ヤモリ男の冒険 ①
日曜日。
多くの企業と公共機関にとっては休日にあたり、従って職を求め履歴書を送り、書類選考の返答を待っている者にとっても休息日にあたる。
本日は来ないであろう返答の電話を待っていたところで仕方が無いと一時中断し、買い出しの準備を始めた拓植守も、求職者の一人である。
平成という新たな時代に突入してから、業務用のテレビ電話が開発されたという噂がまことしやかに流れているが、それが世間一般に浸透するのは十年先、二十年先になるであろうと拓植は推測していた。
どのみち平日は電話の前から離れることが出来ない。
求人広告を見つけ次第連絡を取ることが出来るハローワークこと職業安定所の存在は有難いのであるが、履歴書持ち込みで即面接が行われる会社ならともかく、書類郵送の上で面接日の連絡が入る会社の場合は、どうしても電話待ちの状態から動けなくなってしまう。
その度に、画面に話し相手の顔を映し出す技術よりも、子機のように本体から離れていても――外出しながらでも電話が出来る時代が来ればよい、と偶に思うことがある。
職を失ってからというもの、現時点では収入の無い拓植にとって、バーゲンセールやサービスタイムを見逃すことは死活問題である。職が見つからないまま他に打つ手がなければ、貯金が尽きる前に、最後の手段として実家へ戻るという案を実行に移すことも出来なくはないのだが、田舎で兄夫婦との息苦しい生活を送りたくはない。
昭和時代の中期に較べれば大分落ち着いたとはいえ、苛烈な状況に変わりなかった受験戦争をどうにかくぐり抜け高校から大学へと進学したものの、アルバイトで学費を稼ぎながらの学生生活を送り続けているうちにバブルが崩壊。
就職した商社も大手銀行倒産のあおりを受けて倒産の憂き目を見た。
大学時代の拓植は文学部で、国文学を専門に学んでいた。
今となっては経済学部や法学部に進んでいれば、あっさり倒産するような会社に就職することは無かったかもしれないと、しばしば後悔する時もあるが、しかし例え経営や法律のエキスパートとして社会に出たところでバブルの崩壊をくい止めることが出来たわけでもなく、むしろ専門家として持ち上げられたまま重要かつ責任のあるポストを押し付けられて苦しんでいたかもしれないと考え直す。
入社して三年と経たないうちに倒産した会社では退職金など出る筈もなく、失業保険も雀の涙程度でしかない。拓植には、他の会社に雇われるようなアテも無ければ、就職を斡旋してくれるようなツテも無い。
本来ならばそのまま路頭に迷うか、悪徳金融から借金をした挙句に自己破産に陥っていたのだろうが、趣味のギャンブルが辛うじて窮地を救った。
会社が倒産するほんの少し前に競馬で万馬券を当て、四百万円近くの臨時収入を得ていたのである。直後に勤め先が倒産すると知っていたならば、とても賭けてはいなかったであろう掛け金の金額を顧みるに、つくづく人生とは万事塞翁が馬なのだな、と思ってしまう。
むしろそう思わなければ――不幸のどん底の先には光明が現れる筈だと思い込んでいなければ、理不尽な失業という逆境には到底耐えられそうにない。
世紀末も目前に迫り、拓植の友人らも冗談交じりで終末論を愉しみながら、しかし頭の片隅でひょっとしたらと密かに身を震わせているのだろうが、拓植自身にはひと足先に社会人としての終末が訪れそうな気配さえ窺える。
仕事、即ち食い扶持が無ければ一年と持たずに干上がるであろうことに変わりは無く、一刻も早く就職しなければと焦りはするものの、これといった進展も無いまま時間だけが徒に流れて行く。
懐に余裕はあるものの、必要最低限の生活必需品のみ買い揃えた拓植は、スーパーに来た時とは別ルートで遠回りし、馴染みの競馬場を横切る。
そのまま通り過ぎようとしながらも、足を止め振り返る。
枯葉の如く乱雑に、しかし枯葉のように分解され養分として土へと還るにはまだまだ時間が掛かりそうな外れ馬券が散乱している、競馬場の入り口。
これ迄の負け分を累積すれば幾らになるだろうか?
ふと疑問が浮かんだものの、途端に拓植の背筋を冷たいものが走り、精算の誘惑を早々に投げ捨てた。
会社員であった頃、いや学生時代に遡ってみても、ボーナスの半分や学費分を差し引いたバイト代をギャンブルに費やしては痛い目を見た記憶ばかりが次々と甦る。
ここまで経済的に追い込まれていなければ、その痛々しい記憶の数々も、勝利した時の記憶の美酒に洗い流されていたのであろうが、今となってはそうもいかない。
同時に、サラリーマン時代のように金を稼ぐことが出来る身分であれば泣き笑いで済んでいたことも、今となっては笑い事では済まされなくなってしまったのだな、という奇妙な寂寥感が拓植の胸を過る。
時折、拓植はこの競馬場の前を通る。
馬券を買うつもりは更々無いし、無駄金は使いたくないが、ギャンブルを愉しみたいし、愉しめた頃に戻りたい。馬券を買い余暇をレースに費やしたいという気持ちは胸中に燻り続けており、それを実現させるためにも良い仕事に就かなければならない。
競馬場参りは、その本懐を果たさんが為の百度参りのようなものである。
今日もレース場から聞こえてくる大歓声を耳にしながら、しかしそれでも競馬場に入ろうとはせず立ち去ろうとした拓植の背中に、聞き覚えのあるしゃがれ声が届く。
「おう、坊主じゃねぇか」
振り向くべきではない。
そう思いながらも、失職してからはすっかり人付き合いが薄くなってしまった拓植である。寂しさから、つい振り向いてしまった。
「やっぱり坊主だ、久しぶりだなぁ」
本人が言うほど久しいわけでもないが、それでも目の前の老人は懐かしそうに目を細め、口元をニンマリと曲げた。
齢は七十を超えたばかりと、かつて自分で語っていた老人の名は鶴松文造。
元教師で、生徒たちに古典や漢文を教えながら真面目に定年まで勤めあげたと語っているのだが、それが事実であれば、定年退職から僅か十年の間に覚えたギャンブルで、すっかり身を持ち崩したことになる。
本人はその諌言に対して、定年間近で家内が病死し、子供たちも皆独り立ちしたことで、ストッパーがいなくなってしまったのだと嘯いている。
「どうした。馬、やんねぇのかい」
鶴松本人の頭は地肌が見える程度に禿げあがっており、いつもと同じ服装に、いつもと同じ無精髭。それどころか前に見かけた時よりさらにみすぼらしくなっていたが、拓植の姿を視界に捉えるなり笑いながら近寄って来るところは以前のままである。
もっとも、笑顔の理由は集り相手が見つかったからに他ならないのだが。
鶴松は競馬場の常連で、拓植がこの街に引っ越した頃からの知り合いである。当時はまだギャンブルに疎かった拓植に競馬場のマナーや馬券の買い方、馬の見方や彼のセオリーを教えてくれた。
最近当てた万馬券も鶴松の奨めがあったからこそであるが、それまでにも何度か「ツキのご相伴」と称しては食事や酒を奢ったり金を貸したりしているので、恩やら貸し借りやらといった関係は存在しない。所謂コーチ詐欺と言えなくもないが、鶴松は直接コーチ料を請求しているわけではないので、犯罪には当て嵌まらないのかもしれない。
過去に拓植が勝った万馬券を、鶴松は買っていなかった。
「今、金欠なんだよ」
「それでも一勝負ぐらいはできるだろう。良い情報があるんだよ。また万馬券が狙える美味しいレースだぜ」
「あんたが賭ければいいだろう」
「賭けるだけの金が無ぇんだよ。お前が当てて儲けたら、少しで良いから儂に回してくれ。それか儂に馬券代を貸してくれ。当たったらその場で倍にして返してやるからさ」
当てたら、当たったらと連呼している時点で胡散臭い。
「いや、本当に無いんだよ、鶴松」
鶴松は、祖父と孫ほどの年齢差がある拓植にも、自分を呼び捨てにさせている。
「今は俺の方が金を借りたいくらいなんだ。なんせ無職になっちまったんだからな」
ぽかんを口を開けた鶴松は、そのまま蛸のように唇を突き出した。
「馘になったのか」
「会社が倒産したんだよ、俺のせいじゃない」
「会社員だろう。会社を支えきれずに潰したも同然なんだから、責任が無いっていうのは間違っているぞ」
確かに、バブルの崩壊により訪れた不況の波に耐えられるだけの力を会社が持てなかったのは、拓植ら社員の努力不足とは無関係だったとは言い切れないだろう。
「そりゃあ公務員様は、会社が潰れる心配なんて無用だろうから、何とでも言えるさ」
言い返してから心の中で、本当にあんたが教師だったのならなと付け加える拓植。どのような学校で教えていたのか、どういう教師だと思われていたのか。それを鶴松が語ったことは一度も無い。
「ああそうか。借りるんじゃなくて、今まで貸していた分を返してもらえば良いのか……鶴松、あんたに貸した分、少なく見積もっても利子抜きで十万円は下らないはずだよな。金を借りたかったら、まずはそっちを返してからというのが道理だろう?」
「生憎だったな、坊主。借用証書の無い借金は返す必要が無いんだよ」
「それじゃあ、これからはちゃんと用意しよう。とにかく今は貸せるような金なんて一文も無いし、これからは貸したとしても利子をつけるからな。消費税と同じで月に三パーセントだ、計算し易いだろう?」
「つまり、これからは借りたら返せと言ってくるわけか?」
「あんたの方から貸してくれと言い出さなければ、俺だって何も言わないよ。借りた金には利子が付くのが当然だし、そうしなければ返済を迫られても無視されるだけだろうからな。違うかい?」
「確かに、坊主の言う通りだ」
意外なくらいにあっさり納得した鶴松は、節くれ立った指で上着のジッパーを下ろした。
「借りる話じゃなくて売る話なら、どうだ?」
日焼けですっかり色落ちした焦げ茶色の上着と、薄汚れ皺だらけのワイシャツの間に挟まれた、和の折本。
「実家の蔵に眠っていたやつでな、面白いことが書かれている」
へぇ、と拓植は少しだけ興味を持った。
大学で国文学を研究していた拓植が鶴松と馬が合うのも、彼の家系が有名な国文学者を輩出しており、また彼自身が国語の教師であったという不明瞭な履歴を証明せんと、古典の名著や実家で読んだという古文書について語り合うことが多かったからである。
「面白いことって、なんだ?」
「幾ら出す?」
「何が書かれているのか教えてくれないと、金は出せないよ。あんたの馬の予想だって、当たらなければタダだろう?」
そうだな、と少しだけ考え込む振りをしてから、鶴松は顔を上げた。
「ヤモリって、見たことあるか?」
「勿論」
「そうか。儂が五十過ぎてから受け持った生徒たちの中には、名前は知っているが実物は見たことが無いって子が結構いたぞ」
ヤモリ。漢字での表記は守宮ないし家守。
日本に生息していることは知られていても、その知名度は同じ爬虫類である蛇やトカゲ、亀や鰐に比べて若干劣っている、体長十センチから十五センチ程度の小動物である。
外見はトカゲに似ているが全体的に扁平で、頭部は大きめ。
最大の特徴は、壁やガラスに貼り付くことが出来る太い指先。
食性は主に昆虫。人間にとって有害な害虫も食べるので、有益と言える動物でもあるが、見た目で嫌う人もいる。
一字違いで外見も似ている両生類、イモリと間違えられることがしばしばあるが、イモリはヤモリほど扁平ではないし、水辺から離れると乾き死にする。
「あんたと同じで、俺の実家も田舎に在るんだ。夜になると家の周りで良く見つけたもんだ。俺の兄貴なんか、ヤモリを捕まえて飼っていたぐらいだ」
子供の頃は腕白だった兄は、田圃や裏山で蛇や蛙、虫を捕まえては子供部屋の飼育ケースに放り込んで飼っていた。
兄に捕まった生き物はケースの中で大人しくしているものもあれば盛んに動き回るものもあり、一度など一メートル近いジムグリが飼育ケースの蓋を外して脱走し、そのまま子供部屋の何処かに隠れているのではないかと気に掛けるあまり、幼い頃の拓植は眠れぬ日々を過ごした嫌な思い出さえある。
ヤモリもその例に漏れず、まだ元気だった頃の父に連れられ夜の散歩に出かけた兄の餌食となり、ガーゼで蓋をしたジャムの空き瓶に放り込まれた。
兄が父の家業を継ぎ、田舎でいち農家として暮らしているのも、思い出の詰まった我が家を離れるに忍びないという気持ちが強かったからなのかもしれない。
とはいえ、それ以上に大きかったのが、幼馴じみの頃から付き合い続けていた彼女と結婚したことなのだろうが。
「で、そのヤモリがどうかしたか。黒焼きにでもして売るのか」
「そりゃイモリの方だ」
「残念だったな、中国ではヤモリの黒焼きなんだよ。そんなことはどうでもいいんだ。その本は、ヤモリが主役の黄表紙か何かかい?」
黄表紙とは江戸時代中期に流行した読み物で、その内容は娯楽性や風刺性の強い物語が大半である。
「物語でもないな。指南書だ」
「なんだ、まさか守宮流剣術なんて言い出すつもりじゃなかろうな」
冗談で言ってはみたものの、世の中には聖徳太子流なる武術も実在すると言われているのだから、頭ごなしに否定はできない。
「剣術というより、忍術だな。ヤモリに変身できる術が記されている」
「馬鹿なことを」
さすがにこれは、頭ごなしに否定できる。
「いやいや。正確には体の一部をヤモリに変えて、そこに自分の魂――精神やら意識やらを丸ごと移す術だ。著者は忍者で、この術で敵の城に忍び込んでいたらしい」
「鶴松、いつの間に古典文学からSFに宗旨替えしたんだ」
「本当に書かれているんだって」
要約すると、SFというよりは江戸時代のオカルト本なのだろう。
「儂も、ちょっとだけ試してみた」
とんでもないことを言い出した鶴松が、目を細めた。
その動きにつられて拓植も目を細める。
「儂みたいな老人には面白味の無い、つまらない世界だったが、坊主みたいに若くて刺激が欲しい奴なら、それなりに愉しめるんじゃないかね」
「呑み過ぎだ、鶴松。辛いだろうが、しばらく酒は控えておけ。症状が悪化するぞ」
「幻覚じゃないわい」
「わかった、酒じゃなくて悪い薬か。それこそ今すぐ止めるべきだ。ギャンブル中毒ならまだしも薬物中毒にまでなっちまったんじゃ、教え子たちが泣くぜ?」
「薬でもないわい。いや、薬は正しいのか。なんせ薬を使って変化するんだからな」
説明しながら上着のポケットに手を突っ込み弄る鶴松。
しばし間を置いてポケットから取り出したのは、ミカンの種程の小さな丸薬が入ったポリエチレン袋と、鬱金色の顆粒が入ったフィルムケース。
「儂が精製した分の余りだ。作り方は、この指南書に書かれているが、実際に作るのは手間が掛かるぞ。今ならこの薬もおまけで付けてやろう。それでどうだ?」
「馬鹿馬鹿しい!」
この老人の話には、嘘の含まれていない誇張が多い。
特に多かったのが競馬で勝った時の話で、実際に彼の自慢通りに稼いでいたら、今頃は間違いなく億万長者である。どうせ今回も薬を服用してから酒を呑み、その状態で指南書とやらに目を通したせいで、幻覚でも見たのだろう。
こういう戯言は一蹴するに限る。
「全く馬鹿馬鹿しい夢物語だ……それで鶴松、その夢物語に幾ら出せと言うつもりだ?」
ギャンブルは我慢しているが、酒は無職の身でも止められない。
その酒を数日呑まなければ賄えるだけの金額だった。
経本などに用いられる蛇腹状の折本という帖装は、鶴松の説明にマッチしていた。真実は別として、忍者が書き記した秘術の指南書が丁寧な和綴じでは、却って胡散臭さが増すというものである。
拓植守は、バブル景気の真っ盛りに建てられた古臭いアパートに住んでいる。
大学生時代から家賃の安さを理由に住み続けているようなものであり、社会人になり経済的に余裕が出来たことでより住み良い場所に引っ越そうと画策していたのだが、不動産屋巡りを続けているうちに会社が倒産、引っ越しどころではなくなってしまった。
今では、失業したのが引っ越し前だったことを不幸中の幸いと思うことにしている。
その古臭いアパートの狭い自室に戻った拓植は、買い出し品の整理を済ませてから、蛇腹の指南書を開いて読み始める。
表題はすっかり擦れてしまい、読めたものではない。或いは贋作であると見破られないよう、わざと読めないようにしているのかもしれないが。
どうせ大道芸しか取り柄の無い香具師が、インチキ商品を売り捌くために書き上げた体裁だけの紛い物で、鶴松は酒を呑みながら目を通しているうちに酔いが回って幻覚を見たのか、そうでなければ自分にこの冊子を売りつけたいがために用意した大法螺であろう。
鶴松がそう信じ込んでしまう程度には練られている空想物語と、半ば小馬鹿にしながら読み始めた拓植であったが、頁を捲るうちにその内容の微細に魅了され、ひと通り読み終えた時には、その内容の真偽はさて置くとして、一度は試してみる必要があるのではないかと思い込むまでになっていた。
子供の頃から様々な物語を読んできたつもりであるが、荒唐無稽な内容にここまで真実味を持たせる筆力、文章力を有する作品は、指折り数える程度しか存在しない。
ヤモリに変身するために使用する妙薬、丸薬と顆粒の二種類があり、まずは丸薬を呑み込み、すぐに顆粒を火にくべて室内を香で満たしてから導引を行う、と記されている。
丸薬の材料は蓮根、紫蘇、烏賊の軟骨、鶏冠、鮑の貝殻その他を陰干ししたうえで粉にして蝦蟇の油と混ぜ合わせたもの。顆粒の材料は花椒、白朮、雲母、石灰、鳥の砂肝、蛇の抜け殻などを混ぜ合わせてから磨り潰したもので、これを使用者の毛髪と一緒にして、火にくべる。
鶴松がこの指南書を自分に譲ったのは、競馬の種銭が欲しいという本音が殆どだろうが、髪を抜くという行為に抵抗があったからではなかろうかと勘繰る拓植であったが、同時に毛髪以外の完成品まで買い取っていたことを僥倖に感じた。材料の中には、輝石鉱石や蜜蝋といった入手が難しそうな品目もあり、今回のようにいざ試そうと思ったところで全て掻き集めるのは不可能だっただろう。
大安売りのカップラーメンで侘しい夕食を済ませてから、早速拓植は指南書に記されている通りの変化法を試してみる。
引き抜いた毛髪を灰皿に落とし、さらに顆粒をひと摘み。
水無しで丸薬を呑み込んでから、火の点いたマッチ棒を顆粒の香材の上に乗せる。
乾燥しているからか、易々と燃え移った火により立ち昇る一条の白煙は、例えるなら朝露を含んだ森林のような香りがした。
髪の毛が混ざっているわりには良い香りであることを不思議に思いながら、拓植は指南書に記された通りの導引を始めた。
北を向きながら口で七回、小刻みに息を吸い込み、鼻で一回、ゆっくりと吐く。
方角と吸引の回数は北斗七星に殉じており、一度に吐くのは魂の転移を現していると、尤もらしいことが書かれていたな、と思い返しながら導引を繰り返しているうちに視界がぼやけ、次第に意識が薄れていく。
辺りが闇に包まれ、拓植守は自分が何者であるかも認識し辛くなってきた。
目覚めたはずなのに、辺りは暗闇のままである。
照明は付けたままのはずだし、蛍光灯も換えたばかりと思いながら立ち上がろうとした拓植は、途端に天井に頭をぶつけた。
痛みよりも疑問の方が先に脳内を駆け巡る。
天井がこんなに低いはずが無い。
ここは何処だ。空気は温かいが床には液体が溜まっている。
手足を動かし這うように前進すると、硬い壁にぶつかった。
横一文字に入った亀裂に身体を滑り込ませて抜け出す。
外はまだ暗いままで、先に待ち受けていたのはブヨブヨとしたぬめりのあるクッションだった。
これにも壁と同じような亀裂が入っていたが、抜け出すまでの間に拓植の身体を推し潰さんばかりに上下から圧力が掛けられ、壁の脱出よりも苦戦する。
クッションを押し分けようやく潜り抜けた先に存在した、輝きに包まれた世界。
見慣れているはずの、しかし普段とは異なる異様な光景が映し出されていた。
数十倍、いや数万倍にまで拡大された自分の部屋。
まるで自分が豆粒になったようだと素直な感想を吐露してから、実際に小さくなったのだと理解した拓植は、直後に自分が何ものに変化しているのかも把握する。
人間、拓植守の顎先に貼り付いた、十センチ程度のヤモリ。
這い出てきたのは口の中。
亀裂のある壁は歯、クッションは唇。
本体が俯き加減のまま意識を失っているせいで、並みの生き物ならば顎先に止まることが出来ずに転げ落ちていたであろうが、幸いにもヤモリの手足にある吸盤が皮膚に貼り付き滑落を妨げていた。
次に拓植を襲ったのは、このまま人の姿に戻れずヤモリとして一生を過ごさなければならないのかという恐怖であった。
途端にヤモリそのものの動きで唇を押しのけ、歯の隙間を潜り、目覚めの場所である暗黒に己が身を横たえる。
指南書に書かれていたことが真実であるならば、これで元の姿に戻れるはずである。
とにかく元の姿に戻ってくれと繰り返し念じながら、拓植はする必要がないはずの導引を何度も繰り返した。
目覚めてすぐに人間の身体であることを求め、その視界と移る光景から己の身体が人の姿に戻っていることを認識し安堵した拓植は、改めて元の大きさに戻った部屋の壁かけ時計を見ると、変化術を試してから一時間も経ってはいなかった。
灰皿の香材は既に燃え尽きている。
拓植は改めて指南書を読み直す。
「ヤモリの姿から元の人間の姿に戻りたければ、変身した時に自身がいた場所に戻り、じっと身を縮こませる。そうすれば、身体から離れてヤモリに変化した部分が肉体に癒着し、魂は当事者の肉体に戻る」
現代語訳すればこう書かれており、しかもそれは間違いではなかった。
指南書には、丸薬と香と導引により身体の一部が陰の気を受けヤモリに変ずる、とだけ書かれており、具体的には何処の部分が変ずるとまでは書かれていなかった。
まさか舌が変化するとは思わなかったし、鶴松も何処がヤモリに変わったのかまでは語らなかった。そこは使用者による差異があるのだろうか。
立ち上がった拓植は洗面台の前に立ち、鏡に向かってべぇと舌を出す。
よほどのことでもない限り自分のものを視認しない部位であるだけに、何かしらの変化が起こったようには見えない。
そもそも、あれは現実だったのだろうか。
鶴松の売り口上と、技巧を凝らした文面により意識下に刷り込まれたイメージが無意識化に作用し、夢となって表れただけではないのか。
本物らしく見えた変身譚に疑念を抱いた拓植の脳裏に浮かんだのは、古代中国の思想家である荘子こと荘周のエピソードだった。
荘周は夢の中で蝶に変化して、大空を自由に飛び回り、夢から覚めて
「荘周が蝶になった夢を見ていたのか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのか」
と呟いたという。
しかし、拓植はヤモリではない。拓植守という人間である。
人間の拓植守がヤモリに変じたのであって、ヤモリが拓植守という人間になったわけではないのだ。これは確固たる絶対の真実であり、たとえ異論を唱えられようと揺るがぬ真理でもある。
最初はからかい半分、残り半分は古文書としての価値を求めて指南書に目を通していた拓植であるが、改めて読み直すにあたっては、その顔つきも真剣なものに変わっていた。
自動車教習所の技能教習で最初に学んだのは、これから乗る自動車の整備点検、次いで車の乗り方と降り方だった。基本中の基本だが、それだけに慣れてくると見落としやすく事故に繋がるのだと教官に教えられた。
変化に時間の限界はあるのか。
ヤモリとして行動している最中、トラブルに遭遇した場合はどうなるのか。
変化中、本体である人間の身体に変化は起こらないのか、起こった場合はどうなるのか。
次々と浮かび上がる疑問や不安をメモに綴り書きし、見落としが無いよう確認済みのものにはラインを引き除外する。
本気で読み直すということは、取りも直さずこれからも変化の術を使い続けるつもりがあるという事実に、拓植自身はまだ気がつかない。
指南書には、あくまでも身体の一部をヤモリに変え、そこに使用者の魂を移す方法と、その状態から元の人間に戻る方法しか記されておらず、ヤモリに変身してから鳥や蛇などに襲われ死亡した場合はどうなるのかについては一切書かれていない。もっとも作者がその状況に陥ってしまったのでは、人の姿に戻って対処法を書き残す余裕など有りはしないだろう。
本体から離れた部分が変身した形はヤモリそのものだが、そこに移される魂――意識や感覚、そして知能は人間、拓植守のままである。
従って、通常のヤモリと同じ能力を持ちながら、通常のヤモリとは異なる思考と行動が可能ということになる。
また末端に、動物によっては会話も可能らしいと走り書きされているが、これはさすがにお伽ばなしじみて信じ難い。
窓を僅かに開け、高さ五センチ以下の隙間をガムテープで目貼りする。
ほんの数分か数十分だから泥棒は入らないだろうと自分に言い聞かせてから、拓植は丸薬と香材を用意した。
興味本位で試しただけの先程とは違い、ヤモリの姿のままで外に出るという明確な目的を持った以上は、ヤモリに変身してからのことも考える必要がある。
壁に貼り付いて移動するためには、本体が壁に背を付けたまま導引する方が移動するのに楽だろう。また、ヤモリの姿で口内から抜け出すのが楽になりそうな姿勢の方が良いだろうと拓植は考えた。
その事前対策はピタリと的中し、壁にもたれながら、開けることを意識した拓植の口から、ヤモリの身体は易々と這い出ることが出来た。
そのまま手足の吸盤を活かして頬を這い伝い、壁に貼り付く。
先程の変化とは違い、状況を飲み込んだうえで行動しているからであろう。己の卑小さと眼前に広がる魔界の如き自室の景観にパニックを起こすことは無かったが、それでも壁に貼り付いたまま移動するという、人間では未だ味わうことが出来ないであろう体験に、四肢の動きが覚束なくなる。重力に負けてだらりと垂れ下がり、その度に人間時には使用しない筋肉を動かす必要がある尻尾の感覚も、やはり異様であった。
それでも少しずつ這い進むうちに滑落への恐怖が薄らいでいくのは、やはりヤモリという生物が持ち得る本能からなのだろう。窓ガラスに貼り付き、ガムテープによる目貼りが及ばない隙間から外へ出た時には、垂直の壁に貼り付くことが自然であるとさえ思うようになってきた。
溺すれば溺するほど、人間に戻った時のギャップが怖くなりそうである。
外側の窓ガラスに貼り付き、さてこれから何処に行こうかと思案したヤモリの瞼の無い眼に、隣の部屋から漏れた灯りが映る。
隣に住んでいるのは、加藤一。
普段は何をしているのかまではわからないが、部屋を出たところで何度か顔を合わせ、挨拶を交わしたことがある程度の付き合いしかない。外見で判断するなら年の頃は拓植とそう変わらず、性格は引っ込み思案のようである。
好奇心や助兵衛根性に揺り動かされたわけではない。
しかし、光に吸い寄せられる虫という生き餌を求めるかのように、ヤモリの身体が自然にカーテンの隙間に向かって移動する。元々は人間の肉体の一部であるはずなのに、変化したヤモリの身体には、ヤモリとしての能力と習性が存在しているのが、拓植には奇妙なように思えた。
隙間から見えたのは、拓植の部屋よりもさらに狭苦しさを覚える、拓植が見たことの無い電子機器や電気コードで埋め尽くされたかのような室内の光景だった。
その一角、窓に背を向けるように座りながら、机の上のパソコンとにらめっこを続ける人間の背中。
後ろ姿だけでの判別は難しいが、恐らくは隣人の加藤だろう。
嘗てはマイコンと呼ばれていたパソコンが一般家庭に普及するようになって久しいが、それでもここのようなボロアパートの住人が持つには相応しいとは言えず、むしろその高級感が場違いにさえ思える。
或いは加藤個人の所有物ではなく、仕事用にと会社から持ち帰ったものかもしれない。
拓植が勤めていた会社にも三台のパソコンが導入されたものの、それをひと通り使いこなせるだけのスキルを持ち合わせた社員は数えるほどしかおらず、そうではない社員がパソコンスキルの講習会に参加しているうちに会社そのものが潰れてしまった。
斯く言う拓植も、有効に使いこなしていたとはとても言えない立場である。
これから先、新たな仕事を得るためには、やはりパソコンスキルの向上は必要不可欠な世の中に移り変わっていくのだろうか。
就職活動の手近な目標について思案するヤモリの前で、それまで地蔵さながらに硬直していた加藤の両腕が勢いよく跳ね上がる。
算盤を打ち鳴らす電の如き素速さでキーボードを打ち続ける加藤に合わせるかのように、黒一色だったディスプレイに何処かのホームページらしき画像が映し出され、しかもそれが次々と目まぐるしく切り替わる。
パソコン通信というやつなのだろうか、近頃はこれで欲しい情報を探したり商品の取引が行われたりしているという。
指先の動きを止め、大きく息を吐いた加藤。
一拍遅れてディスプレイに映し出されたのは、ブロンド美女のいかがわしい裸形だった。
あぜんとする拓植の視線に気づくはずもなく、加藤はキーボードのキーを繰り返し叩き、その度にディスプレイの画像は切り替わるが、表示されている内容は最初に出て来たものと大きな違いはない。
どれも健全な男性にとっては魅力的で、かつ如何わしい画像ばかりである。
これはさすがに仕事用ではないなと苦笑しながらも、拓植の両眼は美しくもいかがわしい裸形の数々に釘付けになってしまった。
こういうアンダーグラウンドの文化は本か写真かビデオが基本だと思っていたのに、いつの間にか時代もすっかり変わったものだ、と妙な感慨に浸っていた拓植を正気に戻したのは、遠方で鳴り響くサイレンの喧しい音だった。
長々と貼り付いたままでは捕食者の好い餌食である。そろそろ人間に戻るべきだろう。
翌朝。
「加藤さん」
隣人の出勤に合わせるように起床した拓植は、自室を出たばかりの加藤の背中に声を掛けた。スーツ姿であるが、背中の丸め具合は昨晩と何ら変わりがない。
「おはようございます」
「あ……おはようございます」
冴えない丸顔の加藤が発した声は、ようやく聞き取れるかどうかという程度の、か細いものだった。申し訳なさそうに頭を下げるその姿も、昨晩パソコンを使いこなしていた時とは別人のようにさえ思える。
「昨夜は、お疲れさまでした」
「えっ?」
「あんまりのめり込み過ぎてブレーカーを落とさないよう、気をつけた方が良いですよ。ただでさえボロアパートなんだから、夜中にずっとパソコンを使い続けていられるような環境かどうか、怪しいもんですからね」
「えっ!」
上目使いで拓植と接していた加藤の表情が凍りつく。
この反応だけでも、加藤が自室にパソコンを持ち込んだ理由が窺い知れるというものである。
(続く)