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【最後の作品/創造とは】君たちはどう生きるか【ネタバレあり】

ネタバレを含んでいますのでご注意ください。


前作「風立ちぬ」から10年経っているらしい。当時自分は大学生くらいの年齢で地元の小さな映画館で鑑賞した。最高だったし、これが彼の最後の作品なんだろうなと思った。
と思ったら、なぜか新作が出ていた。それを知ったのが公開初日でとりあえず鑑賞してきた。

感想として、視聴後第一声が「うん、よくわからない」だった。
吉野源三郎さん原作の「君たちはどう生きるか」と同じタイトルなので、かなり現実的な作品で多少のジブリ的世界観を反映しているのだろう的な気持ちで視聴中もずっと考えていたが、思いっきりジブリだった。
作品途中もここからどんな展開になるんだろう、この後大人編とかもあるのかなと思いながら見ていたら、いつの間にか作品が終わっていた。

つまりあまりいい感想を抱かなかったのが正直な意見だ。
むしろ自分の理解力がないだけかなと思いつつ、色々考えはしたものの結局「わからない」が最終的な結論だった。

そこから1日経って、再度『君たちはどう生きるか』について考えてみた。
その時、「あ、この作品は宮崎駿と対話をするべき作品なんだ」と思い至った。
対話とは何かというと、
ストーリーを楽しむのではなく、その作品をなぜ描いたのか、何を伝えたいのか、どういう意図なのかを汲み取る行為のことだ。宮崎駿がアニメを通して僕らにコミニケーションをとってきた。つまりは自己開示だ。だから僕ら汲み取るという形で答える必要がある。そこには作品の面白さや感動はない。シンプルに彼が何を伝えたいのかを考える。そのコミニケーションを楽しむ作品。そう捉えると不思議とこの作品の面白さに気づいた。なので僕が何をどう汲み取ったのかについて解説しようと思う。

大叔父と宮崎駿

作者の意図を汲み取る時、まずはどの登場人物が色濃く作者の感情がのっているかを考える。もちろん作品において全てのキャラクターが宮崎駿の分身ではあるけれど、それでも色濃く乗り移っているだろうキャラクターはいる。
今回の場合は、主人公の牧眞人ではなく、作品の中で下の神として登場した大叔父だろうと考えた。理由としては以下の通りだ。

・大叔父の年齢と境遇が宮崎駿と一致しているかも?という点
・現実時代の大叔父に対する周りの印象
・世界を創造するという、大叔父の軌跡と宮崎駿の軌跡の一致性

まずは大叔父の年齢と宮崎駿の年齢がおそらく近いしいといいうことと創造において大叔父は下の世界の神であり、創造主で、宮崎駿はスタジオジブリの顔であり、アニメーション界の巨匠である。そして、作品としての下の世界に終わりについて今回は触れている。かたや宮崎駿もこの作品が最後になるかもしれない。そういった自身が情熱を捧げたものへの終わりを意識した作品であるからこそ、眞人でなく、大叔父なのだろうと考えた。

次に周りからの印象について、最初に眞人の新しい母親になるナツコから大叔父の存在について触れた時「本を読みすぎていて、ある本を読んでいる途中に消えた」というニュアンスの伝え方をしている。この辺りは直接的にいったのかニュアンスで伝えていたのか記憶にはないが、視聴者はこの時「大叔父は本を読みすぎて気が狂った」と解釈できるような言い振りだった。少なくとも僕はそう聞こえた。
ここには異端性に対して無意識下での差別や拒絶が含まれている。例えば作中で眞人も学校で自分が裕福であるがゆえにいじめられている。
そのため、もしかしたら自身の幼少期のトラウマや体験・あるいは周りからの見え方などについて端的に大叔父の境遇に反映させたのではと考えた。
そして、大叔父にとって人生のメインは下の世界での世界の創造(=クリエイティブ)である。そういう意味で現実の世界は彼にとっては創作前の世界であり、幼少期や学生時代といった自身がアニメーションの世界に飛び込む前の自身の境遇や心境を端的に表していたのではないかと考えた。

印象的なシーンとして、大叔父と眞人が初めて邂逅したとき大叔父は必死に落ちかける積み木を
落ちないように必死に調整をしている姿があった。その姿はまるで苦しみながらも「君たちはどう生きるか」という作品を生み出す苦しみを表現していたのではないだろうかと考えた。あるいは期待される次回作や過去の名作を超えなければという期待に対しての苦しさか。
そして歪な積み木は宮崎駿自身のアニメーションにおける成功と失敗を表現したのではと感じた。側からみれば成功者である宮崎駿だが本人がどのように思っているかは定かではない。ただし、ハウルを動く城以降何度か引退を表明していた宮崎駿としては個人的な苦悩がありそれが積み木として表現していたのかもしれないなというふうに感じた。

そして最後に自分の世界(=ジブリの宮崎駿、アニメーターとしての宮崎駿、個人としてのクリエイターの宮崎駿)の終わりを予見し、後継者を探そうとするその行動すらも、今の自分あるいは少し前の自分を重ねたのではないだろうかと思わずにはいられない。
自分の想像の世界では全てが自分の思い通りになるわけではない。生物は個別に意思を持ち、各々の大義のために行動していく。

少しだけ違和感を覚えるシーンがあった。インコの王様と大叔父が話しているシーンだ。
インコの王様の行動はある意味クーデターのように見えたが、そんなインコの王様に大叔父は「待ってほしい」と言った。怒るわけでもなく説教するわけでもなく、優しく「待ってほしい」と。
ここには我々一般的なファンが知らない、ジブリの顔であり、世界を代表するアニメーターである宮崎駿の裏側の顔を覗かせたような気がした。
創造主が創造したが故に起こった出来事への責任のようなものだ。

最後、大叔父は眞人にこの世界を継いでほしいと伝える。自分よりもっと綺麗で洗礼された石を渡し、これでもっといい世界を作ってほしいと。この石が何を示すのか難しいが、もし創造というものをあの石に象徴しており、大叔父が宮崎駿自身なのであれば、石はきっとジブリそのものであり、宮崎駿というアニメーターの知識であり、経験なのかもしれない。

ともかく、眞人は継承を拒否した。そして彼は現実世界を受け入れ、そこで友達を作るというごくありふれた生き方を選んだ。
ここについては宮崎駿が歩めなかった考え、行動、青春時代を描きたかったのかなと感じた。

ナツコ、ヒミ、キリコという3人の女性

今回、明確なヒロインがおらず象徴的なヒロインが3人ほど登場した。
眞人の新しい妻として、心開いてくれない眞人に悩み苦しむナツコと自分の役割と立場を理解しつつ全うしつつ、気高く生きるキリコ、正統派のヒロインであり、母でもあるヒミ。

昔、よしもとばななと宮崎駿の対談の中で女性感について触れていて、そのときに宮崎駿が「日本人にありがちな女性観を描きたくない」と言っていたけど、今回は身近な女性たちの心の声みたいなものを描いたのかなという感じがした。

特に印象的なのがヒミだった。
彼女が眞人に向けていた感情は同い年の男の子に向ける感情でありながらもどこか母親として自覚のある距離感、優しさがあるように見えた。眞人のことを尊重するが、どこか心配している母親のような感情と、一方で1人の男の子として好意的にみているような感情が所々見え隠れしてたように感じる。

宮崎駿が、なぜこの3人を描いたのか。
そう考えた時に、やはり3つの母親像を描きたかったのかなという気がした。
母親像=最愛の人である。これは恋人でもあるし母親でもある。
だからこそ今回のヒロインにはどこかしら母親的な繋がりや要素がある。
ヒミ=恋人であり本当の母親
ナツコ=新しい母親であり、素直になれない女性(素直になれない=女性としての意識)
キリコ=お世話係でありおばあちゃん的な存在。下の世界で最初に出会った心開ける人(=最初に出会うとは現実では母親)

ちなみに僕の記憶では、ジブリで母親を取り扱うことはあまりなかったような気がする。


最後に

書いては見たものの、やっぱり難しい作品だし2~3回見ないと全然わからないなというのが結論です。ただ、個人的にこの作品は宮崎駿そのものを描いたようなそんな気がしてなりませんでした。
後、やっぱり次回作を観たいという気持ちがある。なんか宮崎駿はまた創るのでは、と。

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