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ワーム

 賽銭を投げ入れ、鐘を打ち鳴らし、拍手を打ってから、佐原一樹は何を祈願するべきかと悩み始めた。
 仕事は、形にすらなっていない。
 恋愛は、出会いさえない。
 せいぜい人並みと言い切れるのは、無病息災のみという現実。
 神頼みで叶うのならばいくらでも祈願するのだが、そもそも神頼み自体が単なる気休めに過ぎないということを、無神論者の佐原は誰よりも自覚している。
 それでも、物は試しとばかりに改めて拍手を打ってから、佐原はただひとつの願いを胸中で強く念じた。
(とにかく、すべてが良い方向へと変わりますように)
 偽らざる心境である。
 顔を上げ、社に背を向けて境内の石段に腰を下ろす。
 真中神社は、アーケード街の外れにある小さな神社である。騒がしいアーケード街とは違い、耳に入ってくるのは雀のさえずりのみという清閑な風景が、静かな空気を求めていた佐原の琴線に触れた。
 その静けさが、次第に重圧と化して佐原にのしかかる。黙っていれば黙っているほど重みを増す重圧にどれだけ耐えられるのかと自らに問いかけながら、しかしアーケード街の喧騒のただ中に舞い戻るにはなれず、ふっとため息をついた。
 日曜日だというのに、自分は何をしているのか。せっかくの休日なのだから、もっと若者らしい覇気のある有意義な過ごし方をするべきではないのか。
 虚しい自己批判は、どうせこの先も何ひとつ変わらない、どうにもならない日々が続くのだろうという自嘲に粉砕された。
 自分如きの力で、どうにかなるようなものじゃない。
 それがわかっているからこそ、余計に鬱屈する。
 石段のひび割れの先を眼で追いながら、これでいいのかと思いはするが、その都度同じ答えが返ってくる。
 変えようがあるのか。変えられるとして、本当に望んだ方へと、良い方向へと変わっていくのだろうか。変わった先にあるものが崩壊ではないという保障は、どこにあるのか。
 だから変わらない。変えようがない。
 それとも、変わらないことを望んでいる自分こそが、実は本当の自分なのだろうか。
 違うはずだ。
 言い表せぬ不安を振り払って顔を上げた佐原の視線の先には、蒼が貼り付いていた。
 正確には、正面に立つ庭木の葉に、蒼っぽい何かが張り付いていた。
 思わず腰が浮き、引き寄せられるように庭木へと近づく。
 潅木らしい木の枝葉に貼り付いていたのは、幼虫らしき蟲だった。
 日本語には「青虫」という表現があるが、実在する蝶や蛾の幼虫に、青色のものがいるわけではない。しかし目の前で蠢く「それ」は、緑色の葉の上でも目立つほど鮮やかな、澄み切った南海を思わせるような蒼だった。
 浅い海域に棲むウミウシの中でも、特に鮮やかな色彩を持つ種類に良く似ている。扁平な身体つきで、上方から見下ろすとナメクジのような軟体動物なのだが、葉の上を小さく蠢く物体の下部には七対の脚足が並んでいるし、よく見ると進行方向の先端には口吻らしき器官も存在する。逆に、ウミウシの持つ鰓や触手に相当する器官は見当たらない。
 幼虫である。
 佐原は、直感的に確信した。
 蝶の幼虫の中には、鳥の糞に告示した姿をしているものもいる。鳥のような捕食者の目を誤魔化す為だが、そういった種の体色は大概白と黒あるいは灰色の斑模様である。しかし目の前の生き物は、色素系に何らかの異変が生じた突然変異の可能性がある。そうだとすれば、どんな蟲の突然変異なのか。昆虫に関する知識は人並み以上に持ち合わせている佐原でさえも、その正体がわからない。
 これは何だ。何なのだ。
 本当に、虫か。だとすれば、どういう虫の幼虫か。
 知りたい。これが何であるのか、何に変わるのか、知りたい。
 方法は、ひとつしかない。観察し続ける以外に、確認のしようがない。自分の目で日々の変化を実際に確認しなければ、たとえ誰かに生態を教えられたところで、どうにも信じられない。写真や映像など、なおさら当てにならない。
 佐原は、境内の側に設置されていた自動販売機の隣に置かれている空き缶入れの前に立った。缶ジュースを買う金くらいはもちろんあるが、今欲しいのは中身ではなく空き缶そのものだ。
 空き缶入れの蓋を開け、腕を入れてプラスチック製の容器の中を漁る。
 口の小さい空き缶では、用を成さない。つかんだ先から、元の場所へと次々と叩き込んだ。
 四度掻き回して、ようやく広口の缶を拾い上げた。
 底に飲み残しが無いことを確かめ、蒼の虫がいた潅木へと駆け寄る。
 蟲は、まるで佐原を待ち続けていたかのように、葉の上に居続けていた。
 蟲が乗っている葉を、枝ごと千切り取る。そのまま広口の缶の中へ放り込もうとした佐原の手が止まった。
 引き千切ったことにより、その葉の下に隠れていた葉の上にも、やはり同種らしき蒼い蟲がいた。
 ほとんど反射的に手を伸ばし、二匹目の蟲も捕獲する。
 さらに三匹目を求めて、潅木の葉という葉の表も裏も調べ回った佐原だったが、手に入れた二匹以外の蒼い蟲は、とうとう見つからなかった。


 発車時の揺れが、佐原をまどろみから現実へと引き戻した。
 これで、今日だけでも、もう三度目になる。就職してからの回数は、入社三日目にして数えるのを止めた。
 佐原の勤め先は、関東でも大手として知られている紡績会社Nの私設研究所である。主に、ナイロンなどの化学繊維に取って代わる絹糸の開発を続けているが、同時に既存の絹糸の強度や耐久性といった素材に関する性能の向上を目的とした研究も行っている。
 大学で四年学び、大学院でさらに年月を費やして生物工学を専門に学んだ佐原は、大学に講師の空きが無かったこともあり、民間企業の研究員としての道を選んだ。
 研究所の待遇に不満が無いわけでもないが、貧乏な学生生活を続けていた佐原にとって、衣食住すべてを人並みに賄える上に貯蓄まで出来るほどの給与という存在は、非常に大きなウェイトを占めており、今のところ辞職する気にはどうしてもなれない。
 就職が決まった直後に、車の運転免許を取ることも考えたが、研究施設に駐車場が無いと知って諦めた。プライベートにしか使えない車では、維持費という負担を必要以上に重く感じてしまう。
 微弱な揺れが、佐原を再びまどろみへと誘う。
 もちろん、いつもはこれほど眠くはない。
 原因は、蟲たちである。
 二匹の蟲をスポーツドリンクの空き缶に確保したまま帰宅した佐原は、大急ぎでパソコンの電源を入れ、読み込み時間の合間を縫って手持ちの図鑑をひっくり返しては読み漁った。
 生物工学を専門としていただけに、生物関係の資料にも、その資料の集め方のノウハウにも事欠かないのは、佐原の数少ない自慢のひとつである。
 幼虫に関する書籍を本棚から取り出し、索引に眼を通す。珍しい外見で目を惹いた記憶がある蟲の名に突き当たるたびに、その写真が掲載されているページを開いて中身を確認する。
 肉質の突起を持つ、タテハチョウの一種。
 白い身体から明るい黄緑色の長い刺毛をびっしりと生やした、ドクガの一種。
 サボテンがそのまま這いずり回っているかのような、イラガの一種。
 いずれも、空き缶の中にいる蟲とは異なる。辛うじてイラガの中に、青色の背とナマコ状の身体を持つ種がいるものの、それらの体表には短くも鋭い棘がびっしりと生えている。似ても似つかない。
 幼虫ではないのか、この姿で成虫なのかと昆虫関係の図鑑を取り出して目次を開く。
 鱗翅目。
 甲虫目。
 蜻蛉目。
 セミなどのヨコバイ亜目。
 蟷螂目。
 バッタなどの直翅目。
 いずれにも掲載されておらず、ハエやカといった害虫、さらに昆虫にカテゴライズされるべきではない蜘蛛や百足といった節足動物の項目にも目を通すが、それらしいものは見当たらない。
 軟体動物の図鑑を開く。
 しばらく斜め読みを続けてわかったことは、少なくとも佐原の期待に応えられそうな情報は何も載っていないということだった。
 パソコンの検索ツールでも、それらしい蟲の姿は見つからない。
 辛うじてイラガの画像が見つかるだけだ。
 やはり、蛾の一種なのだろうか。
 それとも、今まで世に知られることのなかった陸生のウミウシなのか。
 後者は即座に却下した。脚足を持っている軟体動物は存在しない。
 ともあれ、はっきりとした生態が判明するまでの間は、とりあえず鱗翅目の幼虫と同じ飼育方法を試してみるしかない。
 方針が決まれば、後は行動するだけである。
 飼育ケースは翌日――つまり今日――買い揃えるとして、今はどうするか。
 食べ終えたカップ焼きそばの容器を徹底的に水洗いし、ドライヤーでよく乾かしてから、蟲たちが鎮座する潅木の枝を入れ、やはり水洗いしたプラスチック製の蓋をする。小さな湯切り口が上手い具合に空気穴となっているので、わざわざ穴を開ける手間が省けた。
 とりあえず形だけは整えられたと安堵した佐原は、すぐに蓋を開け、蟲たちを捕獲してから帰宅するまでの間に、神社や公園や空き地で採れるだけ採ってきた草や枝葉を放り込む。蟲たちが潅木にいたのは偶然に過ぎず、その食性――食べる葉の種類は違うものかもしれないと危惧していたからだ。
 桜、金柑、胡桃などの樹木の葉。
 薔薇、ツツジ、イラクサなどの葉。
 さらにはアーケード街にある八百屋の裏手で拾い集めた人参の葉にキャベツの切れ端と、数だけは豊富である。
 虫たちには直接触れないようにと細心の注意を払いながら、少しずつ葉を入れている自分の行動に苦笑したことは、鮮明に覚えている。これは何だ、どういう生き物なのだと不審がっていたわりには、鱗翅目の幼虫を意識した飼育法しか考えていなかったのだ。
 最後の一枚を容器の中に入れ終えた時には、いつもの就寝時刻を大幅に過ぎていた。
 慌ててベッドに入ったからといって、いつも以上に寝つきが良くなるというわけではない。
 まどろみかけた佐原を、今度は停車時のブレーキが叩き起こした。


「おはようございます」
「おう、おはよう」
 上司の幹本幸一は、佐原の挨拶に軽く右手を上げながら応えた。齢は既に四十を越えているはずだが、血色の良い肌と福々しい笑顔のせいで、ひと世代は若く見える。彼と一緒にいた二十代の佐原の方が年上に見られたことも、一度や二度ではない。
「あ、佐原君。あのな、こないだ見せてくれた原稿な」
「はい?」
 呼び止められて、タイムカードに打刻し終えたばかりの佐原は振り返る。
「うん、うちの研究方針についての原稿。ほれ、書いてくれたよな? 君」
 佐原の脳裏に、その原稿の内容が鮮明に浮かび上がった。半月ほど前に「作ってくれ」とだけ言われて作成した、研究所の研究方針と研究内容についての紹介文のことだ。
「あれ、パンフレットに使うから。用意しといてな?」
「わかりました」
 返事をしてから、立ち去る幹本を見送り、自分の机の前でパソコンの電源を入れる。
 起動したパソコンのデスクトップには、ワードやエクセルといった基本的なアプリケーションソフトのアイコンが、いつも通り小奇麗に整列している。
 ワードのショートカットアイコンをダブルクリックして起動させ、フォルダから「紹介」を選ぶ。
 モニターにびっしりと並ぶ無味乾燥な日本語の長文に、佐原はため息をついた。
 パソコンのデータ管理は、佐原の仕事のひとつである。したがって、彼の仕事用パソコンの中には、研究施設で使われているデータが入っているが、幹本を始めとする一部の研究員は、パソコンの使い方を知りない。
 所内共用のレーザープリンタの電源を入れてから、印刷内容の設定を確認し、「印刷」のボタンをクリックする。
 A4の用紙がプリンタから吐き出されるまでの間、佐原は机に肘を立てて頬杖を突きながら、胸中で思いを巡らせていた。
 パソコンを使った仕事は、主に三種類ある。
 研究結果のデータ入力と保存。
 経過報告書やプレゼンテーションに使う原稿の作成。
 そしてメールでの連絡事項の作成と発信である。
 佐原は、そのすべてを任されていた。
 これが一般の企業なら、重要かつ必要不可欠な役職であるという誇りと自覚が芽生えていたかもしれない。だが、佐原は生物工学を学んだ研究所所員である。むしろ煩わしい作業を任されているという気がする。
 結局、原稿の再チェックと研究結果のデータ入力だけで、その日は就業時間になった。
 つり革につかまりながら一時間以上揺られ、到着した駅の近くにあるデパートに入り、子供向けの玩具売り場で飼育ケースを買い求めた。研究機関に属する人間から見れば、いかにも稚拙で安っぽいものではあったが、単なる知的好奇心に突き動かされての買い物としては十分だろうと、包装されたプラスチックケースを抱えたままデパートを出た佐原は自分を納得させた。
 当たり前だが、アパートの自室と容器の中身に変化は無かった。
 照明をつけた佐原は、弁当の入ったビニール袋をテーブルの上においてから、飼育ケースの包装を取り除く。五十センチ四方の透明なプラスチックケースは、一瞬で狭いアパートの一室に馴染んだ。
 ケースの底に濾紙を敷き、移し変えの準備を済ませてからカップ焼きそばの蓋を開けてみると、二匹の蒼蟲たちは身体を伸び縮みさせながら葉の上を元気に這い回っていた。
 乗っている葉を枝ごと持ち上げ、飼育ケースの中に入れる。
 二匹の移し変えを完了させ、容器の中の葉も放り込んだ。
 人参の葉とキャベツの切れ端には齧った跡が無いので、除外した。
 桜、金柑、薔薇、ツツジ、イラクサにも齧った跡は残っていなかったが、念を押して移し変えた。
 唯一齧られた跡が残っていたのは、胡桃の葉だった。
 後は、同じものを採ってきて、飼育ケースの中にばら撒けばいいだろうし、今まで採ってきたもの以外の枝葉も入れてみるべきかもしれない。
 どうであれ、蒼蟲たちの食性がわかったのは大きな前進である。
 ただ、蟲たちの齧り方が心に引っ掛かっている。
 蚕食という言葉がある。これはカイコガの幼虫が桑の葉を食べるときの様子から名づけられたものであるが、一般的には幼虫が葉を食い荒らすときは、その先端から少しずつ齧り進むものである。
 しかし、二匹の蒼蟲たちの齧りぶりは、葉の中心から放射状に少しずつ広がっているという食べ方だった。お陰で、蟲たちが食べた胡桃の葉は、穴の大きなドーナツのような姿になっていた。
 鱗翅目の幼虫は、こんな食性を持たないはずである。
 佐原の胸に、またしても言いようのない不思議な疑惑が渦巻いた。


「はい、N繊維研究センターです」
 受話器から聞こえてきた声も、その内容も、昨日とまったく同じものだった」
「研究中なら報告するな! 今回の件は、完全にそっちの失態だからな!」
(そっちが勝手に先走ったんじゃないか)
 佐原もまた、昨日と同じ呪詛を吐く。
 電話の主は、Nの広報担当を名乗る男である。本当かどうか、佐原は本人に会ったわけではないから確かめようがないし、確かめたいとも思わない。
 話は、ひと月ほど前に遡る。
 研究所内では、現在使われているものよりもさらに細く、かつコストが変わらない生糸の開発に成功するかもしれないと本部に報告した。それを、どこをどう間違えたのか、「開発に成功した」という既成事実として発表してしまったのが、同社の広報だった。
 発表直後に上層部が動き、開発は誤報だったとしてすぐさま否定されたのだが、事実確認を怠ったのみならず社内報告もせずに発表しようとしたことから、広報の企業内における権威と信用は一日で失墜した。
 その責任を、広報は研究所に被せようとしているのだ。
「責任者を出せ、幹本を!」
「あいにく、昨日も説明いたしました通り、幹本は出張中でして」
 当の本人が、机の上に足を乗せたまま大あくびをした。
「嘘つけ、調べはついているんだ。幹本の予定に出張は入っていなかったはずだ」
 まるで殺人事件の容疑者を尋問する刑事のような執拗さだが、その調査能力の半分は眉唾ものだと幹本に教えられていた。口からの出まかせで、こちらを揺さぶろうとしているのだ。
「もういい。幹本の携帯の番号を教えてくれ。後はこちらで話をつける」
 やはり、今日も十五分を過ぎたところで向こうが根負けした。
「個人の携帯の番号は教えられません。所内の規定なもので」
「これは部署間の問題であって」
「どうしてもとおっしゃるのであれば、そちらの総務課か人事課に掛け合ってください。そちらの認可が下り次第、こちらも検討させていただきますので」
 受話器の向こう側にいる広報担当は、何も言い返してこない。
 昨日とまったく同じ展開になった。終幕も同じものなのだろう。
 予想通り、受話器を切る音が聞こえた。
「ご苦労さん」
 受話器を置いた佐原に、幹本が労いの言葉をかけてきた。
「今度は幹本さんが出てくださいよ」
「俺が出たら、余計に話がややこしくなるよ」
「別人だって言い張れば、向こうにはわかりっこありませんよ。どうせ、顔は見えないんだし」
「万が一ってこともあるだろう。それに、電話番は君の仕事じゃないか。忙しい俺に手伝わせるってのは、どうかと思うな」
「さっきはあくびしていたくせに」
「眠いんだよ。夕べだって十時間しか寝ていない」
 冗談だということは、わかりきっている。実際は、せいぜい二時間程度の仮眠で済ませているという話を、よく聞く。
「明日も来ますかね」
「来るんじゃないか」
「今日と同じ謝り方で、いいですかね?」
「いいんじゃないか? ただ、もし総務か人事の許可が下りたと言い出したなら、俺に代わってくれよ。話がややこしくなる可能性がある」
 幹本の言う通りだろう。しかし、広報の人間にそこまでの力は無いだろうと、所内の誰もが思っている。
 それにしても、電話番もまた佐原の望んだ仕事ではない。電話番など、研究には何の関係も無いではないか。
 そう思ったところで、実際には言い出せないあたりが、下っ端の辛いところである。
 そして今日も、電話番とデータ入力だけで一日が終わってしまった。
 電車に揺られ、くたびれてアパートに入った佐原は、しかし飼育ケースの中を覗くなり蒼白になった。
 胡桃だけでなく桑の葉も食べることがわかった蒼蟲たち。二匹が二匹とも、佐原が出発前に覗き込んだ時と、まったく同じ場所にいた。
 偶然同じ場所にいたというのは、いくらなんでも出来すぎであるし、現時点でもまったく動きを見せていない。
 できるだけ飼育ケースの中から視線を外さずに食事を済ませても、蟲たちは微動だにしなかった。
 出社中に葉が齧られた形跡も見当たらない。
 ケースの蓋を開けて上から覗き込んでみたものの、指先で触れて生死を確認するのは、さすがに躊躇われる。
 よもや、死んでしまったか。
 だとすれば、原因は何であろうか。
 飼育ケースは、危険な動物が入ってこないように、上からしっかりと蓋をしていた。それを物語るかのように、蟲たちの外皮には傷ひとつついてはいない。
 病気か。しかし、二匹いっぺんに病気にかかって死ぬというのは、さすがに不自然ではないだろうか。
 胡桃の葉が、いけなかったのか。有袋類のコアラは、一定の年月を経たユーカリの葉しか食べない。芽や若い葉には毒性があるからだ。胡桃の葉にも、蒼蟲たちにとって毒に近い成分が含まれていたのかもしれない。そうとは知らずに葉を齧った蒼蟲たちの身体に、毒が少しずつ蓄積されて…………
 思い悩む佐原の目の前で、蒼蟲の表皮に亀裂が入った。


「何だ、脱皮か」
 佐原は、ようやく事態を飲み込んだ。それと同時に、昆虫としては当たり前の行為を失念してうろたえていた自分の馬鹿さ加減に呆れ、恥ずかしくさえなった。
 その、ある意味自嘲が原因とも取れる佐原の余裕を根こそぎ奪い去ったのは、脱皮を終えたばかりの蟲たちの姿だった。
 深緑の体色と、六つの環節に分かれたぶよぶよとした身体は、脱皮前の姿よりは芋虫らしく見える。しかし頭部を含めた背面には、脚足同様二対の突起が二列縦隊を成しており、それぞれが先端に近づくに連れ次第に細くなっているが、先端だけはいびつに歪んでいた。
 先に脱皮し終えた蟲の突起を数えてみると、合わせて十二本だった。わずかに遅れて蟲が五対十本だったところを見ると、どうやら個体差があるらしい。
 突起十二本の蟲を「ダース」、十本の蟲を「テン」と名づけることにした。
 脱皮を終えたばかりの「テン」が、身体を伸び縮みさせながら蠢く。
 脱皮前に較べるとはっきりと自己主張している頭部には複眼らしき器官は見えず、その代わりというわけではないだろうが、頭部の下半分を占めているのは並外れた大きさの下顎だった。
 異形である。体高の半分を成すであろう背の突起などは、禍々しささえ感じられる。
 しかし――
「いや、こういう幼虫もいる」
 つぶやいた独り言が、佐原に自制心を取り戻させた。もう少し遅ければ、飼育ケースごと外に投げ出していたかもしれない。
「いるんだ、確かにいるんだ」
 本棚から引き抜いた幼虫図鑑をめくり、写真に収められ幼虫の姿を、改めて驚きつつも再確認する。
 背中に突起を持っているのは、目の前の蟲たちだけではない。シャチホコガの一種やカギバガの一種の背には、ダースやテンほどの高さではないにしろ、太く短い突起から、細長い毛が疎らに生えている。
 幼虫たちの代わりぶりこそ異様ではあるが、終わってみれば正体が蛾に属する種類であろうという確信が持てる、有意義な脱皮だったことになる。
 翌日。
 出社した佐原を見て、幹本は吸いさしの煙草を灰皿に押し付けてから立ち上がった。
「佐原、ちょっといいか?」
 パソコンの電源を入れてから動かせるようになるまで、「ちょっと」の時間がある。
「例の報告の件な、両成敗になった」
「両成敗?」
 思わず、鸚鵡返しに問い返す。
「つまり、暴走した広報も悪いが、中途半端な報告しか出来なかったうちも悪いということだ。まあ、こっちにも非はあると考えたんだろうな、上層部は」
「それはまた」
 ひどい話ですな、とも結構なことですな、とも言わなかった。どちらを口に出したとしても、結局は角が立つ。
「広報は自粛と責任者の降格。こちらは新たな研究企画を明示し、開発を進めること。これが課せられた条件だ」
「厳しいですね」
 企画してその通りに実行できるほど、研究開発は甘いものではない。
「問題は、企画の内容だ。責任者の俺が言うのもなんだが、生半可なものじゃ上層部を納得させることは出来んだろう」
 頑張ってくださいと言おうとした佐原よりも先に、幹本は言葉を続ける。
「そこで、研究所所員全員に意見を求めることにした」
「全員に、ですか?」
「そうだ。だから頑張れ」
「え……あ!」
 ようやく佐原は理解した。
 自分にも、ようやく開発に携わるチャンスが生まれたことに。
「やってみたいこと、あるんだろ?」
「はい」
 研究所内での開発テーマである強度やコストとは距離を置いた、斬新な開発。
 その先鋭となるだろう、養蚕の品種改良をベースにした「色つき」の生糸の開発。
 現に、有用たんぱく質のゲノム情報を解析し、その遺伝子を導入して特殊な繭糸を吐かせるカイコというものが、よその研究所で作られている。
 佐原の目指す研究は、それを究極としていた。生産性重視の工場主義ではなく、応用の効く生物工学にこそ未来があるのだ。
「おはようございます」
 所員出入り口から入ってきた水嶋葉月が、挨拶してきた。
「よお、おはよう」
「おはよう」
 丸顔の葉月は、明るい笑顔のまま更衣室へと歩き出す。
 背も高いほうではないし、スタイルも決して良いほうではない。顔も、美人か可愛いかと訊かれれば後者になるだろうが、目鼻立ちが特に整っているわけではない。ただ、ころころとよく笑う朗らかさといつも誰かを気遣っているような優しい性格が、男女を問わず所内全員から好感を持たれていた。
 もちろん、佐原もそのひとりであるが、しかし内に秘めている感情は好感以上のものだった。今までにも何度か距離を縮めようと奮闘してみたものの、そのすべてが空回りに終わった。
 今度こそ、企画を通して振り向かせたい。
 その想いがあることを否定するだけの頑迷さを、佐原は持ち合わせてはいなかった。


 帰宅した佐原が飼育ケースを覗いて見ると、脱皮した「芋虫」たちが元気に蠢いていた。
 深緑の身体を伸び縮みさせつつ、ゆっくりと前進するダースとテン。二匹の背に連なる六対と五対の突起が、玩具のように前にぶつかり後ろに離れる。そのせわしない動作を続ける為の基盤となっているのは、鋭い鉤爪に酷似した脚足で、桑の枝や太い葉脈を左右からしっかりとつかみながら、アコーディオンのように動いて移動するらしい。
 飼育ケースを隅から隅まで眺めた佐原の心に、何やら奇妙な違和感が生まれた。
 どこもおかしくないはずの、しかしどこかがおかしい場景。
 出かける前と、まるで変化が無い。
 葉だ。
 脱皮前はあれだけ元気に食い荒らしていたはずの葉に、今は齧られた痕跡が一箇所も見当たらない。今までは、帰宅してから寝るまでの間に必ずケース内の糞の掃除と餌の入れ替えを行ってきた。その作業が一部省略されたかのように錯覚していたのだ。違和感も残るというものだろう。
「腹、減ってないのかな?」
 そんなはずはないと、サハラは自らの呟きを否定した。脱皮を繰り返す昆虫は次第にサイズが大きくなり、それに連れて餌の摂取量も増えていくものである。
 もう一度、目を凝らしてテンを見る。
 食べていた。
 蟲が、虫を食べていた。
 桑の葉にたかり、樹液を啜っていた無数のアブラムシ。
 テンは、その小さな虫たちを大顎で鋏み捉えては噛み潰し、せっせと飲み込んでいる。危機感が無いのか、それともそれが自分たちの宿命と悟っているのか、アブラムシたちは次々とテンに食われている仲間たちのことなどお構いなしに、一心不乱に樹液を吸い続けている。
 ダースもまた、テンと同じようにアブラムシを貪り食っていた。
「はっ!」
 予想外の光景に、佐原は大きく息を吐いた。
 芋虫がアブラムシを食らう。こんなことがありえるだろうか?
 ありうるとすれば、実はダースとテンは蛾の幼虫ではなく、テントウムシ科に属する昆虫の幼虫だったことになる。テントウムシ科なら幼虫も成虫もアブラムシを捕食するものだし、そう考えなければ辻褄が合わない。
 ダースとテンの正体が何であれ、これからの方針が変わったことは、疑いようのない事実である。つまり、わざわざ桑の葉を用意する必要はなくなったということだ。近くに生えている木の若枝や草花の中でも、特にアブラムシが大量にたかっているものを、千切って持って来ればいいだけになったのだ。随分と楽になる。
 翌朝。
 いつもより早く起床した佐原は、散歩のついでに公園の草花を何本か失敬してアパートの自宅に持ち帰った。もちろん、どれもアブラムシがびっしりと貼り付いているものばかりである。
 それらを飼育ケースに放り込んでから朝食を済ませ、いつもより早めに出社する。
 電車の振動に身を任せていた佐原は、停車駅を告げるアナウンスを聞き流しながら、ダースとテンの正体について自分なりの見解を見出そうと努力してみた。
 羽化ならともかく、脱皮の段階で食性が変化する昆虫など、この世に存在しただろうか。
 しかも、そのきっかけは単なる脱皮なのだ。単純に大きくなることはあるにしろ、身体の構造そのものが変化するはずがない。
 では、あれは何なのだ。
 調べられるすべての資料は徹底的に調べたものの、あの芋虫たちに関する情報は、何ひとつ得られなかったのだ。飼育方法もろくにわからないまま継続できていること自体が僥倖であった。
 自分は、何を見つけたのだ。
 一体、何を育てているのだ。
 新種の発見であるなら、まだましなのではないか。
 何がどう「まだまし」なのか、上手く説明できない。しかし自分が言い知れぬ恐怖に慄いているという自覚だけは、認めていた。
(あれらは、何なのだ)
 答えが得られるはずのない質問を繰り返しているうちに、電車は目的地である駅を通り過ぎた。
 結局、いつも通りの時間に到着した研究所で佐原を待ち受けていたのは、葉月の笑顔と幹本の報告だった。
「えー、知っている人もいるとは思いますが……水嶋君の寿退職が決まりました」
 ミーティングの為に集合した研究員たちの間から、「おっ」という歓声が上がった。
 誰がその声を出したのか、佐原には聞き分けることが出来なかった。
 いや。それ以降の会話の内容も、ろくに覚えていない。
 記憶に残っているのは、水嶋葉月の幸せそうな笑顔だけだが、その幸せを祝福する気には、どうしてもなれなかった。
 その日の仕事は、有耶無耶のうちに終了した。


 気が重かった。
 寿退社を発表した翌日から、水嶋の欠勤が増えた。結婚式の手配や親類への挨拶などで、どうしても休みがちになるものだと既婚者の幹本は笑っていたが、その分雑務の負担が自分の方へとかかってくる佐原としては、堪ったものではない。
 その日も、ふたり分の雑務をひとりでこなしていた。広報からの電話こそなくなったものの、仕事の一部が減っただけに過ぎない。退社することが決まったとはいえ、まだ実際に水嶋本人が退社したわけではないので、当然ながら欠員の補充は入ってこない。しかも採用条件――特に駐車場の無い立地条件――に難があるのか、人事からは何の連絡も入ってこないらしい。
「どうした?」
 幹本が、キーボードを叩く手を止めてため息をついた佐原に声をかけてきた。この上司はこの上司で、やはり部下の欠員による負担増加の為か、目の下に隈を作り、血色も優れない。
「疲れたか?」
「ええ」
 珍しい佐原の弱音に、幹本は「おっ」と声を上げ、それから口元を歪めて意味ありげな笑みを浮かべる。
「お前、好きだったもんなぁ、水嶋ちゃんのこと」
「えっ?」
「隠すな隠すな。いっつも意識してたじゃねぇか」
 意識していたのだろうか。どちらかといえば、違うような気がする。
 入社したての佐原は、雑務の内容と作業手順のほとんどを水嶋から教わっていた。そのせいか、どうしても話しかける時には気を使いがちになっていたのは確かではあるが。
「いや、好きとかではないのですが……」
「相手は故郷の幼馴染みなんだとよ」
「はぁ」
「農家の長男で、土地持ちなんだとさ」
「はぁ」
 どこから、そんな情報を仕入れてきたのか。
「本人から聞いたんだよ」
「えっ!」
 心の中を見透かされたかのような錯覚に陥り、佐原は困惑した。
「やっぱり図星か。お前、何で俺がそういう情報に詳しいのかって思ったんだろう? そんな顔してたぜ」
「してましたか?」
「してたね。前から気になっていたんだが、お前はもっと積極的になるべきだと思うよ。他人との距離を取りすぎなんだよ。もっとこう、自分から話しかけなきゃ、何も変わらんぜ」
「そう、ですかね?」
 そうだよ、と机に両足を投げ出したままの幹本はうなずく。
 昔から、似たようなことを言われ続けていた。
 しかし、その度に変わろうと決意しては失敗を繰り返し、元の木阿弥となった。
 いくら変えようと思ったところで、いくら努力したところで、そう都合良く変わるものではない。いつも、その結論に到達する。
 それでも。
「幹本さん」
「ん?」
 変わりたいと思っている。
「僕の企画書、読んでくれましたか?」
「読んだよ。悪くない内容だったから、本部に送った。後は向こうの反応待ちだ」
 嘘だ。
 本当にそう思っているのなら、そして本部に送ったのなら、少なくとも両足を机の上に投げ出したままのだらしない態度で言うはずがない。この上司は、事務的な通達などの場合、それなりに態度を改めてから話す。
「まあ、あれだ。本部が認めたら、お前も晴れて研究者の仲間入りだな」
 言い繕う幹本からは、真摯さは欠片も見当たらない。パソコンが使えない上司としては、雑務をこなせる部下をこれ以上減らしたくはないというのが正直なところなのだろう。
 また、変われなかった。
 帰宅した佐原が、すぐに飼育ケースの中を覗きこむと、「元」芋虫たちは、ケースの底に落ちた葉の上で硬直したままだった。
 今朝、同じ状態のまま動かないダースとテンを目の当たりにした時は、随分と驚いたものだ。
 朝と晩の違いは、その姿だろう。出社前は芋虫の姿だった二匹はが、今では深緑の身体を濃青色に変え、背の突起が特徴的だった胴体も前後が窄まった葉巻状のものに変わっていた。
 踊化だろう。その証拠に、二匹の尾部の端には芋虫だった頃の皮の欠片がこびりついている。 それにしても、蛹というのは外敵や捕食者に対してまったく無防備な状態である。それなのに濃青色というのは目立ちすぎではないだろうか。
 佐原はメモ用紙を八分割し、そのうち二枚を切り取って、踊化前は「ダース」だった蛹の前に「A」、「テン」だった蛹の前に「B」と書いた切れ端を置いてから、飼育ケース内の掃除を始めた。


 目が覚めたのは、いつもの起床時刻よりもさらに早い午前五時だった。
 眠れなかったわけではない。むしろ寝覚めはすっきりしていた。二度寝するには躊躇いが生じる程度の時間である。
 湯沸しポットに水を注ぎ、電源を入れる。
 愛用のマグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れながら、佐原の眼は時折飼育ケースの中身へと移動する。
 目覚めた原因があるとすれば、飼育ケースの奥で眠っている蛹以外に無い。
 六畳二間の狭苦しい部屋の中は、北向きでしかも窓にカーテンが掛けられているせいで、太陽の光が入ってこない。仕方なしに電気をつけてから、手探りで電気ポットを取ってコーヒーを入れていた自分に驚いた。
 何故か、見えていたような気がする。
 部屋の中は明るくなったものの、いつものようにテレビの電源を入れたりはしない。いつも以上に早い朝なので見たいニュース番組もないし、テレビの音が隣に聞こえてしまうかもしれないからだ。
 近所迷惑になりそうな行為は、なるべく避けたい。
 飼育ケースの中から蛹を出し、マグカップに湯を注ぎ入れていたところで、不意に「B」の蛹の背が割れた。
 何が出てくるのか、佐原の胸は期待に躍る。
 蝶か、蛾か。
 甲虫か。蜂や蟻の仲間か。
 それとも、まったく新しい種か。
 そのどれでもなかった。
 裂け目から左右に分かれるかのように割れた蛹の中から上空に伸び上がったのは、毛髪と見紛うような大量の細長い糸だった。
「あちっ!」
 予想外の出来事に、マグカップを握る手の指先から力が抜け、零れ落ちたコーヒーが佐原の足の親指にかかった。しかし佐原は、悲鳴こそ上げたものの、眼を閉じることも顔を歪めることもなく、中空に舞い上がる無数の糸を見上げる。
 鮮やかなオレンジ色だ。
 そのすべての糸の色が、オレンジ色だ。
 この糸は、最初から色がついている。色つきの生糸は、佐原が求めている研究成果のひとつだ。
 呆然と見上げていると、ゆらゆらとたなびいていたオレンジ色の糸は、その先端が天井に届くか届かないかという高さで、色が消えた。
 糸から色が抜けたのではない。上空に伸び上がった糸のすべてが、大気に溶け込むかのように掻き消えたのだ。
 それは、幻想的な光景だった。
 佐原が夢から覚めるまでにそう時間はかからなかったはずである。
 我に返った佐原が身を乗り出して蛹を覗き込むと、殻の中身――羽化するはずの中身は、どこにも見当たらない。
 文字通り、もぬけの殻になっていた。
 再び天井を見上げたものの、部屋中を多い尽くさんばかりに上昇し、飛び散っていたはずの糸も、もはや欠片も見当たらない。
 蟲ですらないのか。
 あの糸は生物だったという仮説が脳裏をよぎったが、すぐに否定した。蛹から無数の成虫に変わることなど、まず在りえない。
 糸が正体なのか、それとも寄生虫だったのか。
 結論は「A」の蛹に託された。
 コーヒーの火傷など、もはやどうでもいい。
 今まで皆勤を続けてきた研究所も休むことにした。どうせ出勤したところで雑用を押し付けられる日常だ。一日くらい休んだほうが、雑用係の有り難味を思い知るいい機会になるだろう。上手くいけば、研究所内での自分の立場も良いほうへと変わるかもしれない。
 変わるという言葉が、蛹を凝視していた佐原の頭の中で躍った。
 変わりたいのに、変われなかった。
 だから人から見くびられ、雑用ばかり押し付けられる。したくもない電話番を任され、広報のような理不尽な輩を相手にしなければならない。
 変われない現実を唯々諾々と生きているのは、逃げだろうか?
 いや、逃げてはいない。現に今回だって、自分のやりたいことを実現させる為に企画書を書き上げ、提出した。
 結果が出ないだけだと思う。幹本の態度は、今回の募集に対する回答のひとつかもしれない。欲しいのは、研究者と呼ばれているスタッフの発想なのだ。しがない雑用係の発想ではない。
 しかし、変わる為の努力が怠りがちだったことも、また否定できない事実なのだろう。特に、他人との距離を取りすぎた。我関せずの態度を改めなかったから、ろくな話もしないうちに水嶋葉月は自分の前からいなくなってしまったのだ。
 変わりたい。
 変われるのか。
 変わった先にあるのは、本当に幸せなのだろうか。
 蛹の背が、割れた。
 糸であってくれと願っている己に佐原は気づき、すぐに受け入れた。
 期待通り、またしても大量のオレンジ色の糸が、天に向かって流れるように舞い上がる。
 これだ。
 正体など、もはやどうでもいい。生物から採れる色つきの生糸。これこそ自分が長年探し求めていたものだ。
 糸の先端が天井に近づくにつれ、またしても宙に溶け始める。
 逃がすか。
 完全に消える前に、この糸を手に入れたい、つかみたい。
 すべてが好転するわけではないだろう。だが、つかみたい。
 つかめば、きっと何かが変わるはずだ。
 変わりたい。
 変われない。
 変わる。
 変わりたいのだ、俺は。
 立ち上がり、天に向かって手を伸ばした佐原の指先が、オレンジ色の糸に触れた。


「なんだ、こりゃ」
 カーテンで締め切られ、光が入らない六畳間。
 畳にぶちまけられたコーヒーの染み。
 テーブルの上に脱ぎ捨てられた上下一体型のスウェット。
 男所帯に蛆が湧くという言葉をそのまま表現したかのような部屋である。もっとも、驚いた鬼怒川もまた独身で、住処の状況はそう変わらないらしいのだが。
 普通の独身男の部屋らしくないところは、テーブルの上に置かれた飼育ケースくらいだろうか。しかし肝心の虫は、ケース内どころか部屋中を探し回っても見つからなかったという。
「報告通りですね」
「こんな状態で、失踪するか?」
 俺ならせめて片付けくらいはするぞと言いながら、鬼怒川は湯沸しポットの蓋を開けた。中には水が入ったままである。
「空じゃないんだな」
「安全装置付きですよ。二十時間以上電源が入りっぱなしだと、自動的に切れるそうです。鑑識の中に、そいつと同じポットを持っている奴がいましてね」
「便利な世の中になったもんだ」
 寝具も片付けられていない。
 佐原という男は、起きて着替えて湯沸しポットで沸かしたお湯で作ったコーヒーをこぼして、それから失踪したことになる。
 行動に脈絡が無い。
「こんな状態で、失踪するか?」
「したんだから、しょうがないじゃないですか」
 鬼怒川が繰り返した同じ文句に、川端は投げやり気味に言い返す。
「ほんと、何考えていたんでしょうね」
「知るか。門外漢だよ、俺は」
 行方不明者の捜索は、鬼怒川と川端の得意するところではない。
 得意というわけではないが、よく任されているのが、被害者や加害者の精神に異常性が見られる類の事件である。もっとも、解決したことはほとんど無く、殺人などの事件が発生してから現場検証に狩り出され、もっともらしい屁理屈をこねているだけだ、と自虐しているのだが。
「失踪した佐原一樹は二十六歳。元は大学院で生物工学を研究していたんですが、昨年から例の研究所に勤務していました」
「交際や借金は?」
「まったくありませんね。人付き合いも良いほうじゃなかったみたいだし、金遣いが荒かったという話も聞きません。そもそも、噂が立つようなタイプじゃないんですよ」
「どういう意味だ?」
「影が薄いんです。いつもの時間に出社して、ひたすら自分の仕事に没頭する……休憩しながら誰かと雑談するわけでもなし、特に仲が良い同僚がいるわけでもない。そして就業時間になったら、そそくさと退社する。もちろん誰かを飲みに誘ったりなんかしない。そういう男だったそうです」
「ロボットみてぇだな」
「真面目だけど、自分の仕事のことしか考えていないって声も多かったみたいですよ。まあ、失踪の原因がその仕事にあるのではないかと思っている人間も、いるにはいるみたいですが」
「誰かと衝突したか」
「そうじゃなくて、雑用しかやらせてもらえなかったみたいなんですよ、大学院出身のエリートなのに。特に最近は、同じく雑用を任されていた女性社員が寿退職したとかで、ふたり分の仕事を押し付けられていたみたいですし」
 それで思い出したと、川端は手帳を開いてページをめくりながら、薄くなった頭を指先で掻き毟る。
「あったあった……その寿退職した女性社員ですがね、どうも佐原が彼女に好意を持っていたようなんですね。だから、彼女が結婚すると知り、ショックを受けて……」
「やっぱり、ただの失踪じゃねぇな」
「え?」
 手帳から眼を離した川端は、脱ぎ捨てられたスウェットの中身を覗き込む鬼怒川に、どうしたんすかと声をかけた。
「おい、河童」
 河童は、川端の愛称である。
「お前、この中身見たか?」
「いえ……?」
「俺たちに回ってくるわけだぜ。このスウェットの中にはな、シャツやらトランクスやらが、ちゃんと入っていたぜ」
「それが、どうかしたんすか?」
「鈍い奴だな。このスウェットは上下一体型で、胸のボタンをかけるタイプのやつだ。そして、今はそのボタンが全部掛けられている」
「ですね」
「下着ごと服を脱いで、そのボタンを掛け直してから失踪したのか?」
「あ……」
「おかしいだろう? おかしいといえば、この服の位置だ。まるでコーヒーを飲んでいる最中に服以外が溶けちまったみてぇじゃねぇか」
「まさか」
 笑ってごまかそうとしたものの、その笑みが引き攣っているのが、自分でもはっきりとわかる。
 最初にこの部屋に入った時に、川端は確かにそう思ったからだ。
「そもそも、シャツやトランクスがスウェットの中に入ったまんまだというのが、おかしいんだよ。しかしそうだとしても、こいつはやっぱり俺たちの管轄外だろう。仕事のストレスや人間関係に嫌気が差していたんだろうな。自分でも気づかないうちに鬱屈が溜まり、たまたまその日の朝に爆発……いや、単に早朝の散歩と洒落込んだのかもしれないが、急に帰りたくなくなって……」
 鬼怒川言うところの「もっともらしい屁理屈」を聞いていた川端の眼に留まったのが、テーブルに置かれたままの抜け殻ふたつ。
 その並び方が、ふたつの蛹を、まるで微笑む魔女の金壷眼のように見せていた。


                             (了)


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