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ヤモリ男の冒険 ②

 こうなると、陽が昇って早々に夜の到来が待ち遠しくなる。
 平日の昼間は、履歴書を送った会社から面接の連絡が届くかもしれないということで、基本的には電話の前から離れることが出来ない。
 今となっては留守電機能など付いていて当然の機能なのだが、引っ越した当時は学費を捻出する事ばかり考えていたので機能よりも価格を重視し、就職してからは新居への引っ越しのついでに――などと悠長に先送りしていたことが、完全に裏目に出ている。
 部屋に籠り電話の呼び出し音をまだか、まだかと待ちわびながら、面接での受け答えについて脳内でシミュレーションする拓植。希望は営業なのだが、職種についてあれこれと選り好みしている余裕は無い。
 隣人加藤が披露したブラインドタッチ、さらにこれからの時代には必要になりそうな情報通信に関するスキルの取得も視野に入れていると語るべきであろうか。しかしそれならそれで、何故失業中してから今までの間に学ぼうとしなかったのかと問われたりはしまいか、という懸念が生じる。やはり今のうち――再就職前に学び取るべきなのかもしれないが、そうなると勉強中の生活費はどうするのか、という新たな問題が生じる。
 学生時代の友人たちは、この変わりつつある社会環境に適応できているのだろうか。
 加藤のように卓越したパソコンスキルを身につけ、第一線で活躍しているのだろうか。
 久しぶりに顔を合わせたい気持ちはあるが、こちらが失業した身でお互いの近況を語り合うとなると気がひける。
 時計の針が長短重なり真上を指したことで、コーヒーにトーストという、朝と全く同じメニューの昼食を済ませた拓植は表に出た。
 昼休みに人事の電話を掛けてくることはまずないだろうという元サラリーマンなりの判断であり、一時間弱の限られた期限で夜の徘徊先と目的地を見つけ出してしまおう、という魂胆もある。
 建物そのものはオンボロアパートだが、周辺の環境は悪くない。
 バス停は近いし、多少時間が掛かることに目を瞑れば徒歩で駅まで行けなくもない。
 ただしアパートは坂の途中にある横道の先に建っており、敷地も狭いので駐車スペースなど存在せず、店子どころか遊びに来た友人からも「有料駐車場を探すのが面倒」と愚痴を言われている。
 アパートを出てから、バス停のある下り側ではなく、坂の上り側へと向かってみる。
 バス停もスーパーも競馬場も下り側にあるので、逆方向へ向かうことは滅多にない。
 上り坂の先は住宅街ということになってはいるが、住宅の次に多いのが山肌といった有り様で、言ってしまえば高級な印象とは程遠い、舗装されただけの山道である。
 唯一活気に満ち溢れている学校の手前で、拓植は足を止めた。
 理由は学校ではなく、道路を挟んで向かいにある建物である。
 昭和時代には一般的であった二階建て日本家屋だが、屋根の中央からは、三階と呼ぶには小さすぎる瓦葺きの小部屋がぽっこりと浮かび上がるように突き出ており、二階には寺院さながらの渡り廊下が据え付けられている。
 風変りではあるのだが、何故か拓植にはその様式に見覚えがあった。
 何処で見たのか。その用途は。
 記憶の由来を確かめるためにも中に入ってみたいところではあるが、他人様の土地に無断で足を踏み入れるのは犯罪であり、猫の侵入すら容赦なく阻む逆棘付きのブロック塀が、警備の厳重さと主人の非情さを物語っている。そうかといって、わざわざ玄関の呼び鈴を鳴らしてから、あれは何ですかと尋ねたのでは、家人に奇異の目で見られることは間違いないだろう。
 こういう時こそ、ヤモリの出番である。
 ヤモリの視界と人間の視界では差異があり、道を間違えるという致命的失敗を犯す可能性があるということは、昨晩の帰還で思い知らされている。隣部屋から自室にある本体の口内に戻るだけでも距離感が掴めず、危うく本体の頭上を通り過ぎるところだった。
 人間の身体であれば近所としか思えない距離でも、ヤモリの身体では遥かに遠い僻地と錯覚するかもしれない。道を間違えないためにも、移動中の目印は必要不可欠である。
 表札に記された氏名と、敷地内に駐車されている中型トラックの色とナンバー、さらにトラクターの外見を記憶に叩き込んでから、道中の目立つ道標を求め、拓植は踵を返した。

 アパートの外にまで行動範囲を広げたのでは、さすがに窓を開けっぱなしにするわけにはいかない。
 さりとて屋外で意識を失うわけにもいかず、どうしたものかと乏しい知恵を振り絞った拓植が辿り着いた結論が、流し台の換気扇だった。
 プロペラの止まった換気扇なら潜り抜けるのも容易だろうし、高所に設置された狭い換気口もヤモリの身体ならば何一つ問題にならない。
 そうなると、換気扇に近い位置で意識を失った方が、ヤモリに変じてからの移動も楽になる、ということである。
 灰皿に乗せた香に点火し、丸薬を呑み込んでから、拓植は洗い場の壁に背を付け座り込んだ。

 本体の口内から這い出て洗い場の壁に貼り付いた拓植は、髭剃り用に置いてある折り立てミラーで、改めてヤモリとしての己の姿を確認した。
 泥を練り上げて作り上げられたかのような暗褐色の全身。
 巨大な頭部に貼り付いた、まん丸とした両眼の中心には、縦に奔る亀裂の如き瞳。
 ぶよぶよとした手足の先には吸盤の付いた太い五指。
 そして身体の三分の一を占める長い尻尾。
 原始的という表現がこれほど似合う生き物も、そうそういないだろう。
 続いて、壁にもたれたまま白目を剥いている本体、拓植守という人間を見る。
 まだ二十代の若さを保ってはいるものの、失業による不健康な生活習慣の影響か、はたまた倒産直前までの過酷なサラリーマン生活によりもたらされたものであろうか、学生時代に較べると覇気に欠け、やつれたようにさえ見える。
 この顔色のままで壁にもたれ、意識を失っているところを誰かに発見されたのでは、救急車を呼ばれる恐れすらある。早急に――明日にでも椅子を買ってくるべきだろう。
 換気扇と格子窓の隙間を潜り抜け表に出たヤモリの拓植は、暗い夜道の壁を、それでも目立たぬように影に隠れながら細心の注意を払いつつ這い進む。
 姿はヤモリであるものの、感覚や記憶は人間のままである。
 壁から剥がれ落ちないことを常に気に掛けながら進むよりも、人間時に歩き慣れている、アスファルトで固められた路上を歩く方が遥かに楽なのだろうが、時折夜道を照らす街灯の下に身を晒したのでは捕食者に狙われるだろうし、何より猛スピードで突っ込んでくる車が相手では、逃げる間も与えられずペシャンコにされかねない。
 じっとりと湿り気を帯びた晩秋の夜風を身に受けながら壁を這い伝う拓植の視界を、巨大な浮遊物が通り過ぎる。
 蛾。
 宵闇の天女と称するに相応しい、十五センチを超えようかというオオミズアオが、裸電球に傘を被せただけの粗末な街灯が放つ仄かな輝きに誘い出され、巨大な翼をはためかせながら人気の無い夜道を優雅に舞い踊る。
 街灯が作り出す光の輪を舞台にしながら、時として気まぐれに舞台を離れ漆黒の闇に身を躍らせたかと思えば、それに飽きたかのようにまたひらひらと光の輪に入り込む。
 昼と夜との境界、訪魔ヶ刻を愉しむかのようなオオミズアオの飛翔に、拓植は己の姿がヤモリであることすら忘れ、しばしその媚態に魅入られていた。
 やがてダンスに飽きたのか、それとも漆黒の暗中に新郎の姿を見出したのか、オオミズアオが細い眉を震わせながら離れ溶け込むように闇夜へと消えてから、拓植はようやく本来の目的を思い出し再び這い進む。
 あの舞踏を鑑賞できただけでも、ヤモリに変化した甲斐があったというものである。
 目印となるポスト、斜めに傷のついたカーブミラーを通過し、さらにはまだ誰か残っているらしい小学校の前の路上を早足で横切った拓植は、目的地である屋敷に辿り着いた。
 犬猫の侵入を阻む逆棘も、ヤモリの身では障害にならない。
 トラックとトラクターの前を横切り、壁を這い上って通気口から侵入した拓植は、がらんとした屋内の片隅に掛けられた殺虫灯に照らし出された物体に近づく。
 横木に掛けられ並んでいる、大量の木枠には見覚えがあった。
 拓植が小学生の頃、社会科見学で訪れた養蚕農家に置かれていた「まぶし」である。
 同時に、あの頃のぼやけた記憶の断片が繋ぎ合わさり鮮明な記憶となって甦る。
 建物に見覚えがあったのも当然だろう。あの時も、変わった造りとその内部には驚かされた記憶がある。
 つまりこの家は、あの時の見学先と同じ養蚕農家ということになる。
 確か見学時に聞いた話では、ここで育てられる蚕は年に数回、繭を作り成虫になるまでの間、安全な場所で餌となる桑の葉を大量に与えられ、糞尿の世話までしてもらえるが、蚕の作った繭は残らず回収され絹糸になるということだった。
 まだ子供だった拓植が、それからしばらく上着やズボン、靴下や下着に至るまで、身につけるのに躊躇いがあったのは、絹糸の正体がぶよぶよとした白い芋虫の吐き出したものであると知ったからに他ならない。
 底が無い木枠の中が格子状に仕切られている「まぶし」には、格子の一つ一つを翅化のための住処と定めた蚕たちが入り込み、格子一つにつき一匹ずつ、白い身体を横たえながら糸を吐いて繭を作り上げる。予め仕切りを作っておけば繭が中でくっつくことも無く、取り出すのも容易であるらしい。
 繭を作る蚕は上方に棲みたがる習性でもあるのか、縦に並ぶ「まぶし」の上方に多数の繭が作られ続けた場合、「まぶし」は横木を軸に半回転し上下を逆さまにする仕組みになっている。
 その横木に貼り付き、最も手近の「まぶし」に近づく拓植。
 上下の殆どが白い繭で埋め尽くされた「まぶし」には、自分の居場所となる空き格子を求めて蠢く二匹の蚕の姿があった。
 どうやら、一つしかない空き部屋を前に争っているらしい。
 拓植の身体は、ヤモリのままである。
 本来ならば、ヤモリにとって蚕のような幼虫は格好の餌となるのであろうが、拓植ヤモリの知能と意識と感覚は人間のままであるらしい。
 食欲は湧かない。
 むしろヤモリである自分が、こんなに容易く侵入できるのでは危ないとさえ思い、人の姿に戻ってから、侵入口である壁の穴に目貼りをするようアドバイスできる方法は無いものかと、真剣に考えるほどである。
「僕のものだ」
「嫌よ、私が先に見つけたのよ」
 横木に貼り付き息を潜めていた拓植の耳――ヤモリに聴覚があるかどうかまでは知らない――に、キイキイという甲高い声が飛び込んできた。
 僅かに頭を上げ、瞼の無い両眼で人の気配を探る。
 動いているのは、正面にいる二匹の蚕だけである。
 虫の言葉を理解できるのか。
 指南書に書かれていたとはいえ、さすがに冗談だろうと思っていたのだが。
 言葉が理解できるということは、会話が成立する可能性もあるということになる。
 拓植は、首の手前まで裂けた口を大きく開き、声を出した。
「こんばんは」
 人間が聞いていれば、只のヤモリの鳴き声だろう。
 しかし拓植には人の声、人の言葉として耳に入ってきた。
 その声に反応したらしい二匹の蚕は「まぶし」の中央、拓植が貼り付いている横木の前まで移動する。
「誰?」
 いずれかの蚕が発したらしい声が、言葉となって拓植の脳に飛来する。
「仲間じゃないね」
 蚕の一匹が、不思議そうに上半身をグニャリと捻じ曲げた。
「貴方、誰?」
 今度は、もう一方の蚕が尋ねてくる。
 餌に呼び掛けるヤモリに、相手が捕食者とは知らずに珍しがる蚕。
 これでは、まるでお伽噺である。
 しかしそれを言うなら、そもそも人間がヤモリに変化した時点でお伽噺のようなものだろうと、自嘲気味に笑った拓植であるが、顔は勿論ヤモリのままである。
「君たちの喧嘩がうるさいんで、止めに来たんだ」
 ヤモリであることは敢えて告げず、拓植は前足の扁平な指先で二匹の傍らにある仕切りを指さす。
「空き部屋なら、ほら、そこにもあるじゃないか」
「本当だ」
「それじゃあ、私はここにしよう」
「僕が入るんだ」
 これが人間の児童ならばまだ微笑ましい光景に見えるのかもしれないが、拓植の目の前で言い争っているのは、白くぶよぶよした蛾の幼虫である。
 ふと、オオミズアオによる優雅な舞いの情景が浮かび上がった。
 あのように自由であれば、たかが「まぶし」の中の仕切り一つを巡って争ったりはしないはずである。
「君たち」
 陣地の奪い合いは、どうやら雌らしい蚕の勝利に終わったらしく、雄らしき蚕が愚痴を言いながら木枠を伝って「まぶし」の上方に戻ろうとしていたところで、拓植は声を掛けた。
「これから、その中で繭を作るのかい?」
「そりゃそうだよ」
「素敵な繭を作って、その中で蛹になって、立派な大人になるのよ」
 蚕の幼虫は、人間に例えるならば児童にあたる年頃なのだろう。将来の夢を無邪気に語るその姿に、拓植は自分たちの幼少時代、まさに社会科見学で養蚕農家を訪問した頃の自分を重ね合わせ、成虫になってからは食物を摂取できずに死んでいくしかない将来を、不憫に思いさえした。
 せめてオオミズアオのように広い世界を自由に飛び回る喜びぐらいは知ってもらいたい。
「君たち、この部屋は人間が作ったものだということは知っているかな?」
「勿論よ」
「僕たちが大人になるまで、いや大人になってからも面倒を見てくれるよ」
 マユコという食材がある。
 繭から取り出し不要になった大量の蛹を佃煮にしたもので、東アジアではよく食べられているらしいのだが、さすがにその残酷な真実を伝えるのは憚られた。
「この部屋以外にも、繭を作るのに良さそうな場所があるんだ。しかもそこで蛹になれば、こんな狭い場所とは比べものにならない広大な世界で自由気ままに生きていける。どうだい、ここから外へ出てみないかい?」
 人間ならば完全に人攫いか悪質な勧誘の口上だが、当の拓植には一片の悪意も無い。むしろ、この二匹だけでも外の世界で自由を味わってもらいたいという憐憫と同情からの言葉である。
「嫌よ」
 しかし、蚕の反応は冷淡であった。
「外の世界に出る必要なんて、私には無いわ」
「僕だってそうさ。わざわざ好き好んで今の生活を捨てるなんて、とんでもない」
「それに、勝手に外に出て繭を作っちゃったら、今まで私たちの面倒を見てくれた人間たちを裏切ることになるじゃない。そんな恩知らずな真似、したくないわ」
「こうやって僕たち皆が安穏な生活を送って来れたのも、人間が食事や温かい部屋を用意してくれたからだものね」
「それは、君たちが糸を吐き出して作り上げる繭が欲しいからであって、君たちの世話をするのが楽しいからじゃないし、君たちの成長を見届けたいからやっているわけでもないんだよ」
「繭が欲しくてやっているのなら、それでいいじゃない」
 意見したのは雄か、それとも雌の方か。
「大人になれば繭が用無しになることぐらい、私だって知っているわ。それを人間がどう使おうと、それは私たちの将来とは無関係だもの。好きにさせて何か問題があるの?」
「むしろ、僕たちにとって要らなくなった物のためにここまで養ってくれたんだから、喜んでプレゼントしたいくらいだよ」
「しかし、繭の中で蛹になったまま死ぬことだってあり得るじゃないか」
 正確には、死ぬのではない。殺されるのである。
 繭を解して絹糸に変えるためには、繭を丸ごと茹でる必要がある。その前に繭の中で蛹が翅化してしまうと絹糸が千切れ易いものになってしまうため、蛹が入ったままの繭を一斉に釜に放り込んで茹でる。当然、繭に入ったままの蛹は熱で全滅し、茹で上がった繭を絹糸に変える工程の中で取り除かれる。
 生き残るのは、紡績工場に出荷される前に選別された、ごく少数だけで、その生き残りが翅化して成虫となり、交配して大量の卵を産み落とす。その卵が大切に保管され、次の世代以降の養蚕に使われるのである。
 蚕の幼虫に、親からの記憶が本能として刻み込まれて続けているのであれば、糸を吐いた後は必ず翅化できると信じ込んでいたとしてもおかしくはない。
「そうだとしても、人間は僕たちが生まれてからずっと面倒を見てくれているんだ。それを無視するわけにはいかないよ」
「いや、生まれてから死ぬまでずっと面倒を見てもらうのは、管理されているのと一緒だ。不自由のない生活を送っているのではなく、与えられているもので満足しなければならない不自由な環境で生きているだけだ。君たちはオオミズアオを見たことがあるかい?」
「初めて聞く名前だわ。見たことも無い」
「君たちの親戚とも呼べる生き物で、大きな体と美しい翅を持っているんだ。それは広大な夜空を自由に飛び回り、行きたい所に行き、食べたいものを食べる。まさに自由そのものと言える生活を送っているんだよ。そういう生活を送りたいとは思わないのかい?」
 拓植の説得は、しかし蚕たちにとっては耳障りな異論でしかない。
「自由に飛び回ると言うけれど、それまでの間にどれほどの苦労があるのか、わかったようなものじゃないわ。私たちを育ててくれる人間は、私たちが暑さや寒さ、病気なんかで苦しまないよう、手を尽くしてくれるもの。私たちの繭が目的だとしても、ここまで尽くして面倒を見てくれるのだから、繭くらいはあげても良いじゃない」
「それとこれとは」
「それに」
 雄の蚕が、続けとばかりに畳みかける。
「僕たちは、わざわざ自分から寒く苦しい外の世界に出ていきたいとは思わないよ。確かに僕たちは、あんたから見れば狭い場所で、人間の手を借りなければ生きていけない不自由な生活を送っているのかもしれないけれど、人間が僕たちの繭を欲しがる限り、そして僕たちが糸を吐いて繭を作り続ける限り、安全で飢えることも苦しむこともない生活を送り続け、子孫を残していけるんだ。自由とやらを餌にして危険に身を晒すよう唆すなんて、あんたは酷い奴だね」
「さあ、無駄話をしている暇は無いわ。私たちも早く自分の繭を作り上げて蛹にならないと」

 ひんやりとした外気が、ヤモリの姿と化した拓植守の脳を刺激した。
 あの蚕たちの言い分にも一部の理があることは、認めざるを得ない。
 いたずらに自由を求めて危険な外界へと飛び出すより、己が産出する絹糸と蛹になって以降の生涯を代償に、安全と平穏を保証された管理社会で安穏とした一生を送り、子孫を残そうとする生き方も否定できないだろう。
 もちろんそこには絹糸を吐くという労働はあるし、大部分は成虫になる前に殺されてしまうことを覚悟しなければならないのだが。
「我、尾を塗中に曳かんとす」
 古代中国の思想家、胡蝶の夢を見たという荘子――荘周が、国の宰相になってくれと頼まれた時に返したと言われている言葉である。
 国の方針、方策を決める亀甲占いに使われていた、装飾された亀の甲羅。
 殺されてから甲羅のみ丁重に扱われる生涯と、空き腹を抱えながら餌を求め、塗中即ち泥に塗れながら生きていく生涯のどちらが幸せか、と問うたもので、勿論生きていた方が良かろうと答えた役人に、私もそう思うのでお断りいたしますと返答したという。
 下手に祭り上げられ面倒事や危険な作業を押し付けられ、しかも目的の為に殺された挙句に死体すらも利用される。社会的には恵まれた地位や役職に就き思い通りに生きているように見えても、実際は自由を奪われ苦しい生活を送り続けるだけ。そのような目に遭うくらいなら、貧しくとも自由で身軽な生活にこそ価値がある、という説話である。
「沢雉は十歩に一啄し、百歩に一飲するも、樊中に畜わるを求めず」
 雉は常に餌を探し求め、飲み水の確保にも苦労しているが、それでも鳥籠の中で飼われようとはしない。それは籠の中が不自由な場所と知っているから、という弁である。
 しかしそれは、亀や雉が自然の中で自由に生きていたところを捕らえられたからであって、生まれた時から飼育され続けている環境であるならば、蚕たちのように不自由は感じられないのかもしれない。
 羽化してからは、己の寿命が尽きるまでの間にパートナーを見つけ出して交尾し、子孫を残すのが蚕の宿命であり目的でもある。
 食事と住処のみならず、最初からパートナーが目の前にいるも同然の環境は、蚕たちからすればなんの不満ももたらさない最高の環境と言えるのかもしれない。
 それに対する代償が、本来ならば羽化に必要な環境を作り上げ、外敵に対して無防備になる蛹を保護するための繭である。外敵の存在すら知ることも無いほど徹底的に保護された世界であれば、蚕にとっては本能のままに作り上げただけに過ぎない、実際には役に立たないものを差し出すような感覚なのかもしれない。
 つまり、蚕として世に生を受けてから命尽きるまでの間、食事も住居も用意してもらい、羽化してからのパートナーすら面倒を見てもらえるのならば、蚕たちにとって不自由な環境とは呼べないのだろう。むしろ危険が多く、将来のパートナーどころか飲食すらままならない外の世界の方が、不自由に映るのではないだろうか。
 養蚕農家を出て帰途に着いたヤモリの拓植は、サラリーマン時代には何度となく往復していた場所によく似た夜道に出た。
 胸中を過る失望は、会社が潰れると聞かされた日の帰途で抱いた感情に近い。
 感傷に浸る拓植は、さして時が過ぎたわけでもない嘗ての光景を懐かしむように、貼り付いていたブロック塀からアスファルトの路上に這い降りた。
 巨大な両眼に広がる光景の端。
 街灯の輝き。
 その魅力に吸い寄せられたらしい、オオミズアオの三分の一にも満たないサイズの蛾が、無垢な犠牲者を餌食にせんと目論む蜘蛛により張り巡らされた粘性の網に捕らわれ、片方しか自由が利かなくなった翅を盛んに震わせ脱出せんと、無駄な足掻きを続けている。
 あれでは奇跡的に脱出を果たしたとしても、翅に貼り付いた蜘蛛の糸は取れず、羽ばたけぬまま死を迎えるしかない。
 小型の我を捕らえた網は、決して大きなものではない。
 先程のオオミズアオであれば、あの程度の蜘蛛の網なら容易に引き千切って逃げおおせていただろう。
 大きく強い虫ならば易々と解決出来ることが、小さく弱い虫には困難な問題となる。
 自由に生きるためには、己の身に迫る危険に抵抗し、或いは無事に逃れるだけの力が必要不可欠で、そうでなければ簡単に命を落とす。
 そして、それだけの力を持った虫ですら鳥やコウモリ、蛇に喰われてしまうのだから、自由な世界とは同時に生物にとって厳しい世界であることに変わりは無い。
 その世界と比較すれば、例え狭い屋内で管理されているとはいえ、外敵から保護されながら一生を過ごしていける世界というのは、ひ弱で抵抗する力を持たない蚕たちには、むしろ適合した環境なのかもしれない。
 徐々に羽ばたく力を失いつつある蛾を呆然と眺めていた拓植の身体に、重みのある圧力が掛けられた。
 脳天にも背中にも、何かを押し付けられた感覚は無い。
 何かが圧し掛かっているのは、人間の感覚では気づきにくい、人の身体には存在しない尻尾であったことが、気付くのが遅れた原因なのだろうか。
 首を傾けた拓植が確認できたのは、柔らかい肉球に鋭い爪。
 比較対象を人間時で例えるとすれば、正面から見たバスかトラックか。
 そう思えてしまうほど巨大な夜行性の肉食獣――猫。
 獣毛に覆われた顔の中、唯一らんらんと輝く両眼で、興味深げにこちらを凝視している。その中心にある瞳が大きく広がっているのは、周辺の暗さよりも捕らえたヤモリに対する好奇心と興奮からだろう。
 行きも帰りも壁を這い伝い用心を続けていたヤモリの拓植であったが、街灯の下で蜘蛛の巣に引っ掛かった蛾を見つけてからというもの、人間の意識と感覚が優先されてしまったらしく、四つ足の身とはいえアスファルトが持つ独特の質感を求めてつい路上に立ってしまったのが、凶と出た。
 野良猫か飼い猫か、何れにせよこちらが人間時であれば可愛げのある顔と仕草で和ませてくれるであろう白と茶の二毛猫が、今は小さくひ弱なヤモリの尻尾を前足で押さえつけながら、裂けんばかりの口から鋭い牙を剥き出し、悪魔的な笑みを浮かべている。
 恐らくは、ヤモリという生き物を生まれて初めて目にしたのだろう。いざ捕まえてはみたものの、その正体を掴みかねている困惑が、得物に対する興味と混ざり合ったかのような表情をしている。
 このまま一気に咬み殺されるのか。
 それとも胴体を鋭い爪で切り裂かれてしまうのか。
 どちらにしろ、二毛猫の興味が尽きた次の瞬間には拓植の命の灯火が消し飛ぶことに変わりはない。
 なんとか逃げ延びなければと必死で手足をばたつかせ、もがいては見るものの、その程度の抵抗で二毛猫の前足による縛めが解かれることは無かった。
 何か手は無いものかと人間らしく思案する拓植であるが、時既に遅しとばかりに、二毛猫が処刑宣言さながらの鳴き声を上げる。
 もうだめだ。
 覚悟を決めるしかなかった拓植の記憶から、何故か歯医者で親知らずを抜いた時の衝撃と痛覚が蘇る。
 次の瞬間には体が軽くなり、拓植は束縛から解放される。
 さては殺されて魂が抜け落ちたのか。
 もしそうであれば、猫の悲鳴がここまで鮮明に聞こえるものだろうか。
 背後では、それまで精神的優位に立ち悦に入っていた猫が、派手にのたうち回る縄のような物体に吃驚し、身を竦めていた。
 自切。
 生命の危機に直面したトカゲやカナヘビが、己の尻尾を切り離して逃げ出す行動である。
 似たような尻尾を持つ爬虫類であるヤモリが持っていてもおかしいは思わないが、実際に目の当たりにするのは拓植も初めてであった。
 千載一遇のチャンスである。逃げるから今しかない。
 素早く路上のアスファルトから塀のコンクリートに移動した拓植は、動物の闘争本能が命じるままに駆け出した。

 どうにかアパートに辿り着いた拓植が、ヤモリから人間の姿に戻った時には既に日は昇り、時計の針は八時半を回っていた。
 換気扇を潜り抜け口内に入った時には、尻尾を失ったことで人間の姿に戻れなくなったのではないか、このままヤモリとして生涯を終えねばならなくなってしまったのではないかと恐懼していたが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。
 ほっと安堵の息を吐いた拓植の脳裏に、眼前まで迫った二毛猫の凶悪な顔が、鮮明な画像となって甦り、思わず身を竦める。
 しばらくは猫を見ても可愛いと思うことは無いだろう。
 さらに、猫に殺されかけるという失敗の原因は、不覚にも壁から路面に降り立ったことであろうと反省する。
 慎重さに欠けていた。
 人間ならば、考え事をしながら歩いたところで自動車やバイク以外で危険な目に遭うことは稀であろうが、ヤモリやトカゲのような生き物は、僅かな警戒の隙が命を落とす結果に繋がるのだ。
 今回は猫に捕まったが、天敵は猫だけではない。
 鳥ならカラス、梟。猫以外の哺乳類なら鼠にも狙われるだろうし、犬も危ない。蛇相手に勝ち目はないだろうし、餌になるはずの蜘蛛や百足の中には、逆にヤモリを喰いかねない巨大な種もいる。彼らから逃れる為、また餌となる昆虫を効率よく捕食するために、ヤモリは天敵の手が届きにくい壁や天井に貼り付いているのである。
 恐ろしいのは捕食者だけではない。夜道を疾走する車に轢き潰されていた可能性だってあるし、急な大雨にも気をつけなければならないだろう。
 人間に戻ってから、あれこれと冷静に反省点や問題点を思い返すことが出来るのは、やはり養蚕農家での蚕たちとの会話が心に引っ掛かっていたからだろう。
 管理され、一定の期間まで安全な世界で生きる道。
 過酷な外の世界で苦しみながらも自由に生きる道。
 蚕たちが前者を選択したことが正しく賢いかどうかは断定できない。
 しかし選択の理由は、彼らが育てられた環境に依るところが大きいのではないだろうか。
 他の動物たちはどう思っているのか、それを知ってみたくもあるが、ヤモリの尻尾が切れてしまったのでは、二度と変化できないのではないか。
 鶴松から貰った調合済みの丸薬と香材は、残りあと一回分の変化がせいぜいのはず。
 そこまで考えた刹那、拓植は己の思考そのものに愕然とした。
 口内に潜り込んで息を潜めている間は、こんな目に遭うくらいならヤモリになど変化するべきではなかったと後悔し、もし人間に戻れたとしても二度と変化の術など使うものかと密かに誓っていた。
 それなのに、無事人間の姿に戻れた途端に考えていたのは、保管している丸薬と香材の残り使用回数である。
 反省点を挙げながらも、また危険に足を踏み入れようとする自分は意志が弱いのか。
 変化の術によりもたらされる、人ならざる姿での冒険が、それだけ魅力的なのか。
 とにかく、目覚めてからずっと鳴りっ放しの腹の虫を黙らせることが先決である。
 立ち上がった拓植は、そこでようやく口内の違和感に気づいて、流し台の折り立てミラーに向かって、べぇと舌を出した。
 上げられるものなら、あっと声を上げていただろう。
 ヤモリの本体である拓植の舌は、失われた尻尾の帳尻を合わせるが如く、一昨日に見た時よりも明らかに短くなっていた。
                                        (続)


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