アルベール・カミュの『ペスト』とダニエル・デフォーの『ペスト年代記』を読んでみた 2
デフォーの『ペスト』
(以下、「ペスト年代記」 A Journal of the Plague Year)
二〇二〇年四月に中央公論新社から発行された電子版(平井正穂訳)。
(ベースは二〇〇九年七月発行の中公文庫)
ダニエル・デフォー(1660年~1731年)はイギリスの作家でありジャーナリストでもあった人物。
『ロビンソン・クルーソー』の作者としてあまりにも有名。
この作品では、1665年にロンドンで発生したペストの大流行を取り上げている。
デフォーの「ペスト年代記」は、一六六五年のロンドンにおけるペストの流行について、H.F.なる人物の一人称の手記という形をとっている。
小説というよりは、新聞記者や雑誌のライターが現場に足を運んで取材し、推敲する暇もないまま急ぎ発表した、という体のものだ。つまり、臨場感のあるノンフィクション、ジャンルでいうとルポルタージュに近い。
とはいえ、デフォー自身は一六六〇年生まれなので、当時五歳だ。
つまり、体験談ではない。
当時は「嘘八百を並べ立てては風説や報道を煽(あお)りたてようといった、ああいうもの(新聞などの印刷物)はなかった」ようだが、さまざまな資料を調べて書いたにしても、おそろしく細部にわたる詳細な記述がある。
その謎はH.F.なる人物にあるようだ。
この人はイニシャルが同じヘンリー・フォーという彼のおじ(伯父か叔父かは不明)ではないかと見られている。語り手と同じ馬具商で、日記のようなものを残していたらしい。
物語は、こういう風に始まる。
それはたしか一六六四年の九月初旬のことであったと思う。隣近所の人たちと世間話をしていた際に、私はふと、疫病(ペスト)がまたオランダではやりだした、という噂を耳にした。
同じ年の十一月下旬か十二月上旬に二人のフランス人が滞在先(ロンドンのドルアリ小路)で疫病のために死亡する。家人たちは皆その事実を隠そうとしたが、人の口に戸は立てられず、やがて当局者の知るところとなり、ロンドン中が大騒ぎになっていく。
当時、死亡週報なる報告書が出ていたらしく、デフォーはこの統計データを最大限に活用している——というより、統計数字の羅列でページが埋まっているところも多い。
こんな具合だ。
疫病(ペスト)発生以来、死亡者数はみるみるうちにうなぎのぼりに上がっていった。
すなわち、
十二月二十日より同十七日まで 死亡者数 二九一
十二月二十七日より一月三日まで 同 三四九 増加数 五八
一月三日より同十日まで 同 三九四 増加数 四五
一月十日より同十七日まで 同 四一五 増加数 二一
一月十七日より同二十四日まで 同 四七四 増加数 五九
疫病による死亡者は、波のように、増えては減り、増えては減りを繰り返しながら、徐々に深刻の度を深めていく。
ロンドンでも地域によって死者が急増しているところもあれば、まったく異常のない地区もある。
H.F.氏の住むブロード街では「隣近所の人々もしごくのんびりしたものであった」というが、
ロンドンの反対側ときたら、人々の狼狽ぶりはもう大変なものであった。金持連中、とくに貴族とか紳士とかいう連中は、一族郎党を引き連れ、あわてふためいて市(シティ)の西部から郊外へ郊外へと逃げ出していった。(中略)宮廷も早々と移転ということになった。
H.F.氏は手広く商いをしている馬具商だった。
独身だが「雇っている召使たちの家族も養っていかねばならず、その他、屋敷もあれば店もある。おまけに品物のぎっしりつまった倉庫もある」という状況で、それを放り出して逃げることは「全財産の喪失」を意味する。
というわけで、逃げるべきか逃げざるべきか迷いに迷い、何度か実際に逃げようともしたのだが、かならず支障が生じてうまく行かない。で、「これは神の思し召しではないのか、という気がして」くる。
それで、
後に来る人々がわれわれと同じような災難にぶつかり、同じような選択の必要に迫られるようなことがあった場合、多少なりとも役に立たないものでもあるまい。
そう決意して逃げるのをやめた馬具商H.F.氏は、自分が見聞したこととして、詳細な記録を残していく。
基本的に時系列に地区ごとの死者数の増減などが延々と示されてもいるが、当時の死亡週報や日記や伝聞情報などを丹念に調べて再構成しているようだ。
ロンドンの中心にまで病魔が迫ってくると、インチキな占い師や予言、流言飛語が飛びかい、ニセ医者が繁盛し、効能あらたかとされるインチキ薬が売り出されたりもする。
いつの世も、金になることに目ざとい人はいるものだ。
北里柴三郎でおなじみのペスト菌が発見されたのは十九世紀末で、まがりなりにも抗生物質などを用いた治療法が確立したのは二十世紀になってからなので、当時は、病人が出たら隔離し、無事な者はそれに近寄らないようにするしか手はなかった。
感染者が出た家は閉鎖される。
入口に標識がつけられ、二名の監視人が昼夜交代で見張る。
家から出ることも他の者がその家を訪れることもできない。
家人に健康な者がいて、病人のそばを離れることができれば命は助かる可能性があるのだが、それも許されず、「たくさんの人間がこの悲惨な囚(とら)われの苦しみの中にもだえながら」死んでいった。
自分の最愛の者の変わり果てた姿を見、しかもそれから一歩も逃れることはできぬといった恐怖心から、ほとんど死ぬばかりに怯(おび)え、慄(ふる)えあがったかわいそうな人びとのうめくような悲惨な悲嘆の声をわれわれが耳にしたのも、たいていはそのような家からであった。
というわけで
どの人間の顔にも、悲しみと憂いが漂っていた。まだ壊滅的な打撃を受けていないところもあるにはあったが、誰も彼も一様に不安に怯えた顔つきをしていた。(中略)私はこの時分のありさまをそっくりそのまま、これを目撃しなかった人びとに伝え、いたるところに現出した地獄絵巻を読者諸君に伝えることができたらと思う。
閉鎖された家では当然のことながら、逃亡しようとして買収しようとしたり、監視人への暴力沙汰もいたるところであったらしい。
厳重に監視・監禁されることから自暴自棄になった人びとは強引に家を飛び出したりするのだが、「どこへ行ったらよいのか、どうしたらよいのか、いや、自分が何をしたかもわからない」のだった。そうやって、感染が広がり、死者も増えていく。
死者は当然、埋葬される。
が、その数が半端ではない。
教会の墓地に大きな穴を掘り、そこへ投げ込んでいく。その穴には平均して五十~六十の遺体を放り込んだそうだが、ある教区では巨大な穴を掘り、二週間ほどの間に死体一一一四体を投げ入れたという。病気におかされ、精神錯乱したものは、自分からその穴に身を投じたりもした。
ほんとうは、実際に目撃しなかった人にあの様相の真実を伝えることはとうてい不可能なことと思う。ただいえるとすれば、それこそ、じつに、じつに、凄惨(せいさん)なものであった、とても口で表現できるようなものではなかった、というくらいの言葉しかいえないのだ。
H.F.氏は墓掘り人夫とも昵懇(じっこん)の間柄だったので、埋葬の様子を知るために墓地に入ることができた。そして、次のような光景を目撃する。
死体運搬車に男が一人ついてきて、うろうろしている、妻子が死亡し、遺体が運ばれていく際、当局から禁止されているにもかかわらず、運搬車についてきてしまったのだ。男は妻子が葬られるところを一目でいいから見せてほしい、そうすれば喜んで帰ると懇願し、それは認められた。
で、運搬車がひっくり返され、積んであった遺体が
ごっちゃに穴の中に棄てられていくのを見ると、まさしくその瞬間、彼はわれを忘れてなんだかわめきはじめ、(中略)ばったりと気絶してしまった。
とまあ、なかなか読み進めるのがつらいような話が次から次へと出てくる。
その詳細かつ具体的な描写と語り口は、さすがにロビンソン・クルーソーの作者だけのことはある。
余談ながら、ロビンソン漂流記を子供向けの冒険譚だと思っている人には、児童向けに書き直したものではない、つまり、簡略版ではない大人向けの本を一度読んでみることをおすすめする。
無人島に一人とり残されたロビンソンが島での生活を一歩づつ着実かつ堅牢に作り上げていく一連の過程は当時の重商主義的な発想を背景にしたもので、十分に大人の鑑賞に耐えうる内容である。
で、「ペスト年代記」では、作者が見聞したという出来事が死亡週報の統計値をまじえながら披瀝(ひれき)されていく。
現在の新型コロナウイルスとの共通点も結構多い。その一つがこれだ。
一方では無数の一見健康そうに見えながら、しかも自分の接するあらゆる人に死をもたらしてまわっている人びとがいたのである。(中略)このことは、医者をしばしば悩ました問題であった。(中略)彼らは病人と健康人の区別がつかなかった。彼らはみな、こればかりはどうにもならないと兜(かぶと)を脱いだ。
これは、二十一世紀における最新医学においても、新型コロナウイルス感染の対策でキモとされている点だ。
外から見て患者が見分けられたり、感染したら自覚症状が出て本人に認識できるのであれば、その人たちだけを即時に隔離して治療すれば拡大は防ぐことができる。
が、感染能力を保持しつつも無症状のために自由に動きまわられたら、これは手の打ちようがない。これはお互い様なので、誰が悪いという話でもない。
ここがスッキリしないために、各国政府も医療業界も、明確かつ効果的な対策を「ピンポイントで打つ」ことができず、ずるずると成り行き任せで、陽性患者数の増減に一喜一憂せざるをえないことになる。
作中では、疾病の大流行による貿易や経済活動の停滞、困窮した人々の様子、彼らへの扶助や寄付といった話についても語られている。
とはいえ、さしもの疫病も、はっきりした理由は不明のまま、時の経過とともに下火になってくる。
死亡者数が急激に減少したことが死亡週報に報じられると
もう大丈夫だ、という考えがいわば稲妻のように瞬時にロンドンじゅうに広まり、(中略)今までの用心も注意も慎重さもことごとくあげて捨て去って、もう病気にはかからぬ、かかっても死ぬことはない、と高をくくってみずから危ないところに飛びこんでいった
医者たちはそれに対して警告し、心得書を印刷して、くまなく市民に配布した上で、
死亡者は減りつつはあるが、まだなお自粛生活をつづけてもらいたい、平生の日常生活においても極力用心をつづけてもらいたいと勧告した。
で、結果として、死亡者数のリバウンドが発生し急激に増大する――
そのまま現在の緊急事態の解除についてのニュースに用いてもまったく違和感がない。
社会に悲惨な状況が蔓延しているときは、人間の醜さも出るが、博愛や自己犠牲の精神で人々が助け合うという心温まる光景も数多く見られたらしい。
私は聖職者はもちろん、内科医、外科医、薬剤師、市当局者、あらゆる種類の役人、さらにその他献身的に働いた人々、の名誉のために、いかに彼らがその義務を果たすために生命の危険をもかえりみなかったかということを記録に残すべきだと考えている。
とはいえ、
疫病がやんだのであるから、いがみ合いの根性も、互いに罵り合う意地汚い精神も、それといっしょにきれいにやんでおればどんなによかったかと思うのだが、そういかなかったところに、わが国の不幸があったともいえよう。
という状況に舞い戻ってしまう。
この場合の「わが国」は十七世紀の英国を指すが、この「国」については、技術の進歩と経済の繁栄を謳歌している三百年後の、日本を含む先進諸国のいずれの国と置き換えても該当しそうではある……
まとめ、のようなもの
才能ある作家が精緻な設計図に基づいて巧妙に編み上げた作品がカミュの『ペスト』だとすれば、デフォーの「ペスト年代記」は思いつくまま書き殴った、雑多でまとまりに欠ける草稿という印象を受ける。
とはいえ、ペストという疾病のパンデミックについて、作家として真摯に向き合ったことは確実に読みとれる。
現在の新型コロナウイルスについても、おそらく有名無名の作家たちが自分の感じるところ・思うところについて、何らかの形で、現在つづっているだろうし、将来においてもつむぎだされていくことだろう。
その多くは、書いた瞬間から、あるいは作者の死とともに消えていく運命にあるだろうが、そうした凡百の作品群の中には、五十年後、百年後にも読み継がれていくべき作品が、人間についての洞察を描いた傑作が含まれているのではないか——それくらいの期待というか希望は持ってもよいのではないか、という気はする。
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お断り: 引用については、冒頭に記載した書籍の訳文を使用し、漢字表記やルビなど、ごく一部について意味を変えない程度にあらためてあります。
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