【短編小説】As Time Gose By
As Time Gose By - Casablanca
夏の終わり頃に音大の女の子がアルバイトをやめてから、BARのピアノは弾く人がいなくなった。
「璃世ちゃんの知り合いに弾ける人いないかな。いたら紹介して欲しいんだよね」
オーナーの尾崎さんが私に頼み込んでくるのは、これでもう何度目だろう。
「そう言われても、私の大学は音大じゃないですし」
だから私も、お客様からオーダーされたワイルドターキーのハイボールを作りながら、前回と同じ返事をした。
「アルバイト求人してるのに来てくれなくてさ。つてでも見つからなくてねぇ」
「ふうん。なんででしょうね。ああ、あれじゃないですか。このBARは喫煙オッケーで分煙もしてないから女の子にはつらいのかも」
「での璃世ちゃんはいてくれるよね。もうすぐ一年か」
それは…このオーナーとうちの大学のOBが親戚だったからだ。
「夕方から夜にかけてのお酒を出す飲食店バイトでさ。勤務は毎日でなくてもよくて、お色気サービスは無し。オーナーは気さくな感じの伯父さんなんだけど。どう?やってみない?家庭教師のバイトと掛け持ちでいいからさ」
そんな風にOBの先輩が紹介してれて、じゃあやってみようかなとその気になったというわけ。
地下にカジュアルなBARがある年季の入った古いビル(オーナーいわく"趣がある")丸ごと尾崎さんの所有物件であり、他にもこの街のあちこちに不動産をお持ちのオーナーはいわゆる地主さんで、だから店の経営も儲けよりもご自分の趣味でやっている印象が強い。だから報酬もけっこう良い。
タバコに関しては、父がスモーカーで、今まで付き合ってきた男にも喫煙者がいたから、別に平気だ。短時間の勤務でそれなりのお金をもらえるのだから、髪や服に匂いがつくのは仕方がないと割り切っている。
「璃世ちゃんが弾けばいいんじゃないかな」
常連のお客さんが横やりを入れてきた。宮沢さんという、近所にある役所の支所に勤めている剽軽な感じのおじさまだ。
「前にさ。ピアノを習っていたって言ってたよね」
「宮沢さん。それナイショです」
「何でさ。いいじゃない」
あーあ、バレちゃった。
「なんだ、璃世ちゃん、ピアノ弾けるのか。言ってくれたらよかったのに」
案の定だ。オーナーが私へ「弾いてよ」とニコニコしながら迫ってきた。
「私がピアノを弾いたら、注文を受けたり運んだり会計したりする担当がいなくなっちゃいますけど」
「いいよ。とにかく聴いてみたいからさぁ」
「でも、ずうっと弾いていないし。それにこんなおしゃれな場所でお客様に聴かせるほどの腕じゃないです」
「下手でもいいからさ。うちの看板娘が弾くピアノを聴きたいよ」
…看板娘は嬉しいけど、まだ弾いてもいないのに下手って言われるのはちょっとなあ。
「えっ。マスター、璃世ちゃんピアノ弾くの?」
「お、聴きたいね」
BAR「ビストロ・ド・ナイト」は常連さんが多い。BARと言ってもカウンターに小さなテーブル席がちょっとしかなないような、たとえば銀座にあるような正統派のBARではなくて、食事も愉しめるカジュアルなお店なのが地域の人たちに親しまれているのだと思う。
その顔見知りの常連さんたちにおだてられてしまい、渋々ながらも、私は店の隅に置いてある飴色のアップライトピアノへ対峙した。
「調律はちゃんとしてあるから音は狂っていないと思う」
「はい」
ベロア張りの椅子に浅く腰掛け、背筋を伸ばす。ピアノの蓋を開け、鍵盤に触れてみる。ポーンと澄んだ音が鳴った。ピアノを弾くには爪が長い。
どうしよう。何を弾こうかな。緊張するよ。音大の子たちはクラシックからジャズから自由に弾いていたけれど、クラシックは上手いのか下手なのかがすぐにわかってしまう。それにBARのお客さんに聴かせるのはどうなんだろう。ジャズの方が合っているよね。
「聴きたい曲とかあります?どんなジャンルがいいですか」
「なんでもいいよ」
…聞いた私が馬鹿だった。手料理と同じで、なんでもいいと言われるのが一番困るんだ。
あ、そうだ。
「宮沢さん。前に話してくれた、好きだって言ってた映画、ほら、何でしたっけ」
「えっ。どんな映画?」
「モノクロの古いアメリカ映画で、主人公がBARをやっていて、そのBARへやって来た昔の恋人がBAR専属のピアニストに"あの曲を弾いて"って言う、ロマンチックな…」
「ああっ!わかった、それはね…」
映画のタイトルはカサブランカ。曲名は。
「As time goes by(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)」
冒頭の数小節だけだが、指が覚えていた。上手いのかどうなのか、いずれにしても曲の最後まで覚えていなくて弾けないのだから、小洒落たBARのピアニストとしては失格だ。それなのにオーナーとお客さんから拍手喝采をもらって大いに照れまくった。
「すごく良かったよ!また弾いて…」
「嫌です。音大の女の子を雇ってください!」
「えーなんで?」
「恥ずかしいからです!」
オーナーの無邪気な質問にしかめ面で答えたら、入れたばかりのフォアローゼスのボトルをピアノの上に置いた宮沢さんが、ロックグラスを片手にほろ酔い顔をほころばせた。
「もうさ。今日は璃世ちゃんに奢っちゃう。すごく感激した」
「お気持ちだけで十分です。バーボンは二日酔いするんで」
「そんなこと言わないでよ」
「…じゃあちょっとだけ」
「カサブランカでさ。タキシード着たボギーが…」
映画通のオジサマの話は嫌いじゃない。お尻を触ってくるような酔っ払いは嫌いだけどね。
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♦︎実体験に基づく小説です。
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#作者本人登場・貴島璃世
♦︎続編
♦︎【大人Love†文庫】星野藍月
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