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2024_0320_本読み

<1138字>

冒頭の写真:
はっきりしない写真になってしまいましたが、今年も貝母ばいもの季節が来ました。いよいよ開きだした3月20日、ちょうど春分です。
毎年少しずつ本数が増えています。
地下茎で増えるのか、種が完熟する前に枯れてしまうように見えるが実は種で増えているのか。



3月20日(水)は以下を読みました。


『巨匠とマルガリータ』 
ブルガーコフ 著

集英社 世界の文学15 ロシア Ⅲ

マルガリータの願いで、ヴォランドはすぐに「巨匠」を現れさせます。病身の「巨匠」でしたが、コロヴィヨフの差し出す飲み物で、とりあえず生気を取り戻します。まあ、でも、精神病院に入っていたわけで、その弱気さが治ったわけではない。

巨匠が「病む」きっかけとなったのは、自身の小説への中傷(現代ならばいわゆる「炎上」)で、その小説の内容は、ピラトーとキリストについてのものだった、ということが再確認されました。

1930年台のロシアで、キリスト教の始まりに強く関わるこのお話が、いったいどういう意味を持っていたのだろう、と、またまた思いました。

(音読した人:山崎)





『科学と宗教と死』 加賀乙彦 著

集英社新書

神父さんを4日にわたる質問攻めに。
最終的には質問が出尽くして、なにも聞くことがなくなってしまって、なんだかポカンとするがたいへん気分がいい、という体験となりました。そんなことがあるのかな、と思いましたが、
読後に、読み手のこいでさんが、これに似た体験あったなーと振り返ってくださって、ああ、実際あるもんなんだな、ちょっと腑に落ちました。

人間って普遍的にそんなものなのかもしれない、と思いました。
入信とか洗脳とか宗教的体験とか、多分、人間の生理的な現象なんでしょうね。

ここでは、著者は、あれっ?というくらい、その内容を言語化していない、というふうにも感じるのも、ことばの層よりも深部にある生理現象だからなのかもしれない。

(音読した人:こいでさん)





『芭蕉七部集』  中村俊定 校注

岩波文庫
『猿蓑』
☆                   
「月」の句が続きます。

〈 月清し遊行のもてる砂の上  芭蕉 〉

気比の明神が 御食津伊奢沙別命 を祀ったものという注があるが、読めず。あとで調べると、みけついざさわけのみこと と読むようです。

気比神宮は、遊行上人(時宗2代目の他阿たあ)が、自ら砂を運んで道を整備したという、ゆかりの地。検索すると昨年令和5年の「遊行のお砂持ち」という行事がでてきました。芭蕉が訪れた際も、この行事が行われていた、とウィキペディアにありました。

時宗は念仏をする仏教ですけれど、それと神社が密接に結びついてるんですね。神仏混淆を感じました。

(音読した人:山崎)

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