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パプアニューギニア遠征行 第1日目 旅立ち

 2023年9月12日、私は独り、成田空港に立っていた。遥か5000キロ南にある、「地上最後の楽園」、パプアニューギニアへと旅立つためである。人生初、男一匹で臨む海外旅行であった。

 この旅行の目的は4つあった。
 1つ目は、第二次世界大戦の痕跡を巡ることだ。80年前、パプアニューギニアは日米豪軍の一大決戦場となった。アメリカとオーストラリアの間に楔を打ち込もうと目論見、この地へ攻め込んだ日本軍は、海空での戦闘に敗れ、制空権・制海権を失い、十数万の陸軍将兵は本国からの補給を絶たれて孤立。壮絶な飢餓と疫病に苦しみ、9割が命を落とした。現代の日本人からは殆ど忘れ去られた、「死んでも還れぬニューギニア」を、同じ日本人として、この目で見て、この足で踏んで、知っておく必要があると痛感していた。
 2つ目は、ブーゲンビル島の独立運動を知ることだ。銅山の権益をめぐってパプアニューギニアからの独立運動が高まり、30年前まで内戦をしていたこの島に、私は並々ならぬ関心があった。アジア・アフリカ諸国の独立から大きく遅れて胎動するこの島の自治の精神は、どのような姿をしているのか。人々はどのような形で民族自決の心を抱いているのか。私はそれを見て学びたかった。
 3つ目は、「さいはての木曽節」をこの耳で聞くことだ。長野県木曽郡、それは私が大学時代からずっとお世話になっている地域であるが、その場所の民謡が、戦時中、パプアニューギニア東セピック州のカウプ村に駐屯した日本軍将兵によって、村人たちに対して教えられ、それが今も歌い継がれているそうではないか。木曽谷を愛する身として、これを聞きにいかないわけにはいかなかった。
 4つ目は、将来を考えることだ。私は弁護士資格の取得を目指しているが、将来はJICAの法整備支援に関わりたいと考えている。もしそれがパプアニューギニアやブーゲンビルという場所で実現できるならば、どのような形になるのか。そのことも考える必要があった。

 この渡航について、家族からは猛反対にあった。パプアニューギニアの渡航情報を外務省のホームページから見ると、なるほど、首都や大都市では強盗が跋扈しており、日本人が出歩こうものなら一瞬にして身ぐるみはがされるとの情報が出ていた。これを読んで、家族総出で猛反対したものである。

 しかし、私が行くのは地方であった。大都市の治安の悪さというのは、人口流入と高い失業率によって引き起こされる、所謂インナーシティー問題である。逆に、そうであれば、地方の農村部などは極めて安全なのである。もっとも、部族社会であるので、慣習には気を付けるべきである。この点、英語で渡航情報を調べると、田舎は基本的に現地人のガイドがいれば問題ないという話ではないか。つまり、ガイドを雇った上で、首都で出歩かなければ、安全に渡航できるということである。

https://wikitravel.org/en/Bougainville

 最後まで猛反対されたが、今回の渡航資金は、私が大学3年生の折に、コロナ禍の鬱屈の中、オンライン授業で持て余す暇な時間を、先輩のベンチャー企業の仕事の手伝いに注ぎ込み、自らの手で稼いだお金だ。成人として、十分な下調べをした上で、自らの資金で行う意思決定を、ただの漠然とした不安によって妨げられるものではない。独立と自由ほど尊いものはない。かくして、私は既に成田空港に立っていた。

成田空港

 パプアニューギニアまでは直行便はない。フィリピンのマニラか、オーストラリアを経由しなければ、パプアニューギニアの首都・ポートモレスビーまで行くことはできない。成田から飛行機に乗り込み、まずはマニラへと飛んだ。

 男児立志出郷関 学若無成死不還
 埋骨豈惟墳墓地 人間至処有青山

 ふと、大好きな詩が口を突いて出そうになる。この年の7月までの、司法試験の受験勉強の鬱屈の中で、練りに練った渡航計画が、いよいよ実現へと動き出す。熱狂的な期待と興奮、そしてほんの僅かな不安が、頭の中と胸の中を濁流となって渦巻いていた。

マニラ湾

 やがて、飛行機はマニラへと到着する。曇ってはいるが、マニラ湾の夕照が美しく目に映る。高校時代、交換留学で行った折以来のフィリピンであり、往時の記憶がよみがえり、懐かしさが胸に迫る。

 「茜さすマニラ湾頭 あゝ殉国二百十四の勇士」

 高校時代に訪れた、宮城県白石市の傑山寺で見た、駆逐艦曙の慰霊碑に刻まれた文言のことも想い出した。この湾もまた、先の戦争に散った将兵が眠る場所なのだ。同じ寺の境内にあった、片倉小十郎景綱の墓標の一本杉も懐かしい。旅を共にした友人たちの顔も去来した。

 さて、空港へと降り立った私は、荷物検査を通り抜けた。このとき、筆箱につけていた、5.56mmNATO弾の銃弾(装薬なし)のキーホルダーが引っかかり、没収された。さらば、我が沖縄修学旅行のお土産よ。私の筆箱には、ソ連軍のT-34戦車のキーホルダーも付いていたので、東西の均衡が取れていたのであるが、この没収によってだいぶ東側に偏った筆箱となってしまった。

Chicken Tocino

 乗り継ぎまでだいぶ時間がある。飛行機で今夜を明かすことになるので、ここで夕食を摂らなければならない。
 私は空港内の「Caffe Xpress」という店舗で、Chicken Tocinoというフィリピン料理と思しきものを頼んだ。見るからに辛そうな真っ赤なチキンであったが、口に入れると、驚くべきことに、恐ろしいほどの甘さであった。口中の虫歯菌が蠢動を始めた感覚がする。

 ところで、パプアニューギニアの通貨は「キナ」である。しかし、成田でもマニラでも、どこを探してもキナを取り扱う両替所はなかった。ポートモレスビーまで行けばキナ円の両替があるとの情報をキャッチしていたほか、キャッシングができる旨も聞いていたので、キナの入手はひとまず保留し、そのまま旅立つこととした。

 その後も時間を潰す。5時間以上乗り継ぎ待ちがあっただろうか。お供は長村祥知先生の著書『源頼朝と木曽義仲』だ。発売されたての本だったので、初めて海外へ出た1冊かもしれない。いや、それは流石に言い過ぎかもしれないが、少なくともパプアニューギニアへ渡ったのは自分が所有する1冊が最初で最後だろう。
 当然、私にはラウンジに入る金はない。代わりに休める場所を探していると、廃ラウンジのような薄暗い空間に無数の椅子が並び、そこに多くの旅行者がたむろしているのを見つけた。多くは中国人と見受けられる。長椅子で寝そべる者もいれば、大胆不敵にも床に寝ている者もいる。イヤホンを使わずにスピーカーで音を出して動画を見ている者もいて、異国情緒が漂い、愉快だ。
 俺も日本男児、負けては居られぬと、靴を脱いでなるべく豪快に椅子に寝そべり、荷物を固く握りしめながら仮眠をとった。

怪しい廃ラウンジ
皆寝そべっている

 良い寝心地であった。そうこうしているうちに、あっという間に出発時刻がやってきた。目的地「PORT MORESBY」。その文字に身も心も改めて引き締まる。寝て起きたら、いよいよ私はパプアニューギニアの地を踏むのだ。
 気が付けば、成田からの往路では沢山いた日本人は、既にどこにもいない。叫びだしたくなるほど渦巻く期待を鎮めながら、粛々とゲートを抜け、人並みに身を任せて飛行機へと乗り込んで行った。

ポートモレスビー行きの搭乗口

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