天空のBlack Dragon 第四話
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私にできること
電車に乗り会社へ行き仕事をする。帰宅すれば夫と父親の顔になるが、仕事をしている時間が私の生活の大半を占めている。ごく普通の日常を送るごく普通の成人男性。それが私だ。
私大で経済を学び、卒業後、海外製医療機器の輸入販売を手掛ける企業に就職した。これといった功績もない代わりに大きな失敗もせず、三十八歳で管理職のポストについた。同期の中にはもっと早く出世した奴もいる。羨む気持ちも無くはない。しかしだからと言って野心的な人間というわけでもない。
結婚して子供が産まれて、頭金とローンで購入したマンションに住み、今は二人目の子供が欲しいと思っている。夫婦関係も円満だ。平凡だが問題もない。そんな平凡で平和な私の日常に"彼"が現れた。
その日の午前中の会議で、我が社が親会社に吸収合併されることが役員会で決定したと部長から正式に説明があった。我が社と契約していた複数のメーカーが日本支社を作るにあたり、代理店契約が解除されることが主な理由である。時期は一年後。社員の処遇についてはグループ企業のいずれかに移籍する。と言いつつも、今後、盛大な肩たたきが行われるであろうことは目に見えていた。
なあ。俺はどうすればいい。もしもわかるなら教えてくれないか。
コーヒーを飲みながら"彼"にぼやいてみる。
朝から曇っていたが午後から本降りの雨になった。雨はやがて雷雨に変わり、休憩室からの眺めはそれはもう壮観だった。不気味な灰色の雲が光り、青白い稲妻が何本も走る。雷鳴が轟く。しかし"彼"は変わらずそこにいる。
その巨大な体を強風と大量の雨が叩き、時折、稲妻が落ちて盛大な火花が散る。それでも"彼"は気にも留めていない。変わりなく大空に悠然と浮かぶ黒いドラゴン。それが"彼"だ。私にしか見えない私のブラックドラゴン。
そうだ…写真を撮ったら写るかもしれない。今までなぜ思いつかなかったか不思議だ。ポケットから取り出したスマホを構え、"彼"を撮影する。何枚も撮る。思いついて動画モードでも撮ってみる。再生してみたところちゃんと記録されている。なんだ、簡単じゃないか。簡単すぎて拍子抜けした。
「雨がひどいね。すでに嵐じゃないか。まさかこんな天気になるなんてね」
「お疲れさまです」
隣にやって来たのは部長だった。その視線は窓の外に向けられている。ドラゴンが見えている様子はない。しかし写真なら?
「部長。今、撮ってみたんです」
「んん?写真か」
「ええ。この窓からの眺めは素晴らしいですから」
部長がスマホの画面を見ている。写真と動画も見せてみる。そこに写っている"彼"を突きつける。しかし部長の表情に期待していた変化はなかった。
「よく撮れているね。空から走る稲妻が」
「ありがとうございます」
「じゃあ私は戻るよ。きみも写真なんて撮っていないでそろそろ仕事に戻った方がいい」
「…すみません」
無駄だったか。嫌味を言われただけだ。いや違う。会社組織における私の点数は確実に下がった。思いつきで馬鹿な行動をしてしまった。結局のところ、写真の"彼"も私だけの"彼"だった。
いったい俺にどうして欲しいんだ。俺に何をさせたい?何の理由があって俺の前に現れたのか?
話しかけても"彼"は答えない。その青い目は、ただただ私を見ている。私がここにいることを認めている目だ。でもそれだけしかわからない。
いつも肌身離さず携帯している手帳を取り出す。空白のページをめくり、ペンで"彼"を描いてみる。我が子からせがまれて無意識で描いた"彼"は、今は立派な額に収まりリビングの壁に飾られている。パパのドラゴンは僕の宝物!と言った拓矢がどうしても壁に貼りたいとわがままを言い、妻は妻でどうせ飾るならきちんと額に入れましょうなどと言い、子供のお絵描き帳に私が描いた"彼"は我が家では丁重な扱いを受けている。
あれから何度か"彼"を描いてみた。しかし最初の作品を超えるクオリティにはならない。なぜなのかわからない。手帳に描いてみた"彼"もあまり良くない。休憩室へ先日の女性社員が入ってきたので、たった今、即興で描いた彼を「ほら」と見せてみる。
「えっ。ああすごい。ドラゴンですね」
「うん」
「上手いなあ。すごい迫力がある」
「そうかな」
自分ではそうは思えないが。
「課長ってファンタジーがお好きなんですか」
「いや。そうでもないかな」
「ふうん。へえ。そうなんだ。人って見かけに寄らないものなんですね」
「…」
はたして褒められているのかそうじゃないのか?まあ、いい。
"彼"が見えない人でも私が描いた"彼"なら見ることが出来る。絵だったら。そう。私が"彼"を描けばいいんだ。仕事帰りにデパートの画材売り場に寄ってみよう。
♢
美術関連の商品が所狭しと高く積まれた店頭の印象は昔のままだった。懐かしい思いが込み上げ、意味もなく店内を見て回る。高校生の時に、わずかな期間だけ美術部に所属していた。ここに来たのはその頃以来だから、もう二十年以上経っていることになる。
その頃の自分は今の自分から見たら未熟な子供にしか思えない。しかし何か変わったのかとあらためて自分に問うてみたら、ただ歳を取っただけで自分という人間の本質は変わっていないと気付かされた。
大人になる。大人になれ。よく人はそう言う。でも大人っていったい何だ。経験なのか。経験から学ぶのは処世術だ。少なくとも"彼"は私の経験値ごときでは推し量れない存在だ。
さてどうしようか。ウロウロしているだけではらちがあかない。時間の無駄でもある。プロに聞いてみよう。
「すみません」
メガネをかけたスタッフらしき女性を呼ぶ。
「絵の具と筆とパレットとか画材一式を欲しいのですが」
「あ、はい。絵の具はいろいろ種類がございます。水彩とか油彩とか」
「ああ。そうですね」
「それで何をお描きになるのでしょう」
「ドラゴンです」
それまで愛想の良かったスタッフが急に黙った。変な空気が流れる。しかし私は変なことを言った自覚はない。
「ドラゴンを描きたいのですが絵の具は何が良いのかな」
「ドラゴン、ですか」
「ええ。ドラゴンです。黒いドラゴンです」
「ええと…」
「やっぱり水彩か。絵を描くのは久しぶりだから手軽な方がいいし」
「そう、ですね。手始めに最初は透明水彩絵の具が良いと思います。すぐに始められる初心者セットもございますから
「なるほど。じゃあそれをください」
水彩なら経験がある。高校時代の部活でも水彩画しかやらなかった。美術部にはたった一か月しか在籍していなかったから他の手法を試す余裕がなかった。それにこの歳になって今さら、という後ろ向きの気持ちもある。
アートになど興味がなかった私が美術部に入部しようなどと思い立った理由は友人だ。そいつとは中学生時代からの付き合いで、簡単にささっとうまい絵を描く男だった。私とはなぜか気が合った。同じ高校へ進学したのは偶然だ。
私はインドアよりも体を動かすアウトドアの方が好みだから、すでにテニス部に所属していた。それなのに部員の少なかった美術部を盛り上げたいと言う友人から、一緒に入ってくれとかなり強引に誘われてしまい、籍を置くだけなら別にいいかとテニス部と掛け持ちで入部した。
絵心もない、さして興味もなかった私としては幽霊部員のつもりだったのに、せっかくだから描いてみないかとそいつに水を向けられて、まあせっかくだからと適当に描いてみた私の絵をその友人は、上手いと誉めてくれた。それはもちろん本心からではなく、私が退部されたら困るから。そんな本音をわかってはいても誉められたら嬉しいものだ。
しかし、やはりじっと座って絵を描くという行為は私には合わなかった。誉められはしたが自分の描く絵が良いとはどうしても思えない。それに掛け持ちしているテニス部にはその当時、私が密かに憧れていた綺麗な女の子がいたから、できればそちらに時間を費やしたい思いもあった。だから友人からの強い慰留があったが美術部をやめてしまった。
友人の名は山本修二という。高校から美大へ進み、今から六、七年前に出席した高校の同窓会で久しぶりに会った山本本人から、現在は、ある私立大学の芸術学部で講師をしていると聞いた覚えがある。
初心者用の水彩画セットを購入してみたものの、平日に自宅で画材を広げて絵を描く時間も気持ちの余裕もない。だから週末の休みの時間を"彼"に描くことに費やすことにした。できれば実際の彼を見ながら描きたかったが、"彼"の全容が一番よく見える会社の休憩室まで、画材を抱えて土日にわざわざ出向いて行くのも憚られた。
休日出勤している社員に、私が会社で絵を描いている現場をもしも目撃されたらきっと噂になる。私的な用事で会社の建物に入ってはいけないとは内規には書いていないはずだが、禁止されていないからといって誉められる行為でもない。
私のスマートフォンのメモリには"彼"の写真と動画がある。"彼"を描きながら細部を確認したくなったらそれを見ればいい。ちなみに妻と息子に見せてみたが部長と同様だった。
急にアートな趣味を始めた私に、妻と子は最初は驚いた顔をしたが、先日のお絵描き帳の件もあるのだろう、否定することなくむしろ逆に積極的に認めてくれた。ありがたいことだ。
しかし、いざ描いてみると、どこか違う。何かが足りないとしか思えない。リビングの壁に飾られたクレヨンで描いた"彼"に到底及ばない。
「そんなことないよ。あなた。すごく綺麗だわ」
「もっと描いて!パパって凄いや!」
妻の香奈美と息子の拓矢は大絶賛してくれる。でもやはり。違う。何度描いても、何枚描いても満足のいく"彼"にはならない。やはりリアルな"彼"を視界に捉えながら描かないと駄目なのか?しかしお絵かき帳に描いたのはここ我が家であって条件は同じはずだ。
自宅でくつろいでいる時もテレビを見ている時でも、買い物に出かけていようが、私がどこにいようが、私のブラックドラゴンの存在はわかる。たとえ見えなくても天空の高みの、そこにいる。
そうだ。山本に相談してみようと急に思いついた。同窓会で名刺を交換し、懐かしさから何度か会って酒を飲んだり飯を食ったりしながら話をした。最後に会ってから一年以上経っているはずだが連絡先はすぐにわかる。
(続く)
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