
一穂ミチ「ふったらどしゃぶり~When it rains, it pours~」〜この超傑作BL小説を改めて全力で語る
今更ですが祝!ドラマ化、ということで、一穂ミチ先生の「ふったらどしゃぶり~When it rains, it pours~」を再読しました。いい話や……(しみじみ)。
この話は私をBL沼に引きずり込んだ作品のひとつとして大変印象深い小説なので、全力で語って行きたい所存であります!
(※当エントリは「ふったらどしゃぶり~When it rains, it pours~」のストーリーに一切の配慮なくガッツリ触れております。ネタバレ等回避したい方はここでお別れとなります…すいません!)
改めまして、「ふったらどしゃぶり~When it rains, it pours~」(以下「ふったらどしゃぶり」)について。
作者の一穂ミチは2007年デビュー、以降BL小説ジャンルを牽引するトップランナーのひとりとして活躍しつつ、今では一般でも次々作品を発表。昨年は直木賞を受賞などしているので、BLジャンルに明るくない人でもご存知の方もいるかと思います。
「ふったらどしゃぶり」はKADOKAWA/メディアファクトリーのWEB小説マガジン『FleurーBlueLine』にて連載後、2013年に文庫化(後、2018年に新書館ディアプラス文庫にて「ふったらどしゃぶり~When it rains, it pours~完全版」というタイトルで新装版として発売)、著者の代表作のひとつである長編作です。
12年前に発表された小説ですが、描かれたテーマは今でも強く訴えるものがあるよなあ、なんなら今日的だといってもいいくらいだと再読して思いました。
〈あらすじ〉
同棲中の恋人とのセックスレスに悩む一顕。一顕の会社の同期で、同居中の幼馴染みの和章に叶わぬ恋心を抱く整。ある日一顕が送ったメールが手違いで整に届いたことから、互いの正体を知らぬまま、メールで悩みを打ち明け合う奇妙な関係が続いていく――。報われない愛と性に翻弄されるふたりの究極の恋愛小説。
2013年ということで、女性が性を扱ったマンガや小説を楽しんだりすることは、今よりはまだ大っぴらに言いづらい背景があったかと思います。もちろん、その頃にはすでにBL市場や同人誌等の女性向けジャンルはとても活況にあって十分に市民権は得ていたのは間違いないけれども、それでも、多くの読者にとってはまだまだ、家の本棚にBLや薄い本をずらっと並べるのは憚られるとか、会う人にいきなり「BL好きです!」とは言いづらいとか、そういった状況はありました。そんなん今だって言いづらいよ!という人ももちろんたくさんいるはずです。
やはり性を扱っている小説やらマンガ、いわゆるポルノグラフィを積極的に嗜むなとどいうことは“節度”として密やかに隠れて行われるべきだし、女性であれば「女性がそんなことを言うなんてはしたない」という空気も今以てそこはかとなく感じたりするわけです。それは外圧としてだけでなく、内面化されていたりします。
そんな中、この「ふったらどしゃぶり」。あらすじにもあるとおり、この話は〈セックスレス〉について、あるいは人の〈性欲/性衝動〉というものについて、真正面から描いた作品です。
おそらく、作者は「セックスについて語ることは、そこまで忌避されることなんだろうか」「人の性欲って、そんなに汚らしいものとして後ろめたく思わなきゃいけないものなんだろうか」という自問に、否と宣言するためにこの小説を書いたのではないかなと想像しています。
萩原一顕(はぎわら・かずあき)と半井整(なからい・せい)を主人公とした恋愛ストーリーとなる本作。
一顕には、同棲し、いずれは結婚を、と考える間柄のかおりという恋人がいて、整にも、恋人関係ではないものの苦しく辛い時期ずっと支えてくれた幼馴染の和章という同居人がいます。それぞれの関係は、表向きには何ら問題なく見えますが、実のところ上手くいっているとは言い難い状態にあります。
一顕と恋人の関係は良好、でもなぜか、かおりはセックスとなると、それとなくはぐらかし続け、結果ふたりは長らくセックスレス状態となっています。もちろん一顕のほうも、彼女のことは好きだし、恋人といえど不同意はよくないときちんと納得してはいます。また、他の誰かでもいいという考えはなく、風俗等に行くことも個人的に嫌悪を感じることもあって、次第に「恋人とセックスがしたい」という自分のごく素朴な想いは間違っているのだろうか、欲望自体が悪いことなのだろうか、という憂鬱な思いに取り憑かれるようになっていきます。
一方、両親を事故でいっぺんに亡くすという不幸に見舞われ、精神的にも身体的にもどん底の状態にあった整。そんな彼に寄り添い、同居生活を通じて24時間体制で根気強くケアしてくれた幼馴染の和章にいつしか恋愛感情を抱くようになります。その気持ちを伝えたこともあるけれど、和章は取り合わず、まるで聞かなかったこととしていつも通り振る舞い続けます。彼は優しく献身的で、整に対しても何らかの愛情は感じる、けれど決して整の想いには応えてはくれないのです。ただ淡々と不可解な生活を維持しようとする和章に、焦れる整。この中途半端な関係に耐えきれず、いっそきっぱり終わりにしてくれたら、と和章に無理にセックスをせがんだり、なかば自傷的な言動を繰り返しています。
一番側にいる人に触れたくても触れられないという思いに煮詰まっている、一顕と整。誤送信をきっかけにメールを交わす仲となったふたりは、距離感をはかりつつも匿名の気安さから、それぞれ抱えている問題を打ち明け合うようになります。
………という導入から、物語は一気に結末まで怒涛の展開を見せます。
一顕と整が出会い、その距離を縮めていくごとに、そもそも限界をきたしていたそれぞれの関係が崩壊へのカウントダウンを始めます。丁寧に仕掛けられた伏線が次々と威力を発揮し、導火線を走る火花を見るようです。そのスピード感、一触即発の緊迫感たるや。さすがの筆力、と唸らされます。
よく、比喩でジェットコースターのような展開!とか言いますが、ジェットコースターの、あのてっぺんまで登るまでのターンのドキドキも含めての、それです。てっぺんにたどり着いてしまったが最後、あとは猛スピードで落下していくのみ、どこに連れていかれるかもわからない、無事に帰れるのかも。
余談ですが私がこの小説を読んだのは、まだBLジャンルに触れ始めたばかりの頃で、いろいろな意味で読みが浅かったので、こんな手に汗握る恋の成就があるのか……と本当に衝撃でした。
そういった点だけでなく、この小説はいろいろとBLとしては規格外です。
先ほど「この作者は性欲やセックスへの忌避感に対する自分なりの答えとしてこの小説を描いたのではないか」といった私見を書きました。
しかし、「BLの世界」では別にセックスは忌避されてなどいないのです。むしろ登場人物たちは自由に性を楽しんでいたり、それによって幸福感を得たりしている。お互い好きならセックスは当たり前にするものだし、欲望は愛情のバロメーターですらある。相手が好きすぎるあまりに、暴力的だったり不同意な行為に及んでしまうという展開も、昔ほどではないにせよ根強くある設定ですし、愛ゆえにそれは許されます。セックスはどのようなものであれ最終的には肯定されるべきものとして描かれます。
それはいかにもBLらしいファンタジーの表れで、言ってしまえば「現実がそうではないから」そのような物語が読まれるというところもあるのでしょう。フィクションの中でくらい、細かいことを言わず欲望に素直にあけすけになったっていいじゃないか。
そうしたBLジャンルにあって、セックスレスやセックスへの忌避感といったものは、重いテーマです。主人公のひとりに現在進行形の女性の恋人がいるという設定も、BLの読者の中には難色を示す人もいるでしょう。物語であろうが苦しい思いはしたくない。主人公ふたりのハッピーな展開以外はノイズだ。そのような傾向は年々強くなっていっているようにも感じます。たらればでしかありませんが、この小説は2013年だったから世に出せたのではないか、という気さえしてきます。
とはいえ、この「ふったらどしゃぶり」も間違いなくBL小説で、当然ラストはハッピーエンドです。主人公ふたりは、それぞれのパートナーとの関係を苦しみながらも解消し、新しい一歩を踏み出すところで物語は終わって行きます。彼らの抱えていた問題が重く苦しいものだったからこそ、成就の喜びもまた大きく感じられます。
また、作中では整の同居人の和章にせよ、一顕の恋人であったかおりにせよ、本当にどうしようもなかったのだという描写が丁寧になされています。気になっている読者も多かったのでしょう、なのでシリーズ続編「ナイトガーデン」では和章の物語が描かれ、素直に彼にも救済があってよかったという気持ちになります。
しかし、私は初読時より、かおりのことが気になっていました。彼女はその後どうなったのだろう。
というか、正直に言うと、初読時には彼女のことがよくわからなかったのです。
もちろん「セックスに対して、特に明確な理由はなくとも何となく億劫になってしまう」というような感情は同じ女性として理解が及ぶところです。が、彼女の背景として語られる家族の話が、そうした感情と繋げることができず、うまく咀嚼できていませんでした。
しかし今回じっくり読み直してみて、ああ、かおりはアセクシュアルだったんだな、と思うに至り、やっとすべてが腑に落ちたのでした。
この小説を最初に読んだ当時、私はこの言葉を寡聞にして知りませんでした。この小説の中にも具体的にそのような記述はありません。しかし今読んでみると、明らかにそれは設定として意識され、作者はそれをきちんと描いているように思います。
かおりの両親は離婚しているのですが、彼女はちょくちょく親元に泊まったりするという描写があります。そして一顕との別れのシーンで半ば唐突に、父親に離婚理由を初めて聞いた、という話になります。彼女は、一顕が整のもとに走った後、一顕を追わず父親のところに泊まりに行ったというのです。
『どうしてお母さんと離婚したの、って初めてはっきり訊いた。お父さんがよその女の人と浮気したからだって言われた。それは何となく知ってたんだけど、理由を訊いた。そしたら、お母さんが、私が生まれてから本当に一度もさせなかったからだって。父親でいることだけ求められて、辛くて辛くて浮気して、ばれて離婚したの。お父さん、お前たちには本当に申し訳なく思っているって言ってた。でも、もう一度あの時に戻れたとしても、同じことをするかもしれないんだって』
なぜこのような話がここで挿入されるのか、一顕が彼女を「捨てる」形になってヘイトを集めないようにという配慮だろうとは想像しました。ですがきっとそれ以上に、「一顕との仲が今まさに決裂しようとするとき、かおりは一顕を取り戻すよりも、父親にこの話を聞きに行くことを選んだ」ということが重要だったのです。かおりは、一顕を諦めるために、今まで聞かずにいた離婚理由を父親に確認しにいったのだろうと思うのです。
かおりはこのあと、一顕を失うのは辛いと感じつつも、関係を修復するためにセックスをする気持ちにはなれなかった、と語ります。
彼女が今後、自らをアセクシュアルと自覚することがあるのかどうかはわかりません。でも一顕とかおりに恋人としての未来はそもそもなく、彼女はおそらく今後性愛を伴う恋愛をすることはないということが、このくだりに暗に込められているのだと今回は読んでいて感じました。彼女にも救済はあってほしい、しかしそれは単純に別の恋を見つけることではないのでしょう。彼女にとって一顕との別れは、辛くともひとつの呪縛からの解放ではあるだろうと思うのです。
性愛を全肯定しつつ、性愛だけが全てではない、ということも描かれていることに気づかされ、さらにこの小説が好きになりました。
ぜひ、関心を持たれた方は小説読んでください~!
いいなと思ったら応援しよう!
