【こんな映画でした】875.[ブリキの太鼓]
2022年 1月 9日 (日曜) [ブリキの太鼓](1979年 DIE BLECHTROMMEL TIN DRUM DE TAMBOUR 西ドイツ/フランス 142分)
フォルカー・シュレンドルフ監督作品。1981年9月14日に映画館で観ている。今回は二度目で、VHSで観た。最近、DVDが出ているので、そちらを購入しようかとも思っている。その理由としては、観ていても何か不自然なカットやシーンの流れがあるなと思ったこと。そして案の定発売されているDVDではその尺が「163分」となっているのだ。20分の差は大きい。もっとも結構なお値段であるが。
で、最初の時の感想として、オスカルの母親アグネスのセックスについて理解ができないことをメモしている。もちろんメインでは、オスカルの悲鳴でガラスが割れることとか、三歳で成長を止めてしまうこととか。
この映画はいわばオスカルの誕生から21歳まで、1924年生まれのオスカルがドイツの敗戦までをその目で見ることとなった歴史とも言えよう。場所はポーランドのダンツィヒでバルト海に面する。
オスカルはポーランド人のようだが、祖母はカシュバイ人と言っていた。少数民族である。その違いによりラストシーンでは、オスカルはその地を離れ、祖母は故地であるその場所に居続けるということに。
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ナチスによる残虐シーンはあまり描かれていない。ユダヤ人マルクスの玩具店が壊され踏み荒らされるシーンぐらいか。最後の方で、逆にソ連兵の残虐シーンを挿入してある。オスカルたちの家に踏み込んできたソ連兵が、結果として父親(?)を殺すことに(あと画面では見せないがソ連兵による強姦も)。
この映画を観ても、つくづくポーランドという国家の不幸を思う。もっともその責任はもちろん彼ら自身にある。とはいえまだ勉強してないから仮説であるが、ポーランドは王侯貴族たちの支配する国であったせいか、彼らの国家の防衛、つまり外交などに関しては、今ひとつシャキッとしない。責任意識の欠如か。
ドイツに対する危機意識の希薄さは、第二次世界大戦開戦時のあっという間に侵略されたことによっても分かる。ドイツはすでに半年以上前からその準備をしていたというのに。
ポーランド人たちの誇りの強さは、それなりにどこの人間でも同様であろう。したがってその反面としてユダヤ人や少数民族を見下し、差別することにもなる。
今回二度目といいながらも、ほとんどのシーンを思い出せなかったことからして、初めて観るのと同じであった。で、この映画は良い映画なのだろうか、と問われてもすぐには答えられない。そのためにはやはりもう一度観ることだろう。それもディレクターズカットで。
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2022年 1月28日 (金曜) [ブリキの太鼓 ディレクターズカット版](1979年 DIE BLECHTROMMEL TIN DRUM DE TAMBOUR 西ドイツ/フランス 163分)
映画館で初めて観てから40年余り、ここにきて急に思い立ち、再度観ることに。まずは入手していたVHSで。さすがに映像は良くない。不鮮明である。それでも当時は観ることができたら御の字だったのだ。
そして今回、「ディレクターズカット版」というのが発売されていることを知り、そして尺が違うことに気が付き、もう居ても立っても入られなくなり購入。三回目の視聴は初めてのディレクターズカット版ということに。
カットされているのはどこかと、メモを取りながら観た。時間にして20分ほどだが、まとめて20分がカットされているはずはなく、あちこちに散らばっているはずで、先日観たばかりの記憶を手掛かりにチェックしていった。
まず何より映像の鮮明さ・美しさに、あらためてブルーレイディスクの威力を知らされた。もっとも、中には大して代わり映えのしない「ブルーレイディスク」もあるので、なかなか難しいところなのだが。まずは入手できる限りブルーレイディスクを選択しようとは思っている。もちろん高価にはなるのだが。
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気が付いた一つ目のカットシーンは、子どもたちが街中をオスカルを先頭に行進するシーンの、その直前に子どもたちが集まっている狭い広場で、オスカルが木の株の上にグラスを置いて例の如く叫び、割ってしまうシーンがあった。これくらいは無くてもいいと判断されたのだろう。しかし、監督は必要だと考えていたから復活させたのだろう。初めてこの映画を観る人には、その方が分かりよかったであろう。私(たち)は、既に知っているので、このシーンがカットされていても分かりづらくはならないということだ。つまり映画というのは、やはり最初の一回目に観るのを大事にしないといけないということだ。
二つ目のカットシーンは30分ぐらいのところで(31分30秒から4分間)、オスカルが母親アグネスの友人からABCDE(アルファベット)を教えてもらっているシーン。彼はそれに飽きて、本棚をひっくり返して見ていき、まず茶色の小ぶりな一冊を横にどけておき、さらに探してもう一冊のこちらはやや大ぶりの本を手に戻ってくる。読んで欲しい、というわけだ。それは何と大人の本で、怪僧ラスプーチンのそれ。しかもカラーの挿絵(裸の女性が描かれている)が入っている。その友人はあきれ顔で、しかし読んでやる。そこへアグネスが部屋に入ってきて、オスカルが座っていたところに腰掛ける。「ちっともお勉強しないのよ。ここはサロンのくだりよ」「いいところね」。と会話しながら、二人して読みふけることに。次のように朗読していく。
"ラスプーチンはイリーナと大公妃と一緒でした。女性たちはほほ笑みました。聖人の復活だと一人はささやき、そしてその目を大きく見開きました。そして彼らは愛撫し合ったのです。愛撫。そして僧ラスプーチンの額や頬にキスをしました。僧の情熱に燃える瞳に誰もがとりこになりました。女性はすぐさま彼に身をゆだねます。何と哀れな。怪僧はひげで乳房をくすぐりました。そして、しなる女体に埋もれるのでした。"
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オスカルは彼らの対面にある赤いカーテンの方へ歩いて行くと、スーッと開き、そこには怪僧ラスプーチンと彼に侍る裸のような姿の女性たちがそこに居る、というファンタジーの世界へ。
オスカルは左手にゲーテの「親和力」をもちながら、ラスプーチンに向かって話す。こう思った? "何と閉ざされた世界でこの子は育てられたんだろう"、と。ママとその友人がラスプーチンを読みふける中、僕は発見した。ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテの"親和力"をね。そしてこの外見とは裏腹に頭の中ではラスプーチンとゲーテを行き来した。ついにはこの二冊から一冊の本を作った。そこでは悪魔的なページの後に明るい場面が続く。人生もまた然りだ。
そしてこの間、カットバックで母親たちの膝から下の脚の部分を映し出す。もちろんこれはオスカルが見ているということだ。このシーンの意味するところは、まだ分からないが、これがカットされていたということは相当にこの映画のニュアンスが違ったものになってくるということではないか。まずはセクシャルなことを連想させるが、12歳のオスカルにそれが分かったかどうか。
なおこのシーンの後、広場でカエル入りのスープをみんなから飲まされるシーンへ続く。これも何か黒魔術的な、何かの意味があるような気がするが、分からない。
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(53分~ サーカスを見終えて外に出てきた時の出会い。彼は小人たちのリーダーであるようだ。ベブラ団長とのこと、俳優はフリッツ・ハックル)
「ぜひ入団してほしい」「お分かりでしょう。僕はむしろ観客でいたいのです。観客のまま自分の芸をみがいていたい」「オスカル君、仲間の言葉を信じなさい。我々には観客席はない。我々は芸を見せ演技する。でないと舞台を奪われる。彼らがやってくると祭の舞台を占領して、たいまつ行列をする演壇をつくる。人を集めて我々のようなものを滅ぼそうとするんだよ。」
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(ヤンが言う)耐えられないんだ。この子は真実を知らない。
【そもそもオスカルの父親は誰かは、はっきりさせてない。なんせアグネスは二人の男性と奇妙な夫婦関係を築いているのであるから。でもこのセリフからしてもおそらくはヤンがオスカルの父親なのだろう。】
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三つ目のカットシーンは2:04:30から約2分間。雪が道路に残っている寒い時、オスカルが町を歩いていると二階から呼び止める声がする。上がっておいで、と。オスカルがその中年女性の部屋に入る。そして自分のベッドにオスカルを招き入れる。暖かいからね、と。
これがまさかセックスシーンだとは私には分からなかったが、予告編を観た時、そうであることがはっきり分かった。つまりベッドから出たオスカルが、ズボンの前のジッパーを引き上げているシーンが映し出されていたのだ。いや、その前に女性に上から覆い被さっているシーンも、この予告編では一瞬だが映し出されていた。明らかである。その後、映画のなかでの回想シーンでオスカルが独白している。女性とは三回寝た、と。つまりまずはマリア(ということは生まれてきたクルトはオスカルの子どもということになるかもしれない。当時彼は17歳であったので、十分可能なのだ)、そしてこの中年女性。お終いに同じような身長しかない小人の女性、と。三人なのだ。
さて話をオスカルを招き入れた八百屋の中年女性(リーナ)に戻る。「グレフ(彼女の夫)は体を鍛えるだけ。筋骨たくましいのが好みで、少女より少年が好きなのよ」、と。次のシーンはそのグレフが三人の少年たちと雪の中を自転車で戻ってきたところ。看板に「Obst und Gemuse」(果物と野菜、つまり八百屋のようだ)とある一室へ。そこで彼らの訓練をしている。私の目にはそんないやらしいことをしているようには見えないのだが、窓からトランペットを常に持ち歩くナチスシンパの男がそれを覗いている。そして次のカットでは、おそらく彼が密告したのであろう、ゲシュタポがやって来る。何やら警告をしたようで、その後グレフは首つり自殺を遂げることになる。これはおそらくナチスが嫌う同性愛(小児愛)を疑われたのではないだろうか。
それを妻(先ほどの中年女性)が見つけ、叫び声を。そしてオスカルもその場所へ。首を吊っているグレフに気が付き、見つめる。この一連のシーンがカットされている。ナチスはユダヤ人・精神病患者・同性愛者・小児愛者を極度に嫌ったわけだが、それをこのように描いている。なおオスカルはもちろん精神病患者とされているわけだ。それは後でまた出てくる。
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(サーカスで出会った小人のベブラ団長と再会、ただ、今は軍服を着用している。ロスビータも横にいる。)
「軍服を着ているから驚いたろう。宣伝省からのたっての願いでね。帝国の要人たちに芸を見せたらこうなった。政治はいやだね。で、今は前線慰問さ。」
そしてオスカルも誘われて一緒に行くことに。この時三人目の女性(小人のロスビータ)と出会うことに。
四つ目のカットシーンは、2:16からのわずか二分ほどのもの。オスカルたちがおそらくノルマンディーあたりへ慰問に行った時のこと。慰問を終えて海岸線のコンクリート製のトーチカの上で、数人の小人たちがピクニックといった風情。食べて飲んでしている。と、その時、ベブラ団長がふと海岸を見やり、立入禁止の浜辺に人の姿を見つける。伍長に告げると、子ガニを取りに来ている近くの修道女たちだ、と。しかし司令部から電話があり、直ちに掃討せよとの命令。命令に従わざるを得ない伍長は機関銃で五人の修道女たちを射殺する。それに気が付いたベブラたちは沈黙し、ロスビータは十字を切る。ここで映像はファンタジックに五人の修道女たちを描く。すなわち彼女たちが五人揃って空中へ浮かび上がっていく。つまり天国に昇天していくといった映像に。このあとノルマンディー上陸作戦の単色の記録映像が30秒ほど流れる。
これが伏線でもあり、彼らは翌朝、この作戦により上陸してきた連合軍から逃げ出すことになる。その時、オスカルとロスビータはベッドの中にいた。つまり彼女が三人目の女性というわけである。もっとも彼女の年齢も訊かなかった、と後にオスカルが言っている。で、逃げ出すことになるのだが、ロスビータがその前に朝のコーヒーを飲みたいと言って、一旦逃げるための車まで来ておきながら家のほうに戻る。そして満足げにコーヒーを啜ったところで爆弾の直撃を受けることになる。ロスビータは死ぬ。
この後、オスカルはこのこともあってであろう、あるいはドイツの敗色が濃くなってきたせいでもあろうベブラ団長たちと別れて故郷のダンツィッヒに戻る。このときベブラ団長は「オスカル君、我々小人や道化は大男のためのコンクリートで踊ってはいかん。さよなら」。
オスカルが太鼓を二個持って家に帰ってくる。もちろん一つは包装紙に包まれたもの。クルトへの誕生日プレゼントである。玄関でオスカルとその父親(とされる)マツェラートが出会い、部屋へ。新しい妻となっていたマリアがいる。心配してたのよ・探してたのよとのマリアの話の後、ここで2分余りがカットされている。マリアのセリフで「皆があんたを施設に入れようと大騒ぎよ」。翌朝、ゲシュタポがやって来る。密告があった、オスカルが帰ってるそうだな、と。父親は施設に入れたくないのでウソをつく。オスカルは地下の倉庫からその様子を見ている。諦めてゲシュタポが帰った後、マリアとマツェラートが部屋で話している。「最近は何が正しいのか分からない」「連れていかれた人間は二度と戻れない」、と。
つまりオスカルは精神病患者として、精神病院に入れられ、いずれ殺されてしまうと言っているのだ。それは歴史的にも事実である。ここでのカットシーンから分かることは、ナチスの蛮行をきちんと描いているということ。監督はこれはカットしても観客に分かると思ったのだろう。私はこのシーンがあったために理解できたのだが。
ただこの後のシーンは、またまた残酷なことになる。いよいよ赤軍がダンツィッヒ(解放)のためにやって来る。ただ、日本の満洲におけるソ連兵の事例同様、ここでも彼らは女性を強姦するのだが、そのシーンがさりげなく入れられている。これはカットなしで。
そして赤軍兵士に踏み込まれた際、オスカルのイタズラのようにも思えることでマツェラートは命を失うことになる。すなわちナチスの党員章を処分してなかったことから、大急ぎで隠すのだが、オスカルがそれを拾い手に持っていたのだ。そして赤軍兵士の前でマツェラートに渡す。マツェラートはあわてて隠そうとするのだが、思わず口に放り込んでしまう。ところが運悪く喉に詰まり咳き込んでしまう。はき出そうと慌てればあわてるほど上手くいかず、その行動を怪しまれて若い赤軍兵士に撃たれてしまうのだ。
五つ目のカットシーンは、おそらく赤軍の進駐の記録フィルムの後、彼らと広場でワインを酌み交わす女性が出て来、その流れでマツェラートの亡くなった店へ一人の男がやって来るのだが、そのあたりの5分程かカットされている。
その男がマツェラートの亡き後、店を引きとることになったという男性であった。あとで彼がユダヤ人であることが、その服装・風体で分かることになる。ただ彼の様子も狂人のように見られるぐらいにおかしいのであった。つまり強制収容所で殺された妻子の名前を、そのマツェラートの店でマリアの前で呼ぶのだった。この男性の出現は最後のシーンへの伏線となる。
マツェラートの埋葬シーンの後、マリアとオスカルは祖母を除き「西の方へ」(あとでラインラントと分かる)移住することになる。その汽車で出発していくシーンの直前に六つ目のカットシーン。先ほどの店を譲ってもらったというユダヤ人男性が、最後にマリアに「結婚しないか」と。もちろんオスカルも一緒に、と提案している。マリアは、ここでは良いことがなかったから、と拒否し、彼からの餞別をもらい汽車に。後にはカシュバイ人の祖母が残されて。彼女はここが自分の居場所だから、として。
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監督のインタビューで、「映画は現実以上に自由にはなれない」、と。原作者のギュンター・グラスが脚本の初稿を見て「非理性的な要素がなく、歴史が合理的に展開するようだ」、と述べたそうだ。そして改稿していったとのこと。
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