パプアニューギニア遠征行 2日目 ポートモレスビー到着
2023年9月13日、私は機内で目を醒ました。窓を開ければ、雲海を突いて出る旭光が眠気を吹き飛ばす。私は既に、日本から遥か5000キロ離れたパプアニューギニアの上空にいた。
第1日目はこちら
やがて雲を抜けて地表が見える高さまで機体の高度は下がっていく。地表が近付くにつれて、巨大な湿地帯を蛇行する大河が目に入ってきた。地表は緑に覆われているが、熱帯雨林であろうか。
しかし、目的地・ポートモレスビーが近付くにつれ、赤茶けた山に木が疎らに生えているだけの、やや荒涼とした地形が目立ってきた。パプアニューギニアといえば熱帯雨林のイメージであったが、首都周辺はそうでもないようだ。脊梁山脈に隔てられた大きな島であるだけあって、地域によって植生も多様なのかもしれない。このあたりは海を隔ててオーストラリアも近いから、むしろ向こうの方と似てくるところもあるのであろうか。
ともあれ、慣れ親しまぬ異郷の風景であることに変わりはなかった。
そんな景色に夢中になっているうちに、飛行機は空港へと降り立った。廊下を歩いていくと、様々な民族衣装を身に付けた現地人の姿を映したポスターが壁に目立ち、気分が高揚してきた。
さて、とりあえず、目下の課題は①荷物の確保、②現地通貨キナの入手、③SIMカードを購入してのモバイルデータ通信接続の3点である。これらを念頭に、私は預け荷物の受取場所まで歩いた。ロストバゲージだけはやめてくれ、とひたすら祈るばかりである。
ターンテーブルの前で待っていると、荷物は無事に出てきた。フィリピン航空がマニラ空港でも上手くやってくれたようだ。①の課題は解決。これを回収し、国際線の到着ロビーへと出た。
次に、出てすぐのところに携帯ショップがあったので、ここでSIMカードを購入する。店は右にDigicel、左にbmobileというものがあった。旅行者たち(殆どが白人である)は皆Digicelに並び、少々列が長くなっていたので、bmobileに並び、1ヶ月何十GBであったかの手ごろなプランを購入した。しかし、ここで待ち時間を惜しんだのは悪手であった。このあとたびたび記すことになると思うが、このSIMは非常に繋がりが悪く、しばしば本国との連絡が途絶する状況に追い込まれた。比較していないので分からないが、他の旅行者が皆Digicelに並んだのはそういう理由であったのではないかと今は思う。ただし、店員の対応は非常に親切であった。
余談だが、ここで初めてクレジットカード(EPOS)を使い、無事に決済をすることが出来て、私は非常に安堵した。これより以前、日本でニューギニア航空の国内線の航空券を買おうとしたとき、PayPayカードは不正使用を疑われてロックされてしまったのである。カード会社に異議申立をしようにも、調べても連絡先がよく分からず、ただただ困却させられた。そんな中、EPOSカードはこのパプアニューギニア旅行において、ただの1度たりとも理不尽なセキュリティロックをかけることがなかったので、感謝してもしきれない。
それにしても、PayPayカードは何を考えているのであろうか。もし、異国の地で不正使用と誤認され、たった1枚のカードがロックされてしまい、それを解除する連絡先もすぐに見つからないようであったら、下手をすればその旅行者の安全にかかわる大問題である。消費者のことを考えれば、疑わしい支払いであっても、アプリから簡単に許可申請できるような設計にするなどの工夫をするべきではないのか。所詮、大資本家は、いかれた末端消費者の珍妙な旅行のことなど、全く歯牙にもかけていないのである。この経験で、私はPayPayカードを金輪際使わないと決意したものである。
ともあれ、課題③が解決した。しかし、その先にあったBSP(Bank South Pacific、南太平洋銀行)の両替所で聞いても、日本円は扱っていないとのことであった。課題②解決ならず。腹に巻いたポーチの中で、封筒に入った現金日本円20万円が淋しく泣いている。
これはどうしたものか。とりあえず外へ出て、この日の宿泊地であるゲートウェイ・ホテルの送迎バスを探すこととした。ホテルに両替所があるとの情報も聞いていたためである。
外へ出ようとすると、マニラに着いてこのかたしばらく聞いていなかった日本語が、不意に耳へと飛び込んできた。見ると、真黒な肌の現地のガイドさんが、日本人旅行者と喋っているではないか。私は初めて日本人旅行者と遭遇して安心した。
少し話してみたが、両替のことはよく分からないようである。仕方がないので諦め、少し雑談をする。ガイドさんはブーゲンビル自治州のニッサン島出身の方であった。ニッサン島は、ブーゲンビル島の東の沖合、ニューブリテン島との間に位置する島で、第二次世界大戦の玉砕の戦場としても知られるグリーン諸島に属している。私が明日ブーゲンビル島に旅立つと伝えると、非常に喜んでくれた。そんな彼が流暢に日本語を操る様には敬服した。
心細かったが、あまり話すと雇い主さん方のお邪魔になるので、ガイドさんと別れ、建物の外へと出た。色々なホテルの送迎が来ている。すぐにゲートウェイの車も見つかり、声をかけて乗り込んだ。
空港の軒下には、ツバメと思しき鳥たちが巣を作っていた。私が木曽谷を発った9月初頭は、ちょうどツバメたちが日本を去ろうとする季節であった。流石に彼らが1週間ほどで飛行機のようにここまで渡ってきたとは思えないから、別の鳥たちであろうが、木曽から仲間が一緒に来てくれたかのようで、何となく安心感が沸き上がったものである。
ゲートウェイホテルは空港からほど近い。名前の通り、パプアニューギニアの玄関口だ。
空港からは短いドライブであったが、事前にポートモレスビーの治安の悪さを聞いていた私は、スマホを取り出して屋外の風景を撮影することにも躊躇していた。しかし、試しに車外を撮ってみると、別にそれを見て強盗が襲い掛かってくるような様相はない。それ以前に、街並みには余裕があり、歩道も車道も閑散としている。少なくとも空港とホテルの間では、車があっという間に強盗に囲まれるというようなことはなさそうであった。
無論、徒歩の場合の安全の保障はできない。外務省からの渡航安全情報の通知によれば、私の滞在中にも、パプアニューギニア内陸部のゴロカの空港からホテルまで歩こうとした日本人が、強盗に襲撃され、全ての荷物を奪われている。私はこの国でやっても大丈夫なことを慎重に見極めながら、徐々に行動の幅を広げていった。
黒と赤地に、南十字星と極楽鳥をあしらった、美しいパプアニューギニアの国旗が沿道に翻る。私はいよいよ赤道を越え、人生初の南半球に足を踏み入れたのだ、と感激ひとしおであった。
ゲートウェイ・ホテルに着いてみると、想像以上に奇麗で現代的なホテルである。1泊2万円少々。残念ながら東南アジアなどとは違い、パプアニューギニアにはバックパッカー向けの安宿は無い。恐らく、それを成り立たせられるほどインフラが安定していないし、治安も良くないのだ。
これより先の旅でも、ホテル代は終始1泊1~2万円が相場であった。
私はチェックインを済ませ、部屋に荷物を置いて一眠りした。飛行機の到着は午前5時頃であり、機内ではおそらく5時間も眠れていなかったので、全然寝足りなかったのである。まだまだ1日は長いし、これからの旅も長い。体力の温存が肝要である。
また、この先どれぐらい洗濯できるかも不安であった。そこで、飛行機で着てきた衣服を、ホテルの石鹸を使って洗い、干しておいた。
昼前、仮眠の夢が破れたあと、私は未了のまま放置していた課題②、現地通貨の入手を達成するため、再びホテルのフロントへと赴いた。しかし、ホテルの両替所では、今はもう円を扱っていなかった。戦後80年近くが経ち、慰霊団の探訪もめっきり少なくなったためであろうか。
一抹の哀愁を感じつつ、話を続けると、やはり空港で両替ができるはずとのことであった。そして、次の飛行機に合わせた送迎バスで、空港まで連れて行ってくれるとのことであった。親切な対応に感謝の限りである。
空港に着いてみると、案内されたのは、先ほどと同じ南太平洋銀行の両替所の裏側であった。ここで話をしてみると、当たり前のように日本円を両替できた。意味不明である。反対側の窓口の機能が違ったとはとても思えないし、仮に違ったとして、なぜ裏側へ案内してくれなかったのか。
デタラメなことが多い国であるとは従前から聞いており、覚悟はしていたが、実際に直面してみると、なんとも苦笑いをするほかない。しかし、これからの旅路において、この程度のデタラメはまだまだ序の口であった。
空港なので当たり前だが、両替レートは芳しくなかった。為替が1キナ40円のところ、空港では50円近い悪レートであった。護送すべき荷物が増えることを覚悟で、両替する日本円をひとまず半分の10万円にしておいて正解であった。ちなみに、その後試したATMのキャッシングでは、1キナ41円程度で借りることができるため、両替所よりもずっと割がいい。
その後、待ってくれていた送迎バスの運転手に礼を述べ、ホテルへと戻った。車中で運転手に色々と話しかけられ、日本から来たことを伝えると、日本が大好きであると言ってくれて嬉しかった。
その流れでFacebookを交換しようと持ち掛けられ、言われた通りに友達申請をしたはずなのだが、1年以上経っても未だに承認がない。恐らく彼は未だにFacebookを開いていないのである。これがパプアニューギニアだ。
その後、部屋に戻って現金を整理したのち、日本から持参していたランチパックを食べた。祖国の味よさらば。これから先、自分の手で食料を探してありつかなければならない。
そして、かねてから目を付けていた、市内のパプアニューギニア国立博物館へ行くこととした。フロントでタクシーを呼んで向かった。
このタクシーの運転手もまた面白い人であった。当初、片道だけ運転を頼もうと思ったら、往復で100キナで行ってくれるとのことであった。そして、私が博物館を見ている間はどうするのかと聞いたところ、案内してくれるとのことであった。
お言葉に甘えて、ハイランド地方出身であるというこの運転手と共に博物館を見てまわった。博物館は入館料無料であった。ハイランドに関する展示物があると、運転手は「これはうちの故郷のものだ」と教えてくれた。
また、展示物の中には、恐らく精霊をかたどっていると思われる木像もあったのだが、その木像に立派な男根が生えているのを指さして、大喜びで笑いかけてきた。男児が大人になってもおちんちん好きなのは万国共通のようである。
その他、展示物の木製のドラムを勝手に叩いて実演してみせてくれたときは、とてもありがたかったが背筋が凍った。幸い(?)、警備の人や他の客はおらず、何の注意を受けることもなかった。やはりデタラメな国である。
国立博物館では展示品の写真を沢山撮ったので、別の記事でまとめて紹介しようと思う。
Googleマップでは博物館の敷地内にカフェか飲食施設があるようなマークが付いていたので、ついでに間食を済ませようかと思ったが、見当たらなかった。ランチパックだけでは満足できない腹の不満を鎮めつつ、ホテルへと帰ることにした。
帰りの車内からも街の風景を楽しむ。高層ビルや大型ショッピングセンターが建っているが、それぞれの間隔はだだっ広い。東南アジアの街に見られるような、ぎゅうぎゅう詰めに並んだ建物は無い。だいぶ敷地に余裕がある印象を受けた。
現地人もちらほらと見られ、バス停などには沢山集まっているが、噂に聞く強盗(「ラスカル」と呼ばれている)はどこにいるのか分からなかった。しかし、外国人が分からないところに間違いなく潜んでいるのだろう。
ホテルに着くと、運転手は何故か150キナを請求してきた。さっき100キナって言ってなかった?と食い下がると、不服そうではあったが、120キナまでまけてくれた。恐らく、彼の予想以上に私が博物館の観覧にかけた時間が長かったのであろう。幼少期から、博物館の展示はじっくり隈なく見て回ってしまう癖があるのだ。だいぶ急いだつもりではあったのだが、それでも少し申し訳ない気持ちを20キナに詰め込んで支払った。
午後はホテルのプールで時間を潰した。燦燦と照りつける熱帯の太陽の下、冷たい水に身を任せるのは心地よい。プールサイドに先ほどの洗濯物を並べ、貧乏くさく乾かしながら泳いだ。
飲料水は、ホテルの冷蔵庫にミネラルウォーターが入っていたので、それを飲んだ。パプアニューギニアでは、ホテルの冷蔵庫に入っている、いかにも無料サービスらしい見た目をした飲み物を飲んでも、追加料金を請求されるシステムは無いようだ。
夕方、プールから上がって一休みしたあと、私はホテルの敷地内を逍遥した。異郷の椰子影に夕日が沈んでいく。祖国と全く異なる草花の形に、改めて遠く来たことを感じながら、一人黄昏ていた。
さすがに腹が減ったので、ホテル敷地内の飲食店を探すと、入口の並びにピザ屋が入っていた。だいたい1000円ほどでピザ1枚が買えた。レギュラーサイズとはいうが、日本人1人には十分な量である。どうもこちらの人達は大食いであるようだ。この先、小食な自分は毎食ごとにフードファイトをすることになる。
私はペパロニピザを注文し、部屋に持ち帰って食した。アメリカンな味と見た目である。チーズたっぷりでとても美味しかった。
ピザ屋の並びにはATMがあったので、キャッシングを試してみたが、上手く行かなかった。腹をすかせたATMにカードを食べられたら困るので、早々に諦めて切り上げた。
かくして、パプアニューギニア初日の夜は更けた。感慨深い、南半球で初
めて明かす夜である。
余談であるが、この日、ラバウル近郊のトクア空港に強盗団が押し寄せて略奪をしたため、全便が運航停止になったという怪ニュースが飛び込んできた。ラバウルは私が10日後ぐらいに訪れる予定の場所である。私は見なかったことにして、とりあえず眠りに就いた。こんな治安でもこの国の経済は回り続けているのだから、10日もあれば何とかなるであろう。それよりも、明日のブカ行きの国内線にきちんと乗れるのかどうかが目下の課題である。