平静であろうか? このような奇怪な出来事が他にも起こっておるのではあるまいか?」
「恐れながら、城下は至って太平にございます。盗みも金品や食物ばかりで」
「怪しき者が関を通ろうとしたという話は?」
「今のところは」
 大番頭の腹の内は読めている。城に潜入して「氷雨」を盗み出し、往来に晒すなどという挑発を行って得するのは、こちらの殿様と張り合っている彼の大名か、あるいは筆頭老中たちとの癒着を懸念する徳川の重臣ぐらいだろう。
 もし後者ならば、それは挑発行為というより警告の意味合いが強くなる。
「隠密」
「有り得ぬ。当家には手向かう金も力も無い」
 言い切ってから、大番頭の口元が自嘲気味に吊り上がった。
「ともあれ、用心するに越したことはない。お互い警戒の目が怠ること無きよう心がけようではないか……荏場」
「御意」
 しかし、荏場が威を正して大番頭を見送った翌日、今度は夜廻り中の岡っ引と手下が襲われ死傷するという事件が起きた。


 殺されたのは岡っ引の吉蔵よしぞうと手下のたつ。もう一人の手下、留三とめぞうは幸運にも生き残っており、怪我こそしているものの、命に別状はないという。
 小間物屋を営んでいる女房の話では、吉蔵は宵の口に辰と留三を連れて夜廻りに出たきり戻らず、夜が明けてから路上に倒れているのを発見されたのだそうである。
 三人のうち二人が殺され一人が生き残ったのでは、疑いの眼差しが生き残った一人に向けられるのは当然の流れといえよう。
 番屋の奥で縮こまっている留三自身にも、それはよくわかっているはずだ。
「留三」
「へい」
 杉谷誠四郎に呼ばれた手下の留三は、負傷したという左肩を右手で押さえながら伏し目がちに顔を上げた。人生の裏街道を歩き続けた男が持つ特有の下卑さも野蛮さも、今だけは困惑と焦燥に蔽い尽くされ、微塵の余裕も感じられない。
「吉蔵親分は殺されたぞ」
「存じておりやす」
 田畑を捨て、食を求めて江戸へと流れる領民が多い中、留三は逆に江戸から逃げてきたと噂されている男である。
「使われたのは刃物。親分は首筋をばっさりで、辰は右肩から唐竹割りだ」
 死体を検分したのは誠四郎だが、筵に転がされた二人の惨たらしい死に顔よりも、その傷口から予想される殺害者の手並みの方に注目した。
 渡世人すらもまともに勤まらず食い扶持に困っていたところを吉蔵に拾われた留三に、これをやってのけるほどの腕と度胸があるとは、到底思えない。
「留三、倒れていたお前も親分も辰も寸鉄は持っていなかった……凶器の刃物をどこに隠した?」
「と、とんでもねぇ!」
 立ち上がるなり今にも泣きだしそうな顔で、吉蔵は弁明を始めた。
「あっしは親分と辰兄ぃの後ろについて歩いてただけでさぁ。そしたら急にこっちの肩をつかまれて、死ぬほどぶん殴られたみてぇな痛みがあって、それっきりだ。あんな目に遭ったのは生まれて初めてだというのに、気が付いたら親分と兄ぃはあっしを残して死んじまってた。一体何があってこうなったのか、あっしの方が教えてもらいたいくらいでさ!」
「ぶん殴られた?」
「んだ。でも殴られてこんな痣が残るはずもねぇし」
 答えながら片肌を脱いだ留三を見て、誠四郎は低く呻いた。
 肘から肩にかけて、まるで羊歯しだの葉を埋め込んだかのような紋様が一面に広がっている。
「留三、これは彫物に彫らせたのではないのか?」
「冗談言いっこなしですぜ、旦那。どこのどいつが、こんな百足むかでの出来損ないみたいな彫りもんを彫らせるっていうんですかい」
 なるほど、留三には不格好な百足に見えるらしい。
「つまりお前は、その何者かに肩をつかまれたから、この紋様が浮かび上がったのだと言いたいわけだな?」
「そうとしか考えられませんぜ。それに目が覚めてからというもの、この腕と肩がじくじくと痛みっぱなしでどうにもならねぇ。旦那、あれは妖怪ですぜ。親分と辰兄ぃは物の怪に殺られちまったんだ」
「たわけっ!」
 一喝してから、誠四郎は懐から取り出した証文の束を、怯む留三の鼻先に突き出した。
「下手人が誰であろうが、吉蔵やお前が命を狙われた理由については見当がついておるのだぞ」
「あっ!」
 それまで蒼くなっていた留三の顔が、今度は豆腐のように白くなる。
「借入証だな。場所が場所ゆえ借りておる者の名は明かさぬが、また幅広く貸しておるな。あちらに銭一貫文、こちらには五百文・・・おお銀十匁などという大口もあるではないか。さぞかし繁盛していたのだろうな」
「だ、旦那……」
「たわけっ!」
「ひぃ!」
 罵声と共に振り上げた十手に、留三はまたしても隅に縮こまる。
「どれもこれも利息の欄に蝋を垂らして、書き直しておるではないか。さては低利に見せかけて証文を作ってから、小細工を弄し法外な金利を搾り取ろうとしていたな? 大方、昨晩の見廻りというのも口実で、本当は借金と利息の取り立てをしていたのであろう!」
「いぃひぃ!」
 転がるように番屋から逃げ出そうとする留三の足首をぎゅっと踏みつけ、誠四郎はさらに懐から二枚の半紙を取り出した。
「待て待て留三。死人の御裁きは閻魔様に任せるとして、お前にはまだ聞きたいことがある。気を失っているお前の懐にこの紙が入っていたそうだが、これはどこで手に入れた?」
 一枚目には「乱陀」。
 二枚目には「参上」。


 岡っ引の吉蔵と子分の辰が殺された事件は瞬く間に城下に知れ渡ったが、驚く者は多かれど、その死を悲しむ者は――吉蔵の女房を除けば――誰一人として存在しなかった。
 吉蔵は高利貸しのみならず強請り集りも頻繁に行っていたらしいという証言も次々と発露し、辰や留三を引き連れては城下の住民を脅したり騙したりしながら金を掻き集めるような生活を送っていたらしい。
 その評判を聞いて杉谷誠四郎が最も嫌悪感を覚えたのが、金を集めた理由だった。
 そこまでして吉蔵が貯め込んだ金は、賂としてある一門の門下に収められていたらしいというのだ。
 誠四郎の使える大名家の一門というのは、他家における一門とは意味合いが少々異なっており、血縁関係などにより藩主にとっては、家臣に近くありながらも常に一目置いて相対しなければならないという複雑な地位にある。
 直接政に関わるような職務に就くことはないが発言力は重臣を上回り、人事に口を挟むことなど鵞毛がもうを吹くよりたやすいと言われている。
 吉蔵が多額の賂により侍の身分に成り上がろうとしたのは明白だが、それに加担していたのが藩主に並ぶ権力を持つ一門では咎めようがない。
 誠四郎がそれらの調査報告と「乱陀」「参上」の半紙を上司である町奉行、荏場刑部に提出し、調査の打ち切りと同時に与えられた新たな任務が、海産問屋睦美屋むつみやの警護だった。
 睦美屋の主人である睦美屋佐兵衛さへえの話では、本日深夜亥の刻までに五千両を店の裏口に置かなければ、店の者を一人残らず吉蔵のように殺してやるという脅迫状が投げ込まれたそうである。
 これだけなら吉蔵の死に便乗した稚拙な悪戯として町奉行所も相手にしなかっであろうが、脅迫文の末尾に「乱陀」と書き記されていたのでは話が変わる。吉蔵殺しの下手人であれ便乗犯であれ、市井の人間で「乱陀」の二文字を知る者がいるとなれば、捕えてでもその正体について聞き出さねばならない。
 かくして杉谷誠四郎は、手の空いた同僚二人と共に、捕り物姿に捻じり鉢巻きといういで立ちで睦美屋に赴くこととなった。
「いかんなぁ」
 さすがに、日も沈まぬうちから捕り物姿の同心三人が商家警護の為に往来を歩くというのは体裁が悪いので、提灯片手に闇夜をひたひたと歩いて睦美屋に到着したのだが、裏木戸を見るや否や最年長の梶田利政かじたとしまさが、周辺をぐるりと見渡しながらぼやいた。
「この広さで、たった三人はないだろう」
「まったくだ」
 伊藤光好いとうみつよしが、痩せこけた頬を膨らませて同調する。
「睦美屋といえば、先だっての大漁旗でまたひと儲けしたばかりと聞いたぞ。金があるのだから用心棒でも雇って居座らせておけば良かろうに、なぜ忙しい我々がわざわざ警護などしなければならんのだ」
 誠四郎もすかさず同調しようと口を開きかけたものの、声に出すより先に若い男の声が耳に飛び込んできた。
「これはこれは御三方様。お忙しいところをわざわざお越しいただき感謝の言葉もございません」
「うむ」
 裏木戸から裏庭に案内された梶田が鷹揚に頷き、番頭らしき若い男と形式通りの挨拶を交わしている間、伊藤に続くかたちで裏庭に入った誠四郎は睦美屋の広い裏庭をぐるりと見まわしながら、地方でこれだけの財を成した睦美屋の評判を思い返していた。
 睦美屋は海産物を取り扱う大店として藩内では広く知られている。
 米を扱う蔵元ほどではないにしろ、藩が財政立て直しを目的とした献金を求めるや即座にこれに応じ、その見返りとして身分ではなく様々な庇護を受けており、最近では以前よりも漁師たちの足元を見るような阿漕あこぎなやり口で儲けていると、世間でもはなはだ不評である。
 杉谷誠四郎たちが睦美屋の警護を行う羽目になったのも、元を辿れば荏場にその命を下した奉行か、あるいは奉行以上の役職にある人間が賂を受けているからというのが理由であって、脅迫文に「乱陀」の二文字があることを知った荏場が敢えてその任に誠四郎を捻じ込んだのは、単に「乱陀」騒動に何か関係がありそうだからという個人的見解からの押し付けに過ぎない。
 睦美屋も大概ではあるが、賂を受け取って商家の言いなりになる当家の上役も上役である。
 しかし御家に仕えて扶持米を支給されている身である自分がそれを咎めるのは大きな矛盾であり、諫めたところで逆に厄介者扱いされた挙句罷免されるのが関の山である。
 それならば若いうちから少しでも手柄を立てて出世し、藩政に口を挟めるような地位に昇り詰めて内側から変えてみせようという野望が、若い誠四郎の内面に――僅かながら志として熾火の如く静かに燃えている。
 与力が存在しないこの藩では直接の上司となる町奉行の荏場刑部が、隠居した自分の父親と知己の間柄であるということも希望の種になった。
 今のところは彼から目を掛けられていることで、周囲から「小姓」だの「中間」だのと陰口を叩かれているらしいが、彼が町奉行の座に就いている間に一刻も早く出世の糸口を探り出さなければならない。
 当主御寵愛の名馬を盗み出し、一門に賂を贈り続けていた吉蔵を殺し、さらに睦美屋に脅迫文を送った下手人が同一人物であり、これを自分が捕えたとなれば、その名声は必ず奉行や一門の耳に入るはずである。
「番頭」
 誠四郎を現実に引き戻したのは、普段ならもっとのんびりしているはずの伊藤の硬い声だった。
「焦げ臭くないか?」
「えっ」
 誠四郎を含めた三人が、伊藤の言葉につられるように鼻を動かす。
「確かに臭う。伊藤さん、どこから臭っているのか、わかりますか?」
「そこまではわからん。梶田さん、杉谷、ここは手分けして庭を回ってみよう。番頭さん、あんたは店の者に店から出るようにと伝えながら火元を確かめてくれ。炊事場が怪しい。それと火消しを呼ぶのも忘れずにな」
「よしきた」
「わかりました」
 真っ先に動いたのは、店の敷地内を熟知している番頭だった。小走りで縁側へと駆ける後ろ姿を誠四郎が見届けた時には、梶田と伊藤はそれぞれ植え込みを手で払いながら左右に消えていた。
 一人阿呆のように取り残された誠四郎の脳裏に、梶田や伊藤が知らない「乱陀参上」の一文が克明に浮かび上がる。
 もし「乱陀」と名乗る賊が、要求した五千両が裏口に置かれていないと知ったらどういう手段に出るか。
 睦美屋佐兵衛が金を隠しているとすれば、火事や地震など有事の際には持ち出そうとするのではないか。
 この小火ぼや騒ぎの目的は店に火を点けることではなく、騒動を利用して睦美屋を金の隠し場所に行かせることにあるのではないか。
 ならば、睦美屋佐兵衛を確保して賊の出方を伺うのが最善である。
 番頭に主人の居場所を聞いておくべきだったと後悔しながら、誠四郎が縁側に向かおうと駆けだしたところで、開け離れた障子の奥から煤竹色すすたけいろの老人が転がり出てきた。千両箱を両腕で抱えているところを見ると、どうやら主人の睦美屋佐兵衛らしい。
「ま、町方まちかたか!」
 顔を上げた老人は、いきなり無礼な口をきいた。
 齢は五十半ばぐらいだろう。痩せ細った貧相な身体つきにもかかわらず千両箱を抱えてここまで逃げてきたことを考えると、土壇場では思わぬ大力を発揮する人物なのかもしれない。
「つ、つ、付け火……」
「落ち着かれよ、ご老人。まだそうと決まったわけではない。火の不始末ということも有り得るかもしれん。まあどちらにせよ避難しておくに越したことはないであろうから、早くこちらへ」
 異変は、睦美屋の足元で起きた。
 縁の下から突如として噴き上がった黒煙があっという間に睦美屋佐兵衛の全身を包み込み、その姿を誠四郎の視界から覆い隠してしまった。
「睦美屋!」
「うぐっ」
 返事の代わりに聞こえた、低い呻き声。
 さらにドサリという、重いものが地面に落ちたような音。
 千両箱以外に考えられない。
 そして睦美屋とは明らかに異なる足音。
「何奴!」
 叫びながら、誠四郎は腰の業物わざものを抜いた。
 ここまでは格好良いのだが、実は同心杉谷誠四郎、未だに実戦で人を斬ったことはなく、白刃を抜いたのもこの時が初めてである。
「名を名乗れ、名乗らなければこちらから斬り込むぞ!」
 いざとなると手足が震えるのではないかと危惧していたのだが、案外そんなこともない。
 相手の姿が黒煙で見えないからかもしれない。
「俺も人を斬るのは初めてで手加減できんし、手元が狂ったらどうなるかわからん。命が惜しくば早々に降参せよ!」
 返答は、空中を薙いで送られた。
 黒煙の中から唸りを上げ石のようなものが誠四郎めがけて飛んできたと思った次の瞬間には、衝撃と共に視界が暗転した。
 
 
 睦美屋が狙われた時点で、有り得る話であるとは予想していたが、次は材木問屋の唐津屋からつやに、同じ内容の脅迫状が届いた。
 唐津屋もまた献金で役人から庇護を受けている大店だが、献金のみならず普請に対しても積極的に「協力」しており、ご機嫌取りの為にどれだけの樵や左官が酷使されたのかを語るだけでも夜が明ける――とまで言われている。
 唐津屋の警護に赴く杉谷誠四郎の頭には、包帯が巻かれていた。
 黒煙の中から襲い掛かってきたものは、どうやら誠四郎の頭に命中したらしい。
 気絶した誠四郎が目を醒ました時には黒煙も幻のように消え去り、その場には煤だらけの誠四郎と失神した睦美屋佐兵衛の二人だけが取り残されていた。
 どうやら黒煙の正体は、黒炭と煤を混ぜ砕いたもののようである。
 負傷したこと自体は腕前が未熟だったからだと荏場に咎められ、たんこぶ程度で済んで良かった、吉蔵たちは殺されたのだからなと軽挙妄動に太い釘を刺されてしまった。
 これで出世の道は閉ざされたも同然である。
 今でこそ腫れも引き、包帯姿にもさほど違和感は無いが、誠四郎の頭に出来たたん瘤は相当な大きさだった。治療した医者も良く死ななかった、こんな瘤が出来るくらい強く殴られたら普通は死ぬ、前代未聞の石頭だと誠四郎を褒め称えた。
 そんなところを褒められても嬉しくはないのだが。
 しかし吉蔵や辰のように刃物を使ったわけでもなければ、留三のように肩に痣が残ったわけでもない。睦美屋佐兵衛に至っては――金こそ奪われてしまったものの――煤塗れになった以外は特に怪我らしい怪我も無かったとあっては、ますます下手人の手口に不可解さを感じないわけにはいかない。
 留三といえば、荏場が調べ上げたところでは、左肩の痣に似たものが浮かび上がった事件が過去にもあったらしい。
 天下分け目の関ケ原が起こった前の年というから、相当昔の話だ。
 ある百姓が畑仕事の最中に振り上げたくわに雷が落ち、一命こそ取り留めたものの、その全身に留三の者と同じようなシダの葉にも似た紋様が浮かび上がり、その百姓が死んでも消えずに残っていたという。まさか「乱陀」の正体は、本物の雷神だとでもいうのであろうか。
 乱陀参上の半紙は、誠四郎と睦美屋佐兵衛の懐に一枚ずつ捻じ込まれていた。
 傷の痛みが治まってから、誠四郎は「乱陀」が起こした事件について思い返してみた。
 城内に潜入し、誰にも気づかれず馬一頭を盗み出して町はずれに放置した――この馬が藩主御寵愛の「氷雨」であることを知っているのは、城下では誠四郎と荏場を含めてごく僅かな人間だけである。
 深夜の見廻りを装って借金の督促に出掛けた町の鼻抓み者、吉蔵一味を路上で襲撃し、吉蔵と手下の辰を殺害、同じく手下の留三の肩に不思議な痣を残した。
 海鮮問屋睦美屋に脅迫状を送り、小火騒ぎを起こして裏口から避難しようとした睦美屋佐兵衛から金品を強奪した。誠四郎を倒したのは、ついでのようなものだろう。
 手口も凶器も目的も、完全にバラバラである。むしろ「乱陀参上」の文字が無ければ、下手人が同じ人間とはとても考えられない。ひょっとすると「乱陀」というのは賊の集団の名称で、過去にも他領を荒らし回っていたのではないかと考えた誠四郎は、過去の記録を漁れるだけ漁ってみたのだが、結局それらしき名前は出て来なかった。
 いずれにせよ、今度こそ憎き賊を捕らえて汚名をすすがなければならない。
 今回の捕り物には助っ人もいる。頼りになるかどうかは怪しいが。
「杉谷殿、こちらの用意はいいぞ」
 唐津屋に到着するなり実戦用の甲冑を着込み始めた苅安安兵衛かりやすやすべえは、どこから聞きつけたのか、賊の捕縛に手こずる町奉行所相手に自ら助っ人の話を持ち掛けてきた自称武芸者である。
 自推するところでは紀州で関口新心流柔術を学び、その開祖である関口氏心が独自の研究と諸国修行を繰り返した末に大成したという武勇伝に感銘を受け、自らもまた技の研鑽と諸国修行の旅を続けてきたという。
 修行を続けるうちに改めて戦場にいて甲冑の有用性を知り、既存の技術に独自の技術を付け加えて新たな流派として練り直し、苅安流柔術として日本中に広めんが為に日々精進しているそうなのだが、どうにも胡散臭い。
 おそらくは荏場の私財であろう、町奉行所が用意した報酬二百両のうち前金として五十両を受け取った苅安は、領内に入ってからその金を受け取るまでの間に方々でこさえた借金と利息の返済に充ててしまい、今は懐に一両も残っていないとうそぶく。もし荏場が助っ人の話を断ったら、一体どうするつもりだったのだろうか。
「杉谷殿、賊は本当に来るのでござろうな」
「来る。睦美屋相手に通じた手口だ、来ないはずがない」
「おう、睦美屋といえば貴殿のその傷だが」
 誠四郎は自分の顔が赤らむのを抑えられなかった。何もこんな時に言わなくともよいではないか。
「某、考えてみたのだがな。話に聞いた岡っ引殺しと貴殿を負傷させた賊が同じ奴だとすれば、その凶器にも見当がつくのではないかな」
「ほう、それは?」
「鎖鎌」
「あ……」
 剣術槍術馬術弓術に比べれば軽視されがちではあるが、鎖鎌もまた武芸十八般のうちの一つであるとされる。
「岡っ引とその手下を切り裂いたのは鎌で、貴殿の頭に命中したのは鎖分銅と見た。それに鎖鎌なら携帯も容易く目立たないであろう」
「なるほど」
 留三の痣はともかく、それ以外の傷については確かに鎖鎌でが落ちる。
「いや恐れ入った。何故我々はそれに気づかなかったのだろうな」
 でっぷりとした体躯を飾りのない甲冑で包み込んだ苅安安兵衛が笑うと、甲冑がそれに合わせて鳴子のように音を立てた。実戦に主眼を置いた造りになっているので余計な飾りは削り落としたと苅安自身は述懐しているが、本当は借金のカタに売り払ってしまったのではないか――と誠四郎は邪推している。
 全身がくすんだ黒一色では、威厳も貫禄もまるで感じられない。
「まあ賊が出たらそれがしに任せなさい。貴殿が手出しする暇も与えず退治してくれる」
 天性が明るくお喋りな性質なのだろう。苅安安兵衛が甲冑の桶川胴おけかわどうを小手で叩くと、またカタカタと音が鳴った。
 唐津屋の警護に赴いたのは、誠四郎と苅安の二人だけである。他にも手の空いている町廻り同心はいるはずなのだが、誠四郎が負傷したことで揃ってもっともらしい理由をつけて辞退してしまった。
 既に日も暮れ、二人を照らしているのは提灯と月明りのみである。
「火事だ!」
 店内で声が上がり、唐津屋の主人を筆頭に女房ら家族と従業員たちが次々と飛び出してきた。前回と同じ手を使ってきた場合に備えて、苅安が甲冑を着込んでいる間に、予め避難経路について番頭らに言い含めておいたお陰で、混乱らしい混乱は起こっていない。
 店内に残っているのは消火を任されている番頭と手代のみ。それも火の勢いが睦美屋と同じものならばすぐに鎮火できるだろう。
 唐津屋の主人は火事の一報を聞くなりすぐに部屋を飛び出し、予定通り一目散にこの庭先へと駆けてきた。睦美屋とは違い、金目のものは一切持ち出していない。
 それを知った賊は金の在処を探すだろう。まずは主人の部屋だ。
 平屋の奥に位置する主人の寝室に辿り着いた時には、そこは既に光の届かない黒煙に包み込まれていた。
「杉谷殿、危ない!」
 苅安安兵衛に先立って屋内に突入した杉谷誠四郎が、背後からの警告に応じてパッと畳の上に身を伏せると、その頭上を一条の銀線が風を薙いで通り過ぎた。
 苅安が推察した通り、先端に茄子型の分銅を付けた鎖である。
「うぬ!」
 銀の光条は誠四郎が起き上がるよりも先に引き戻され、黒煙の中に消えた。
「杉谷殿、賊は某が相手するゆえ、貴殿は下がっておられい」
 甲冑を着込んでいるとは思えないほどの身軽さで、猫のようにひょいと誠四郎の背中を飛び越えた苅安安兵衛の右の手甲には、岩盤すらも容易に貫きそうな鎧通しが鈍い輝きを放っている。
 再び黒煙の中から襲い掛かってきた鎖分銅は、しかし漆黒の桶川胴の前に轟音を鳴り響かせながら空しく弾き返される。
「ははは、無駄無駄」
 面頬の奥で笑い声を上げながら、苅安安兵衛が宙に浮いた鉄鎖を左の手甲でつかもうとするも、鎖は巣穴に逃げる蛇のように、するすると宙を舞いながら黒煙の中へ引き戻される。
「残念。鎖を捕まえて煙の中から引き摺り出したかったのだが、こうなってはこちらから出向くしかあるまいな。杉谷殿、貴殿はここで見物しておられい。二人とも暗闇の中で同士討ちでは目も当てられんからな」
 まるで酔っ払いを取り押さえにでも行くかのように恬とした口調で言ってのけてから、苅安安兵衛は雄叫びを上げ黒煙の中へと飛び込んだ。
 どすん、ばたんと揉み合う音。
 苅安の咆哮と、もう一人の呻き声。
 そして名状しがたき悲鳴が唐津屋の敷地内に響き渡り、黒煙の中から矢のように飛び出した黒い影が天井を突き破って大穴を開けた。
「あっ!」
 その穴に吸い込まれるように昇り消える黒煙。
 後に残されたのは、甲冑の隙間から焼け焦げた異臭を発しながら倒れ伏す苅安安兵衛の死体だけだった。

 
 
「そなたが小野賀跳丸おのがとびまるか?」
「はっ」
「面を上げよ」
 貧相とはいえ町奉行の屋敷なのだから、表座敷くらいはあるし、今のような夜でも二十畳敷きの広間を広く明るく照らし出す程度の燭台と蝋燭だってある。
 その表座敷に案内されたのは、いかにも田舎然としたみすぼらしい格好の、しかし顔だけは小ざっぱりとして生気に満ち溢れており、身なりを整えれば旗本の子息を嘯いても受け入れられそうな少年だった。
 一応は羽織袴で体裁を取り繕ってはいるものの、屋敷内での作法には全く不慣れな様子を見る限り、どうも本来は百姓の小倅こせがれか何かであるらしい。
 それでも大仰に着飾って己の武辺を喧伝するような武芸者に比べればまだ好感が持てるのだが、これが町奉行の助っ人として世間の評判になりつつある「乱陀」を退治できる逸材なのかと尋ねられたら、返答に詰まりそうなほど頼りない。
 睦美屋、唐津屋と立て続けに下手人捕縛に失敗し、面目を失って落胆する荏場宗十郎刑部ではあるが、その反面、暴利を貪って私腹を肥やしつつ献金に明け暮れる商家の大店に降りかかった災難に対しては、内心では「ざまあみろ」と侍らしくもなく舌を出してやりたい気持ちがあった。
 しかし結局のところ能力不足だ、職務怠慢だと奉行や一門からお𠮟りを受けるのはこちらなのだから手放しで喜ぶわけにもいかず、複雑といえば複雑な心境である。
「城下を騒がす賊を捕らえ仕置するは、我ら町方の役目。それを承知で自ずから助力を申し出るは殊勝な心掛けではあるが、百戦錬磨の猛者どもの助力になるほどの才を、そちが備えておると申すのか?」
 協力の内容は正面切っての捕物の手伝いではなく、「乱陀」の住処を突き止めることであるならば納得できる。
 もし「乱陀」の住処が町から離れているのならば、土地勘がある人間の手助けは有難い限りだ。
 ところが跳丸は、再び頭を下げつつも意外なことを言った。
「恐れながら申し上げますれば、世間を騒がせている乱陀なる賊を捕らえるには、強力一辺倒の武術や多勢を頼みにした知略戦術では、ままならぬかと存じ上げます」
「では、いかなる術を用いるべきか?」
「忍術」
 下座に控えていた杉谷誠四郎が怪訝な顔をした。
「忍術とは?」
「忍びの者が使う潜入術、攪乱術、逃走術等の総称でござる」
「それは知っておる。そなた、忍術を使えるというのか?」
「幼少の頃より学び、日々研鑽を続けております」
「いずこで?」
「郷里にて。恐れながらお尋ね申し上げます。荏場様は尾野賀村という村をご存知ではございますまいか?」
「我が領地である」
 即答してから村の風景を思い出そうとする荏場であったが、どうにも思い出せない。確かに尾野賀村は荏場が藩より拝領した領地ではあるのだが、これまでに精々一度か二度検地に訪れた程度で、後の管理は代官に任せきりである。
「そういえば代官からの報告が滞っており不審に思っておったのだが」
「流行り病を患い長く床に伏しておりましたが、先日身罷みまかり申してございます」
「そうであったか」
 荏場は落胆した。いかに城下の政務に忙殺される日々を送っていたとはいえ、これは連絡と確認を怠った自分が悪いし、知っていれば薬湯ぐらいは届けていただろう。
「実を申せば、その尾野賀村は表向きこそ只の村落ではございますが、街道から大きく外れ人の往来も少ないという不便を逆手に取り、密かに有事に即応できる忍びを育成してお烈な修行を受けて参りました。ぜひともその成果を乱陀なる賊を捕らえる際の手助けとして披露できればと推参した次第でございます」
 悪気はないのだろうが、面会の為に急いで剃り上げたのだろう月代さかやきの青さが目立つ小倅言うと、どうにも講談染みて聞こえる。
「今一度問おう。忍術とは」
 顔を上げ居住まいを正した跳丸の双眸そうぼうに、その容貌にはあまり似つかわしくない、暗い輝きが生じた。
「お望みとあらば」
 途端に隙間風が吹き、荏場の左正面に立ててある燭台の火が消えた。
「失礼します」
 前に進み出た杉谷が燭台に立てられた蠟燭に火を灯すと、入れ替わるように今度は右側の蝋燭の火が消える。
 そちらにも火を灯した杉谷が元の位置に座り直そうとすると、背後の襖がカタカタと震えるように揺れ、遂には上下の溝からも外れて宙に浮き、そこから吹き込む突風が座敷の衝立を押し倒した。
「これで」
 背後の騒動を意にも介さず跳丸が呟くと、突風はさながら幻のようにぴたりと止んだ。
「お分かりいただけましたでしょうか」
「ただ風が吹いただけではないか」
 前屈したままの跳丸が、固く握りしめた両拳を下にして畳に押し付けた。
 途端に小柄なはずの跳丸の身体が風船のように膨張し、あっという間に座敷を埋め尽くさんとする巨大な肉塊へと変じて荏場を圧し潰さんと迫りくる。
「これでいかが」
「わ、わかった!」
 肉塊の中心から聞こえた声に荏場が狼狽えながら同意すると急に視界が晴れ、目の前を立ち塞いでいたはずの肉塊は元の小倅に戻っていた。
「幻術にございます」
 荏場の質問に先回りして答えた跳丸の両手は、畳の上から彼の股の上に戻っていた。
 杉谷は何が起こっていたのかわからないらしくぽかんとしているが、どうやら跳丸の言う通り、今の肉体膨張は荏場にしか見えない幻術の類だったらしい。
「そなたの忍術、とっくりと吟味いたした。しかしそなたの忍術で乱陀に太刀打ちできるものであろうか?」
「それはやってみなければわかりませぬが、向こうは手の内を幾たびか披露しているのに対し、こちらはまだ一度も見せておりませぬ。対策を練ることが出来る分、こちらの方が有利ではないかと思われます」
「対策とは、いかなるものか」
 跳丸は、また畳に額づいた。
「秘中の秘にしてみだりに申し上げること相成りませぬ。しかし鎖鎌については相性の良い兵器がございますので、こちらを用いる所存にございます」
「鎖鎌?」
「町人二名と同心杉谷様の負った傷について調べ上げました結論にございます。情報収集もまた忍びの術の一つでございますゆえ」
 子供にしか見えないが、やはり侮れない。ひとつ試してみようと荏場は思い立った。
「ならば町人留三、並びに武芸者苅安安兵衛の負った傷について、そなたの忌憚なき意見を伺おう」
「雷によるものではあるまいかと」
「たわけ。賊の正体は雷神だとでも申すつもりか」
「いえ。似たような忍術を目撃しております」
 荏場はあっと息を吞んだ。
「ただし、誰でも使えるというものではございませぬ。私などはいくら修行しても見に付かず、その術は生まれ持った体質という名の才能が必要だと使っていた当人に自慢されたことがございます」
 下手人か、あるいは下手人の関係者か。
「その術を使う者の名は?」
屠兵衛とへえと申しました」
「ました?」
「流行り病により忍術の師匠共々、昨年おっ死――身罷り申してございます」
「そうか」
 屠兵衛ではない、ということか。
「しばらく当屋敷に滞在いたせ。捕り物の折には、その腕前を存分に振るっていただこう」
「ありがたきお言葉に感謝もひと塩でございます。しかしその前に、ひとつ報酬について申し上げたき旨がございます」
 また前金の督促かと荏場はうんざりしたが、これも物わかりの良さを見せるための大事な演技だ。立ち上がって、頭を下げたままの跳丸に顔を近づけた。
「申してみよ」
「金銭は要りませぬ。実は我が郷里である尾野賀村は、先だっての飢饉と流行り病による打撃から未だに立ち直っておりませぬ。今年もまた不作となれば民百姓がまた飢え困窮し、老若男女の差なく今度こそ屍肉喰らいの餓鬼道へと堕ちることになりましょう。なにとぞ今年の年貢米において、ご領主様のご寛容を戴けぬものかと」
「貴様」
 荏場が顔を上げた時には、察しの良い杉谷の手筈で、外れた襖も含めた戸という戸は全て閉め切られていた。
「お上に逆らえと申すのか」
「そうではございませぬ。ただ、今年の年貢分を収めてしまったのでは村のもん……者が食べ生き延びる分がございませぬ」
 荏場刑部の顔は苦渋に歪んだ。これでは百姓の上訴と変わらない。
「それは出来ぬ相談だ。我々は我々で、集めた年貢米を頼りに暮らしているのだ。尾野賀村を見捨てたくはないが、我々が干上がってしまっては意味がない」
「そこを曲げて、お願い申し上げます」
「出来ぬ……出来ぬ相談ではあるが、別の手立てがある。食えさえすれば、郷里の米でなくともよかろう」
 顔を上げた跳丸が、初めて年相応の少年らしい、幼さの残る表情で口を開いた。
「私にはわかりませぬ」
「報酬は金で受け取り、米を買うのだ。買った米を村まで運び備蓄すれば良い」
「米を! おらたちが!」
 予想もしなかった案だからだろうか。仰天する小野賀跳丸の言葉遣いが、侍のそれから完全に百姓に戻っている。
「報酬は五百両、それで買った米ならば、村まるごとでも来年まで保つだろう。ただし乱陀を捕らえるのに失敗した場合は、可哀想だが尾野賀村の領民たちには飢えてもらうしかない。特別の事情をもって奉行よりお預かりしておる報奨金ゆえ、救民であろうと自領の為には使えんのでな。儂の私財など、この騒動で、ほぼ消し飛んでしまったわ」
 
 
 煌々と輝く月明かりの下を、日ごとに冷たくなりつつある夜風をはらみながら駆ける影。
 杉谷誠四郎と小野賀跳丸は、その影を追いながら駆けに駆け続けていた。
 睦美屋、唐津屋の順に狙われたのだから、次の標的候補として伊勢屋が挙げられたのは、町奉行所としては当然の帰結である。
 伊勢屋は海路による運送を重視する藩にとっては欠くべからざる廻船問屋であり、献金に明け暮れているところは他の二店と同じではあるが江戸、堺に繋がる海路と船のほとんどを押さえており、仮に一大事があろうものなら領内のすべての生活が危機に陥りかねない。
 とはいえ伊勢屋に脅迫場が届いたという知らせもないので、あくまでも狙われそうな大店の一つとして監視を続けていたという。
 その監視網の一つとして動いていた誠四郎たちが、伊勢屋へと向かう黒影を発見した。
 どうやら伊勢屋は、町奉行所は頼りにならぬと見切りをつけ、自分だけで手を打とうとしているらしい。
 駆けながら待てと叫ぼうとした誠四郎の口を、並走する跳丸の掌が塞いだ。草履でも下駄でもなく、足首をすっぽりと覆うような異様な革靴を履いているのに走る速度が落ちることはなく、むしろ誠四郎の走る速さに合わせているようでさえある。
「杉谷殿、私の風を操る術は走りながらでは使えませぬ。彼奴が足を止めるまで追い続けましょう」
「しかし、その靴では」
「心配ご無用。これなるは熊と猪と陀の皮を重ねて用い山蔓の蔦を編んで靴紐とし、檜皮と茸の粉末を底に敷き詰めた逸品。山野を縦横に駆け巡るに用いぬ日が無いものが、平地で賊を追う程度の足枷にはなり申さぬ」
 小野賀跳丸の言うことは正しいのだろう。
 実際、若く体力には自信があると自負していた誠四郎の息が上がりつつあるのに対し、跳丸は顔色ひとつ変えず息も乱れず平然と駆け続けている。
 それまで疲れた様子も見せず先を駆け続けていた影が、ようやく伊勢屋の表口を正面にして足を止めた。合わせるように足を止めた誠四郎は、その影が伊勢屋の周囲をぐるりと駆け巡りながら侵入しやすそうな場所を探していたらしいことに、ようやく気が付いた。
 どうやって侵入するのか興味が無いわけではないのだが、それよりも城下の秩序を守る方が大事である。
「待て!」
 呼び止めこそしたものの、気配に気づいていたらしい相手が振り返る方が早かったように見える。全身を黒装束で包み隠し、辛うじて見える目の周辺にも光沢のある覆いが備わっていた。
「この遅い時分にそのような格好で城下をうろつくとは怪しい奴。番所にて取り調べる故、大人しく縛につけ!」
 口上を述べながら、怪しいのはこちらも同じだと誠四郎は心の中で付け加えた。捕物姿の自分だけならまだしも、毛皮の背嚢はいのうを背負い袴に革靴、青竹色の小袖をたすき掛けという跳丸のいで立ちもまた異様としか表現のしようがない。
 立ち尽くし微動だにしない黒装束の衣の隙間から、もはや杉谷誠四郎にとっては見慣れてしまった墨の如き黒煙が噴き出し、あっという間に周囲を月光の届かない暗黒に変貌させた。
「やはり乱陀か! 小野賀殿!」
「よしきた!」
 革靴の底を地面に擦りつけるような音が聞こえたかと思うと、それまでそよ風すら吹かなかった表通りに突如として獰猛な野獣の如き一迅の突風が通り過ぎ、「乱陀」の作り出した黒煙を残らず彼方へと連れ去ってしまった。
 黒煙が消え去った往来で、跳丸や苅安安兵衛の推察通り鎖鎌を振り回していた黒装束の「乱陀」は、頭上でびゅうびゅうと唸りを上げて旋回する鎖分銅を誠四郎めがけて勢いよく投げつけてきた。
「なんのっ!」
 暗闇からの不意討ちだったからこそ成す術もなく命中したのであって、武器の特性も双方の間合いも把握している今の状況ならば、躱すのは造作もない。
 引き戻される鎖分銅と入れ替わるように飛び込んできた「乱陀」の握る鎌の刃と、抜き打ちで横に払った愛刀の刃がぶつかり火花が散った。
 雄叫びを上げ強く前へと踏み込むと、相手の体が浮き後方へと跳ね飛んだ。
 いや、「乱陀」が自分から飛び退いたのだろう。
 間合いを開けて再び鎖分銅を振り回し始めた「乱陀」に、跳丸が背嚢に入れていたものを投げつける。
 それぞれの先端に錨のような鈎が付いた三股の鎖は、「乱陀」本体ではなく糸車の如く旋回する鎖分銅に命中し、三つの鈎すべてが鎖分銅に絡みついてその動きを完全に封じた。
 両手の鎖鎌を投げ捨てた「乱陀」の側面に回り込みながら両手を振り上げ、またしても背嚢から武器を取り出そうとする跳丸。
「えやっ!」
 背嚢からつかみ出された二十本以上はあろうかという大量の棒手裏剣が跳丸の両手から放たれ、「乱陀」めがけて驟雨の如く降り注ぐ。
 しかし音を立てて伊勢屋の戸口に縫い付けられたのは黒装束の上着だけで、本体は間一髪のところで伊勢屋ののきに飛び移っていた。
 月下に照らし出された裸形の「乱陀」を見て、誠四郎はあっと息を呑んだ。
 齢は自分と同じくらいだろう。武辺者に劣らぬ、若い男性のみが持ち得るであろう隆々とした筋肉美もさることながら、その左右の指先から肘にかけて、まるで墨汁の樽にでも突っ込んだかのような漆黒の塊と化していた。
 空になったらしい背嚢を外した跳丸が、今度は懐から取り出した棒手裏剣を投げつけた。
 斜めに連なり宙を走る三本の棒手裏剣は、しかし屋根の上の「乱陀」にたやすく躱され、続けざまに放った一本は黒炭の如き左手であっさりつかみ取られ、そのまま悠々とした仕草で投げ捨てられる。
 おそらく、跳丸は背嚢に詰め込んでいた大量の手裏剣を一斉に投げつけて勝負を決めるつもりだったのだろう。それが際どいところでかわされ、手元に残った手裏剣を投げながら、次の手を考えている様子ではある。
 跳丸が棒手裏剣の類稀なる使い手であることは事実だが、「乱陀」の身のこなしは彼の腕前を上回っているようにしか見えない。その差を埋めるには奇襲しか無いのだろうが、はたして良策を思いつくのと手持ちの手裏剣が尽きるのと、どちらが先か。
 誠四郎は誠四郎なりに何とかしたいと思ってはいるのだが、相手が刀の届かない軒に仁王立ちしていたのでは手が出せないし、跳丸よりも劣る腕前で小柄を投げたところで当たるとは到底思えない。
 ただし、現状の全てが「乱陀」に有利であるとは限らない。これまで得意としてきた黒煙は跳丸の起こす風により吹き飛ばされるだろうし、彼に背を向けて逃げ出したところで、背後から放たれる手裏剣をかわせるだけの自信があるのかどうか――あるとすれば、とっくに逃げ出しているだろう。
 不意に、戸板に縫い付けられた「乱陀」の上着が動いた。
 いや、上着ではなく戸板そのものが動き、伊勢屋の店内から大小を差した着流し姿の侍がのっそりと這い出してきた。
 恐らく、脅迫状を受け取った伊勢屋が雇った用心棒だろう。
 用心棒はブツブツと何やら愚痴らしいものを呟きながら刀を抜き、異様な格好で手裏剣を構えたままの跳丸に近づこうとする。
 最初に反応したのは「乱陀」だった。
 軒から飛び降りざまに用心棒の背後に回ると、その首筋を両手でぐいとつかんだ。
 刹那――用心棒は名状しがたい苦悶の声を上げ、「乱陀」の親指が触れている首筋の辺りから焦げ臭い異臭を発しながら失神した。
 これが恐ろしき稲妻の正体!
 漆黒の怪腕は相手を昏倒させ死に至らしめる、強力無比の雷撃を帯びているのだ!
 痙攣する用心棒の首筋をつかんだまま、その身体を軽々と持ち上げた「乱陀」は、まるで楯を翳すかのように跳丸の正面に立ち構えた。どうやら用心棒の身体で手裏剣を受け止めることで、跳丸の手数を封じるつもりらしい。
 棒手裏剣を構えながらも、打ち込んだ瞬間を狙われることに警戒し手が出せない跳丸。
 傷こそ負ってはいないものの、跳丸が動かなければ次の手が打てない「乱陀」。
 お互い相手を正面に見据え睨み合いつつ動けず、張り詰めた緊張感だけが月夜に照らされた決闘の場を支配する。
 ふと、誠四郎は意外なことに気が付いた。
 跳丸と対峙している「乱陀」の意識から、自分は外れているのではないか。
 確信を持つより早く、身体の方が自然に動いた。
 刀を中段に構えつつ、摺り足で「乱陀」の背後に回る。
「おおっ!」
 気づかれまいと懸命に自分を抑えていたつもりではあったが、最後の最後で声が出た。
 気合と共に突き出した切っ先が「乱陀」の脾腹ひばらに突き刺さり、肉を貫く筆舌に尽くし難い感触が、柄を握る両手を介して誠四郎の脳髄に到達した。


 乾きひび割れた黄土に散乱する白骨は、どれも一片の肉も髄も残らず枯れ枝のような無残な姿を晒し、ただ風に吹かれてからからと軽い音を立てて転がるばかりであった。
「すまなかった!」
 飢饉と疫病により死者の数が生者を上回り、今や村中のどの田畑よりも規模が大きくなってしまった尾野賀村の村落墓地には、新たに作られた土饅頭にすがりつくようにして慟哭する小野賀跳丸の姿があった。
 土饅頭の下には、杉谷誠四郎の一撃により致命傷を負い、呆気なく事切れた「乱陀」の両腕が埋められている。
 城下を騒がせた盗賊「乱陀」の正体は疫病で死んだはずの兄弟子、屠兵衛だった。
 跳丸よりも優れた技量を持ち合わせていながら疫病により床から起き上がれない身体になり、師匠の死から間を置かず息を引き取った筈の兄弟子が、いかなる経緯で賊にまで身を堕としたのか――当の屠兵衛自身が冷たい骸と変わり果てた今となっては確かめようがない。
 しかし師匠を含めた周囲の人間が疫病により次々と倒れ、埋葬に躍起になっていた跳丸が、屠兵衛の死に顔を見る時間も惜しみ彼の埋葬を知人に任せていたのは事実であり、故意か偶然か埋葬された屠兵衛が土中で息を吹き返した可能性も無くはない。
 伊勢屋前で対決したあの時。
 月明かりの下で、月代を剃った跳丸を見た屠兵衛も驚いただろうが、野性味が増した屠兵衛の素顔と間違えようのない怪腕を目の当たりにした跳丸の驚愕は、比較にならない程のものであった。
 病死したはずの兄弟子が、生きて己の目の前に立っている!
 今にして思えば、本当に疫病に罹ったのかどうかさえも疑わしく思えてしまうのだが、その時には考えている余裕すら無かった。
 事件後に杉谷誠四郎と語り合った際に、棒手裏剣が尽きる前に決着がついて良かったという、背後からの不意討ちに対する自己弁護とも取れる労いの言葉を掛けられたが、実は跳丸の懐や小袖の中には、まだまだ大量の棒手裏剣が隠されていたのだ。
 それを一度に使わず徐々に投げる本数を減らしていたのは、ひとえに小野賀跳丸自身の懊悩おうのうによるものだった。
 生きていた屠兵衛をこのまま逃してやりたい。捕まれば磔獄門は必定、今度こそ逃れようのない死が待ち受けている。
 しかし「乱陀」の捕縛に失敗すれば褒賞金は貰えず米も買えず、食が尽きたまま尾野賀村はまた餓鬼道の地獄絵図を垣間見る破目になるかもしれない。
 跳丸にとって最善の方法は、乞食などの身代わりを用意して「乱陀」として捕らえ、有無を言わせず処刑することで屠兵衛の生き延びさせるとともに報奨金を受け取ることだが、死者との再会が唐突過ぎて身代わりを探す時間すら存在しない。
 何より、屠兵衛の腹の内が全く読めなかった。
 彼が襲い掛かったのは杉谷誠四郎と伊勢屋の用心棒だけであり、跳丸に対して傷を負わせるどころか反撃らしい反撃も行っていない。跳丸が一方的に仕掛けただけである。
 そうかといって「乱陀」となった屠兵衛が跳丸の身を案じてくれたという証拠はどこにも無い。単に相手がかつての自分の弟弟子と知り、容易く倒せる相手として見くびっていただけなのかもしれない。
 事実、跳丸が放った手裏剣は一度も屠兵衛の身体を傷つけることはなく、正体を知り動揺しながらも投げた時には簡単につかみ取られてしまったではないか。
 あのまま間合いを詰められていたら、殺されていたのは自分の方かもしれない。
 屠兵衛が使った忍法「雷神」は、両腕から強力な電撃を発し触れた相手を感電死させる、特異体質の彼ならではの秘術である。
 その威力は屠兵衛自身でも完全には制御できず、下っ引の留三のように相手が死なずに終わることもあった。また「雷神」を使うには体内に電気を溜める必要があり、使用回数はせいぜい一日に一度か二度までが限界である。
 それだけに、伊勢屋の用心棒相手に屠兵衛が忍法「雷神」を使った時は「しめた」と喜んだものだが、飛び掛かる前に用心棒の身体を楯に使われ、困惑している間に意外な形で決着がついた。
 杉谷や荏場に、「乱陀」の正体が屠兵衛であったことを告げるつもりは毛頭無かった。そんなことをすれば、尾野賀村の村人が仕組んだ狂言ではないかと疑われ、事によっては瀕死の尾野賀村に討伐隊が派遣されかねない。
 それでも遺体は郷里の土に還してやりたかった。
 そこで、
「かくも凄惨な忍術はそうそうお目に掛かれない。屠兵衛の死体では疫病が感染する恐れがあり叶わなかったが、ぜひこの死体を引き取り解剖して原理を探り当て、後世の忍術修行に役立たせたい」
と尤もらしい屁理屈をこねてみたものの、
「死体であろうと捕らえた賊の首を城下に晒し、臣下領民を安堵させるのが治安を守る者の務めである」
とすげなく断られ、ならば両腕だけでも懇願してようやく認められ、持ちかえるのを許されたのだ。
 屠兵衛を殺害した杉谷を責めるつもりは、微塵も無かった。
 事の起こりは屠兵衛の愉快犯的な行動と私欲に走った逸脱からであり、町廻り同心杉谷誠四郎は己の職務を忠実に守りながら為すべきことを為しただけに過ぎない。
 荏場刑部にしても同様だし、そもそも町人や町奉行所の助っ人を殺害したのは屠兵衛自身である。
 それでも。
 泣き止まぬ小野賀跳丸の指先は土饅頭に深く食い込み埋もれた。
 それでも何か良い手立てがあったはずではないか。
 確かに褒賞金として受け取った五百両で買い込んだ米により、困窮した尾野賀村は救われるだろう。
 しかしそれよりも、飢饉になる前――凶作になった時点で何らかの手を打っていれば、疫病が流行った時に医者を呼ぶ金が村に有りさえすれば、こうも傷つき死に悲しむ人は減っていたのではないだろうか?
 灰色の空の下、小野賀跳丸の声無き訴えを聞き入れるものは誰もいない。
 宝暦の大飢饉をも上回る甚大な被害を記録した天明の大飢饉が発生する、ほんの数年前の話である。

                                    (了)

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