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無人駅

 橋田純一巡査は、ため息をつきながら黒電話の受話器を置いた。
(まったく、柴田さんとこの婆さんは、俺を小間使いか何かと勘違いしているんじゃなかろうかね)
 もうすぐ駅に到着する便か、その次の便に孫娘が乗っているはずだから、迎えにいってもらいたい。
 そういう頼みごとを、わざわざ交番の巡査にする住民もどうかとは思うのだが、公僕である以上、善良な納税者の頼みを無碍に断るわけにもいかない。
 ただ、警察官としての自分が抱えている問題にも気づいてもらいたかった、と思っているだけだ。
「こっちは、それどころじゃないというのに」
 聞いてくれる相手もいない愚痴を言いながら、今年で五十八歳になる橋田は愛用の自転車に跨り、ペダルを漕ぎ始めた。
 
 M県S郡字(あざ)見(み)不知(しらず)は、盆地の入り口にある田園地帯である。
 いや、地方線でもその名を忘れられる時すらある時点で、辺境の地と呼ぶべきなのかもしれない。駅員は不在、切符は車内で買い求め、降りたら改札口に設置してあるスチール缶に入れる仕組みになっている。
 ほとんど過疎化した見不知では、さすがに見かねた県知事の要請により配備されたミニバスによる移動が主流になっており、さらに半年前の大地震により幹線が一部使えなくなったことも相まって、利用者が急減したという話も聞く。
 もっとも、一介の地方巡査でしかない橋田には、確かめる術が無いのだが。
 住民の人数が少なければ、起こる犯罪の件数も少ないのは当然だろう。
特に、世間で話題になるような事件は。
勤続年数三十五年、定年まであと少し。それまで事件と呼べるようなものなど、野菜泥棒と交通事故しか起こらなかった田舎で、ある朝少女の死体が見つかるというショッキングな事件が起こった。
被害者である岸本綾香の遺体が発見されたのは、見不知駅からそう離れていない田園の畦道だった。目撃者こそいないが、被害者は駅からどこかに移動しようとしていたことは確かであるというのが、調査本部の見解である。
 柴田老女が橋田に孫娘を迎えに行かせようとする気持ちも、まあわからなくもない。
 まだ事件の調査が始まったばかりで、事故とも他殺とも取れる状況なのだ。
 不快なブレーキ音を立てて停止した自転車。
 どっこいしょと声を出しながら降りた橋田は、見不知駅を見上げた。
 昭和の香りを残したままの木造建築は、温泉宿の物置小屋とそう変わりない外観でありながら、先の大地震でも被害らしい被害は出なかった稀有な建物である。せいぜい、天井板が傾いて隙間ができたくらいだし、それは有志数名で簡単に修理できた。構造云々というよりも、手掛けた大工の腕によるところが大きいのだろう。
 駅車内は、塗装こそされていないもののニスなどはしっかりと塗られており、木材の質のよさがそれとなく感じられる造りになっている。外側の壁に沿って設けられた改札口に設置されているダイヤル式の黒電話と、待合スペースの壁に貼られた時刻表、そして牛乳の広告が描き込まれたスチール製のベンチだけという粗末な設備は、設置者の意図とはまた違った意味で来訪者を驚かせている。
 一日に三本しか通らない地方路線の無人駅に人の気配が無いことを確認してから、橋田は再び自転車に跨った。
 
 
 代用とはいえ、それを「交番」と呼ぶのは無理があった。
 あまりにも自然に、周囲の風景に馴染んでいるからである。
「今日は涼しいですなぁ」
 大地震で倒壊した本来の交番の代用として、橋田が利用している公民館に案内された内藤刑事は、窓際の席に腰を下ろすとほぼ同時にネクタイを緩めて開襟し、持参のうちわで胸元を扇ぎ始めた。
 顔が赤いのは、暑さのせいというより生まれつきらしい。これから訪れるであろう本格的な猛暑では人一倍苦労しそうな肥満体も、貧相な己の肉体を気にしている橋田にとっては、羨ましい限りである。
「しかし、コンクリートの建物が崩れて木造の建物が残ったとは、まったくもって不思議な話ですなぁ」
「大工の腕の違いでしょうな」
 麦茶を差し出しながら、橋田がぼそりとつぶやく。
 内藤は、「岸本綾香失踪事件」の担当として県警から派遣されてきた刑事である。年齢は四十前後、東京へ行ったきり戻ってこない橋田の息子と、ほぼ同じくらいだろう。その顔からは、始まったばかりの捜査に対する困惑と、エアコンはおろか扇風機すらない公民館の設備に対する不満の色が、ありありと見て取れる。
「捜査の進捗ですが」
 いきなり自分の報告から始めるのは、面倒な世間話で時間を無駄にしたくないからか。それとも現場の捜査に何も期待していないからなのであろうか。
「検視の結果、被害者の死因は頚椎骨折――首の骨が折れたことが原因と見られていますな。恐らく、畦道で転げ落ちたときに、頭から落ちたんでしょう。頭髪、頭皮共に泥が付着していましたから」
「つまり、転んだわけですか?」
「あるいは、誰かに背中を押されたとか」
「誰に?」
「それを調べなけりゃいかんわけです」
 背中を押されたかどうかもわからないのに、無茶を言う。
「まあ、可能性のひとつでしかないのですが」
「可能性……ですか」
「被害者が転倒して首の骨を折ったとしても、のこのこと歩いて足を踏み外したのか、それとも何かから逃げようと必死に走っているうちに踏み外したのか、そのあたりも調べなければなりません」
「何か、とは?」
「それも、これから調べないと」
 話にならない。
「死亡推定時刻は、二十三時頃ですな」
「そんな深夜に、出歩いていたのですか?」
 見不知では、住民のほとんどが熟睡している時間帯である。
「被害者の年齢は、ご存知ですか?」
「十七歳でしたっけ?」
「十七歳にとっての二十三時なんて、別に遅い時間帯でもないでしょう。それに、彼女はそれまでずっと駅にいたようですし」
「そこが、私には不思議に思えて仕方ないのですよ。なぜに彼女は、こんな片田舎の無人駅に降り立ったのでしょうか? ここに親戚でも住んでいたんでしょうかね?」
「親戚の家に行くつもりではあったようですな。しかし、その親戚が住んでいるのは井螺逗(いらず)でしたが」
「井螺逗?」
 井螺逗は、二つ先の駅である。
「なんで、被害者は井螺逗ではなく、ここの駅で降りたんでしょうかね?」
「それなんですがね……」
 ファイリングしてあるはずのクリアシートの中を指先で掻き回し始めた内藤は、やがてその指先を止め、ため息をついた。
「すいません、署内に資料の一部を置いてきちまったようです。ちょっと待っててくださいね」
 スーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、耳に押し当てる。
「あの、内藤さん……」
「あ」
 聞こえてきたメッセージ音に、内藤はようやくここが見不知であることを思い出した。
「届かないんですよ、電波」
「これだから田舎は。いや、失礼」
「構いませんよ。それより、県警への電話ならこちらをつかってください」
 公民館の黒電話を受け取った内藤は、ダイヤルを回して県警へと繋ぐ。
「……私だ。机の上に資料があるだろう? すまんが、そいつをファックスで」
「内藤さん」
「あ、無いのか。すまん斉藤、そこに書かれている文章を読み上げてくれないか? ……だからメールも使えないんだよ、ここ」
 読み上げられたメールの内容を伝え聞き、橋田はそれを手近にあった大学ノートにまとめてみた。
「被害者の勘違い、ですか?」
「そうなんですよ。上の出した結論なんですがね、見不知と井螺逗を間違えたんじゃないかって。ほら、シとイは発音が似ているでしょう? それで、車内アナウンスを聞き間違えたんじゃないかって」
「彼女、前に井螺逗に行ったことあるんですか?」
「叔父叔母がいるそうです。それで小さい頃に家族で訪れて以来、その風景が忘れられなくて、夏休みの想いでコンクールに出展した絵も入賞したとかで。本人にとっては、どうしても再び来てみたかったんでしょうなあ」
「それが、こういう結果になってしまったわけですからなぁ」
「しかも、それが当日の最終便だった」
「ちょっと待ってください、内藤さん。ここの最終便は、十八時三十四分ですよ? 彼女、五時間近く、ずっと駅にひとりぼっちだったってことですか?」
「そう考えるしかないでしょうなぁ。ここ、宿泊施設とかも無いんでしょう?」
「ああ、まあ、確かに」
 しかし、その五時間前後の間、被害者は何の手立ても打てずにただぼんやりとしていたのだろうか?
 
 
 内藤が本庁行きの車に乗ったのを見届けてから、橋田は自転車に跨り、もう一度見不知駅へと向かった。
 柴田老女の孫娘が乗っているはずの便が到着するにはまだ早いのだが、内藤との会話中にふと思いついた事について確かめておきたいと思ったからである。
 田植えが終わったばかりの水田がつらつらと続く畦道は狭く、舗装されていない路面は僅かなハンドル操作のミスでも惨事を起こしかねないほど、でこぼこしている。道のりを知らない人間が灯りなしで夜道を歩けば、足を踏み外して転げ落ちるのは免れないだろう。
(コンクリートの建物が崩れて木造の建物が残ったとは、まったくもって不思議な話ですなぁ)
 あの時は大工の腕の違いだと答えたが、決して無傷だったわけではない。
 無人駅の前で自転車を停めた橋田は、施錠せずに駅舎内に踊り込んだ。急いだからといってどうなるわけでもないが、例え欠片でも真相究明へのヒントが得られるかもしれないという期待が、知らず知らずのうちに心を逸らせる。
 駅舎内には誰もおらず、傾きかけていた陽の光が窓ガラス越しにベンチの背もたれを温める。
 橋田はそのベンチの端を両手で押し、少しずつ駅の片隅に移動させた。スチール製とはいえ三人掛けの小さなものなので、非力な橋田でも時間さえ掛ければ動かせない事はない。
 全力で押し、それでも動かなければ反対側に回って引く。それを何度も繰り返して、どうにか駅の隅までベンチを移動させた橋田は、今度は靴を脱いでベンチの座面を踏み台代わりにし、天井に手を伸ばした。
 大地震で外れたのは、この天井板である。その時は有志の手ですぐに嵌め直したのだが、この天井板が容易に外せるものであれば、そして天井裏に人が潜んでいられるほどのスペースがあれば、どうなるか。
 岸本綾香を殺した犯人は、ここに潜んでいたのではないか?
 獲物を狙う地蜘蛛の如く、この天井裏から彼女の背後に這い寄り、襲いかかろうとした。それに気付いた岸本綾香はこの駅から逃げ出し、現場で転倒した。
 まさか、と橋田は自分の憶測を笑い飛ばした。
 もし仮にそうだとしても、犯人が被害者を襲った理由がわからない。
 それに、天井裏にいた理由も。
(……待てよ)
 変質者。都会から逃げ、適当に降りたこの駅に隠れながら。
 いや、違う。雨露を凌ぐ場所というだけなら最適だろうが、ここには水も食料も無いし、それがある農家までの道のりは遠く、誰にも見つからずに行くことは至難の業である。もしたどり着けたとしても、水はともかく食料が消えたとなれば、家人は必ず訝しむだろう。自分のところに何か言ってくるはずである。それに、水と食料を求めに駅を離れた男が、また無人駅に戻ってくるというのもおかしな話だ。一日に二度、自分が巡視に来ているのだ。こちらが気付かないにしても、いつまでも留まっているのは危険だと判断するはずである。
 しかし……しかし、もし潜んでいたら?
 天井板を押し上げようとしているのが、警官とはいえ非力な老人と気付いたら?
 橋田は、震える右手を拳銃のホルスターへと伸ばした。もちろん、人を撃った事など一度も無い。
 汗が、こめかみから頬へと伝い、顎の辺りで滴り落ちる。自分でもはっきりとわかるほど息遣いが荒くなり、喉が急激に渇き始めるが、今さらここで引き下がるわけにもいかない。
「えいっ!」
 覚悟を決めて天井板を押し上げ、首を突っ込む。
 もっと早く気付くべきだったのだろうが、灯りの無い天井裏は暗く、何も見えなかった。
 自転車に備え付けてある懐中電灯を取りに戻り、天井裏を照らし出してみたところ、そこに人のいる気配は微塵も感じられず、人がいた形跡も見当たらなかった。
 敷き詰められた断熱材と、その上に積もった埃の量は、橋田のような素人が見てもそれとわかるほど人の存在を否定している。
 それでも、念のため天井裏に入り込もうとした橋田だったが、すぐに諦めた。
 天井板は、人が乗れるような厚さではない。軽量の橋田でも、どこかで踏み抜くだろう。
 つまり、ここに人が隠れるのは不可能なのだ。
 よくよく考えてみれば、天井裏に隠れることが可能だったとしても、その状態からベンチを元の位置に戻す事などできるわけがない。
 安堵と微かな失望が入り混じった複雑な感情を抱えたまま、ベンチから降りた橋田の背後に忍び寄る影。
「あの」
「うひゃぁっ!」
 情けない声を上げてその場から飛び退き、振り向いた橋田の前に立っていたのは、二十歳前後の少女だった。半袖のシャツから伸びた細い腕と小さな顔が、ショートカットとパンツルックにとても良く似合っている。
 彼女もまた、橋田の大袈裟な反応に驚いていた。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫。大丈夫だけど、君は?」
「あ。えっと、利用者です」
 なんとも奇妙な返答だと思いながら、橋田は制服についた埃を手で払い落とす。
「あの、駅員の方ですか?」
 田舎の巡査といえどもプライドはある。「腰に拳銃ぶら下げている駅員がいるか」とどやしつけたいところをぐっと堪え、橋田は少女に敬礼した。
「本官は警察官であります」
「あ、すいません。えっと、駅員の方は……」
「おりませんな。無人駅ですから」
「え? でも、橋田さんって人がいるはずだからって、祖母が」
「祖母? それじゃあ、あんたが柴田さんとこの……」
「橋田さんですか?」
 橋田の質問を遮るかのように言ってから、少女はいきなり笑い出した。
「すいません。まさかお婆ちゃんが、お巡りさんに頼んでいたとは思わなかったものですから」
 ああ、と橋田は納得した。どうやら自分が侮辱されたわけではないらしい。
「ごめんなさい、お忙しい中……私、柴田ちからっていいます」
「橋田です」
 改めて自己紹介を済ませ、ちからを柴田老女の元へ送ろうとしたところで、橋田は自分がまだベンチを元の位置に戻していないことを思い出した。
「そうだった。ちょっとごめん。こいつを戻しておかないと」
「手伝いますよ」
 そう言って、ちからは橋田とは反対側のベンチの端を持ち上げようとする。
「いや、これは捜査の一環ですから、一般市民の方に手伝ってもらうわけには」
「捜査、ですか?」
「ええ」
「ああ、例の女子高生失踪事件の」
「そうそう、それですな。それで、ここに被害者以外の誰かがいなかったかどうか、調べていたところだったんですよ」
「どうでした?」
「教えられません。一応、事件捜査ですからな」
「それもそうですね」
 ちからは朗らかに笑った。溌剌とした、若さ溢れる良い笑顔である。
「正直なところ、ひとつだけ疑問点はあるのですよ。どうして彼女は、誰とも連絡を取ろうとはしなかったのかって」
「連絡?」
「ええ。親戚の家に行くはずだったのに、降りる駅を間違えた。で、折悪しくそれが当日の最終便だった……それならそれで、ここの電話を使ってその親戚なり両親なりに連絡して、事情を説明して車で迎えに来てもらえば良かったんじゃないかって、それがどうにも気になって仕方ないのですよ」
「その親戚の人って、車は持っているんですか?」
「持っています。事件直後に直接話を窺ってみたのですが、この見不知駅の場所は知っていたのだから、一報くれればすぐに迎えに行けたのにって……」
 泣いてましたよ、とまで言うのは、さすがに気が引けた。
 しかし、ちからの注意は橋田の言葉ではなく、別の物に注がれていた。
 それは。
 
 
 ちからが凝視していたのは、棚の上に置かれていた黒電話だった。
「これ……」
「それが、どうかしましたか?」
「これ、電話ですか?」
「は?」
 当たり前のことを訊かれて、橋田は困惑した。
 誰がどう見ても、ただの公衆電話である。
「お家にお電話、置いてないんですか?」
「ありますよ。ありますけど、普段は誰も使わないんです。みんな携帯電話を持っているから。昨日、祖母のところに電話したのだって、久しぶりに使ったくらいですから」
「この辺には、携帯電話の電波が届かないからねぇ」
 それが、東京に行った息子と連絡が取りづらくなった最大の理由であることを思い出し、橋田は心の中で舌打ちした。最近では、街中で電話ボックスを目にすることも少なくなっているというではないか。
「ひょっとして、お婆ちゃんに携帯電話で連絡を入れようとして、失敗した?」
 質問の内容に、自分でも妙な違和感を覚えた。
 当然の結果を、なぜわざわざ再確認しようとしているのだ、自分は。
「しましたねぇ。電波が届かないとわかった時には、どうしようかと思いました」
 正解だ。
 いや、当然の反応だ。
 彼女も、似たような心境だったのだろう。
 では、次にどういう行動を取ったのか。
 再現できるのか。
 目の前の少女と被害者。「その点」において、ふたりに共通性はあるのか。それは、後で調べればいい。それでも、内藤ら本庁の人間に否定されるだろう。いや、相手にすらしてもらえないかもしれない。
 しかし、今は自分の脳内でのみ構成されつつある仮説に信憑性があるかどうか、それを確かめる方が先だろう。
「じゃあ」
 唇が震える。
 ちからの反応にある程度の期待を寄せながら、橋田は勇気を振り絞った。
「その電話で、お婆ちゃんに一報入れてもらえませんかね? 駅に到着しましたって」
 言われた通りに実行しようとしたちからは、物珍しげに黒電話の受話器を持ち上げてから、ダイヤルへと伸ばした指先で幾何学模様を描き始めた。
「あの……すいません」
 指先を止めたちからの質問は、橋田が期待していた通りのものだった。
「これ、どうやって掛ければいいんでしょうか?」
「やった!」
「はい?」
「いや、失礼」
 思わず快哉を上げていた橋田は、ちからの怪訝そうな顔を見て咳払いをひとつした。
「例の失踪事件について、私なりに考えておったのですよ。被害者、平成生まれの女子高生は、なぜ間違った駅に降り立った時点で、親類縁者に助けを求めなかったのか。被害者が所有していた携帯電話には、目的地である叔父叔母の家の電話番号が登録されていたにも関わらず、です」
「携帯は、使えないんでしたっけ」
「そう。そして彼女は、このダイヤル式公衆電話の使い方を知らなかった。なぜなら、今まで一度も見た事が無かったからです」
「まさか」
「しかし、彼女より年上であるはずのあなたが使い方を知らなかったんですよ? この見不知に住む人間なら、誰でもダイヤル式の電話を使うことが出来る。自分たちの時代と共に生きてきた電話ですからな。しかし被害者は、該当する番号の穴に指を差し込んで回す、このダイヤル式電話の使い方を知らなかった。それはそうでしょう。生まれた時には、既にプッシュホン式の電話が普及していたのですから」
「……失踪じゃないんですか?」
「違います。彼女は故意に連絡を取らなかったのではなく、取れなかったのですから。見知らぬ土地で電話も繋がらず、待たねばならない電車の到着予定は明日の朝。そうこうしているうちに日も暮れて暗くなったら……お嬢さんなら、どうします?」
「野宿するか、民家を探します」
「なんの備えもない少女であれば、どちらを選んだでしょうか?」
「後者ですね」
 躊躇なく、ちからは答えた。そもそも、見たところこの無人駅にはトイレどころか水道すらない。
「そう。そして被害者は外へ出たものの、街灯すらない見不知は一里先すら見通せないほど真っ暗。月明かり、星明かりなど頼りない光源を頼りにして歩いているうちに……」
「足を踏み外した、と?」
「多分、それが真実でしょう。野犬か猪に追われたのかもしれませんが、目立った外傷が見つからないのであれば、その可能性は低いのではないでしょうか。少なくとも、彼女が自分の意思で失踪したわけではないという点だけは、これで証明できます」
「でも、被害者の女の子がダイヤル式の電話を使ったことがあるかどうかなんてところまでは、証明できないんじゃないでしょうか?」
「それは本庁に報告して、被害者のご両親に尋ねてみればわかると思います。でも、それより先に」
 そこまで言ってから出入り口に向かった橋田は、ちからに向かって敬礼した。
「まずはあなたを柴田さんのところまでお送りしなければなりませんな。さ、急ぎましょう。暗くなっては道に迷いますからな」
 
                                 (了)

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