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【短編小説】小さな時計屋さん with Smile - Nat King Cole

前話

 BARの開店前に出勤した時は、まずはとにかくお掃除をする。お店の床を、埃が立たないように箒でそうっと掃いてゴミを取ったら、固く絞ったモップで磨く。お店の外の廊下も地上へ続く階段も、通りに面したビルの出入り口の周辺も掃除をする。

「いつもありがとう。璃世りせちゃん」

 お掃除を終えてお店に戻ると、バーテンダーで雇われ店長の笠井さんが、今日の限定メニューを黒板に書いているところだった。今日もオールバックの髪がきっちり決まっている。

「イワシが入ったんですね」

 限定メニューにフリットとか唐揚げとか、イワシを使ったいくつかのメニューがチョークで書いてあった。

「昔は安かったんだけど、今は漁獲量が減っちゃったみたいでさ。でも今日は安く仕入れられたからってオーナーが言ってたよ」
「ふうん。それって地球温暖化の影響ですよね」
「だねぇ」

 このお店「ビストロ・ド・ナイト」は笠井さんと料理人の山村さん、そして雑用担当の学生アルバイトである私の3人で回している。仕入れ担当の気さくな尾崎オーナーはいたりいなかったり。以前は音大に在学中の女の子がアルバイトでピアノを弾いていたけれど、無口なその子が辞めてからは後任が見つかっていない。

「このあいだ弾いてくれた璃世ちゃんのピアノだけど、すごく良かったよ」
「言わないでください。もう!」
「なんでさ」
「ちょっとしか弾いていないのそんなに褒められると捻くれます」
「ははは。でもあんな古い曲、よく知っているね」
「それはですね…」

 その理由は『簡単に弾けるジャズの名曲』とかいうピアノ用の楽譜集にアズ・タイム・ゴーズ・バイが入っていたからだ。弾いてみたら、ちょっと習った程度でしかない私ごときの演奏スキルではぜんぜん簡単じゃなかった。

「なぁんだ。カレシと一緒に見に行った思い出の映画の名曲だから、だとばかり思ったよ」
「違いますって。それにモノクロの洋画なんて映画館で上映しないですよ」
「そうでもない…と言いたいところだが、古い名画を上映していた館がどんどん閉館しちゃってね。銀座にもあったんだけど」
「あれですかね。シネコンのせいなのかな」

 ジョークや雑談を交わしながらも手は止めない。固く絞った布巾でテーブルとカウンター、椅子を拭く。ピカピカになると気持ちが良い。
 
 掃除が終わって腕の時計を見ると…あれ?おかしい。針が動いていない。BARに出勤した時刻で止まっていた。

「どうかしたの?」
「…いえ。大丈夫です。腕時計が止まっちゃったみたい」

 きっと電池切れだ。明日になったらどこかで電池交換を頼めばいい、

「開店までにまだ時間があるから交換してくれば?」
「一晩ぐらい大丈夫ですよ」
「すぐ近くに時計屋さんがあるよ」
「えっ。そうでしたっけ」
「うん。通りに出て左に三軒目」

 言われてみると、確かに、目立たない小さな時計屋さんがあった気がした。

「電池交換なんてすぐに終わるし、行ってきなよ。動かない腕時計をしてるのは落ち着かないよね」
「…じゃあ、お言葉に甘えて行ってきます」

 お財布だけを持ってBAR私飛び出す。一分もかからずに時計店に着いた。入り口の上に、古めかしい金色の文字で『清水時計店』と書いてある。金色の文字は一文字ずつ作られた物で、ところどころメッキが剥げている。

 すりガラスの引き戸を開け、

「こんにちは」

 ガラスのショーケースの向こう側で横を向いて作業しているのがこのお店のご主人なのだろう。遠慮がちのわたしの声に、丸いメガネをかけた顔がこちらを見た。

「いらっしゃいませ」

 清水時計店のご主人は小柄なご老人だった。お歳はわからないけれど、七十歳は越えているような雰囲気だ。

「電池交換をお願いしたくて」

 私が差し出した腕時計を受け取ったご主人は「少々お待ちください」と、さっきまで座っていたポジションに戻った。

 …作業にどれぐらいかかるだろう。早く戻らないと。おじいちゃんだからきっと時間がかかる…

「お待たせしました」
「はっ!?えっ!もう終わったんですか」
「蓋の裏側のゴムも交換しておきました」

 早いっ。早すぎてびっくりしたよ。プロだ。すごい。

 穏やかな微笑を浮かべているシワが刻まれた顔。少なくなった髪は真っ白だ。この街で長年に渡って地域の人たちに愛されてきたんだろうな。きっと…わたしが生まれる前から。

 大学に入学した時に父に買ってもらった腕時計は再び時を刻み始めた。清水さんの俊速の技の対価がたった500円だったことに、申し訳ない気持ちを抱きながら、

「ありがとうございました」

 お辞儀をし、わたしは清水時計店をあとにした。

 BARに戻ったらまだ開店まで10分ほどあった。

「戻りました。すみません」
「おう。早かったね」
「はい。教えてもらったあのお店、おじいちゃんなのにすごく早くて…」

 興奮気味に言ったわたしへ、グラスを磨いていた笠井さんが微妙な顔をした。

「清水さんのところ、今月いっぱいで閉めちゃうんだってさ」
「えっ!」
「お店を継いでくれる人がいなかったんだろうね」

 言葉が出てこない。こんなとき何を言えばいいの…。

「璃世ちゃん、いくつだっけ」
「…12月で21です」
「うちのBARも璃世ちゃんが生まれる前からある。昭和の時代からさ」
「そんなに…」

 それほどの歴史があったなんて知らなかった。

「この界隈の商店街は古いお店が多いんだよね。ほら、角にマックがあるだろう。あそこは前はレコード屋だったんだ。と言っても俺もオーナーから聞いたんだけど」

 笠井さんの話しを聞きながら、わたしは清水さんの柔和な顔を思い浮かべていた。

 二週間後。清水時計店の降ろされたままのシャッターに小さな張り紙があった。そこには手書きでこんな文章が。

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お客様各位

長年に渡るご愛顧ありがとうございました。
当店は平成◯◯年10月をもって閉店いたしました。

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 もしもあの時、腕時計が止まらなかったら。
 店長に教えてもらわなかったら。
 わたしはあの小さな時計屋さんを訪れることはなかった。
 あの優しい笑顔の清水さんに会うこともなかった。

 "ありがとうございました"

 わたしは胸の中でつぶやいた。

Smile - Nat King Cole


♦︎実体験に基づく小説です。
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#作者本人登場・貴島璃世

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