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傾聴・傾聴・傾聴それからさらに傾聴

人の話に耳を傾けることは、自分が話すことよりも大切だ。
もしそうではないとしたら、神様は人間の口と耳の数を逆にしたはずだ。

ロバート キヨサキ『金持ち父さん 貧乏父さん

私は割と、自己啓発本が好きだ。
そして大抵の本には、聴くこととの大切さが説かれている。

基本的にみんな話したがり屋だから、聴く側に徹するだけで希少な人材になれる。
人から求められたいなら「聴く力」こそが重要。

傾聴は、ビジネスや恋愛など幅広いジャンルにおいて、もはや「鉄則」となりつつあるだろう。

しかしその、聴くことの難しさよ。
場が盛り上がれば盛り上がるほど、自分の話もしたくなってしまう。
「そういえば私もさ」と会話を横取りするのはご法度だが、分かっていても時々やってしまうのだ。

このあたりをまったく気にせず、会話をただ楽しめるのが一番良い。
しかし根が真面目なのか小心者なのか、ふと「今、私話しすぎているかも?」と我に返ってしまう。

聴くことが大事だといわれすぎて、話すことが悪いように思えてきた。

その感情を突き詰めてみるとどうやら、「一方的に話すことが許されるのは、芸能人やYouTuber、専門家など限られた人だけ」という思い込みのようなものがある。

言ってしまえば「話すことが人から求められている人」だ。

最初のnoteでも触れたが、私は「発信者」に対するよく分からないコンプレックスのようなものをもっているのかもしれない。

例えば動画もラジオもそれを求める人、いわばファンがいないと成り立たない。
お便りを送って番組に多少コミットすることはできるけども、基本的にファンは推しの話を聴く一方だ。
しかしそれで十分、大満足なのだ。

とはいえ発信者側の人は批判やスベるリスクを乗り越えて、今の地位を得ているわけだから、何も公表してこなかった私がそれを羨ましがるのは筋違いだ。

話は逸れたが、一般人同士だとどちらかが聴くだけで満足とはいかないのではないだろうか?

配信者を目指すほどではないが、ひとまず目の前にいる家族や友人にウケたい気持ち。
みんな持っているのではないだろうか?
少なくとも私にはある。

だからこそ、良い聞き役の需要が大きいのも分かる。
私自身、そうなれるように努めているのだが……。

そうなると、「私の話は一体全体誰が聴いてくれるんだ?」とも思う。

好きなものの話や近況をべらべら好き勝手に喋って、なんならそれでちやほやされたい。
ちやほやされるかはさておき、前者はやろうと思えばできる。
ありがたいことに、私の家族や友人は優しいので、内心どう思っているかはさておき、うんうんと聴いてくれるだろう。

しかしその後に「話しすぎた」と、私が頭を抱えるのは目に見えている。
結局、「話すことが求められている人」への劣等感のようなものに悩まされ続けるのだろう。

その気持ちを打ち消すために、私はnoteを書いているのかもしれない。
話すのも書くのも、本当は別に誰にも求められなくたってやっていいのだ。
それを頭に叩き込むために、文字を打っている。

聞き役で溜まるストレスを、ここで吐き出しているともいえそうだ。
人前では良き聞き役として愛され、裏でnoteを書いてスッキリできれば、それが一番良いのかもしれない。

しかし最近、Twitterでふと怖い投稿を見た。
それは傾聴や共感のテクニックはバレるし、バレたらこの上なく不愉快だというもの。

ギクリ。

調べたら同じような意見が複数見受けられた。
そりゃあこれだけ傾聴しろ傾聴しろと言われたら、傾聴テクニックも広く知れ渡っているに決まっている。

聴くことで何者かになりたい。
聴くことで替えがきかない人になりたい。
聴くことで誰かに求められたい。

そんな浅はかな傾聴はどうやらバレているようだ。
それじゃあもう明日から開き直って、空気の読めない話し役になろうか。



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