木の下で
そのころ私たちの家は、丘をけずってできたばかりの住宅地の、少しはずれの空き地の多い場所にあった。
これから人が増えることを見込んで小さな商店を始め、母が切り盛りをしていた。家の一画を利用した店内は、それほど広くなく、壁沿いには天井ほど高い棚が、中央の空間には大人の背丈ほどの棚が立ち並んでいた。棚にはつまようじやティッシュやライターや、生理用品や目薬といったこまごましたものが、ぎっしりと置かれていた。
私はその店の少しほこりっぽい空気が好きだった。
それまで通っていた幼稚園の、板敷きの部屋や運動場の土、通い始めた小学校の、靴箱や廊下や教室。どちらとも違うにおいと光。リノリウムの床に蛍光灯が反射して、うっすら緑がかり、目を凝らすと小さなゴミが浮いていた。つるつるの床には、知らない間にやってきて、帰っていった来店者の靴の跡があった。
夕方、学校から帰ってくると、夕飯までの間にこっそり店に入り込み、母から見えない場所に座って、いろんなものを観察した。
床は冷たく、気持ち良かった。靴の跡に沿ってダンゴムシが這い、靴についてきた泥には草の葉が混じっていた。棚の一番下の段の隅に転がっているわたぼこりと、綿毛のついた植物の種が、絡まりあってふるえながら空気が揺れるのを待っていた。店のドアを押して来店者が入ってくると、入り口にあるセンサーが派手な音を鳴らす。ドアに押された空気は小さな風を起こし、来店者の足の動きに合わせて店の床をないでいく。綿毛の種がわたぼこりから自由になって、靴についてきた泥に落ちる。そこから芽が出て太い幹が伸びていったら、はしごを掛けてその幹の上に登って、今度は上から色んなものを見よう。
来店者と母が何かを話している。レジを打つ音のあと、がちゃり、とドアノブを回す音がした。住居部分へつながる、店の入り口のドアとは反対側のドアが開いたらしかった。娘(私のことだ)は外に遊びに行っているらしいから、と母が言い、ドアは家の内側から閉められる。店の中がとても静かになった。
翌日、靴の跡はもうなかった。泥に落ちた綿毛の種は、泥と一緒に拭き取られてしまっていた。きっとレジの足元のゴミ箱の中に、泥と一緒にティッシュに包まれて捨てられているのだろう。ゴミ箱から芽が伸びて、大きな枝が店中に広がったら、きっと枝葉が隠れ場所を作ってくれるから、葉の間に住む鳥や虫たちをここからずっと見ていよう。
わたぼこりは同じ棚の一番下の段の隅にそのまま残っていて、ダンゴムシが丸まって寄り添っていた。ダンゴムシはつつくと身震いをして体を開き、小さな歩幅で棚の外へ向かって移動し、縁までくると、縁に沿って離れていった。
目を戻すと、わたぼこりの奥に何かがあった。わたぼこりを指でつまんで棚の一つ上の段へ置いた。目を戻すと、そこには卵があった。白い、冷蔵庫に入っている卵よりは少し小さいくらいの卵が横たわっている。
手を伸ばし、指でつつくと、向こう側にわずかに転がって、また元の位置に戻った。今度はそっと、上から包み込むように卵を掴み、ゆっくりと取り出す。いつも食べている卵より、少し軽い。真っ白で滑らかで、ほんのりと温かい。
店のセンサーが鳴り、誰かが入ってきた。私は卵を手に持ったまま動きを止めて、その誰かの足と足の起こす風の動きを感じた。こちらに向かってくる。立ち上がって壁によりかかり、うしろ手に卵を隠した。うつむいた視線の先に黒い大きな靴が見えた。
「おや、こんにちは。」と聞いたことのない声が言った。私はより一層うつむいた。
「あら。」母の声だ。「外に行ってると思っていたのに。」母がやって来る。足音がする。
私はうしろ手に卵を持ったまま後ずさり、壁に沿って店の入口から外に出る。センサーが派手な音を立てたから、きっと母にも分かっただろう。走って逃げた。
家の周りは空き地だらけだ。四角く区切られていて、道路より少し高く土が盛ってあり、まっすぐで触ると手の切れる草がたくさん生えている。その間には、白くて小さな花の咲く丈の高い草も見える。
家のすぐ近くだと見つかってしまうから、少し遠くの、崖のそばの空き地に向かった。似たような空き地がずっと続いているけれど、そのどれもが違うことを私は知っている。この角の空き地には、大きめの石がいくつか転がっている。その先の空き地の一画には、ねじ花が咲いている。
崖のそばの空き地には、大きなヤマゴボウの茂みがあった。鮮やかな赤紫の実を房状につける木で、この実は毒だというけれど、熟した実をつぶすのも、まだ緑から青に変わる途中のつやつやした実を眺めるのも大好きな大事な茂み。
その茂みの足元に卵を隠しておくことにした。本当に根元の部分、土と木がつながるあたりに、まっすぐな草をちぎって敷いた。手が切れて少し血が出たけれど、草の匂いは心地よかった。ふかふかに敷いて、その上に卵を横たえてみる。真っ白な殻が少しだけ赤い血で汚れた。にもかかわらず、卵は草の台座の上で機嫌が良さそうに見えた。その日は日が暮れるまで、卵のそばで虫や草を眺めて過ごした。
土曜日が来た。学校に行かない日で、父が家にいる日。母はいつもどおり店を開ける。私は卵のある空き地へ急ぐ。天気が良く、風が温かい。ねじ花の咲いている空き地に白い蝶が舞っている。ヤマゴボウの茂みの足元には、変わらず卵が横たわっていた。白い殻に、茶色く変色した血の跡。青かった草の葉も茶色くなっているが、水分が抜けてより柔らかくなったようにみえる。手をのばそうとした時、影が私を覆った。
振り返り見上げると、父のようだったが、影になっていて顔は見えなかった。
「何をしているんだ。」父の声だった。「虫でもいるのか。」私は頷いた。
「触るなよ。刺されると困る。」私は頷いた。「今日は店では遊ばないのか。」父の顔をもう一度見あげるが、やはり顔は見えない。
「客が来てるのか知らんが、邪魔にならないようにしなさい。」私は頷いた。父は去り、太陽が戻ってきた。
もう一度、卵へ手を伸ばす。温かい白い殻に触れる。持ち上げて引き寄せ、眺める。少し赤らんで、大きくなったように見えたが、気のせいかもしれない。でも温かいからきっと生きていて、このまま手で包んでいたら、小さなくちばしが内側からこつこつ叩く。出てきたらタオルを敷いた小さな箱に入れて、雨や寒さを避けられるように何か被せよう。毎日、水とごはんを運ぼう。母にも父にも見つからないように。
また新しく草をちぎって、敷いた。卵を横たえ、今度は上にも、ちぎった草を被せた。卵の白い殻が見えなくなるまで草で覆った。昼どき、家に帰ると父はいなかった。母が作った昼食が置いてあったので食べた。午後はまた卵のある空き地に戻って、クローバーを編んで過ごした。クローバーの緑の葉と白い花を、茎を長くとって摘み、重ねあわせて、茎を巻く。何本も編んで、これも卵にかぶせておいた。いちばん下の茶色と、緑と、白に包まれて、かすかにのぞく白い殻の奥に何かが脈打っているように見えた。
日曜日は雨になった。店は休みで、母も父も家にいる。雨の音が激しく、戸外は薄暗く、蛍光灯の光だけが部屋を照らしている。母は台所の小さな椅子に座って本を読んでいる。一心に、たばこを吸いながら、コーヒーを傍らにおいて、手のひらの中の小さな文庫本を見つめている。父はテレビの前のソファに座って、ニュースを見ながら、ぶつぶつ言っていたかと思うと突然大声でなにかの言葉を吐く。私は二人のちょうど間くらいの床に座って、積み木を積んで、崩して、また積んで、崩す。何度目かに、何か小さなものが喉に引っかかり、咳が止まらなくなる。止めようとするけれど、止まらない。咳をしながら積み木を片付け、できたスペースに腹を抱えてうずくまる。顔を下にして、口を抑えて、咳が出ないように。
「水を飲みなさい。うるさいわ。」母の声がした。私は口を抑えたまま台所へ行く。咳が漏れ出て、胸と腹が痛む。咳をこらえる度に体の内側が震え、息ができず苦しい。やっとコップを水で満たしたが、たまらず大きく咳き込む。父が何かを怒鳴る。母が怒鳴り返す。うずくまってこらえながら水を飲む。水を飲むと喉が冷えて息ができた。
「うるさいから早くやめて。やめられないなら寝てなさい。」母の声だ。店で聞くより尖って、かすれていて、別人のようだけれど、母の声だ。雨の音も聞こえる。もう一杯水を飲む。卵は大丈夫だろうか。卵の空き地に行きたかった。卵の白い殻と、脈打つようなその奥の、成長している何かと、母にも父にも見つからないで、茶色と、緑と、白に包まれて。呼吸が落ち着いてきた。
「咳、止んだよ、お母さん。店で遊んでいい?」母がどうぞ、というように頷いた。
「家に上がるお客さんも、今日は来ないよね。」私は母の顔を見ないように立ち上がってコップを流しに置いた。
父の声がした。「家に上がる客がいるのか。」「黒い靴の人。」私は答えた。そのまま店へ通じるドアを開けて、いつもの場所に座った。ダンゴムシはいなかった。わたぼこりもなくなっていた。あの卵を見つけた棚の隅はからっぽで、店の中は静かだった。
月曜日は暑くなった。学校からの帰りに、家に戻らずに空き地へ向かった。土の表面はだいぶ乾いてはいるものの、ところどころに水たまりが残っており、草も湿っていた。幸い、ヤマゴボウの茂みの下は水に浸かったような跡はなかった。それなのに、卵はなくなっていた。編んだクローバーの下にも、被せた草の下にもなくなっていた。雨が流してしまったのだろうか。それとも、誰かが取っていったのだろうか。
いちばん下の茶色い草の台座を茂みの中から引っ張りだすと、乾いていた。膝を抱えてその上に座ると、周りに生えている草たちより目線が低くなった。草に残った水滴が陽を浴びて輝いていた。気が付くと、草の緑と、地面の茶色と、空の青と雲の白と、七色の水滴に囲まれていた。草の間にひときわ白く光るものがあり、よく見ると割れた卵の殻だった。白い殻に、うっすらと変色した血の跡が残っていた。
その時どこからか、やぶの中で鳥が動くような音がした。ヤマゴボウの茂みの足元から、白い何かが茂みの向こうへ跳ね出していったようだった。立ち上がって、茂みの向こう側を眺めると、白くて柔らかそうなものが跳ねながら遠ざかっていくところだった。長い2本の耳の先まで真っ白で、しみひとつ無いようだった。ふわふわとした白い毛に、草に残った水滴が移り、光っていた。
白いものは空き地の端までいくと、立ち止まりうずくまって一瞬ふるえ、土色の根と幹が上下に伸びて、根は土を這い深く広く張り、幹は枝分かれして緑の葉が現れた。ふわふわの白い毛が、房のようにその枝を飾る花になった。一瞬、風が吹いて花を揺らした。
目をこすり、しばたたいてみても、それはそこにあった。草の台座をその木のそばまで引きずって行って、ぎっしりと花と葉の茂る枝の下に座る。見上げると、花も葉も光を受けて半透明になり、その間から空と雲が見える。白い蝶がどこからかやって来て(あのねじ花の空き地からやって来たのかもしれない)ひらひらと飛び回ったあと、白い花の一つに止まり蜜を吸う。
しばらく後に母がいなくなった。父は店を閉め、店だった場所は私の部屋になった。父は相変わらずテレビを見ながら何かぶつぶつ言っていたが、怒鳴ることはなくなった。些細な問題が毎日のように起こったが、父と私の両方が何かを犠牲にしながらやり過ごした。周りにはどんどん家が建っていった。そして十数年が過ぎた。
あのヤマゴボウと卵の木のあった空き地には、白壁の華奢な家が建っている。どんな人たちが住んでいるかもわからない。あの木々も、きっと残ってはいないのだろう。しかし今、私の手の中には卵がある。白く、冷蔵庫に入っている卵より少し軽くて、ほんのりと温かい。スカーフで何重にも巻いて、小さな箱に入れて、衣服を詰めたトランクの真中に置いた。卵が孵ってしまわないうちに、私は黙って家を出た。