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公立病院改革3-32【政策判断から事務作業まで】〈2006年〉東北170床 公立F病院

特に、理事とその部下の方と一緒に行った超・基礎的な事務作業で、圧倒的な事務力を見せつけられたときの印象が強い。

数十人分の資料を準備する際に、僕が誤って資料を「部ごとに印刷」ではなく一遍に印刷してしまった。
そのために、何人かでセットに綴り直してホチキスを撃つ、という単純で時間のかかる作業をせざる得なくなったのだが。

その製本スピード自体が、僕の数倍速い。
ホチキスを撃つ精度も、僕の数倍高い。
できあがった製本が、美しい。

僕も少し事務処理ができる、と自負があったが。
そういう次元、では無かった。
事務を徹底して繰り返してくると、ここまでできるものなのかと感嘆した。

こうした事務的場面だけではない。
個々の折衝や、結論を得るまでの判断を要する場面での、決定が早い。

役人は物事を決めない、責任を持たない、という先入観を持っていた。
しかし、その認識は誤っていた。

政治を経て決定された事項の遂行、文字通り「行政」を達成するという点において、彼らの決定は速く、責任は全うされていく。
よく「政治三流」と言われるが、日本国と地方自治を支えているのは、この行政能力なのだと見せつけられた。

この業務で行政能力についての偏見を改めたことで、その後、優秀な行政人たちと仕事する上で、諸々見誤らずに済んだと思う。

そして、そういう行政人と行動を共にし、また時に対峙する我々民間人には、もちろんそれと異なる能力や役割がある。

現在、民間人として税理士業をしていて、日々そのことを反芻することがあり、その点の認識はとても大切だと思う。

そのお二人と2ヶ月ほど行動を共にしたが、基礎的事務を含む、すべての意思決定と事務処理が、僕の数倍速く正確だ。

僕がいなくなっても、この人たちがいればまったく問題がない気すらした。

あるとき、その部下の方に「今後も病院事業を支えていくのですか」と聞いたら。
既に、来年度の異動先が公民館の運営に決まっている、という返事だった。

これは、私は非常にショックだった。
公民館の仕事を甘く見ているわけではないし、どんな仕事か想像もつかない。

でも、一番苦しい局面であるこの病院、この場所にこそ、この卓越した判断力、事務能力が配置されるべきではないか。。。
と、思ったが、それが役所社会を生きるということ、行政組織の構造なのだと、すぐ得心した。

ともかく、その理事と、その優秀な部下が、時に関東と東北を共に行き来して。
一緒に飯を食って、未熟でものを知らない僕と、いろいろなお話をしてくださった。

そんなことが、この過酷な譲渡事案の中の、嬉しい思い出の一つになっている。


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