世界は怖いところではない
世界は怖いところではないことを教えたい。近年は子どもが大人に連れ去られるというような怖い事件が起こるので、街で見知らぬ人から声をかけられても、決して返事をしない、もちろん、ついていったりしないようにと学校でまた家庭で教えられる。
もちろん、このような指導は子どもの安全を考えれば必要だが、弊害がないわけではない。なぜなら、そのようなこと教えられた子どもたちは大人だけではなく人は皆怖い人だと思い、さらには、この世界が怖いと思うようになるかもしれないからだ。そのように思ってしまうと、今後の人生で対人関係の中に入っていく必要があるのに、他者は怖い人であることを他者と交わろうとしないことの理由にしてしまうことはありうるからである。
たとえ子どもが他者を避けるようになることがあっても、親だけは自分を守ってくれる仲間であると思ってほしい。
家庭の外にいる人でなくても、親が子どもを叱って育てると、子どもはそのような親を自分にとって仲間ではなく敵と見なすようになるかもしれない。子どもを叱ることには多々問題があるが、子どもが親を敵と見なし、さらには、他者も皆敵だと見出すようになることが問題の一つである。
しかし、親から叱られて育つこと、さらには親から愛されることなく育った子どもの人生が決定的に悪くなるとは私は考えていない。親から愛されなかったことはその後の人生に決定的な影響を及ぼすかもしれないが、子どもが人生で出会う人は親だけではない。たとえ親が子どもを愛さなかったとしても、親でなくても誰かがこの人生において自分の仲間であることを知る経験をすれば何の問題もない。できればたとえ他者が子どもの敵になったとしても親が子どもを守れるのが望ましい。
自らも全身に大火傷を負った放火殺人事件の容疑者が、医療者の懸命な治療のおかげで一命を取り留め、こんなことを語った。
あ「人からこんなにやさしくされたことはこれまで一度もなかった」
容疑者のこの言葉は重い。この容疑者にとって重要なことは厳罰を課せられることではなく、これからの人生で他者は自分の仲間であることを知ることであると私は考えている。それが更生するということの意味であり、一人の人間が大きな罪を犯したけれども更生する姿を見せることが、他者に対するその容疑者の責任である。
対人関係とは関係ないところで、子どもがこの世界を怖いところだと思うようになることがある。
テレビでプールで溺れる子どもの映像を見て、息子が風呂にしばらく入らなくなったことがあった。実際に子どもが溺れている映像ではなく、再現したものだったが、プールの給水口に吸い込まれそうになっている子どもの映像はたしかに私が見ても恐怖を感じた。
同じ映像を見ても何とも思わない子どもはいるだろうが、息子はたまたまテレビで見てかなりショックを受けた。その溺れた子どもは実際には助かったのであり、プールで子供が溺れるようなことが頻繁に起こるわけでもないのに、自分の身に起こることのようにリアルに感じた息子は風呂に入らなくなった。
その後どのような働きかけをして再び風呂に入るようになったのかは覚えていないのだが、子どもの頃に自分自身が体験するのであれ、人が体験したことを見聞きするのであれ、恐怖体験がこの世界についての見方に大きな影響を与えることがあることは知っていなければならない。
この世界に危険があるということを教えないわけにいかない。だから、知らない人から話しかけられた時に返事をしないようにという指導が学校でされるのは当然であり必要なことだが、親はすべての人が怖い人であるわけではないということを教えなければならないし、誰よりも親が自分の味方であり、必要があれば自分を助けてくれる存在であるということを教えなければならない。
そのようなことを考えると、親が子どもをきつく叱るというようなことをしていれば、子どもは親をも怖い人だと思い、子どもも世界についての見方に好ましい影響を与えないことになる。
これは私自身の経験だが、ある日風呂に入っていたら突然鼻血が出た。その時私は小学生だった。血を見て動転した私は親に助けを求めた。すると思いがけず父が駆けつけてくれた。「大丈夫だ」。父の言葉を聞いて私は安心した。
中学生の時、交通事故で入院した。その時、母が付き添ってくれた。母とどんな話をしたかは覚えていない。空高く飛ぶ飛行機の音が聞こえた。もう中学生だったから、夜もずっといてくれたとは思わないのだが、子どもの頃、夜中に目覚めた時に近くに母がいることを確認して再び眠りに就いた時のような安心感があった。