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うわなり打ち

 封建時代の女性は弱かった。

 力が弱かったというのもあるが、それ以上に社会的地位が低かった。

 女の独り身で真っ当に稼ごうとするならば、日がな一日商品を売り歩く過酷な肉体労働か、そうでなければ――いかがわしい仕事しか選べなかったのが当たり前の時代だ。

 嫁ぐにしても、花嫁修業と称して奉公に出されたところで、待っているのは過酷な下働きの日々。
 夫婦となってその苦境から抜け出せば抜け出したところで、炊事洗濯掃除子育ての一切を任されるだけでなく、夫の仕事を手伝い隣近所と諍いを起こさぬよう付き合いながら、僅かな幸福を得て生きるのが庶民の人生。
 旅行などは、運が良くて一生に一度か二度。おしゃれや芝居見物など、裕福な家庭に生まれた者のみが許された贅沢である。

 ならば支配階級、武家の息女ならば幸せだったかといえば、必ずしもそうとは限らない。
 女と生まれたからには嫁に行くか婿を取るかの二者択一が習わしであり、本人の選択の自由は無い。
 武家の縁組に、恋愛だの嫌悪だのといった感情は必要ない。相手を好きになる要素は夫婦になってから探せば良いのであり、夫婦の縁は親子のように最初から決まっているものと捉えられていた。

 そのうえで恋愛を求めた場合、多くは「妾」という形で収まるものだが、これも男性が金で解決することが殆どであり、その点でも男女不平等と言えなくもない。

 そして少しでも良い家、良い夫に嫁ぐ為には、素行に行儀に習い事と、その家に相応しい人間であると認められる為の苦行が続く。内容こそ変わるものの、この辺りの苦労は、庶民の女性とそう変わりない。

 嫁になったらなったで大変だ。武家の中でも貧しい方ならば、家事一切を自分の手で行わなければならないし、名家は名家で実働は奉公人に任せるものの、その手順や手配の一切を夫に成り代わり取り仕切らねばならない。

 女房本来の仕事である衣類の用意や着付けは別として、例えば雨漏りがあれば修繕の方法、誰に任せるか、使う瓦の補充等々。
 奉公人の中でも頭だった者に任せることが多いが、彼らを統制し監視しなければ、横領や背任といった裏切りに遭う危険性もあった。

 妻が家事に精出している間、夫は何をしているかといえば、仕事だ。

 大名の家来であれば、上は領内の政、下は警邏や領民同士の諍いの解決、それに様々な記録の作成と、こちらはこちらで大変なのだが、お互いに相手の辛さを共感できない時代でもある。

 それだけ妻が夫に尽くしても、浮気をする亭主はいた。

 これが入り婿ならば容赦なく追い出すところだが、嫁という立場はあまりにも弱い。精々が自宅で家具を投げつけるか、箒やすりこぎでぶん殴る程度だ。

 対して、妻の浮気に法は厳しかった。

 女敵討ちという制度があり、妻の不倫を目撃した夫は、己の妻と間男をその場で斬り捨てることが許されていた。そういう時代だったとはいえ、あまりにも男女間で差がある。

 それでなくとも三行半の離縁状で一方的に離縁を命じられる側だ。詫び料として結構な額の金を持たされることもあれば、原因は其方にあると難癖をつけて追い出すような場合もある。

 なんとも理不尽な話だ。

 さて。


 今にも雷鳴轟き、叩きつけるような雨が降り出さんばかりの狂雲。

 たき・・の心情を空模様に例えるならば、こうなる。

 しかし実際は、怒りという雷電も発せず、豪雨のごとき悲痛も面には表さない。そう躾けられている。

 しかし、龍岡たつおかたきが今の境遇に悲憤しているのは、疑いようのない事実である。

 もっとも、最早もはや龍岡の姓も奪われ、只の「たき」でしかないのだが。

 その原因は、元夫の龍岡多聞秀隆たもんひでたかが寄越した離縁状にある。

 龍岡の屋敷を去るよう、多聞がたきに命じたのは、数日前の話なのだが。

 美濃国高富たかとみは本庄家の家老である龍岡多聞が、二十八にして親から家督を継いでから、三年になる。

 たきの実家である新井沢にいざわ家も、高富ではそこそこ名を知られてはいるが、やはり家老である龍岡家には家格で及ばない。

 たきと多聞は、お互いの父親同士が決めた許嫁であった。

 少年時代は素行の悪さが目立ち、多聞の両親は息子を更生させるのにほとほと手を焼いたという。そのような男に娘をれてやるのかと、たきの両親も初めのうちは渋っていたのだが、多聞の母親の病死と婚姻、さらに家督相続を境にして、不思議なくらいに多聞は大人しくなった。

 若い頃は乱暴狼藉を繰り返していたそうだが、今の多聞にはその片鱗すら見当たらない。

 代わりに、義父の死から半年も経つと、新たな行動が目立つようになってきた。

 仕事から戻ってくるなり大酒を呑み、呼び集めておいた無頼と共に離れへ引っ込んでは、一晩中やいのやいのと騒いでいる。何をしているものかと中間に問うたところ、彼は吐き捨てるように答えた。

「博打にございます」

 内容はよく分からないが、金銭を賭けて遊戯をしているらしい。

 こんなこともあった。

「殿の御屋敷にて、泊りがけで行わなければならぬ用が出来た」

 そう言っては自宅を空にし、朝帰りする。

 たきは、すぐに嘘だと気づいた。白粉の匂いが肌に付く政務など、あるわけがない。

 問い詰めてやろうかとも思ったが、義父母が世を去っている以上、今の龍岡家で最も偉いのは多聞である。当時はまだ生きていた実家の父が何か言ったところで、相手は家老だ。本人に話を聞くつもりが無い以上、何を言っても柳に風であった。

 家督を継いだ多聞に言うことを聞かせることが出来るとすれば、主君である本庄道利みちとし公か、筆頭家老の宮田刑部みやたぎょうぶぐらいであろう。

 それまでたきを置き去りにしてきたに等しい多聞が、さらにおかしなことを言い出したのは、実家の父が亡くなってから半年――今からひと月前の事だった。

「兄上は御元気であろうか」

 嫁いでから、実家とは手紙のやりとりを続けている。

 実父は亡くなったが、家督を継いだ兄には嫂との間に子が男女一人ずつおり、どちらもすくすくと育っているという。

 未だ子に恵まれないたきにとっては、羨ましい話でもあった。

「今ならば、食い扶持が一人くらい増えたところで、さして困りもしないであろうな」

 妙なことを言い出したと、胸騒ぎを覚えたたきは、己の銀かんざしと引き換えに小者を雇い、秘かに多聞の動向を調べさせたところ、とんでもない事実が発覚した。

 多聞は、たきを追い出し宮田刑部の娘を娶ろうとしていた。

 元々、龍岡家と宮田家は筆頭の座を争う家老同士であったので、兼ねてから折り合いが悪かったのだが、多聞の父の死を契機に龍岡家と和解しようと考えた刑部が、娘を貰ってはくれぬかと多聞に持ち掛けたらしい。

 あまりにも仲が悪かったが為に、多聞が既婚者であることを知らぬのではないか、という噂もある。

 いずれにしろ、既婚者であると訂正もしない多聞がその申し出に応じようとしていることに変わりはない。

 相手は筆頭家老の娘だ。側室や妾という扱いは有り得まい。

 まさかと仰天したところへ。当の多聞から離縁状を突き付けられた。

「三年ヲ経テ尚ホ子宝ヲ得ラレズ縁浅薄ニテ離別致シ候。後日他家ヘ嫁セシト雖モ当家一切構イ無ク。ヨッテ件ノ如シ」

 理不尽だ。

 博打や浮気で床を冷やすだけではなく、床で酔い潰れては大鼾をかくのが多聞の平素である。子宝に恵まれるわけがない。

 如何に悔しがったところで、妻は夫の言うことに従うのが武家の法度だ。

 少なくとも、たきはそう教えられて育ってきた。

 離縁状を懐に、泣く泣く実家に帰ってきたものの、迎えてくれる顔ぶれに父の姿は無い。

 それが原因というわけでもないだろうが、たきの苦境を聞いたところで、新井沢家には多聞に抗議するだけの力は無い。

 たきに武家の女としての教育を授けてくれた母は、娘が離縁されたと聞き、気に病んだきり床に臥せたままである。

 そのうえ、実家の兄夫婦も最近ではたきを持て余し気味になってきたように思えるのだが、敢えてそれを問い質すだけの覚悟は、たきには無い。

 このままでは、再婚か仏門かの二者択一を迫られるのは時間の問題だろう。

 いずれにしろ、たきの内側で湧きあがる狂雲を解消しなければ、前に進めぬ状態なのだが。

 滝の怒りの原因は、多聞の日頃の行状や離縁の理由の理不尽さもさることながら、何より自身への扱いにあった。

 嫁ぐまでは、実家で蝶よ花よと大事にされてきた自分が、不要だからと捨てられる古箒ふるぼうきの如き扱いを受けていることが、我慢ならなかった。

 傍からでは希薄に見えたかもしれないが、多聞に対する愛情も、たきなりには持っていたし、武家の女房として甲斐甲斐しく彼に仕えてきたつもりだ。

 それが、このような形で裏切られたのが悔しかった。

 悔しい。思い返せばあまりにも悔しい。悔しすぎて、今にもはらわたが千切れそうである。

 いっそ千切れて死んでしまった方が幸せではないか。否、これ以上行き恥を晒すくらいなら自らの手で――とさえ思うほどであったが、本当に死んでしまえば多聞は悲しむどころか、逆に再婚の良い口実が出来たとばかりに喜ぶのではなかろうか。

 それに、自分が今ここで死ねば、母も兄も悲しむだろう。

 それは、肉親としていただけない。

 しかし――再婚であれ仏門であれ――このまま生き永らえて、はたして多聞への怨みが消えるものだろうか。

「御嬢様」

 男の声で、たきは我に返った。

 声を掛けてきたのは、実家に最近仕えるようになったという中間である。

 名は利助りすけ

 齢はもう四十を超えているそうだが、痩せた体にそぐわぬ活力を発して、若者より溌溂と動き回っている。

 ただ、鋭い目つきと口髭が、実に中間らしくない。

 武家の息女と中間が言葉を交わす事自体、本来ならば稀な筈なのだが、今のたきは新井沢家にとって腫れ物に等しい。只でさえ足りない人員を割いた結果、たきに割り当てられたのが、この男なのだ。

 たきには、実家から龍岡家へと嫁ぎ、今また実家に舞い戻った際にも従ってきた侍女が二人いるが、やはりどうしても男手が必要な時があった。

 この中間は、そういう時に限り呼びつけ、使っている。

「何かありましたか、利助」

 内面の動揺を隠し、たきは尋ねる。

 しかし、たきの前で片膝ついた利助は、その内面を見抜いたかのように髭を震わせる。

「ご自害など、以ての外でございます。お父上が、草葉の陰で御嘆きになりますぞ」

 あっと声を上げそうになった口を閉じ、たきは努めて平静を装う。

「何を言うのです、無礼な」

「悔しいから死ぬ、悲しいから死ぬ、恨めしいから死ぬ。そのような傲慢は、御仏がお許しにはなさいませんぞ」

 どこまで心を見透かされているのか。

 たきは、目の前の老中間に、初めて薄気味悪さを感じた。

「儂も昔、主人と喧嘩した挙句、裏切られたも同然の形で郷里を追われたことがございましてな。そういう時の心情が、痛いほどよくわかるのでございます」

 たきは合点した。ああ、やはりこの男は不味いことをしでかし、奉公先を追い出されて今に至っているのか。

「ですが御嬢様、いつまでも恨みを抱えていなさると、やがては自分に返ってくるものでございます」

「自分に、ですか」

「左様にございます。誰かを恨んだまま死ねば死霊、生きていれば生霊となり果てるのでございます。死霊ならば死後にその身を現世に現し害を成す。成さなくとも、騒ぎになるのは必然にございます。また生霊が現れるのも問題。夜な夜な自らの生気を吸い上げ、やがて己自身すら死に至らしめるのでございます……御嬢様は、源氏物語の六条御息所をご存知でいらっしゃいますかな」

 知っている。

 光源氏の、年上の恋人だ。夫の死後に光源氏と交際を始めたものの、誇り高い性格が災いし、疎遠となってしまった女性だ。光源氏を思う気持ちと嫉妬心が強すぎて、生前は生霊として正妻の葵の上に憑りつき、死後も紫の上に憑りついた、執着心の強い女性として描かれている。

 たきは幼い頃から「源氏物語」を愛読しており、華やかな宮中の世界に憧れを抱いたものだが、それだけに六条御息所の霊には怯懦きょうだしたものである。

 たきの返答を聞いた利助は、片膝をつきながら沈痛な表情を浮かべた。

「まさに、その生霊と死霊にございます。御嬢様がこのまま怨みを抱いていたのでは、生前は生霊、死後は死霊となる惧れがございます。即ち怨霊でございます」

 たきの脳裏に、幼き頃の自分が思い描いた六条御息所の、鬼女の如き形相が浮かび上がる。

 憑りつかれ殺されたくないと思いながら、同時にこうはなりたくないと震え上がった記憶も、鮮明に浮かび上がってきた。

 その気持ちは今も変わりないが、大人になってからの理由は少し異なっている。

 昔は、ただ未来永劫まで続く苦悶を味わいたくないというだけであったが、今はそれに加え、「新井沢家の娘は、亭主に離縁された恨みで怨霊になった」などという醜聞を、後世に残したくはないからである。

 怨霊と化した己は、どれほど醜くなっているのであろうか。

 怨霊の家族と指さされた母や兄夫婦は、どれだけ傷つくであろうか。

 多聞に対する怒りと憎しみは、そう簡単には消えぬであろうが、それだけはなんとしても避けたい。

「私は、怨霊などにはなりたくありません」

「御意」

「ですが、多聞への怨みを忘れて生きていけるとは、到底思いません。忘れよう、忘れようと尽力しましたが、一向に怨みの炎は消えることなく、それどころか以前にも増して燃え盛るほどです」

「そのようにございますな……そこで」

 利助が、鋭い両眼を歪め口髭を震わせた。

 笑っているのだ。

「生きているうちに、誰も傷つけず恨みを晴らす方法――慣習ならわしがあるのでございますが」



 うわなり――「嫐」とも書く。

「かつては後妻や妾のことを、こう呼んだそうにございます」

「その女たちを打擲ちょうちゃくする因習があったのですか」

「人だけではございませぬ。そのうわなりを、前妻や本妻が打ち据え、また住居の家財を滅茶苦茶に打ち壊すことを目的とする儀式――これが、うわなり打ちにございます」

 説明しているのは、老中間の利助だ。

「古くは藤原家隆盛の頃から伝えられ、特に有名などころでは、鎌倉の尼御台こと北条政子も、夫の愛妾である亀の前に対し行ったという記録がございます」

 痩せて頬こけ眼光鋭い利助の顔立ちは、絵画に描かれているような鷹を彷彿とさせる。とても平日、たきや侍女たちに愛想笑いを浮かべながら接してくる男とは思えなかった。

 そもそも、一介の中間が何故に豊富な知識を有しているのだろうか。

「野蛮な行為ではありませんか」

「左様にございます。しかし人の情というものは、時に野蛮な手段を介さねば落ち着かぬものでございます」

 広間で利助の説明を聞いているのは、たき一人だけではない。

 否。
 むしろ、たきよりも利助の話に耳を傾け、思ったことをそのまま口に出して問い質しているのは、彼女の方である。

 利助もまた、たきよりも彼女を相手に語っているようなものだ。

 その人物とは、本庄家領内に建つ尼寺の住職と、彼女に付き従う三名の尼たちである。

 住職の齢は、たきより上であろう。帽子もうすの中から見える顔――目元や口元に皺が刻まれているあたり、たきの母親と同年代なのかもしれない。

 母や伯母といった年上の女性から厳しい教育を受けてきたたきは、我知らず身が委縮しているのを自覚した。

 屋敷内であるというのに帽子を脱がないというのは礼を欠いているのだろうが、曲がりなりにも住職に身にある者を呼びつけたのが出戻り娘と中間では、失礼無礼も仕方ないのかもしれないと諦念した。

 これがたきではなく母や嫂ならば、憤慨しているのだろうか。

 しかし、今はこちらが頼み込む側である。

 うわなり打ちを行うにあたり、龍岡家のような広い屋敷が相手になる。
 たき一人ではどうにも手が足りない。手伝ってくれるような女人の伝手はお持ちでないかと利助に尋ねられたたきは、少なからず困惑した。

「侍女が二人、おりますが」

「まだ足りませぬ。侍女二人に御嬢様を加えて三名。龍岡家攻略ならば、その倍は必要でございます」

 そうは言われても、たきには友人というものがいない。

 幾度か顔を合わせ、二言三言の挨拶をかわす程度の付き合いならば何人かいたが、半分は遠方へ嫁いで疎遠となり、もう半分は龍岡家としての近所付き合いだ。

 何事かを手伝ってくれる程の親密な仲ではない。

 これから作れ、というのは更に無理である。

 たきの情けない返答に、ならばと発奮したのが利助だ。

 たきが出家した場合に入ることになるであろう尼寺を調べ上げ、僭越ながらと書状を送り、陰鬱懊悩している婦人の相談を聞いていただきたいと文面にて弁舌を振るい、新井沢家の屋敷に来てもらうこと約束を取り付けたらしい。

 龍岡家には劣るが、新井沢家も高富では名を知られた名家である。尼寺としても無下には出来なかったのであろうが、中間の身で人をここまで動かす利助の行動力は凄まじくもあり、たきには奇異な才能の如くに思えた。

 自分など、当事者であるというのに、仏像さながらに鎮座したまま押し黙っているだけだ。

 その観音像の傍らで平伏しながら、利助は説明を続ける。

「今回、当家の御嬢様がうわなり打ちを行うにあたり、どうしても人手が足りませぬ。何卒皆様のお力添えをいただければと、矮小な愚人の浅慮にて一筆したためた次第でございます。如何でございましょうか」

 住職の顔つきは険しいままである。確か、名は妙恵尼みょうけいにといったか。

「家中の奉公人、例えば貴方のような中間に任せれば宜しいのではございませぬか」

「このうわなり打ち、肝要を男に任せてはなりませぬ。それに新井沢の人間が助太刀したのでは、両家の諍いになる恐れがございます。あくまでも家の人間ではなく、前妻――御嬢様の下に集った女人という体裁にしなければ、御公儀に仲裁されるやもしれませぬ」

 確かに、そうだ。悪いのは多聞であり、龍岡家ではない。たきとしても、義父や龍岡家の奉公人に裏切られたわけではないし、怨みを含む理由は無い。

 それにしても、利助は不思議な老人だ。

 招待した妙恵尼達を広間に招くよう手配したのも利助だが、母や兄は彼の行動を咎めだてもせず、口も挟まずに傍観しているようなものである。

「うわなり打ちという因習がある、ということは学びました。ですが、私達のように御仏に仕える者が、そのような野蛮な因習を行うわけにはまいりませぬ。このお話は無かったことに――」

「御仏を、不幸な女人の頼みを断る理由となさいますか」

 妙恵尼の表情に、初めて動揺の色があらわれた。

「なんと申されますか」

「そうではございませぬか。家庭を顧みぬ放蕩三昧の亭主を支えてきたというのに、裏切りも同然で離縁された女人が、救いを求めて門戸を叩いておるのです。ここで門戸を開けようとはせず、敢えて耳を塞ごうとする御仏に、はたして衆生が救済できますかな」

 膝を付き身を折り曲げながら、しかし顔だけは妙恵尼へと向けている利助の表情に、笑みとも怒りとも言えぬものが浮かび上がる。

 後の世間話で知ったが、これが「ずるさ」というものだそうな。

天網恢恢疎てんもうかいかいそにして漏らさず、とも言います。そこな婦人の元亭主には、必ずや仏罰が下りましょうぞ。衆生が手を下すまでもありません」

「あいや、お心得違いなされては困ります」

 面白い老人だ。百面相のように、今度は驚きの表情に変わる。

「心得違いとは」

「うわなり打ちとは、決して罰を与えるのではございませぬ。その本質は前妻と後妻の為、また元亭主の御家の為に行うのでございます」

 これには妙恵尼のみならず、たきも面食らった。

 今の説明で、どこをどうしたら龍岡家の為になるというのか。

「確かに、古代のままであれば、怨恨嫉妬が原因で相手の肉体を傷つける野蛮な行為と見做されましょう。しかし、うわなり打ちは長い長い年月を経て、まじないの様式を加えながら、その様相と本質が変化しており、むしろ現代では夫婦間の発展的解消を目的としているのに等しいのでございます」

「発展的解消……」

「左様にございます。その証左として、昨今のうわなり打ちは事前に男の使者を立て、決行の日取りと人数を伝えます。そして屋敷側では、応戦の覚悟ある女人だけが屋内に留まるしきたりになっております」

「いきなり襲い掛かるのではないのですか」

「それでは盗賊と同じ、儀式になりませぬ。慣例として、うわなり打ちが行われるのは、日の出から日の入りまでと決まってございます。何故にかといえば、夜間に行ったのでは暗さにより味方をも傷つけてしまう恐れがあること、また打ち手側の夜間の移動は危ないからでございます。この辺りにもきちんと配慮しなければ、到底儀式とは呼べませぬ」

 日の出から日の入りまで。

 それならば、仕事に出ている多聞と顔を合わせることはあるまい。

 安堵したたきは、直後に複雑な気持ちになった。既に、うわなり打ちを決行するつもりになっている自分がいる。

「ですが、武器を持ってお互いを打擲するのであれば、それは即ち暴力の応酬になってしまうのではございませぬか」

「最近では、打ち合うのは竹刀や袋竹刀に限られてございます。それも目に付く相手を滅多矢鱈に叩くのではなく、これと見た相手に挑戦を求め、応じた場合のみと限られておるようです」

「何故に、そのような回りくどいことを」

「うわなり打ちは、武家の女のしきたりにございます。武家の女が打ち合いもせずに歩き回るのも、また我が家を勝手に歩き回る者を叩き出さないのも恥であるという考えなのでございましょう」

 正論と言えなくもない。たきが母から薙刀の使い方を叩き込まれたのも、武家の女として、自分が戦わねばならぬ時に備えて、という教えからであった。

「しかし、傷つけあうのは御仏の教えに背くことになります」

「人と人であれば、そうなりましょう。うわなり打ちの本題は人に非ず、物を壊すところにございます」

 妙恵尼と、かたわらに控える尼達が、一斉に怪訝な顔をした。

 たき自身も、恐らくは同じような顔になっていただろう。

「前妻が今まで寝食に使用してきた、思い入れのある家財道具の一切を破壊し、未練や執着を残らず霧散させることこそが、現在行われているうわなり打ちの目的にございます」

「よくわかりません」

 広間にいた誰もが、妙恵尼に同意しただろう。

 唯一の例外――利助は構わず説明を続ける。

「人間には魂魄――霊魂が宿ってございます。この霊魂が他者への怨念や自らの鬱屈により穢れたまま死を迎えた場合、悪霊となる恐れがある。また生前の業により死後の世界へ行けず現世で彷徨う破目になる、乃至ないし地獄で六界にて永劫の責め苦を受ける。これは御存知でございましょうか」

「ええ、まあ」

 御仏に仕える者として、後半を否とするわけにはいかないだろう。

「さて夫に裏切られた妻はどうなるか。このまま何もせず、ただ恨み辛み抱えていては、その怨念が思い入れのある家屋や調度品に憑りつき、怪異を起こすようになる惧れがございます。生前ならまだしも、恨む当人が世を去ってしまっては手遅れ。怪異はたちまち怨みの本性を現し、生者に害を与える存在へとなり果ててしまうのでございます。そうなる前に、当の本人が、かつての住居を蹂躙じゅうりんし、己の情念が少しでも篭っていそうな品々を叩き壊す。これがうわなり打ちの本質にございます」

「差し出がましいのですが」

 妙恵尼に代わり――というわけではないのだろうが、供の尼がおずおずと嘴を挟む。

「それらの家具を元の亭主らが処分する、というのでは解決になりませぬか」

「それでは、本人がどのような品にどのような思い入れがあったのか把握できませぬ。また亭主の側が、これは違うだろうと早合点して壊さずにおいた品に憑りつくやもしれませぬ。本人が、自らの手で直接壊してしまえば、まず間違いはございますまい」

 それはそうだろう。多聞は、自分が着替える際にたきが使っていた乱箱らんばこなどに思い入れがあろうはずがない。しかし、もし仮にたきの怨霊が現れるとすれば、あの乱箱からというのも考えられなくもない。

 そういえば、夏の暑さで眠れぬ時に使った陶枕とうちんや、気分を落ち着ける為に使った香炉、朝凍あさじみに耐えられぬ際に着込んだ掻巻かいまきなども置き忘れていた。今更理由をつけて取り戻しに行くのは恥だが、後妻となるであろう宮田刑部の娘に使われるのは嫌だ。

「それに、打ち手が家財を壊すことには、別の利点がございます」

「利点など、とても有り得そうには思えませぬが」

「ございます。完膚なきまでに家財――特に生活に必要な道具であれば、新たな物を買い替えることにございます。これにより後妻は、前妻の手垢がついた家財を気兼ねしながら使うことがなくなるのでございます」

 前妻であるたきとしても、それまで自分が使っていた家財を刑部の娘に使われるのはいただけない。鍋釜は仕方ないにしても、すすだらいなどは金を出して買い戻したい程である。

斯様かように、うわなり打ちで家財を打ち壊すのは、前妻にとって己の所有物だった物品への未練解消となり、また元夫と後妻にとっては、前妻を想起させる物品の処分になるのでございます。一見暴力的に見えるようで、実際は双方の利害を一致させる、真に理に適った因習となっているのでございます」

「しかし、もはや廃れた因習と仰っていたではございませぬか」

「廃れてはおりませぬ。一時期そのように見えてしまったのは、世の中が戦乱に塗れ、うわなり打ちどころではなかった故。また現在各地で行われているうわなり打ちは、暴れ回ることで嫁ぎ先への怨みと未練を晴らし、新しい人生を歩み始めることへの儀式でございます」

「そうは仰いますが、私共の近辺でそのうわなり打ちが行われたという話は、聞いたことがございませぬ」

 妙恵尼の言葉に、しかし利助は被りを振る。

「表立って語られることはございません。それには、確とした理由がございます。今の武家は古代とは異なり、男女間の情ではなく、両家の縁にて婚姻し、女は常に男に従うものと決められているからにございます。夫婦間の諍いは、武家にとってはしたないものでございます。人々の口の端に上るわけにはまいらぬのでございます。それでも人の口に戸は立てられぬもので、佐賀の鍋島家や磐城平の内藤家にて、うわなり打ちが行われたとの記録が残ってございます」

「江戸でも行われているのでございましょうか」

「口さがない瓦版屋が、飯の種として探す程にございます。尤も、あまり騒ぎ立てれば土左衛門にされるので、大っぴらに売り捌くことはございませんが」

「そうですか」

 素っ気なく答えた妙恵尼の表情が、僅かではあるが思案に揺れた。少なくとも、たきにはそう見えた。

 高富の本庄家は、将軍家との縁が強い大名ではあるのだが、美濃は地理的に江戸からやや遠く、あまり情報が入ってこない。

「差し出がましいようですが」

 控えの尼僧が、また利助と妙恵尼の問答に割って入ってきた。

 しかも、今回は三人一斉だ。

「邪念払拭のお手伝いが出来るという事であれば、私達もお手伝いすべきなのでは」

「どのような形であれ、不幸な身の上で懊悩しているならば、救いの手を差し伸べるのが御仏の教えではございませぬか」

「それに江戸でも行われていることを高富ではやらぬ、などと言われては本庄家の恥。それは私共の恥にもなってしまうのでは」

 三人とも、ここまでの問答で、実際に手を貸すのは自分たちであるとわかっているようである。色々と聞きたいことはあるだろうに、それをここまで堪えていたという事は、妙恵尼は普段から彼女に慕われ信頼されているか、或いは口出しできぬ程厳しい人間なのだろう。

 病で伏せがちになっている母がこの話を聞いたら、はたして賛成してくれるだろうか。それとも「はしたない」と反対するであろうか。

 妙恵尼は、三人の言葉に耳を傾ける素振りも見せず、ただその視線を、中間の利助ではなく主人とも言えるたきの方へと向け、口を開いた。

「本庄家は、五代将軍綱吉公の御母堂である桂昌院様の御兄弟として世に出たも同然と言える家系。その恩恵を受ける私共が、本庄家の臣である龍岡家、並びに新井沢家の人間であるたき様に救いの手を差し伸べる。これもまた御仏の作り給いし縁故と言えるのでしょう……ただ」

 一旦言葉を切り、はしたなくも表情を輝かせる弟子たちを顧みた妙恵尼は、再びたきの方へと顔を向け、言葉を続ける。

此方こちらの三名を含め、私共の寺に居ります者は大半が庶民の出自。竹刀を振り回したことなどございませぬ。はたしてお力になれますことやら」

 愁眉の妙恵尼に返答したのは利助だった。

「御心配には及びませぬ。聞けば、たき様の侍女二人もまた武芸に疎い身。この際まとめて、たき様に武芸を伝授していただくことにいたしましょう」

「えっ!」

 青天の霹靂、寝耳に水とは、まさにこのこと。

「何を言い出すのです、利助」

「当然でございましょう。武芸だけではございませぬ。うわなり打ちへの日取りと内容、開始から終わりまでの手順、壊すべき物品の選別、それに龍岡家への口上一切は、御嬢様が行わなければなりませぬぞ」

「私には、とてもやり遂げる自信がありません。誰ぞ代わりに行ってくれる方を捜すわけにはまいりませんか」

「御嬢様」

 それまで妙恵尼に対して平伏していた利助が、がばとその半身を起こし、たきに向き直る。

「これからは御自分で考え決めていかなければならぬ人生にございます。うわなり打ちは、その第一歩でございますぞ。常に誰かに任せきりにするのではなく、自ずから動き成功させることで新たな自分へと生まれ変わり、同時に新たな人生へと踏み出せるのです」

「利助さんの仰る通りです。その為ならば、私共も喜んでお力添えいたします」

「ということは」

 にんまりと破顔した利助は、そのまま妙恵尼へと首を向け、口髭を震わせる。

「うわなり打ちへの協力、御承諾いただいたということで宜しいですかな」




 そして、決行当日。

 袈裟を外し法衣のみとなった六人の尼達――本物の尼は、そのうちの半数だ――は龍岡家屋敷の門前で気勢を上げていた。

 今回のうわなり打ちに関する縄墨じょうぼくは、利助と後妻側の使者との間で決められた。たきは、己の考えと希望を利助に伝えたものの、当事者同士の話し合いで決められなかったのは、双方が顔を合わせた時点で修羅場になるであろうと察した、利助の配慮によるものらしい。

 期限は一日――といっても、昼から夕暮れにかけて。

 夕七つの鐘が鳴ったならば、如何に未練残ろうと全員屋敷を出ること。

 これは、集団とはいえ女性の外出は危険である、という双方の配慮から出たものである。

「ご出発前にも申し上げましたが」

 見届け人兼前妻側の監視役として同行していた利助が、口髭を震わせる。

 これが中間ではなく袴姿であれば、尼僧を引き連れた家老に見えたかもしれない。

「本日、こちらの御屋敷には人がおりませぬ。あらかた出払ってございます。例外として、この正門と勝手口、そして屋敷内に一人ずつ、後妻側の監視役がおります。これは退出の際に、万一でも家財や金品を持ち出さぬようにとの配慮にございます。その三名のうち、正門を監視するのが、この男でございます」

 利助に促され、丸顔の男が一同の前へ出て一礼する。たきが龍岡家を追い出されてから雇われたのであろうか、その丸顔には、とんと見覚えがない。

「期限である夕暮れ、夕七つの鐘が鳴るまでの間、うわなり打ちの打ち手である皆様方は、お好きなように屋敷内を蹂躙し、家財を打ち壊して戴いて結構にございます。但し、監視役を始として、屋敷内に住まう生きものこれ一切について、これを傷つけるのは禁忌となっております。実際に傷つけるだけではなく、その素振りを見せた時点で、うわなり打ちは即終了となります」

 監視役の説明は、事前に利助からも聞いていた。

 後妻側も、主人の持ち物を含め家財は一切持ち出してはならないことになっている。前妻のたきが、その品に執着しているかもしれないからだ。

 また、打ち手側は竹刀や木刀、棒などを使って構わないが、無茶をして己の身体を傷つけぬよう気をつけること。もし打ち手側に怪我人が出た場合は、監視役が外へと運び出す手筈になっている。

「ありがとう、利助」

 ここまで段取りをつけてくれた髭の中間に、あらためて礼を述べながら、たきは利助の如才なさを薄気味悪く思ってもいた。
 ともすれば、このうわなり打ちそのものが利助の手による計画だったのではなかろうか。

 しかし、うわなり打ちによって利助が得るものは、何も無いのである。

「さあ御嬢様、ここから先は儂ではなく御嬢様が主導しなければなりませぬ。このうわなり打ちが成功するか否かは、御嬢様次第でございますぞ」

「わかっております」

 念を押すような利助の言葉に、たきは自分でも驚くほど強く頷く。

 これは、たきの為にたき自身が行う儀式なのだ。

 元夫の多聞が自分を追い出したことが発端であり、全てが自分の抱える恨みや未練を解消し、悪霊と化すことを未然に防ぐ為の儀式なのだと、改めて自分自身に言い聞かせる。

 尼寺からの参加は三人。
 どういうわけか志願者が多く、くじ引きで決められたらしい。

 三人とも決して体格優れているわけではないが、当人たちはやる気に満ち溢れており、これからどのような騒動に発展するかを期待し、また心なしかそれに参加する自分に興奮しているようにも見える。

「なんだか、絵巻物に出てくる僧兵にでもなったような気分でございます」

 頭巾を取り払い短髪を晒した尼の一人が、嬉しそうに言いながら竹刀を振り回す。

 その光景に、利助は珍しく渋面を作った。

「あれらは僧ではございませぬ。僧とは名ばかりの野人どもが、寺に寄宿する代わりに守護していただけにございます」

 三人の尼たちには武器として竹刀を与え、またその振り回し方も簡略化して教えていたが、対峙する相手がいなければ怪我することもあるまい。

 尼たちとは別に、たきと共に龍岡家から追い出された侍女二人も参加している。彼女たちには、たき自身が母から教わった薙刀の技法を伝授しているが、決行日までの時間が足りず――やるべきことが沢山あったのだ――文字通りの付け焼刃で終わっている。

 彼女たちの薙刀とたきの薙刀は、練習用ということで刃挽きがされている。たきの薙刀は昔からの愛用品だからさておくとして――薙刀は柄が楕円でなければ握り具合が悪い。

 そのうえ刃挽きとなるとひと振りでも用意するのは難しいはずなのに、利助は何処からかふた振りも調達してきた。

 つくづくはらの読めない男である。

 円陣を組み、地面に敷いた袱紗の上に、たき自身が描き上げた龍岡家の見取り図を広げる。利助に言われた通り、自分の記憶を基にして作成したのだが、初めての作業だけに随分と苦労した。

芳生ほうしょうさんでしたね、貴方は此処の炊事場をお願いします。行き方は、この門から入って右を、こう行ってください」

「はい」

 尼僧の一人に、刃挽き薙刀の切っ先で目的地とそこまでの道のりを示す。

 次いで他の尼僧たちにも、貴方は庭で貴方は裏手と、たきは一人ずつ丁寧に指示する。

「そこには予備の行灯がありますから、忘れずに壊してくださいな。多聞には灯りの無い夜を過ごしてもらいましょう。それと、厠はさすがに可哀想だから手は出さないでくださいね」

 厠には神様もいるでしょうから、と付け加える代わりに、たきは二人の侍女たちの方へと顔を向ける。

「貴方たちは、私に付いて露払いをお願いします」

 頷く二人を見て、たきは己の身体が妙な興奮に満たされつつあることを実感する。

 これが、高揚感というものか。

 自分は、今初めて自分の意思で決断し、行動し、自分の考えのみで人を動かしているのだ。

 昔の軍議も、このようなものではなかったのではないか。

「それでは参りますぞ……いざ!」

 利助が打ち鳴らす締太鼓を合図に、監視役の男が龍岡家の門を開く。

 追い出された時には二度とくぐるまいと誓った門だが、今日ばかりは違う。
 敢えて潜ってみせるのだ。

「行きますよっ!」

 おう、ともはい、とも聞こえる返事を背に受け、たきは薙刀片手に勢いよく門をくぐる。

「我を捨て、他家の女に屈した龍岡多門! 並びに我が元夫を篭絡し我を追い出したりし宮田刑部が娘! 積もりに積もった我が怨みと無念、今日この場で晴らしに参った! この屋敷を、疫病神も近づかぬほど荒らし潰してやろう、覚悟なされよ!」

 言った。

 言いたいことを、言いたいままに言ってやった。

 あとは、言った通りのことをやり遂げるだけだ。

「皆の者、各々とりかかるべき場所にて存分に暴れ給へ!」

 本当に尼なのかと思いたくなるような雄叫びを上げ、己の担当する場所へと駆け出す三人の尼僧たちを見送ってから、たき自身は侍女たちを連れ奥座敷へと向かう。

 玄関口で、焼き物の水鉢が視界に入る。

 薙刀を振り下ろすと、意外なくらいにあっさりと割れた。

 自分にも、これぐらいのことはできる。

 土足のまま廊下を歩くのも、新鮮な感覚である。

 屋敷内を仕切る襖は閉ざされ、たきたちの侵入を阻んでいた。

「貴方」

 振り返り、侍女の一人を呼びつける。

「これを蹴破ってみなさい」

「はいっ!」

 気を吐きながら裾を捲った侍女は、片足を振り上げ襖を蹴破ろうとするが、その動作は鈍く弱々しい。

「あいたっ」

 案の定、後方に吹き飛んだのは侍女の方だった。

「こうやるのです」

 窘めながら、たきも裾を捲る。

 今なら、大概のことは出来る気がする。

 力を込め、気合と共に突き出した右足は、ばりっという音を立てて襖に大穴を開けた。

 ああ。やるではないか自分、出来るではないか自分。

 胸中大いに感動しながら右足を引き抜き、襖を開けて奥座敷に入る。

 見慣れた器物が、さも当然のような顔をして、その場に鎮座していた。

「少し待ちなさい。私が先にやります」

 奥座敷に入ったたきは、まず衝立めがけて薙刀を振り下ろした。

 次いで座布団、床の間の掛け軸、天袋や地袋の中身も引っ張り出し、次々と叩き壊し引きちぎる。

 すると、引きちぎられた座布団の中から、油紙の包みが出てきた。

 手に取り開いてみると、中身は小判が三枚。どうやら多聞のへそくりらしい。

 頂戴してやろうかと一寸ちょっと迷ったものの、家財は壊すのみで持ち出してはならぬと言われていたことを思い出し、元は座布団だった綿の中に突っ込む。

 実入りは無いが、怒る理由がまた一つ増えた。

「あとは任せます。私は他の方々の様子を見てきますので」

 思い返してみれば、この屋敷での自分は、いつも夫の顔色を窺いながら生きていた。

 少しは、今みたいに怒色を面にあらわすべきだったのだ。

 炊事場では、芳生が竈に覆い被さり、そこに据えられた釜を引っ張り出そうと悪戦苦闘していた。

 中身が空でも男一人では苦労する重さだ。手伝ってやろうかと、たきが近づいた刹那――

「ふぬあっ!」

 咆哮と共に釜を持ち上げた芳生は、相撲でも取っているかのように釜を持ち上げ、地べたへと放り投げる。

 がらん、という音にたきが仰天していると、肩で息する芳生と目が合った。

「たき様、こんな感じで宜しゅうございますか」

「え、ええ」

 ひょっとしてこいつは、鬼の生まれ変わりか何かではないかしらん。

 失礼なことを考えながら寝室へと向かう途中、庭から女の叫び声が聞こえる。

「妙恵尼さまのぉ!」

 良順りょうじゅんと名乗っていた尼僧だ。

 たきが名前を思い出すとのどちらが先であろうか。

 彼女の身体が投石の如く弧を描き、庭に生える松の木めがけて飛んでいく。

「ばっかやろおおおおおっ!」

 空中で突き出した彼女の両足が、頑丈な筈の松の木に叩き込まれる。

「あぁ、たき様」

 めきめきと音を立てへし折れる松の木に、唖然とするたき。

 当の良順は、ばつが悪そうに照れ笑いを浮かべる。

「あの、今のは妙恵尼様には何卒ご内密に」

「しませんよ、告げ口しませんとも」

 逆恨みを買って、こっちの背骨まで折られては、たまったものではない。

 たきは逃げるように早足で立ち去り、寝室へと向かう。

 この調子では、蔵を任せた最後の一人も、どのような暴れ方をしているものやら。

 そういえば。

 ふと立ち止まったたきは、耳を澄ませる。

 屋敷内に女の罵声や怒声は響き渡っているものの、男の声は聞こえない。

 屋敷内にいるという監視役は、はたして何処に潜んだものやら。

 ひょっとして、芳生や良順の暴れぶりに怖れおののき、厠に隠れ震えているのではあるまいか。

 そうであるなら滑稽かな、と愉快になったたきの脳裏に、新たな疑問の種が撒かれる。

 そういえば、龍岡家には家宝があった。一度しか見せてもらったことはないが、本庄家の初代である道章みちあき公より貰い受け賜りし茶器である。

 あれを壊すのは、さすがに気が引ける。

 家老である龍岡多門の元妻としてではなく、家臣である新井沢家の娘として、そう思う。

 それでも、もし見つけてしまったならば、如何にすべきか。

 軽く悩みながらも歩き出し、寝室の襖を蹴破ったたきは、あっと声を上げた。

 女がいた。

 たきが住んでいた時と同じように、しかし何故か陽も高いというのに布団が敷かれ、就寝の支度が済んでいる。

 夫婦ひと揃いに並べられた布団の上に、襦袢姿の女が一人正座していた。

「お初にお目にかかります。龍岡多門の妻、ふじと申します」

 行灯の灯が、女の横顔を、ぽぅと照らし出す。

 若い。

 不覚にもそう思ってしまったたきは、微かに狼狽した。

 自分よりも若いことを認めると同時に、嫉妬の炎が噴き上がり、同時に若さを失うまで共にいた夫に裏切られたことを改めて実感したことが、怒りの炎に油を注ぐ。

「ひと言、宜しゅうございますか」

 たきの返答を待たず、ふじはきっとまなじりを上げて言葉を続ける。

「うわなり打ちについて、当家は全て承っております。ですが、あまりにも理不尽ではございませんか」

「理不尽ですか」

 理不尽は、こちらの身の上だ。

「恨みに思うお気持ちは斟酌いたしますが、それとこれとは全く別のお話。貴方を離縁したのは夫の多聞であり、その原因は私の父にあります。御本人たちに正々堂々と挑むのならばいざ知らず、家屋そのものを傷つけるのは筋違いではございませんか。武家の女として、そのような意気地も持ち合わせてはおらぬのですか」

 たきの全身を、怒りの奔流が駆け巡る。

 衝動に身を任せ、構えていた薙刀を振り上げた。

 狙うは、ふじの脳天ただひとつ。




「それまでっ!」

 疾風の如く飛び込んできた影が、薙刀を振り上げた鬼女の如きたきを一喝する。

 一拍遅れ、千段巻――刃と柄を繋ぐ箇所だ――を一閃した小太刀が、たきの薙刀を両断した。

 切っ先を下に落下し畳に突き刺さった刃に、しかしたきもふじも目を向けず、どちらも影の正体を凝視した。

 利助だが、中間の利助ではない。

 半纏に股引姿だったはずの利助は、吉岡染の裃で身を飾り、その佇まいも威厳に満ち溢れている。身分に合わぬと笑っていた口髭も、今では貫禄を引き立たせるための要素となっていた。

「利助!」

 驚いたのは、たきだけではなかった。

「利助さん、貴方がた男は介入しないという約束でしょう!」

 叫ぶなり、ふじは蒲団の裾を捲り上げた。

 たきは、柄のみとなった薙刀を振り上げたまま、あっと声を上げる。

 そこには、長さ一尺程度の木刀が横たわっていた。

 手にした木刀をふじが構えるのと、利助が動いたのは、同時と言えた。

 横薙ぎに振り払われた小太刀が、一尺の木刀を五寸ずつに両断する。

 たきは、己が夢か幻でも見ているのではないかと錯覚した。頑丈な薙刀や木刀を、さながら小枝を伐採するかの如く容易く両断する小太刀の話など、聞いたことがない。

 唖然とするふじには目もくれず、小太刀を鞘に納めた利助は、仁王立ちで宣言する。

「龍岡家前妻たき、並びに同家後妻ふじ! 両名とも禁忌を破り生者を傷つけんとした所業、真に許し難し! 依ってこのうわなり打ち、鯖田大膳万利さばただいぜんますとしの命により、即刻終了といたす! 打ち手側は早々にこの屋敷より立ち去れい!」

 威厳ある利助――鯖田大膳の姿に、小太刀の神業だ。

 何をどうすれば良いのかわからなくなったたきは、駆けつけた侍女二人と「連れ出せい」という鯖田の命により、両脇から抱え上げられた。

「たき様」

 背中からかけられたふじの声に、正気を取り戻したたきは背筋をぴんと伸ばし、侍女たちを下がらせてからふじの方へと振り返る。

「ありがとうございます」

 意味は解らなかったが、それを問い質すのも今は気恥ずかしい。

 言葉も返さず会釈もせず、たきは踵を返すと寝室を――そして二度と戻らぬ龍岡家の門をくぐった。


 門前では三人の尼僧たちが出迎えてくれたが、監視後の姿は何処にも見当たらない。おそらくは多聞に、うわなり打ちの終了を報告しているのだろう。

「これでお終い――でございますわね」

 蔵で暴れていたであろう尼僧――悠呈ゆうていの、どこか物足りなげな呟きを聞いて、たきは豁然かつぜんと悟った。

 ふじの「ありがとうございます」という言葉。

 あれは自分と夫に向けられた怨みの念を、これで手打ちにすることへの感謝だったのだ。

 冷静になって考えてみれば、ふじもまた不幸な女であるのかもしれない。これから先、あの博打好きで浮気性のろくでもない亭主――龍岡多門に、一生を捧げねばならぬ身の上なのだから。

 それを思うと、今更ながらふじには憐憫の情すら湧いてくる。

 その地獄から早々に逃れることが出来た自分は、まだ運が良かったのかもしれない。

「あっ」

 玄関口に鯖田の姿を見出した侍女が、声を上げた。

 つられるようにそちらへと顔を向けた尼僧たちが、一斉に仰天する。

 無理もない。口髭が無ければ別人かと見間違うほど、態度も態度も違うのだから。

 門の前に立った鯖田は、一行を睥睨へいげいしてから厳かに宣言した。

「これにて、龍岡家前妻たきによる龍岡ふじへのうわなり打ちは終了。今後一切、龍岡家とかかわりを持つことは罷りならぬ!」

 言い放つや否や、門を閉ざし閂を掛けてしまった。

 後日、たきは兄から教えられたのだが、老中間利助の正体は鯖田大膳という、奥州はさる十万石大名の元筆頭家老なのだという。

 亡くなった父とは同門で、同年代の友人であったそうな。

 その大膳がふらりと新井沢家を来訪し、母や兄を前に「修行の一環として、しばらくこちらで中間働きがしたい」と頼み込まれた時は、酷く驚いたという。

 兄の話を聞いているうちに、たきは利助――大膳が言っていた「主人に裏切られた」というのは、中間と主人の話ではなく、当主と諍いを起こして免職された家老の話だったのだと気づいた。

 自分とは、まるで違う理由だった。

「たき様」

 たきは門戸の前から声の主――芳生へと視線を移す。

「たき様は、これから如何なさるおつもりでございましょうか」

 もちろん実家に戻って、兄に報告する。

 そう言いかけたたきは、声を発する寸前で口を噤んだ。

 そういうことではない。身の振り方、たきの今後について問うているのだ。

 再婚という道もあるはるのだろうが、これ以上ろくでもない男の身勝手に振り回されるのは、まっぴら御免である。

「そうですねぇ」

 それよりは。

「妙恵尼様や皆様方とも御縁ができたことですし、本日お手伝いしていただいた義理もございますので、宜しければそちらに……とは思っているのですが」

 たきの返答を聞いた尼僧たちの表情が、ぱあっと輝く。

「本当でございますか」

「嬉しい限りでございます」

「私共も歓迎いたしますわ」

 でも、と良順は何事か思い出したらしく、そっとたきに近づき耳打ちした。

「私が妙恵尼様を口汚く罵ったことは、くれぐれもご内密にお願いいたしますね」

「それは、芳生様と悠呈様にもお伝えしておいた方が」

「御心配には及びません、お互い様なのですから」

 本当に、この道で良かったのだろうか。

 いいや、この道で良かったのだ。少なくとも、自分で決めて歩き始めた道だ。言われるがまま成すがままという武家の嫁よりは、楽しい道のりだろう。

「あらっ」

 侍女が、また声を上げた。

 そちらへと顔を向けた、たきたちが見たもの。

 侍女が立てていた薙刀の先に、チョンと止まった赤とんぼ。

 おしゃべりに興じるあまり、時が経つのも忘れていたようだ。

 何故だか嬉しくなり、ふふっと笑うたきにつられ、周りもまた嬉しそうに笑い出した。


 ここで、たきの話は終わりとさせてもらう。

 彼女が、これから仏門にて如何なる人生を歩んだのか、それはまた別の話。

 それにしても、鯖田大膳は何故にうわなり打ちを勧めたのであろうか。
 亡き朋輩の娘に精神的成長を促し、新たな道へと歩ませる為、わざわざ中間を装ってまで、西洋の『長靴を履いた猫』よろしく大胆巧妙に立ち回り、前妻後妻双方の憂いを霧散させたのであろうか……






 そんなわけがねぇのである。



 夕刻。

 龍岡家の屋敷から遠く離れた一軒家にて、龍岡多門は嵐が過ぎ去るのを、ただじっと耐え忍んでいた。

 この一軒家は、最近になって龍岡家に仕えるようになった中間が使っていた空き家だ。
 板間はあるものの、茶室の方がましだと思うぐらいには狭い。

 その狭い屋内を閉め切り、およそ一尺四方の桐箱を抱え、燭台の下にうずくまっているのが、本庄家家老にして騒動の元凶である龍岡多門その人だ。

「殿」

 一軒家の元住人、新入りの中間が外から声を掛けてきた。

 隠れ家を求めた多門に、このあばら家を勧めた男でもある。

「うわなり打ち、終了とのことにございます」

「そうか、御苦労」

 立ち去る中間の足音を聞いてから、多門はほっと安堵の息を吐き上体を起こす。

 守った。守り通したのだ。

 顔を綻ばせながら、桐箱を撫でまわす多門。

 中に納められているのは、本庄家初代当主より拝領し、龍岡家に代々受け継がれてきたという大事な茶器である。

 銘は「誰時たれどき」。

 相手に名を問わねば見分けがつかぬほど薄暗い明け方のことで、どことなく薄暗い地色が、その時刻を想起させることから名づけられたという。

 うわなり打ちにより家財一切を壊されると知らされた多門は、これだけは絶対に壊されてはならぬと、家財持ち出しの禁を破って前夜のうちに運び出し、避難にかこつけて守り通していたのである。

 茶器と共に逃げ込んだ多門は、急病ということにして勤めを休み、食事もろくに取らぬままひたすら桐箱に覆い被さっていた。

 箱から離れたのは、用を足す数回のみ。それすら箱を両手で抱えて運び、見失わぬよう細心の注意を払っていた。

 辛く苦しい時間を過ごしたが、ようやく嵐が去ったという。

 これで多門が「彼は誰時」と共に帰宅すれば、今まで通りの生活に戻るのだ。

 解放された喜びに浸りつつ多門は桐箱の蓋を開け、「彼は誰時」を取り出し、我が子のように愛しげに抱え上げ、しげしげと鑑賞する。

 しかし、茶器を頭上に掲げた多門の瞳に明らかな戸惑いの色が浮かび上がる。それは、改めて茶器を隅々まで凝視するうちに、明らかな狼狽へと変わった。

 贋作だ。「彼は誰時」そっくりに作られた――しかし持ち主である多門には、それと見分けがつく偽物だ。

 何故わかったのかといえば、それを作らせたのが多門本人だからである。

 これは天魔の仕業かと驚愕した多門の視界に、空の桐箱と蓋が映り込む。

 蓋の裏側が、剥がれていた。

 いや、剥がれたのではない。桐箱と同色の包みが貼り付けられていたのだ。

 何故に気づかなかったのか。
 否、とにかく桐箱ごと「彼は誰時」を屋敷から持ち出すのに懸命だったのだから、気づかなかったのは仕方ないのかもしれない。

 胸中で言い訳しながら贋作を板間に置いた多門は、包みを開封する。

 中には、一通の書状が認められていた。

 差出人の名は鯖田大膳。
 昨日まで、利助として幾たびか龍岡家の門を潜った男である――と記されていた。

「先日の博打五番勝負による此方の取り分、確かに頂戴いたし候」

 やられた。

 いつ奪われたのか。本物は何処にあるのか。

 逸る気持ちを抑え、多門は書状を読み進める。

 事の発端は、多門が自宅の離れで催した博打の会であった。

 会場を自宅にしたのは、建物を使った大掛かりないかさまを防ぐ為であり、同時にこちらが胴元であれば、いかさまを防止出来るであろうという計算からであった。

 この作戦は功を奏し、それまでは負けが続いていた多門の勝率も、五分にまで引き上げられた。

 調子に乗って、新参の無頼まで招き入れたことが、ケチの付き始めとも言えた。

 運命の日、まずは顔中髭だらけの新参を相手に、丁半で勝利した。

 大小なら負けなかったと悔しがる髭男に、ならばと大小で再戦を持ち掛け、これも勝つ。

 小遣いが増えたのは嬉しかったが、それよりも勝利による充足感こそが、多門にとっての報酬であった。如何に文武両道を謳ったところで、所詮は手加減と忖度が罷り通るのが武家社会だ。
 お互いの運のみを武器とし、公平な状態を作ってこそ、真の勝負と言えるのではないか。

 賽が多いのが良くないと食い下がる髭男を、手拭いを頬被りにした相棒らしき男が止めようとするも、それを多門がさらに制止した。勝負の邪魔をされては困る。

 しかし、良かったのはここまであった。

 賽一つのみの「ちょぼいち」で初の敗北を喫した多門は、自分が再戦を受け入れたのだからと理由を付けて、髭男に再戦を申し込む。

「すまねぇけど、大勝負は三回までと決めてんだ」

「それは卑怯だ。それにここまでの勝敗は二対一、貴様は負け越しているではないか。このままでは損をしたまま終わってしまうぞ」

「でもなぁ、俺ぁ疲れたよ。代打ちで良ければ続けてもええが」

 こちらが断る理由はない。とにかく勝利で終わらせたいのだ。代打ちであろうと、負けた悔しさを晴らせぬまま引き下がらせるわけにはいかぬ。

 承諾した多門の前に腰を据えたのは、相棒を止めていたはずの頬被りであった。

「旦那、あっしは賽を好みません。別の勝負といきやせんか」

「別の勝負とは何か」

「札です、花札ですよ」

 この勝負も負けた。
 ただ負けたのではない、完膚なきまでにやり込められて敗北したのだ。

「これで勝負は五分と五分。負け分は清算されましたね。それじゃあ、あっしらはこれで」

「待て!」

 立ち上がろうとする頬被りを、多門は呼び止めた。

 悔しいどころではない。このまま帰したのでは、屈辱で腸が千切れてしまうかもしれない。

「旦那、困りますよ。代打ちのあっしは負けを無しにすることが目的。負けは勿論、勝っても嬉しくないんでさぁ」

「ならば、当家の家宝を賭けてやろうではないか。拒むというのであれば、当家の家宝を低く見て愚弄したと見做し、この場で叩き斬る!」

 家宝より、脅しの言葉が効いたのかもしれない。

 騒然とする場内で、ならばと頬被りが出した条件も、また人を食っていた。

「勝負は双六で」

 敗北した多門が思いついたのが、「彼は誰時」のすり替えである。

 贋作は、多門が家督を継いだ時点で作らせていた。
 今回のような場合に備えて作らせたもので、茶器としての価値は無い。

 その贋作が、いつの間に本物の「彼は誰時」とすり替えられていたのか。

「某、若干ながら茶器に詳しくおり候。それによれば、貰い受けし茶器は家宝に値せぬ紛い物。さては龍岡家の手違いにて贋作を譲られたとお見受けし、お手を煩わせるのも如何なものかと熟慮。此度の決行に及び致し候」

 嘘をけ――と多門は呻く。

「尚、行為に及びしたるは我が弟子亀吉。髭を全て剃り、中間として龍岡家に雇われし者なり。某もまた中間として新井沢家に雇われし候」

 多門は、今更ながら家庭の内情に無頓着な己を恥じた。
 髭を剃り落としただけで、博打の新参客と新入りの中間が同一人物であると見抜けぬものであろうか。

「聞けば近日、本庄家当主道利公により茶会開催とのこと。当日には件の茶器を持参すべきが暗黙の了解と思われるが、如何」

 当然だろう。用意出来なければ恥どころの騒ぎではない。

「件の茶器、四百両にてお譲り致さん。本来ならば五百両のところ、龍岡家には家財新調の必要ありと思わしく、加減致し候」

 誰が、払うものか。茶会には、この贋作を持っていけばよいのだ。

「尚、不要とあらば件の茶器は二度と龍岡家に戻ること無しと存じ上げ頂きたく候。その証拠、今からご覧頂きたく候。何卒、其方そちらの茶器を御注視頂きたく候」

 証拠とは何か。

 怪訝を面に現しながら顔を上げた多門の眼前で――

 贋作の「彼は誰時」が銃声と共に砕け散った。



                                   (了)


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