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史料紹介 遠藤彦作の剣術目録
この記事では、筆者がYahoo!オークションで落札した、木曽に関連する史料をご紹介します。今回紹介するのは、遠藤彦作がその門弟の渡辺繁治に対して授与した巻物です。
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遠藤彦作は、諱を正芳といいます。遠藤家は、江戸時代に木曽を治めていた代官の山村家の武術指南役を務めた家で、彦作はその次男です。
彦作は寛政8(1796)年から江戸で大越光昇という人物に剣術と体術を学び、同10(1798)年に奥義を得ました(松原, p.57, 101)。この武術の流派は大越真開流というものでした。
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享和元(1801)年に師匠の大越光昇が没した後、彦作は現在の千葉県内で修業をしました。しかし、兄の正常が危篤となると、彦作は木曽へ帰って遠藤家の家督を継ぎました。
その後は木曽で山村家中の武士や、庶民も含めた多くの人々に真開流の武術の稽古をつけて名を上げました。彦作は嘉永2(1849)年11月に没し、木曽福島の興禅寺に葬られました(松原, pp.57-58)。
そんな彦作が、文政13(1830)年に門弟の渡辺繁治に授けたのが、この剣術目録の巻物です。おそらく、渡辺はここに記された剣術の業の数々を体得したことを認められ、その証として、師匠の彦作から授けられたものと思われます。
巻物には、授けた剣術の業のほか、武術の心得の数々が記されています。
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この渡辺繫治の名前は、天保11(1840)年に彦作一門が木曽町三岳の御嶽神社若宮に奉納した額にも記されていることが確認できます。そのため、渡辺は実在の人物であり、この巻物は本物である可能性が高いといえます。繫治の名前は他の門弟よりも大きな字で記されており、天保11(1840)年当時の、一門の中での地位の高さがうかがわれます。
この奉納額は今も御嶽神社若宮の舞殿に残されており、見ることができます。この神社には他にも貴重な額や絵馬が沢山奉納されています。いずれそれらについてもご紹介したいところです。
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山村代官家の武術指南役の遠藤家では、彦作の息子の五平太が最も有名ですが、その五平太にしても、残されている史料はそれほど多くはなく、研究もあまり進んでおりません。彼についてのまとまった研究は、本記事でも参考文献として引用した『信州木曾谷の剣豪 遠藤五平太』(渓水社)程度です。
しかし、この御嶽神社の額にも名前があるように、遠藤家の痕跡は木曽谷の至るところに残されています。山村家臣の武家である高瀬家の史料も、木曽福島で史料館としてまとまっていますが、その中にも遠藤家に関する史料があります。
それらを活用することなどで、もっと遠藤家の実像を明らかにすることができるのではないかと思います。その際に、今回紹介したこの巻物が何かの役に立つことを願います。
参考文献
・松原正勝『信州木曾谷の剣豪 遠藤五平太』(渓水社,昭和57年)