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|釆女ヶ原《うねめがはら》の仇討ち騒動


 江戸詰めなど、碌なものではない。

 胸中で昨日と同じことを呟きながら、才蔵さいぞうは汲み置きの水で顔を濯ぎ歯を磨き、郷里のある北東に向かって正座し一礼する。

 独り身ゆえに、九尺二間の棟割長屋でもさほど狭さは感じられないものの、だからこその独特な侘しさもある。

 同郷の同輩らとの同居が基本の武家長屋ならば、あるいは活気ある喧噪で目が覚めていたのかもしれない。

 着替えを済ませて表に出ると、隣家のおさわ婆が声を掛けてきた。

「おやまあ先生、今日はまた遅いご出勤だねぇ。ごらんよ、もうお天道様はあんな高いところにございますよ」

「今日は遅番なんだよ。夕刻までには戻る」

「あれまぁ。ほいじゃ、晩飯は用意しておく、でええんじゃね」

「そうしてくれ」

 よろしく頼む、とは口に出せない気恥ずかしさを誤魔化しながら、お澤に飯代の銭を託す才蔵。

 お澤婆は、若い頃は傾城だったとか大名の奥女中だったとか周囲に吹聴しているが、老いた今は長屋全体の飯炊きを一手に引き受ける代わりに、出来上がった飯から少しずつ自分の食い扶持を頂戴しながら暮らしている。

 これが、飯を作るのも煩わしいという職人や、家族全員で商いをしているので家事に手が回らない一家には、えらく評判が良い。

 徒歩として大名に仕えていながらも長屋住まいを続けている才蔵にとっても、ありがたい話である。

 本来ならば大名――それも伊達家六十二万石に仕える才蔵が、裏長屋を借りて町人と共に生活するなどという現状が、まずあり得ない。

 柳生心眼流中興の祖である小山左門行房おやまさもんゆきふさから直々に教えを受けたという師の元で修行を続け、武芸の腕を磨いた佐々才蔵は、泰平の世においても武の精神を貴ぶ伊達家の剣術試合で薙刀と棒の技を披露し、その腕前を賞賛された。

 剣術は人より僅かに優れている程度の才蔵だが、薙刀や棒といった長柄兵器の扱いに関しては天稟があると、師に褒められたことがある。確かに、剣では未だに師から一本も取れぬ才蔵が、長柄を振ればその限りではない理由を問われれば、そう・・としか説明がつかないのであろう。

 もっとも才蔵からすれば、長柄の方が剣より間合いが測り易いとか、振り回す際の両手の位置が剣に比べて広く自在に動かし易いといった程度の差でしかないのだが、達人からすれば、そのような些細な感覚こそが、天賦の才というものらしい。

 いずれにせよ、才蔵自身にとっては単に「性に合っていた」としか言いようがないのではあるが。

 ともあれ、若干十九にして武芸の研鑽天晴であると、当主直々にお褒めの言葉を戴いた才蔵は、褒美としてその場で召抱えられ、江戸参勤の随行を命じられたのである。

 まだまだ未熟な弟子の急な江戸出立など予期していなかった師が、大慌てで才蔵に奥義を口伝して免許皆伝の身に仕立て上げたのは、口外厳禁の秘密である。

 ところが、参勤の急な増員は江戸詰奉行――伊達家の江戸家老だ――にとっても想定外の出来事だったらしい。

 増員についての公儀への報告はどうにかこなしたものの、問題は才蔵の身柄を江戸でどう扱うか。

 地位の低い家来等が住む、江戸屋敷の長屋を検めてみたところ、何故か前年から家来たちは急に子宝に恵まれ、本来ならば一室同居が基本の武家長屋ですら、一人分の空きが確保できなかった。

 江戸詰奉行や若年寄の屋敷に寄宿させたのでは中間や下人と同じ扱いになってしまうし、さりとて放逐したのでは、国元からわざわざ同行させた当主の機嫌を損なうことになりかねない。

 困り果てた江戸詰奉行は、一先ひとまずの策として、才蔵一人を秘かに江戸の裏長屋に住まわせることにした。

 苦肉の策である。これが妻帯者ならひと悶着起こっていただろうが、才蔵が年若い独り身であったことが幸いした。

 御公儀には事前に話を通し、定町廻り同心やその手下を世話役にするという約定を取り付ける反面、裏長屋の住人にはその素性を殆ど伝えないままの引っ越しである。

 才蔵も才蔵で、江戸まで引っ張り出されて碌な住処も与えられぬ処遇に噴飯やるかたないのだが、その不満を堪えて主君に仕えるのが武士の務めである。

 第一、国元で当主の命に従わない者の末路は、御不興を買ったという理由での処罰か家族ぐるみの村八分だ。断れない、というのが実情なのだ。

 身の丈五尺足らず、握り飯に目鼻を付けたような風貌の若造に過ぎない才蔵に、長屋の住人たちも当初は胡乱げな態度を取っていたのだが、銭差しの押し売りに来た無頼者二人を棒で叩きのめして追い払い、再来を危惧して住人たちに護身術としての棒を教えるようになってからは、手のひらを返したかの如く受け入れられるようになった。

 実際のところ、才蔵は長柄の中でも特に棒を得意としており、棒だけはしばしば師を驚嘆させている――少なくとも師はそう言う――のだが、武士として刃を持たぬ得物のみを得意としてはならぬ、武芸十八搬すべてに精通していなければならぬと説かれ、しぶしぶ棒以外にも力を入れて修行したようなものである。

「さささ先生!」

 表通りに最も近い借家から、棒屋の半三郎はんざふろうが、才蔵に向かって威勢の良い声を張り上げる。

「また棒の一手をご教授願いまさぁ!」

佐々ささ先生、だ」

 才蔵が銭差し売りを追い払った際、手にしたのが半三郎の棒である。

 また才蔵が護身術として棒を教えたことで、長屋の住人たちがこぞって棒を買い求めるようになったこともあり、半三郎にとっての才蔵は、棒の師であると同時に恩人のようなものであるらしい。

「最近じゃ、先生に弟子入りしたいって棒手ふりまでいるんですぜ」

「冗談じゃない。俺にだって仕事があるんだよ、教えられるのは此処の連中までが精々だ」

「その、お仕事が終わってからのことなんですけどねぇ」

 銭を数え終えたお澤が、上目遣いでほくそ笑む。

「偶には飯抜き、提灯片手で帰ってきなすってもええんじゃよ」

「そりゃどういう意味だ」

「遊んで来いって言ってんですよぅ」

 袖口で口元を押さえながら笑う老婆に呆れ

「遊ぶ金なんて無いよ。あったら婆ぁの手料理より旨いもん喰ってらぁ」

 悪態を吐いて職場へ向かう。

 事実、金は無い。

 元々が、武芸お披露目の御褒美に過ぎない召上げだから、禄も嵩が知れている。

 しかも長屋から江戸屋敷までの道のりは遠く、移動に時間が掛かり、出仕が遅くなりがちな才蔵に与えられる仕事は少ない。

 おまけに財政難により雇える用人の数も減り、それを補う意味もあって、才蔵の今の仕事は江戸下屋敷の門番である。

 才蔵は、家格が高いわけでもなければ親類縁者に有力者がいるわけでもないので、これ以上の出世は望めそうにない。

 辛うじて望みがあるとすれば剣術指南役あたりなのだろうが、才蔵の場合、棒や薙刀に較べ剣術の腕は高言できるほどのものではない。

 しかも武士にとっての長柄兵器は、剣術に比すれば異端であり例外でもある。江戸ではそれが特に顕著であり、剣術ならば彼方此方かなたこなたで名人達人の名が挙がるものの、それ以外となると全部合わせたところで十指に余る、といった具合である。

 才蔵は、どうにか長柄――特に棒術の有用性を世間に認めさせられぬかと懊悩しているのだが、その功績はといえば、裏長屋で住人相手に棒を教えるのが精々。

 いっそのこと、伊達家より許可を戴いて西国廻りの武者修行を――とも考えたが、泰平を謳うこの御時世に実行したところで、果たしてどれだけの験になるかも怪しい。

 第一、才蔵の得物は長柄である。剣術家が相対するのは剣士であり、はたして剣士以外の異端を相手にしてくれるのか、それすらも怪しい。

 江戸詰めから国元に戻ってきた人間は、江戸の気質を自由と謳い、国元を窮屈と罵っていたが、才蔵の感想としてはたいして変わらない。否、むしろ広い家と人々の尊敬の眼差しがあった分、国元の方が良かったのではなかろうか。

 毎日同じ鬱屈を抱えながら下屋敷へと向かう、いつもの道中。

 見慣れた往来で、見慣れぬ事件が起きた。

 表通りの商家寄り、才蔵の視界右手側に二、三十名ほどの人だかりが出来上がっている。

「何事か」

 前に立つ人を掻き分け進んだ才蔵の、眼前に映る光景。

 取り囲む野次馬たちが作り上げた輪の中心で、少女と老人が編笠の武士と対峙している。

 年若く、まだ幼さの残る少女の、それでも凛とした美しさのある横顔に、才蔵は我知らずはっと息を呑んだ。

 美しい。

 少女は藍の防寒頭巾で顔全体と首をすっぽりと覆い、外気に晒しているのは額から唇まで。しかし映える肌の白さと端正な顔立ち、何より男にも劣らぬ強い意思を宿した瞳が、傍観するつもりでいた才蔵の心胆を射抜いたとも言える。

 側に仕える従者らしき老人は、少女とは対照的に弱々しく、剃り残しのある丁髷が哀愁を漂わせている。細い手足に力強さは微塵も見当たらず、おたおたと慌てふためく様は、思慮の足りない下男そのものと言えるだろう。

 一方、少女が睨みつけているのは、柳染の小袖を着流し、武士らしく編笠を被り大小を差しているものの、彼の取り巻きは見るからに柄の悪そうな牢人や無頼者ばかりで、とても健全な生活を送っているとは思えない。

 まるで芝居の一幕をそのまま描き出したかのような場面に、少女の澄んだ声が響き渡る。

「やれ、待たれよ。貴殿はまさしく宗方万丈むなかたばんじょうにてありけるよな。私こそ沼田惣佐衛門ぬまたそうざえもんが娘、すみなり。父惣佐衛門、其の方はよくこそ私怨にて殺して立ち退きしよな。娘として、其の方が行方を彼方此方と尋ね歩きしに、今日巡り遭うは大慈大悲のお引き合わせ。待ち設けたるうどんげの対面、いざ勝負あれ。父の仇を取らせてもらう!」

 叫ぶなり懐剣を引き抜く少女に、野次馬たちの間から、どっと歓声が上がる。

 少女の名乗りが終わると、続いて彼女の傍らに控える老人も名乗りを上げた。

「同じく沼田家臣下、金吉きんきち。大恩ある身として澄様に助太刀いたす」

 こちらも一尺七寸の長脇差を抜くものの、どうにも頼りない。

 まず腰が引けており、非力故か長脇差も重そうで、見るからに扱い慣れていない。

 恐らくはお澄と仇の一騎討ちに持ち込むのが目的なのだろうが、構え方からして子供が相手でも軽くあしらわれそうである。

 案の定というべきか、取り巻きらしき無頼者が二人ほど前に出てくる。

「悪いな、嬢ちゃん。宗方先生はお忙しい身なんだ。用件なら俺たちが代わりに聞いてやるから、ちょっと向こうへ行こうや」

「爺ぃに用はねぇ、とっとと帰って墓守でもしてな」

 無頼者の一人がそう言うなり、脇差を抜いたまま震え上がる金吉の肩を突き押して倒す。

 考えるより先に、身体が勝手に動いた。

「借りるぞ」

 商いも済んで気楽に見物していたらしい棒手ふりから六尺棒を奪い取り、制止の声も上げず、才蔵は舞台へと躍り込んだ。

「えっ」

 お澄の肌に触れようとしたところで才蔵の乱入に気づき、間抜けな声を上げた無頼者の顔面を、上段から強かに打ち据える。

「ぎゃっ!」

 その男が倒れる様には目もくれず左手を動かし、金吉老人から長脇差を取り上げようとする無頼者の奥襟に棒の先端を捻じ込んでから、そのまま腕力でぐいと棒を左に振る。

 奥襟を掴まれたも同然の無頼者が右へと大きくたたらを踏んだところで、才蔵が左腕をぐるんと回すと、無頼者の身体は何かに躓いたかのようにつんのめり、弧を描いて地面に叩きつけられる。

「野郎っ!」

 鯉口を切る音を耳にした才蔵は、すぐさま無頼者の奥襟に絡みついていた棒の先を引き抜くと、左手を放し右手一本で棒を振り、その先端で地面に弧を描く。

 刀を振り上げ斬りかかってきた牢人は、刀では到底届かぬ間合いから足を払われ、仰向けに転倒した。

「女と老僕相手に、大の男が四人がかりとは感心せぬ」

 立ち上がろうとする牢人の脛を強かに打ち、悲鳴を上げさせてから、才蔵は言葉を続ける。

「まだこの両名に手を上げるおつもりならば、この佐々才蔵、同じ侍として黙ってはおりませぬぞ」

 一拍置いて湧きあがった野次馬たちの歓声は、しかし興奮する才蔵の耳には届かない。

「成程」

 立ち上がった牢人と無頼者たちに、さがるようにと両手で指示してから、宗方万丈と呼ばれた侍は編笠を外し、素顔を白日の下に曝け出す。

 侍より学者の方が相応しかろう、知性と厳格さがその顔立ちに現れている、壮年の男性である。

「確かに、身に覚えのあるひと言。我こそが疑いなく貴女の父、沼田惣佐衛門を殺めし仇、宗方万丈である。見つかってしまった以上は、もはやこれ以上逃げ隠れせぬ。正々堂々と戦い、返り討ちにしてくれよう」

 思わぬ助太刀に呆然としていたのか。万丈の言葉に身を震わせ我に返ったお澄が、改めて懐剣を構え直す。

「しかし」

 そのお澄の覚悟をはぐらかすように、再び編笠を被る万丈。

「某にも、今は仕える主人がおられる。早速その主人に暇を願い出て、後日仇討の場を用意しなければならぬ。それまでは、お互い居場所を伝えるのみで不意討ち乗り込みは無用。如何かな?」

 この後、双方でどのようなやり取りが行われたのかについて、才蔵は碌に知らない。

 宗方万丈の手下たちに逆襲の気配は無いと察するや、棒を棒手ふりに返し駆け出していたからである。

 遅刻は通算二十一回目となった。



 お澄と金吉が才蔵の長屋を訪れたのは、翌日の宵の口の話である。

 衝動に従い、お澄金吉と宗方万丈との間に割り込んだ才蔵であったが、すぐに職務開始の刻限を思い出し、万丈の手下が戦意喪失していると見て取るや、慌てて江戸屋敷へと駆けたものの、奮闘虚しく鳴り響く寺の鐘。

 武士が刻限を守れぬとは何事か。

 これが戦であれば死罪は免れまいぞ。

 上司に散々詰られながら、実はと仇討ちの助太刀をしていたと報告した才蔵が目にしたのは、上司の複雑な表情。

「女と老人への乱暴狼藉をくい止めたのは、まあ褒めて使わす。依って今回の遅刻は不問に致す」

「ありがとうございます」

 言ってみるものである。

「しかし、仇討ちに思慮分別なく加勢するのは感心できんな」

「左様でございましょうか」

「家中の者、或いは御公儀の旗本や御家人であれば、問題あるまい。しかし仇討ちの相手は、出奔したとしても他家の元家臣に違いはないであろうし、匿っている人間が将軍家に縁故ある身分であれば、それこそ我々の身が危うくなる。それでなくとも――ほれ、白石の仇討姉妹の話があるではないか」

「あっ」

 上司に言われて、才蔵もその話を思い出した。

 五十年ほど前の話である。

 伊達家御領内で、領地検分の付き添いをしていた役人が、些細な理由で百姓を無礼討ちにした。

 父の仇討を決意した百姓の娘達は、素性を隠したまま当時の剣術指南役の屋敷に奉公し、彼の技を盗み見ては己が修行の鑑とした。

 やがてそれは指南役の妻に見つかり、真実を聞き出し感動した指南役夫婦は姉妹に剣術を教え、男顔負けの腕前にまで鍛え上げてから伊達家奉行に訴え出て、仇を白石川の舞台に引き摺り出した。

 仇も弱くはなかったのだろうが、相手は女とはいえ伊達家剣術指南役の直弟子二人だ。おまけに役人が監視役に付いているから、有利不利に任せての卑怯な振る舞いは出来ない。

 奮戦したものの結局は討ち取られ、父の無念を晴らした姉妹は家臣に縁づいたとも、揃って尼になったとも伝えられている。


 真偽の程は定かではないが、この仇討ち話が江戸に流れて大いに化けた。


 一介の役人に過ぎなかった仇は名門片倉家の剣術指南役に変わり、教わる相手がいなくなった姉妹は江戸へ流れて、何故かかの悪名高い由比正雪ゆいしょうせつの元へ。

 正雪から姉は鎖鎌、妹は薙刀を教わり、五年の歳月を経て国元へ戻り仇を討つ、というのがあらすじだ。

 荒唐無稽とまでは言わないが、随分と脚色されたものである。

「他人からすれば胸のすく仇討ちであろうが、当の伊達家からすれば身内の恥を晒されたようなものだ。無論、そのような不心得者が現れぬようにと家臣一同、常に綱紀粛正しておるが、流血沙汰で過度に騒ぎ立てるのが町人であることも心に刻んでおけ」

「つまり――関わり合いになるな、と」

 才蔵の言葉に、上司は微かに渋面しぶづらを作る。

「それでもやるなら、徹底的にやれ。それこそ一片の悔いも残さぬように」

 その忠告を締めとして叱責から解放された才蔵が、いつも通りの退屈な門番の仕事に従事して、二日が経った。

 それにしても――と長屋へと戻る道すがら、才蔵は先日の光景を回想する。

 お澄は美しかった。

 美女というものを、久々に見たような気がする。

 無論、才蔵の人生に女性の影が無かったわけではないし、江戸へ来た折に上役の厚意で遊女と寝たこともある。

 ただ、お澄には遊女や町娘とは違う美しさがあった。

 気品と女らしさを両立させ、かつ揺るがない芯の強さと可憐さまでをも兼ね備えた、美。

 武家の女がああいうものだとしたら、才蔵の母や姉らは武家ではなくなる。

 いずれ――否、そろそろ自分も嫁を取らねばならぬ年だが、嫁にするならああいう女性を願いたいものだ。

 お澄の嫁ぎ先は決まっているのだろうか。そうであるならば、その男は途轍もない果報者であろう。

 もし、決まっていないのであれば――

 長屋が見えたところで、才蔵は足を止めた。

 夕暮れに、静かに佇む花一輪。

 藍の防寒頭巾を被ったお澄と金吉が、才蔵の借家の前に立っているではないか。

 喜色満面、大声でお澄の名を呼ぼうとした才蔵は、はっと息を呑んでそれをくい止めた。

 お澄は、仇討ちで江戸に出てきた身である。上司の言う通り、濫りに騒ぎ立てるべきではない。

 それでなくとも美しいお澄と見すぼらしい金吉は、立っているだけでも十分に目立ち、長屋の住人たちの中には戸板の隙間から二人の姿を覗き見る者までいる。

「お澄さん、でしたかな」

 平静を装いつつ声を掛けた才蔵に、軽く会釈するお澄と金吉。

 口火を切ったのは金吉だった。

「お侍様、実は」

「いや」

 何かを打ち明けようとする金吉を片手で制してから、才蔵は素早く己の借家の前に回り込む。

「お話しは中で伺うとして、まずは御二方が座る場所を用意せねばならぬ。少々お待ちいただきたい」

 言うが早いか戸板を開けるなり素早く身を潜らせて閉め、これは此処に隠そうこんなものいつまでも残しておくんじゃなかったと、大急ぎで九尺二間の大掃除を始める。

「お待たせいたした。さ、むさ苦しいところでござるがお入りくだされ」

 どうにか人に見せられる程度の片付けを終え、本当に狭くむさ苦しい室内へとお澄と金吉を招き入れた才蔵は、ついでとばかりに隣家の戸板を叩いて、お澤婆さんを呼び出す。

「婆さん、茶だ。茶を二人、いや三人分用意してくれ」

「なんだい藪から棒に。こんな夜更けに出せと言われて簡単に出せるもんじゃないんだよ、茶なんてもんは」

「客は武家のお嬢さんなんだよ。茶ぐらい出さないと失礼だろうが」

「酒でいいじゃないか。あたしならそれで喜ぶけどねぇ」

 一瞬、それも良いかと逡巡した酒好きの才蔵だが、さすがに首を振った。

「出せるか、そんなもん」

 隣家の扉をぴしゃりと叩き、愛想笑いを浮かべながら自室へと戻る。

「申し訳ござらん。生憎、茶を切らしておりまして」

「お構いなく」

 楚々とした佇まいで、板間の下座に正座するお澄は、防寒頭巾を外し、襟巻のように首に巻いていた。

 金吉は土間で、這いつくばるように平伏している。

「それにしても、よく拙者がこの長屋を借りていることがお分かりになりましたな」

「あの後、騒ぎを聞きつけてやって来たお役人の中に、佐々様のお名前をご存知の方がいらっしゃいましたので、詳しくお聞きしたのです」

 誰だろう、と才蔵は思案した。

 世話役の定町廻り同心、蒔田七右衛門まきたしちうえもんであろうか。

 それとも棒を借りた棒手ふりが、役人に余計なことを吹き込んだか。

 いずれにせよ、気分の良い話ではない。天下に名だたる伊達家の家臣が裏長屋住まいというのは、世間にあまり知られたくはない話である。

 苦々しく思う一方で、こうしてお澄と再会できた巡り合わせを素直に喜ぶ才蔵であった。

「才蔵様」

 そのお澄が、上座に座る才蔵の前で手をつき深々とお辞儀する。

「先日は、危ないところを救っていただき、誠にありがとうございました」

 土間の金吉は、相変わらず平伏したままである。

「あの時、才蔵様が間に割って入ってくださらなければ、こうして澄も生きておれたかどうか、怪しいものでございます」

「いやあ」

 照れ隠しに鬢のあたりを掻きながら、お澤婆さんが茶を持ってきてはくれぬものかと、才蔵は無駄に期待する。

「それで、あの」

 ほうら、来た――と才蔵は心の中で呟く。

「助けていただいたお礼の後で申し上げにくいのですが」

 次に何が来るのか、わかり切っている。髻を賭けてもいい。

「お願いしたき旨がございまして」

「仇討の、助太刀ですな」

 堪え切れず、才蔵の方から切り出した。

「はい」

「宗方万丈は、お父上の仇という話で」

「ええ」

「詳しくお聞かせ願えますかな」

「はい」

 意を決したのか、顔を上げこちらに向けられたお澄の真摯な眼差しに、才蔵は我知らず目を背ける。

「私の父、沼田惣佐衛門は越前丸岡、有馬家に仕えておりました」

 五万石の大名である。一万石二万石といった弱小ではないものの、譜代大名としてはさほどの権力を有しているわけでもなく、しかし公儀の要職に就くことも度々あるという、悪く言えばこれといった特徴のない大名でもある。

「小姓役であった父は、ある日同僚の宗方万丈と諍いを起こし、斬られたのでございます」

「失礼ですが、お父上を斬ったのは本当に宗方なのでしょうか。実は他の者に斬られた、ということは」

「儂がその場におりました」

 それまで平伏していた金吉が、皺だらけの顔を上げた。

「よもやの不意討ちでございました。旦那様が往来で宗方と出会って、ここは験が悪いと背を向けた途端に、宗方の奴が刀を抜きながら駆け寄り、旦那様の背に一太刀浴びせたのでございます。勿論、その場には他にも見てたもんが、たんとおりました」

 一時の激情にかられた結果か。

 それとも自分は捕まらないという、思い上がりが招いた悲劇か。

 編笠を取った宗方万丈は、その様な暴挙に出る卑劣漢には見えなかったのだが。

「差し支えなければ、諍いの原因を教えてはいただけませぬかな」

 才蔵の質問に、お澄はほぅ、と物憂げな息を吐く。

「牡丹にございます」

「牡丹、ですか」

「はい。沼田家に代々伝わる、白牡丹の栽培法にございます。先代の御当主が興味を示され、丸岡の名産品にならぬものかとお褒めの言葉を戴いた牡丹の育て方を、宗方が欲しがったのでございます」

 話を聞く才蔵の脳裏で、自ら輝かんばかりに美しく咲き誇る、大輪の白牡丹。

「見事でしょうなぁ、それは。天衣か雪笹か、はたまた白獅子か。お父上はいずれの達人でございましたかな」

「えっ」

 国元では修行の合間に花を愛でるのが好きだった才蔵の、牡丹に関する何気ない質問に、何故かお澄は微かに狼狽うろたえる。

「佐々様」

 土間から、金吉の低い声が飛んだ。

「そればかりは御勘弁を。沼田家の奥義とも言うべき、秘中の秘でございます。言うなれば、旦那様はそれを教えなかったことで宗方に斬られたも同然の、秘事でございます」

 成程、至極道理である。

 ああ、という才蔵の生返事を承諾の意と受け取ったのか、お澄は身の上話を再開する。

「父を斬った宗方が逐電し、仇を討たんが為、母と私が有馬家からお暇を頂戴し、家中の者と共に宗方を追い求め、旅を続けること早や三年。母は病にて無念のまま世を去り、もはや随従する者もこの金吉一人を残すのみ。これで仇が討てるのかと懊悩しながら境に辿り着いたのが、ついふた月程前のことにございます」

 行灯の仄かな灯に照らし出された、お澄の物憂げな面。

 儚くも美しいその顔は、まさしく月明かりを受け闇夜に咲く、白玉の如き牡丹を彷彿とさせる。

「堺についてすぐ、旧知の方より、宗方らしき男が江戸に居るのを見たという噂を聞き、取るものも取り敢えず江戸へと馳せ参じたのでございます」

「ははあ、成程」

 頷きながらも、才蔵の視線はお澄に釘付けである。

「佐々様。改めてお願い申し上げます。父の仇、宗方万丈を討ち果たさんが為、どうか私達にお力添え頂けませぬでしょうか」

「どうか、儂らの助太刀を」

 こぞって頭を下げるお澄と金吉に、才蔵は困惑する。

 二人の並ならぬ苦労と覚悟は、賞賛に値する。

 特に、お澄だ。

 単に美しい、というだけではない。父親の惣左衛門が宗方万丈に殺されていなければ、武家の娘として特に不自由なく穏やかに暮らしていたであろうに、今は町娘と変わらぬ姿で、しかも仇を追い求めて往来を流離うが如き旅を続ける身となってしまったのである。

 彼女への同情と、宗方への義憤の炎が才蔵の胸中に渦巻いているのは事実だ。

 さらに理由を付け加えるならば、仇討ちや決闘の助っ人といえば、戦の起らぬ泰平の世に生まれた武士にとっては、一世一代の晴れ舞台である。

例えば、奥平松平家の剣術指南役だった荒木又右衛門あらきまたうえもんは、弟の仇討ちを誓う渡辺数馬わたなべかずまの助っ人として、鍵屋の辻にて仇を討ち果たしたことで有名になった。

また、赤穂四十七士随一の剣豪と称される堀部安兵衛ほべやすべえは、同僚との口論から決闘を行うことになった菅野六郎左衛門すがのろくろえざえもんの助っ人として高田の馬場に参上し、十八人斬ったとも三十二人斬ったとも言われている。

 青山家の石山兄弟は、父の仇である赤堀源五右衛門あかほりげんごうえもんを討とうとして返り討ちに遭った長兄の仇を、二十八年もの歳月をかけ、亀山にて討ち取ったと伝えられている。

 荒木又右衛門も堀部安兵衛も、助太刀した相手が仇を討ち果たしたからこそ、天下に名を知られるようになったと言っても差し支えないだろう。

 斯様かように仇討ちは大々的に取り上げられ有名になる反面、討ち手が返り討ちに遭う恐れも皆無ではない。

 石山兄弟の長兄もその一例であるが、摂津国で末弟の仇を取ろうとした兄弟が、仇の門弟らの助勢により返り討ちに遭った、という話もある。

 仮に助太刀を引き受けた場合、仇討ちの邪魔をしてくるであろう宗方万丈の助っ人を一掃するのが才蔵の役目になるであろうが、お澄は若い娘で仇は仮にも武士だ。

 場合によっては、才蔵が彼女の代わりに宗方を討ち果たさなければならない。

 才蔵は、棒や木剣で人を殴ったことならば何度もあるが、人を斬った経験はないし、薙刀を使っても一撃で首を斬り落とす自信はない。果たして助っ人として役に立つのだろうか。

 仇討ちの討ち手に加勢し事を果たせば、才蔵の名は江戸界隈――上手くすれば東国はおろか西にまで広まるであろうし、周囲の才蔵を見る目も変わってくるであろう。一方で、自分がこの仇討ちに関われば、主君である伊達家に迷惑が掛かるのではないか、という懸念もある。

 それでも。

 才蔵にとっては自ら首を突っ込んだ義理もあるし、それ以上に、江戸でうだつの上がらぬ生活を続けるしかない自分が、戦の無い世の中で有名になるには、今回のような仇討ちの場を舞台として大暴れする以外に打つ手がないのも事実だ。

 何より。

「お引き受けいたしましょう」

 才蔵の返答に輝かんばかりの笑顔を見せたお澄を、むざむざ悪漢共の餌食にするわけにはいかぬ。

「ありがとうございます。必ずや憎き父の仇、宗方万丈をこの手で討ち果たして御覧に入れます」

「それで、時と場所は?」

「明後日の昼八つ。場所は采女が原の馬場でございます」

 馬場であれば、薙刀だろうが棒だろうが思う存分振り回せる広さだ。

 何度もお礼の言葉を繰り返しながら――夜更けということもあり――辻番が用意してくれた駕籠に乗り、提灯片手の金吉による先導で長屋を発ったお澄を見送る才蔵の傍らで、いつの間にか表へ出ていたお澤が、ひひひと意味ありげに笑う。

「今の、先生の良い人かい」

「そうなればいいなぁ、とは思っているが」

「おや珍しい。先生も朴念仁じゃなかったんだねぇ」

 目をぱちくりさせるお澤に、才蔵がやり返す。

「婆さんこそ、どうだい。あの金吉って爺さんとなら夫婦になれそうかい」

「冗談お言いでないよ。あんな弱々しい唐変木。ちょっと押さえつけただけでぺちゃんこになりそうじゃないのさ」

 さもありなん、と才蔵は苦笑した。



 馬場――と言っても、常に馬がいるわけではない。

 決闘の場である采女が原馬場は、木挽町にある。

 元々は伊予今治を治める久松松平家の第四代、松平美作守の御屋敷が立っていたのだが、江戸名物の大火事により焼けてしまい、残った土地をそのまま馬場にしたのだという。

 馬場は本来、将軍家や大名が乗馬や騎射、早駆けといった馬術の練習を行う場であるが、いつもいつも誰かが馬術を行っているわけではない。寧ろ普段は使用されておらず、また馬のみならず人間の運動場としても適した場所でもあった。

 面積にして八百九十坪程。公儀としては、そのような広大な土地を日頃から放置しておくわけにもいかず、そうかといって、管理には結構な額の費用と人員を要する。

 ならば、と修繕や草むしり、馬糞の処理といった馬場の管理を、木挽町の顔役たちに押し付けた。

 芝居小屋がひっきりなしに興行を打ち立て、その上がりの一部で懐が潤っていた顔役たちも、予算も支援も無い申しつけに驚き慌てふためいたが、そこは芝居裏の厄介事を抱え込んできた強者共だ。畏れながら町人ごときには賄い切れませぬ――と泣きつきながら、せめて管理用にと下賜された隣接地を香具師や興行師に有料で貸し与えても宜しいでしょうか、と伺いを立てた。

 武家が行うには体面が邪魔する解決法を、或いは公儀の方も求めていたのかもしれない。

 結果として、芝居見物の合間に訪れた見物客が香具師や物売りに蟻の如く群がり、馬が入らぬ日の采女が原は、人また人で賑わっている。

 刻は、期限よりも早い昼の九つ半。

 気恥ずかしさもあり、仰々しい格好にはそぐわないほど神妙に長屋を出ようとする才蔵であったが、何処で聞きつけたのか、用心深く戸板を締めた途端に、四方八方から住人達の囃し立てる声が飛ぶ。

「先生、お出かけですかい!」

「今日はちょっと、いつもと衣装が違いませんかね!」

「馬鹿言うネェ。先生はこれから、木挽町の芝居に飛び入り参加なんだ。これぐれぇ派手にやらねぇと霞んじまわぁな!」

「それだけじゃねぇでしょ。大立ち回りが跳ねたその後にゃ、綺麗なご婦人と何処ぞの境内で……ひひっ!」

 あらかた、ばれている。

 長屋の住人も、棒手ふりや売り歩きを生業としているものばかりではない。飯炊きのお澤婆は勿論のこと、荒物屋や指物師、数珠造や造花の内職を行っている男女は、住処に籠ったままなので、仕事しながら才蔵の出立を今か今かと待ち侘びていたらしい。

「ばっかやろおっ!」

 住人達の下品な声援を一喝したのは、棒屋の半三郎だった。

「先生はなぁ、遊びに行くんじゃねぇんだ。華奢な細腕で親の仇を取ろうとする、健気なお嬢さんの助太刀に行くんだよ。そんな応援があるけぇっ!」

 それはその通りなのだが。

「半公、お前――その話を何処で聞いた」

「えっ……あっ」

 立ち聞きか、或いはお澤から聞いたのか。

 いずれにせよ、広めたのは二人のうちどちらか、或いは双方なのだろう。

「殴ってやりたいところだが、今はその怒りも馬場へ持って行く。戻ってきた時、俺の気力が尽きているよう祈っておけ。尤も、生きて戻れるかどうかも怪しいが」

「先生、そんな大袈裟な。たかが仇討ちの手伝いじゃねぇですか」

 やはり、こいつらは町人だ――と才蔵は嘆息した。

 両者が対決する場まで設けた仇討ちは、もはやどちらかが死ぬことでしか終結しない。

 当然、仇もむざむざ討たれるつもりはないであろうから、己の力のみならず、加勢を得てでも討ち手を返り討ちにしようと画策するだろう。

 討ち手に向けられる白刃を、己が肉体と技量を以て防ぎ止めるのが、助っ人の役目である。鍵屋の辻の決闘でも、最終的には仇を討ち果たしたものの、荒木又右衛門の門弟として参加した河合某が討たれているのである。

 たすき掛けに汚れの無い袴。月代も無精髭もきれいに剃り落とし、腰に大小は勿論、鞘付きの薙刀ひと振りを利き手に握り、丸と六角の棒を一本ずつ背中に交叉させた才蔵の姿は、長屋の住人達からすれば奇異に映るだろうが、本人からすれば死に花を咲かすかもしれぬ身の、精一杯の死装束のつもりなのだ。

 ただ、町人は町人で安穏とした日々を送っているわけではないということを失念しているあたり、佐々才蔵もやはり武士であると言わざるを得ない。

「先生よぅ」

 出立せんとする才蔵を、握り飯を抱えたお澤が呼び止める。

「昼飯は喰ってかないのかぇ」

「早々に終わらせて、戻ってきてから喰うよ」

 どこか寂しげなお澤と、内丸かんなを振り回しながら応援する半三郎をその場に残し、才蔵は長屋を発った。

 約束の刻よりもかなり早めに到着するよう長屋を発ったのは、宗方一派の待ち伏せ、足止めを警戒したが故の思い付きである。

 お澄の助太刀を引き受けた才蔵は、その翌日には仇討ちの内容と期日を上司に報告した。

 国元では仇討ち騒動が何度も起こっているが、江戸もそう変わらないのかと嘆息した上司は、平伏する才蔵の前に屈み込んだ。

「引き受けたものを止め立てするわけにもいかぬし、仇討ちの助っ人を断ったのでは当家の家名に傷がつく。やるならば徹底的にやれ」

 一度面を上げてから、有難うございますと再び平伏し、晴れて御家の認可を得た才蔵であるが、上様に申し上げれば助っ人を増やせるかもしれぬぞ、という上司の助言は、やんわりと断った。

 命懸けの荒事であると覚悟を決めていながら、どこか大袈裟すぎるのではないか、という懸念がある。

 無論、手柄と名声を横取りされたくはないという欲もあるが、はたして宗方万丈以下、どれだけの人数と切り結ぶことになるのか。

 宗方からすれば、相手は武家とはいえ、所詮は小娘に過ぎない。

 その小娘を懼れ大勢の助っ人を差し向けたとあっては、返り討ちにしたところで己の名に傷がつく。案外、宗方を含めて三人四人程度を相手にするだけで済むのではなかろうか。

 巷間の仇討ちには、誇張が多い。

 例えば高田馬場で堀部安兵衛が斬った人数は、話によって振り幅がありすぎるし、国元の姉妹による仇討ちも、由比正雪の登場を始として脚色が多いと聞く。

 実際のところ、強そうな助っ人を一人倒せば、残りは逃げ出すのではなかろうか。討ち手側の助っ人ならともかく、仇側の助っ人として返り討ちにして名を挙げた勇士の名など、とんと聞かない。

 宗方側が如何なる手段を講じようと、お澄が宗方を討ち取ってしまえば、それで仇討ちは終わりだ。彼女が返り討ちに遭いかけたり、宗方に傷を負わせても中々仕留められなかったりした場合は、金吉か才蔵が代わりに止めを刺すことになるだろうが、正直なところ金吉に期待は出来ない。

 仇討ちが果たせたならば、それは才蔵の手柄であると同時に、主家の手柄話となる。そうなれば家中での才蔵の評価も高まるし、上手くすれば役目も門番などより遥かに位の高いものへ、禄高も家族を十分に養えるだけ増えるかもしれない。

 そうなれば、才蔵も晴れて嫁を迎えられる。迎えたいのは――

 脳裏に浮かんだお澄の横顔に、才蔵はいかんいかんと首を振った。

 これから命懸けの舞台に向かうというのに、下心丸出しでどうする。

 宗方万丈は既に采女の馬場に参上し、お澄金吉の到着を、手ぐすね引いて待ち構えておるやもしれぬ。

 否。もし仮に二人も既に到着していたならば。双方到着したならば、もはや刻限など不要と言われでもしたら。

 才蔵の歩みが、駆け足へと変わった。


 木挽町が香具師たちに貸し与えている、采女が原の馬場の隣接地。

 その一角に、確かに杭と縄とで簡素な囲いが作られていた。

 一角といっても広さは相当なもので、才蔵が薙刀を振り回して大立ち回りを演じたところで、刃先が囲いの外に出ることは、まずあり得ないであろう。

 その囲いの周辺には、早くも野次馬とも観衆とも言える大勢の暇な町人達が群がっており、また彼らを相手に商売する香具師や物売りが、これまた目の届く範囲で屯している。

 囲いの中には誰もいない――即ち、お澄と金吉、宗方一派の双方が未だ到着していないことに安堵の息を吐いた才蔵は、いつぞやと同様に人を掻き分け、決闘場たる囲いに入り、薙刀の鞘を抜き払うや、どんと石突を地面に突き立て見栄を切る。

「我が名は佐々才蔵貞次。父、沼田惣佐衛門の仇である宗方万丈をば討ち取らんとする娘お澄の話を聞き、義によってこれに助太刀せんと馳せ参じたり! その場にて、我が薙刀の技の冴え、とくとご覧あれ!」

「ちょっと来るのが早すぎやしねぇかい」

「この才蔵、酒に溺れて家を空け、すわ一大事と大遅刻で駆けつけた、堀部安兵衛の如き粗忽者に非ず!」

 言い返しついでにからからと高笑いした才蔵は、弁慶の如く仁王立ちしたまま、お澄と金吉、そして宗方一派の到着を待つ。

 早く来たのだから仕方ない、としばらく待つ。

 約束の刻限である、昼八つを知らせる鐘が鳴っても無言のまま、さらに待つ。

 まだか、まだ来ないのかと焦れる観衆を相手に、退屈凌ぎにと郷里での修行の日々を語ってやろうかとも考える才蔵であったが、余計なことを口走って仇討ちの品位を下げてしまうのも宜しくないと、結局はだんまりを決め込む。

 さらに一刻が過ぎ、昼七つを知らせる鐘が鳴ると、さすがに観衆の中からも疑念や苛立ちの声が上がってきた。

「おい、どうなってんだ」

「もう八つ刻どころか七つ刻じゃねぇか」

「この期に及んであんた以外に誰も来ねぇってのは、さすがにおかしいだろ!」

 痺れを切らして野次を飛ばす観客の中には、聞き覚えのある声も混じっている。其方へと顔を向けると、天秤棒を借りた棒手ふりや長屋住まいの大工らの顔があった。

 それでも、才蔵は薙刀を握ったまま待つしかない。

 討ち手だけでも、お澄だけになろうと、必ず来る。

「おい」

 さらに待ち、その才蔵までもが挫けそうになったところで、縄を跨いで囲いに入る、羽織袴の二本差し。何か用事の帰りなのか途中なのか、従者に袱紗を抱えさせているが、焦げ茶の小袖に墨色の袴と、その身に纏う衣服にも豪胆さが表れている。

「貴様、仇討ちの助っ人だそうだな」

 剣呑な雰囲気を振りまきながら近づいてくるその男の、瞳に宿る凶暴な輝きに、焦れつつあった才蔵も俄かに気力を取り戻す。

「いくら待っていても、仇どころか討ち手もやってこねぇ。こいつぁ一体どうなってんだい」

「い――いずれ来る」

 才蔵としては、そう答えるしかない。

「そうかい。しかし、ただ待っているのも退屈だ。決闘が始まらぬというのであれば、その余興に大道芸でもやってみせろ」

「なにっ」

「背中の棒があるではないか。放下の皿回しぐらいはできるであろう」

 こいつは嫌な奴だ。いつまで経っても討ち手も仇も現れず、才蔵が内心では弱り切っているのを見抜いて、苛めに来たらしい。

「無礼な! 貴様、名を名乗れっ!」

双見長右衛門ふたみちょううえもん。徳川家に代々お仕えする侍よ」

「なんだ、無役の御家人か」

 役に就いているならば、昼間から木挽町を歩き回る暇など無いと聞く。

 旗本御家人を相手に「無役」と指摘するのは、侮辱に等しい。

 才蔵の挑発に、長右衛門の瞼がぴくりと震えた。

「才蔵と言ったな。貴様、何を企んでおる」

「何も企んではおらぬ」

「ならば何故、討ち手も仇も現れぬのだ。助っ人ならば、決闘の場まで同行し、討ち手の身を護って然るべきではないのか」

 それもそうだと、才蔵は己の不覚に気づき、今さらながら後悔した。どんなにお澄を信用していたとしても、それはそれとして彼女と同行し護衛することは、助っ人である才蔵の役目であったと認めざるを得ない。

 だが、この厭味ったらしい御家人に頭を下げる気には、どうしてもなれない。

「拙者は、討ち手たるお澄殿の願いに応じたまで。それだけでござる。それに、ここに人が集まったというだけで、拙者に如何なる企みがあろうというのだ」

「居合の大道芸を見たことがあるか。それ、そこらでやっているやつだ。しょうもない芸を披露して、集まった客に薬を売る。大方その類ではないのか」

「双見殿。同じ侍に対し、その言い草は余りにも失礼ではないか」

「何が失礼なものか。侍とは、こいつを使うものだ」

 己の刀の柄をぽんと叩いてから、長右衛門は言葉を続ける。

「貴様の持つ薙刀など、所詮は武家女房の手習い事。棒に至っては誰でも扱える外道の得手もの、まさにゲテモノではないか。大方、お澄とかいう女とつるんで、卑しい棒や薙刀を振り回し、注目を浴びようという算段ではないのか?」

 己のことならば、まだ看過できる。

 だが、お澄まで馬鹿にされたことで、我慢に我慢を重ねてきた才蔵も、さすがに堪忍袋の緒が切れた。

「無駄飯喰らいの御家人風情が、何を言い出すかと思えば。拙者の隣家には齢五十を過ぎた飯炊き婆ぁが住んでおるが、働かぬ貴様はその婆ぁにも劣るわい」

 長右衛門の顔が、俄に紅潮した。

「おのれ、言ったな!」

「言ったがどうした。貴様は言うだけではないか。我が背の棒をゲテモノと蔑んだが、そのゲテモノに怯えて吼える事しか出来ぬ貴様は、まさに負け犬じゃわい」

 罵倒した刹那、才蔵は後方へと跳ぶ。

 同時に長右衛門が抜刀し、観衆の方々から悲鳴とも歓喜とも区別のつかぬ声が上がった。

「おのれ、そこまで武士を愚弄した以上は、覚悟が出来ているであろうな!」

「何が武士だ! 旗本御家人ばかりが武士などと思い上がるなっ!」

 言い返しながらも薙刀から手を放し、背中の棒へと両手を伸ばす才蔵。

「ゲテモノを使うか」

「こちらの方が慣れておるのだ」

 支えを失った薙刀と、選ばれず遠くへと投げ捨てられた六角棒とが、同時に地面に倒れ落ちる音。

 それが合図となった。

「いやっ!」

 一歩踏み込みながらの上段打ちをかわされた才蔵は、お返しとばかりに繰り出された長右衛門の上段突きを、これまた左に跳んでかわす。

 ちっと舌打ちし、ならばと深く突き込んだ棒の先端が、長右衛門の右奥襟に絡みつく。

 そのままぐいと棒を引き、長右衛門を地面に転がそうとした刹那――

「えぃやっ!」

 両手に握った棒が、不意に重みを失った。

 長右衛門の豪剣が、気合と共に棒を寸断したのである。

 六尺の丸棒を一撃で四尺に変えてしまう腕前もさることながら、直前まで罵り合いをしながらも、己の危機を覚りすぐさま最善の策を取る長右衛門の冷静沈着さには、才蔵も舌を巻くしかない。

 才蔵自身は奥襟絡めと呼んでいるこの技は、一度棒が絡まったが最後、前後左右上下何れに動いたところで外れるものではなく、長右衛門が実践してみせたように棒そのものを切り落とすか、或いは武器を捨て自らも相手の棒を掴み振り回す以外に脱出の術はないのだが、どちらの脱出法もやろうと思ったところで容易に出来るようなものではない。

 一転して窮地に追い込まれた才蔵は、四尺まで短くなった棒を小太刀の如く片手で構え、斜めに切られたことで鋭くなった先端を長右衛門に向け間合いを測っていたが――

「おうっ!」

 やにわに叫ぶなり、ぱっと長右衛門に背を向け駆け出す。

「待てっ!」

 こちらも叫び、後を追う長右衛門。

 才蔵が駆ける先は、放り投げたばかりの角棒。

 それを拾い上げ再戦を挑むつもりであろうと、長右衛門は予測する。

 だがしかし、不意に足を止め振り向いた才蔵は、予想外の動きに面食らいつつも袈裟斬りに斬りかかってきた長右衛門の剣を身を伏せてかわし、すっと横一文字に振った棒で長右衛門の足を払う。

 どぅ、と仰向けに倒れた長右衛門に馬乗りになり、その両膝で長右衛門の左右の腕を封じつつ、喉笛に棒の先端を押し当てる才蔵。

如何いかがかな」

「ま、参った!」


 降参した長右衛門が逃げるように囲いから立ち去り、観衆から称賛を浴びた才蔵が、再び待つこと一刻。

(もしかして、日にちを聞き間違えたのではないかしらん)

 勝利の余韻も興奮も掻き消え、面には落胆の色濃く出ている才蔵をよそに、待ちくたびれた観衆の中には、ぼちぼち囲いに背を向け帰ろうとする姿が目立ち始める。

 あれっと声を上げたのは、野次を飛ばした棒手ふりだ。

「銭っ! 俺っちが今日売り歩いた分の稼ぎがどっか行っちまった!」

 その声を合図にしたかのように、彼方此方で早鐘の如く鳴り響く、悲鳴の嵐。

「あっ、無い!」

「印籠、儂の印籠は何処へ行った!」

「誰か、山吹色の鼻紙入れを見なかったかい。俺のなんだ、返してくれよ!」

「ちくしょう、銭差しっ! 二百文差しの銭差しが!」

 消えた落した失ったという声が次々と上がり、やがてそれは大きな騒ぎの声と変わる。

「やられたっ! 掏摸すりだ!」

「この場から一人も出すな! そいつが掏摸かもしれねぇぞっ!」

 誰が叫んだのか、囲いの中にいた才蔵にはわからない。

 しかしその言葉には、十分過ぎる程の魔力が備わっていた。

 囲いの周りに群がっていた観衆の誰しもが、自分以外の人間を疑うよう誘導する魔力。

「おい! お前、今ここから逃げ出そうとしていただろう!」

「冗談じゃねぇ、そういうおめぇこそどうなんだい」

「ちょっと! あたしゃこれから仕事なんだよ! とっとと抜けさせておくれ!」

「俺を誰だと思ってやがる! 憚りながらこの備前屋冨五郎びぜんやとみごろう、勘当された身でも掏摸なんて外道に堕ちちゃあいねぇぜ!」

 罵り合い、つかみ合いの大乱闘に変わるまで、さほどの時間を要しなかった。

 その騒ぎの中、全てに取り残されたかの如く、囲いの中で呆然と佇む才蔵の口から、魂が抜けたかのような声が漏れ出たことに気づく者は、いなかった。

「お澄殿、遅いなぁ」



「えらいことに巻き込まれよったなぁ」

 江戸北町奉行所定町廻り同心であり才蔵の世話役でもある蒔田七右衛門は、茹で上がった芋のような額から吹き出る汗を、手拭いでふき取った。

 采女が原の馬場に人が集まるのは日常茶飯事だが、そこで騒ぎが起これば変事である。

 管理者から報告を受け駆けつけた役人が最初に疑ったのが、才蔵だった。数刻のうちに同じ場所で大勢の人間が掏摸に遭ったとなると、考えられるのは辣腕の掏摸が一人でやってのけたか、複数の掏摸がこの機を逃さず一斉に動いたかの、いずれかである。

 被害の数と範囲から後者――即ち複数の掏摸による計画的犯行であると推測した同心と手下は、疑惑の眼差しを、仇の討ち手もいない舞台に一人立つ才蔵へと向けてきた。

 その疑惑を払拭したのが、当の被害者である観客たち。

「その旦那は、囲いの中にずっと一人でおりました」

「しかも途中で真剣を抜いたお侍とやり合っているのです」

「仲間だとしても、命懸けの勝負でもらえるお零れが、あっしらの乏しい懐具合ってんじゃ、いくらなんでも割に合いませんや」

 結局、掏摸は現場を押さえない限り捕まえることが出来ない為、被害者全員泣き寝入りのまま解散となった。

 才蔵も解放されたが、掏摸の一味と疑われたことより、お澄金吉と宗方万丈が現れなかったことの方が気になる。

 狐に鼻を抓まれたような気分のまま、上司に要領を得ない報告をした才蔵は、そのまま元の職務――門番として数日を過ごした。

 あの場で決闘が行われていたならば。宗方一派相手に大立ち回りを演じていたならば。

 こうして門番の仕事を続けていたであろうか。

 近侍とまではいかずとも、組頭あたりに抜擢されていたか、或いはお澄の国元まで同行し、其方で婿養子として晴れて祝言を――

 未練がましく夢想しながら長屋に帰宅した才蔵を出迎えたのが、蒔田又七郎だった。

 裏長屋住まいとはいえ、痩せても枯れても伊達家の家来である。町人相手に相談や頼みごとをさせるわけにはいかぬと、他の業務との兼任という形で才蔵の元へと派遣されたのが、この中年男である。

 齢は四十手前。苦労しているのか髷や鬢に白いものがちらほらと見え始めている。年長の息子が才蔵の三つ下らしく、才蔵がやや年上の息子か弟のように見えるらしい。

 才蔵も才蔵で、蒔田を便利屋扱いしつつも、困っている時には自ずから手を貸すこともある。捕り物で怖じ気づいた蒔田から棒を奪い取り、悪漢を残らず叩きのめして彼の手柄ということにしてからは、お互いに信頼関係を築き上げてきたと言っても過言ではない。

「なんだ、来ていたのか。まあ中に入れ」

「いや、それには及ばぬ」

 労いつつ借家の中へ誘おうとする才蔵であったが、蒔田は珍しく遠慮する。

「例の、采女が原の仇討ちの件な。あれの調査で進展があったので、それを伝えに来ただけだ。女房に買い出しを頼まれておるので、これからそっちに行かねばならんのだ」

 相変わらず、女房に弱い。

「まず掏摸の件だが――才蔵さん、奉行所は、あんたも騒動に巻き込まれた側だという結論に至った」

 それはそうだろうと、才蔵は頷いた。事実なのだから覆しようがない。

「表向きは取り調べの結果ということになっているが、要するに奉行所としては、伊達家と揉め事を起こしたくない、というのが正直なところだ。大体、そういうのは大目付の管轄になるから、奉行所が勝手に動くわけにもいかぬ」

「しかし、俺は双見長右衛門という御家人と決闘しているぞ。刀を抜いたのは向こうだが、それについてもお咎めはなしか?」

 仇討ちの助太刀は、事前に許可を得たものである。それに対し、長右衛門との決闘は突発的なものなのだから、本来ならば喧嘩両成敗という形で、何がしかの処罰が下されなければならない。伊達家から才蔵に対する処分が下されないのは、まずは公儀が長右衛門に下す判決を見てから、ということなのであろう。

「これも奉行所の管轄外だから詳しいことはわからんが、どうやら双見家では、長右衛門は木挽町などには出向いておらず、その日は一日中屋敷内にいた、ということになっているらしい。つまり才蔵と決闘したのは、双見長右衛門の名を騙る偽者で、敗北したのも本人ではない、と言い張っておるのだな」

 また随分と姑息な手を使う。尤も、それで御家人との喧嘩が不問になるのであれば、才蔵としても願ったり叶ったりではあるのだが。

「それより仇討ちの件だ。結論から言えば、仇討ちの話は全くの出鱈目だ」

 蒔田の言葉に、才蔵は一瞬己が耳を疑った。

「何を言っておるのだ、お前は。決闘場だって、釆女ヶ原にちゃんと」

「あの場所を使わせてくれと言ってきたのは、旅芸人の一座だったそうだ。当日だけは小屋を建てずに芸をすると言っていたので、才蔵さんも芸人の一人だと思っていたらしい」

 失礼な話だと、才蔵は軽く腹を立てた。

「奉行所の記録を漁ってみたのだが、有馬家家中の沼田惣佐衛門が娘、お澄が仇討ちの申請をした、という話はどこにも残っておらぬ」

「仇討ちに、許可がいるのか」

「当たり前だろう。例外もあるが、誰が誰をどのような理由で討とうとしているのか、届け出ていなければならぬ。考えてもみろ。往来で人に斬りつけてから、実は親の仇を探し求めていたと語り、しかも斬りつけた相手が人違いだったとしたらどうする。事前に申請してそれを証明しなければ、御公儀も相手も許す筈があるまい」

「成程。しかし、その例外という奴ではないのか」

「例外というのは、討ち手が申請する前に仇を見つけ出した時に限る。しかし才蔵さんの話では、お澄はふた月も前に江戸に着いていたというじゃないか。だから儂は、伝手を頼って、有馬家がこの仇討ちにどれだけ関わっているのか、調べてもらった」

「どうだったのだ」

「有馬家の家臣に、これまで沼田惣佐衛門なる男はいない」

 衝撃が、才蔵の脳天を貫いた。

「当然、娘などおらぬし、宗方万丈なる男も知らぬ。それどころか――才蔵さん、お澄という娘が言っていた牡丹の話も、全くの出鱈目だった」

 一体、何がどうなっているのだ。

 お澄も金吉も宗方も存在したし、声も聞いたではないか。

 幽霊か。否、幽霊にも名はあろう。あの三人は幽霊ですらない。

「経緯はどうであれ、事件は事件だ。どうにか手掛かりを得られないものかと人相描きを作らせて方々に見せて回ったところ、意外なところから返事が来た」

「何処からだ」

「大阪奉行所だ」

 大阪、と繰り返し呟いた才蔵の脳裏に、堺から出てきたというお澄の言葉が、涼やかな声と共に浮上する。

「従者の金吉と名乗っていた爺ぃは、とんでもない大物だった。奴の正体は、あけ酉蔵とりぞうという盗賊の大親分だ。押し込みや騙り、強請りを生業として、若い頃に遠島に処せられたというのに、御赦免で戻ってきてからは西で暴れ回っていたらしい」

 才蔵は、土間に平伏していた金吉の、皺だらけで覇気のない顔を想起した。あんな弱々しい老人が大悪党の親分だったとは、とても思えない。

「それともう一人――宗方万丈だが、こちらも大物だ。播磨で掏摸の一団を取りまとめていた、万吉まんきちという元侍のやくざ者だった」

 こちらは、金吉に比べればまだ腑に落ちる。宗方万丈には、確かに侍にしか醸し出せない気品があった。

「つまり、筋書きとしてはこうだ。大勢の手下を引き連れ、西国から江戸に流れ込んできた才蔵と万吉は、手を組んで仇討ちの大芝居を演じ、物珍しさに集まってきた野次馬を相手に、腕利きの掏摸を使って大掛かりな荒稼ぎをやってのけた、ということになる。まあ、こいつは儂の当て推量に過ぎないのだがな」

 お澄も、悪党一味の手下だったのか。

 自分は、そうとは知らずに悪党の客寄せと足止めを手伝っていたのか。

「しかしまあ、思い切ったものだ。名を騙る。身分を騙る。罪状を騙る。借金を騙る――騙る中身にも色々あるだろうが、よもや仇討ちを騙る奴が出てこようとは。いやはや世も末であるなぁ」

 北町奉行所定町廻同心の言葉とは思えぬ、蒔田の呑気な感想は、しかし才蔵の耳には届かない。

 お澄が悪党の手下だったとは、到底信じられない。

 縦しんばそれが事実だとしても、純情可憐な彼女のことだ。恐らくは金吉こと朱の酉蔵に脅され、嫌々ながら協力しては後悔し、夜ごと悲嘆に暮れているに違いない。

 もし彼女の居場所を突き止めたならば、御家から暇を頂戴してでも救いに行かなければならぬ。

 彼女の身が酉蔵に汚されていたとして、或いは将来を誓い合った許嫁がいたとしても、それはたいした問題ではない。

 思い叶わなくとも、せめてまた、一目だけでも会いたい。

「それと、お澄って娘だが」

「お澄さんがどうした」

 平静を装いながら、蒔田に尋ねる才蔵。

 もし彼女が奉行所に囚われてしまったのだとしたら、血路を開いてでも救い出さなければならぬ。

 だが、真実は才蔵の決意をも嘲笑った。

「ありゃあ酉蔵の孫で、傾城の源太郎げんたろうって小僧だそうだ。いや、齢はあんたと同じだそうだから、小僧とは言えんな。なんでも娘に化けるのが得手だそうで――あっ! どうしたおい、急に倒れるなっ!」

                                       (了)

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