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2022_0406_本読み

<1435字>

冒頭の写真:

近所の信号の名に「五差路」がありました。

「差」っていう字一字なら、
引き算の結果とか、あれとこれの違いとか、そんな意味です。

が、ここでの「差」は「交差」などに使う時の、
交わるっていう意味(かな? 「交」だけで意味は尽くされてるから、厳密に言うと、意味はほとんど無いのかもしれないです。)

きっと「交叉」が元の書き方で、公的に使える漢字などの制限で、同じ音の「差」が使われるようになったんじゃないか、って想像しました。
「叉」だったら、見るからに交わってる雰囲気ありますから。

いきさつはどうあれ、同じ字なのに違う意味、ということにとても興味があります。

『チョムスキーと言語脳科学』(酒井邦嘉 著)をヒッポの仲間と読んでいて、FL=The faculty of language(言語機能、または言語機構)ということばが出てきました。

faculty は日本語訳すると、機能とか(大学の)学部、だとか、かなり違った意味をもつことのある単語だと、知りました。

よくあることだけれども、日本語でずばりこれ、という言い表しができない英語。

こういうのに、とてもひかれます。



4月6日(水)は以下を読みました。

振仮名ふりがな歴史れきし

今野真二 著
集英社、2006年刊
第四章 明治期の振仮名
第三節 翻訳小説の振仮名

龍動新繁昌記ろんどんしんはんじょうき』(明治11(1878)年、ジョン・マレイ著、丹羽純一郎 訳)の図版が載っていました。

やはり振仮名が面白い!

笑ってしまったのは「西卿寺」。
これには、右振仮名は無く、左振仮名がウエストミンスター。

(音読した人:山崎)






『とこしえのお嬢さん』

野見山暁治 著、平凡社

「ただそれだけの夜」(三岸節子)と「ある弔文」(武富京子)という、二話。

三岸節子や平林たい子が、週刊誌に「書き叩かれていた」ということに、時代の雰囲気を感じました。現在なら芸能人に振られている役を、絵描や作家も担っていた、というふうに感じました。

もう一つは、二人目(?)の結婚相手である武富京子さんが亡くなられた時の弔文。京子さん、すごい人だった〜。

(音読した人:こいでさん)





『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』

斎藤倫 著、高野文子 絵
福音館書店
10、そして、ほんとのこと

読了でした。

今日の詩は「大漁」(金子みすゞ)と「風がやむとき」(井上洋子)でした。

最後まで来て、この本の題名が『〜の詩集』となっている意味がよくわかった気がしました。
これは、こどもとおとなの境に居る子に読んであげる「詩」 集なんですね。

著者は、
あの時期の
忘れ去ってしまうけど、ずっとあるような、
おぼえているけど、永遠に失われてしまったような、
そういう時間を書き留めたかったんだろうな、と思いました。

山崎は、感銘するけどちょっと恥ずかしいです。

もしもこういうおじさんが居たなら、
こどもは「ことば」というものの持つ、
はっきりしなさ、みたいなものに気づくものなのでしょうか?

(音読した人:きよもとさん)







『芭蕉連句集』

岩波文庫、松尾芭蕉
三一 御尋に(曾良俳諧書留)105〜107ページ

発句で庵の主 風流ふりう が、

狭い破れ蚊屋、とへりくだったのに対して、

脇句で芭蕉が、

すーっと通る風こそ、よい薫物たきもの

と見立てているのが、注と合わせて 良くわかったので 嬉しかったです。

(音読した人:山崎)

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